比叡山 延暦寺 黒谷道。参道に並ぶ夥しい数の五輪塔。ひとつひとつが、修業半ばに

して没した僧尼の墓なのであろう。五輪塔は、鎌倉時代以後に造られるようになった

 

 

 

 

 

 

 

 

【22】 宋,元,ベトナム,高麗

――「禅宗」の主流

 

 

 中国北宋時代には〔…〕主流となったのは禅宗だった。〔…〕浄土教だけに打ち込んだ僧は見当たらない。ただ、浄土信仰の結社は各地でつくられており、民間への普及は進んだ。』

 

 代になると『華北で盛んだった曹洞宗では〔…〕皇帝の前で道教と討論を行ない、勝利して道士17人を僧にさせ、仏教をそしる道教の経典を焼いた。〔…〕多くの道観が仏寺に転じられたという。〔…〕

 

 フビライは、南宋の都である杭州を攻め落とした際、寺院や道観の破壊を禁じたため、臨済宗を中心として盛んだった江南仏教は、そのまま受け継がれた。』

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.187,194-195. . 


 

 中国では唐代から禅宗が盛んで、宋を経て元代には中国仏教の中心に躍り出ています。本格的な禅宗を、日本に導入したのは道元で、13世紀半ば〔中国では南宋末〕のことです。しかし、道元は比叡山・天台宗から迫害され、越前に逃れて永平寺を開創しています。禅宗をじっさいに日本に普及したのは、同じ13世紀半ば,および元代以後に来日した中国の禅僧たちでした。

 

 他方、ベトナムでは、968年に最初の独立王朝丁朝が自立し、→前期黎朝→李朝→陳朝 と続きます。李朝の仏教は禅宗が中心で、歴代の皇帝に保護され、禅僧は漢詩文でも活躍しています。「悟りの境地を、自然を詠んだ詩偈に託すことは、」中国「唐代の禅宗でも見られたが、自然豊かなベトナムでは」とりわけ広く行なわれた。「大悲心陀羅尼」の流行も中国禅の影響で、「これを唱え続けることによって刹された父の仇を討ち、降雨を祈り、病人を治すなどの法力を発揮」した高僧もいる。「禅僧には、そうした力が期待されたのだ。」

 

 ベトナムの禅宗には、このような呪術的・現世利益的傾向があったが、その一方で浄土信仰との習合も「中国からもたらされて」いる。「宋からもたらされた道教の影響もしだいに強ま」ったが、「中国と違って仏教と道教が激しく対立することはなく、次第に融け合っていった。〔…〕また、ヒンドゥー文化の影響のもとで、性的な力」にたいする信仰も、と習合して民間に広まった。

 

 高麗〔918 - 1392年〕では、「前半は華厳宗法相宗が栄え、後半は禅宗が優勢となった。」宋の禅宗諸派が「つぎつぎにもたらされるなかで、高麗独自の禅宗も生まれた。知訥〔1158 - 1210年〕は「禅と教〔教学〕が一致することを悟」り、1200年に韓国最南部・順天の「松広寺」に移って、頓悟漸修・定慧双修を基にした「禅教一致」の修行を広めた。「知訥は、坐禅による禅 ぜんじょう と、経典に基く智をともに重視し、自分はほんらい仏であることを自覚〔頓悟〕した後、修業に努め、公案による看話禅を用いる〔…〕[頓悟漸修]を主張した。」現在の韓国仏教の主流「曹渓宗 チョゲジョン」は、知訥の創始した修禅結社がもとになっている。


 高麗時代には、固有信仰である「風水説」への民間仏教の習合も進んでいる。土地神を鎮めるための経典の効力が強調され、たとえば高麗の擬経『地心陀羅尼経』は、入滅したシャカの埋葬に龍王・土公などの地主神が抵抗したので、シャカが棺内から起き上がって彼らに「五色の幣帛を捧げ」説法したところ、ようやく荼毘の火が点いたとの特異な説話を記している。この擬経は日本にも伝わり、『平家物語』成立前の琵琶法師たちによって読誦された。(pp.213,