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土 塔    堺市中区土塔町

727年、大野寺、大野寺尼院とともに起工。

土砂を四角錐形に積み上げ、瓦葺きで被覆。

行基集団の特徴的な礼拝施設だった。

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 「浄御原令」官制施行。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受ける。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、若草山に「天地院」を建立か。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、「檜尾池」を築造。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。

《第Ⅲ期》 731-749 孝謙天皇に譲位するまで。

  • 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
  • 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
  • 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。金鐘寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)」を造営開始。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立。
  • 741年 諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」に遷都の勅。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「廬舎那仏」(大仏)造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都か。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。
  • 746年 平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。

 

 

大 野 寺 土 塔    模 型

頂上に八角ないし円形の堂があったことは中世の絵巻に見える。

 

大 野 寺 土 塔    上 層 部 分 (最上層=第13層)

 

大 野 寺 土 塔    稜 の 近 写

 

大 野 寺 土 塔    基 壇 ~ 第5層

 

 

 

【67】 大野寺と土塔

 

 

 行基の故郷・和泉國大鳥郡の「大野寺」「同尼院」と「土塔」も、「長屋王禁令」の弾圧下で故郷に避難していた期間中 727年に起工されています。同時に、同郡の「長土池」「土室池」も起工されたと考えられます。「尼院」と池は現在につながる痕跡がなく、どこにあったのかも不明ですが、「大野寺」「土塔」は、堺市土塔町に残っています。

 

 

『四十九院のうち、寺と呼ばれたのは平城右京の喜光寺と和泉國大鳥郡の大野寺〔…〕〔ギトン註――および、大和國平群郡の恩光寺3か所にすぎない。喜光寺は平城京における、大野寺は和泉國における行基集団の根拠地であったから、多数の支持者により保護され現代にまで存続した

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.46. 

 

 

 「院」とは、当時の韻書〔辞書〕によれば垣根に囲まれた堂舎のことで、「行基集団」の「」は、特定の氏族や僧侶のための施設ではなく、広く信者に開放された集会所兼道場でした。「寺」もまた、当時の他の寺は、国家と貴族のための大寺でなければ特定の氏族の氏寺であったのに対し、「行基集団」の「」は、特定の氏には占有させない・教団と信者のための活動根拠地であったと考えられます。

 

 

大 野 寺        堺市中区土塔町

 

 

〔ギトン註――大野寺がある〕所在地の土塔町は泉北丘陵の南部に位置し、〔…〕鎌倉時代末の『行基絵伝絵詞』は大野村について「四方は平原、縦横の荒野なり」「寂寞無人の地」〔…〕であったという。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.100,109. 

 

 

 江戸時代になると、ようやく「土塔新田」が拓かれますが、水田は無くすべて畑地であり、そこに住む者も無く、耕作者はみな周辺の村からの出作でした。行基の時代には、「大野寺」起工と同時に「長土池」「土室池」が造成されて耕地開発が試みられたのですが、その成果も鎌倉時代までには消滅してしまったほど、ここは開発困難な土地だったのです。

 

 このように、丘陵上で水が乏しく耕作不適の荒れ地であった場所に「行基集団」の根拠地が築かれたのは、この地が交通の要所だったからです。

 

 

大野寺の前には北東~南西に走る道路があり、寺の東方約1㌔で西高野街道と交差する。この街道は〔…〕北上して難波京、南下して平城京へ至るルートがあった。寺前の道路を南西に向かうと和泉国府に至る』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.109. 

 

 

 また、起工時期は不明ですが、近傍の大鳥郡土師里に「野中布施屋」を設置しています。

 

 

大野寺の所在する旧・土師郷の地は〔…〕百舌鳥古墳群があり、伝・仁徳天皇陵、伝・履中天皇陵など大小の古墳が散在している。土師氏は7・8世紀においても陵墓造営や葬儀に従事することが多く、土木工営を得意とする氏族であった。

 

 大野寺に付属する土塔は文字通り土砂をピラミッド状に積み上げて造成した特殊な塔婆で、〔…〕

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.101. 

 

 

 ただ、土塔と大野寺の建設には、土師氏だけが貢献したわけではありません。前回に見た「山崎廃寺」と同様に、大野寺の「土塔」を葺いた瓦の遺物から、人名などの文字を印刻した大量の瓦が出土しており、そのうち氏姓の判明するものは 63氏にのぼります。それらはすべて、和泉・河内・摂津の3か國を本拠とする氏族です。

 

 

『大野寺は土師氏の氏寺ではなく、和泉地域の氏族らが結集した知識の寺であった〔…〕

 

 〔ギトン註――「三世一身法」のもとでは〕溜池造成により最大の利益を得るのは土豪・土師氏であった。大野寺・溜池・布施屋の建設など、諸工事には土師氏の援助協力があり、土師氏は土師郷における行基の仕事に対する大檀越であったが、これら施設が土師の名を冠していないことに注意しなければならない。四十九院や諸施設は、所在地の土豪を檀越としたものが多く存したが、檀越の土豪の名を冠した施設は見られない。

 

 それは行基が、諸施設の与える利益は設置に参加した人々に均しく分けられるべきとの理念があって、土豪の名を冠することを避けたからだと考えられるのである。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.103,110.  

 

 

 前回に見たように、「三世一身の法」の適用においても、現実にその恩恵を受けるのは、主に、灌漑施設の造成や大規模な開墾を組織することのできる・在地土豪以上の富裕層でした。最底辺の班田農民や奴婢は、どんなに労力を拠出しても自有の田地は増えない。ただ、開墾が成功して収穫が安定すれば、そこそこの生活の安定は得られる。それが社会一般の現実だったのです。

 

 しかし、「行基集団」の内部では、そうした一般の「世の習い」とは異なる原理が行なわれていました。耕地所有には大きな影響がなかったとしても、それ以外の・もっと日常的な布施・喜捨・利用などの面では、“平等主義” の顕著な現れがあったのです。

 

 「各人が自分の能力に応じて拠出し、必要に応じて取る」という平等主義の理想を、現実の社会で実現するのは非常に困難なことですが、教団という・外部とは区別された空間内でそれを可能にするための装置が、「行基」という宗教的カリスマに対する成員の帰依であったといえます。

 

 

 

【68】 瓦に刻まれたメンバーと彼らの願い

 

 

大野寺 土塔 の 文字陰刻瓦  「大鳥連海□(おおとり・の・むらじ・……)」

「矢田部連龍麻呂(やたべ・の・むらじ・たつまろ)」

 

 

『土塔から出土した瓦の刻銘に、「矢田部連田々你子」が4点、「矢田部連龍麻呂」が8点が見える。〔…〕矢田部連は大野寺建立の際に多大の寄付をした氏族であったことを示唆している。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.219. 

 

 

大野寺 土塔 の 文字陰刻瓦  「□遣諸同知識尓入□/八月卅日

(……もろともに おなじく ちしき に いる/はちがつ・みそか)」


 

大野寺土塔からは文字を刻んだ瓦が 1200余点出土しており、それらの大部分は人名で占められていたから、大野寺と土塔の造成工事は大規模な動員によって可能になったことが見て取れる。

 

 〔…〕地名・年号もあるが大半は人名で、すべて筆跡が異なるので、大野寺造成の知識として参加した行基集団に属する人々がめいめい自分の名を記したのである。「もろともに同じく知識に入る(諸同知識尓入)」の刻銘がそのことを示している。

 

 人名以外では、「丹治□のため(為丹治□)」「父のため(為父)」「母のため(為母)」など、亡じた先祖の追善や現在の父母への功徳(くどく)の回向(えこう)を願う文字があり、行基集団に参加した人々の願いの一部が何であったかを物語っている。〔…〕

 

「文字瓦を寄進した点数が、大野寺築造の参加度合いに比例すると考えるなら、大野寺建立の大檀越は土師宿祢氏・土師氏であり、瓦制作には大庭造氏・大庭氏をはじめ陶邑に居住する氏族が技術・労働力の提供を行ない、残りの氏族はほぼ横並びの状態で参加していたと考えられる。また、瓦制作以外の労働力については、各氏族の支配下にあった民衆が動員されたと考えられ、労働力は大鳥郡・丹比郡内を中心に集められていたと想定するのは至当である。」(岩本未地子「文字瓦の分析と考察」:堺市教育委員会『史跡土塔 遺構編』,2007.)

 

 土塔造営のような大規模な土木工事には、まず大檀越になる氏族があり、つぎに特殊な技術を提供し分業に従事する氏族があり、さらにその余の氏族が協力するという分析で、〔…〕分かりやすい。こうした考察は土塔造営にかぎらず、行基の各種の土木工事にも適用できるであろう。

 

 天平2,3年の 15院建設〔…〕は 17の随伴施設と関連しており、こうした超人的ともいえる工事の進捗は、行基集団がそれを可能にさせるほど力量が巨大化していたことを物語っている。また、集団内では分業が進行していたことが推察される。たとえば設計・掘削・資材調達・労働力調達などを担当する専門家がグループを編成し、一つの工事が終了すれば次の現場に急行するという状況があったのであろう。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.89,102-103,108-109,113. 

 

 

 ところで、「土塔」は、どのように礼拝されたのでしょうか? 日本の寺院の塔が、細長く高い形態をとっているのは、参拝者が見上げることによって、崇高・上昇・超越・畏敬の感情をもつ効果を狙ったものです。しかし、「土塔」のような扁平な形の塔では、そのような効果はあまり期待できません。たんに見上げるのではなく、何らかの礼拝行動を伴なったと考えるべきです。

 

 しかし、土塔には頂上に登る道がなく、頂上の堂にお参りするのではなさそうです。

 

 仏塔(卒塔婆)は、仏舎利を埋納して尊崇するための施設で、インドの「ストゥーパ」にはじまり、国々と時代によってさまざまな形態に変化してきました。古代中国で、木造の高い塔が盛行し、日本ではそれが主流を占めるようになりました。しかし、土塔のような「階段状低層仏塔」も、奈良時代およびそれ以前には少なくなかったと思われます。現在も残っている例としては、奈良市内の「頭塔」と岡山県熊山町の階段状遺構がありますが、古代にはもっと多かったと思います。海外では、「階段状低層仏塔」は東南アジアに多く、顕著な例は、石造階段状仏塔の集合体であるジャワ島の「ボロブドゥール」です。

 

 私は、高校生の時に韓国に滞在して、智異山「華厳寺」などお寺の石段脇に、新羅・高麗時代のものとされる小さな「階段状低層仏塔」があり、こんな目立たないモニュメントが参詣者の尊崇を集めているのを知って驚いたことがあります。当時は、韓国の高校生用「国史」参考書でも、そういうものが大きく取り上げられていました。(現在はどうかわかりませんが)

 

 中国でも、唐代には、木造の高い塔と並んで、階段状・低層の「塼塔」が盛行していました。現在、大野寺の「土塔」については、東南アジア・南海仏教に起源を求める考え方と、遣唐使経由での中国からの影響を見る考え方があるようです。

 

 また、唐代の中国から伝わった『右繞仏塔功徳経』には、仏塔を時計回りに巡行する礼拝によって得られる功徳が説かれています。

 

 吉田靖雄氏は、これらを踏まえて、大野寺の「土塔」は、「基壇の周りを巡行しつつ礼拝する施設であった」と結論しておられます(吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,pp.201-205)

 

 大野寺と「土塔」の近くには溜池も幾つか築造されていますが、それらは下方の土師氏ら居住域を灌漑するもので、大野寺と周辺の丘陵地はなお「無人の荒野」のままであったと思われます。荒れ野の頂部に築かれた瓦葺きの仏塔と、その周りを、経文を(あるいは讃歌を?)唱えながら廻る巡礼者たち。そのような独特の景観を展開していたのが、この地域の「行基集団」であったと想像されるのです。

 

 なお、「行基集団」のなかでも、「土塔」のような「階段状低層仏塔」は、同じ大鳥郡の「清浄土院」に造立された「十三層塔」〔724年起工〕がそうであった可能性がある以外には例を見ません。「土塔」とその巡回礼拝は、「行基集団」全体ではなく、この地域の「集団」の特質であったと思われます。

 

 

 薬 仙 寺 (bittercup)     神戸市兵庫区今出在家町4

神戸港の西端・和田岬に近く、平家が都を移そうとした和田福原の地。

「大輪田船息」と 行基「船息院」「尼院」は、この近くにあった。

 

薬 仙 寺 付近から望む 兵庫港と 大輪田橋。橋西詰に「清盛塚」がある。

 

 

 

【69】 摂津: 海運の要衝と行基集団の戦略

 

 

 「長屋王の変」の翌年〔730年〕行基は摂津國に集中して活動しています。同年の建設活動は、3つの領域に分かれます。

 

 ① まず、2月25日に、兎原郡宇治郷で、「船息院」「同尼院」「大輪田船息」を起工。

 

 ② 3月11日には、西城(にしなり)郡津守村で、「善源院」「同尼院」「比売嶋(ひめしま)堀川」「白鷺嶋堀川」を起工。西城郡では他に「長柄橋」「中河橋」「堀江橋」を建造。

 

 ③ 9月2日、鴨下郡穂積村で「高瀬橋院」「同尼院」を起工。鴨下郡高瀬里に「高瀬大橋」を起工。同年中に河辺郡楊津村に「楊津院」を建立。

 

 ①は、現在の神戸港の近くで、「船息」とは、海に面した船着き場です。

 

 

『浜清み 浦うるはしみ 神代より 千舟の泊(は)つる 大和太(おほわだ)の浜』

『万葉集』,6-1067 田邊福麻呂.    

 

 

 という歌があるように、「大輪田」の地は、瀬戸内海を往来する船舶が停泊する港津として、古くから利用されていました。現・神戸港の西端にある「和田岬」、のちに平清盛が「福原京」を造営した貿易港「大輪田泊」にほかなりません。


 

『行基はここに船息院を設けて大輪田船息の建設基地とし、船息の完成後はその維持管理の役にあてたのである。

 

 〔ギトン註――しかし、行基の死後〕強風と逆浪による船息の破損は著しく、行基の集団が修繕の負担に耐えないようになり、行基の没後に船息の維持管理は国家が担うようになった』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.117. 


 

 朝廷は、812年、大輪田泊の修理を開始し、816年には「大輪田船瀬」造営のため造船瀬使を任命しています。このように、行基が手がけた池、橋、港湾などの土木工事とその維持管理は、のちに国家機構が引き継いだ例が少なくありません。宗教教団としての行基集団じたいは、奈良時代を越えて続かなかったのですが、その事業は、本来国家が行なうべき建設事業の先鞭をつけたものだったといえます

 

 

御堂筋・三津寺交差点 と 三津寺 (DVMG - panoramio) 大阪市中央区心斎橋筋2

 

 

 ②の「津守村」は、現在の大阪市の中心部・御堂筋三津寺交差点↑の付近です。当時は、このあたりが大阪湾の海岸線で、「難波宮」につながる港湾「難波津」でした。

 

 「津守村」には、730年の 2院、2「堀川」、3橋起工のあと、741年までに「度(わたり)布施屋」が設置され、745年には「難波度院」「枚松院」「作蓋部(さやべ)院」が起工されています。

 

『津守村は交通の要所であり、天平17年〔745〕には 5院が並び立つほどの行基集団の力が結集した場であり、この地をめざして多くの人々が集まってくる場であったことが分かる。人々が集まるのはこの地が交易の場であり、運送業・商業の利益を得られる場であったことを示唆している。

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.115. 

 


 しかし、それにしても、ひとつの「村」に5院と1布施屋、5付属施設が建設されるというのは、信者の数も尋常でなく、またその財政負担に耐えられる「知識」の数と経済力も、他の地域では考えられないようなものだったことを示しています。たんに行基集団の信者が往来したというようなことではなく、「難波津」に集結する商人・運送業者の多くが「行基集団」に加入し、行基の信仰に同調したと考えなければなりません。

 

 

行基集団の架橋工事      『元興寺極楽坊図絵縁起』 元興寺蔵、江戸時代

絵詞に、「難波の橋」と説明されている。『行基年譜』には、摂津國西成郡に

「長柄・中河・堀江」3橋を架けたとある。「難波津」の近傍。

 

 

 ところで、付属施設に2所の「堀川」がありますが、『行基年譜』によれば、「比売嶋堀川」は「長六百丈、広八十丈、深六丈五尺」、「白鷺堀川」は「長百丈、広六十丈、深九尺」ありました。

 

 奈良時代の「1尺」の長さは、平城京で出土した物差しの測定によって、「小尺 29.3cm」と判明しています(⇒奈良文化財研)。「丈」はその 10倍。ほかに、土地の測量に使われた「大尺」があって「小尺」の1.2倍。したがって、「大尺」の「1尺」は 35.16cm、「1丈」は 3.516メートルになります。「堀川」の測定単位は「大尺」でしょうから、そうすると、「比売嶋堀川」は「長さ 2110m,幅 281m,深さ 23m」、「白鷺堀川」は「長さ 352m,幅 211m,深さ 32m」となります。

 

 「堀川」が、船の通行する運河だとすると、この数字は異様です。深さ 20-30メートルというのは、遣唐使船のような大きな船も通るとすればよいとしても、350メートルもの川幅は運河には必要のない広さです。しかし、この「堀川」というのは港湾で、船が嵐などを避けて停泊する場所(船だまり)だと考えれば、幅 300メートルでも 400メートルでもおかしくはないでしょう。潟湖か入江のような地形を利用すれば、それほど難しい工事ではないはずです。『日本霊異記』〔中-30〕は、

 

 

『行基大徳、難波の江(かは)を掘開かしめて船津を造り、法を説き化(おし)へたまふ。道俗貴賤集まり法を聞く。』

 

 

 と記しています。「船津」とは、船が繋留停泊する港湾のことでしょう。津守村の「堀川」のことにちがいありません。

 

 「堀川」には、瀬戸内海や南海を越えてきたジャンク式の大きな船も繋留し、底の平らな川船への荷物の積み替えでごった返していたでしょう。岸に並ぶ倉庫群に貯蔵されて、陸路の商人との交易を待つ物資も多かったはずです。また逆に、淀川を下って来た荷物や、大和・河内・紀伊方面から官道と山越え道を運ばれてきた品々を手に、海商と取引する行商人や下役人の甲高い声が響いていたことでしょう。取引は、彼らの休憩所である「行基集団」の「」の庭でも行われていたはずです。

 

 行基集団の工事は、港湾に停泊する多くの官船、商船に便宜を与えたわけで、ここ摂津・西成郡の「行基集団」には、諸國の商人・豪族とつながる舟運業者、その配下の船頭や水手(かこ)、行商人らが大量に加入していたと考えられます。そのなかには、役人・僧侶の風体をしたゴロツキや、香具師(やし)・詐欺師のような人びともいたにちがいありません。

 

 字数限界が迫って来たので、③の「高瀬大橋」等は次回にまわします。

 

 

 

 

 

 

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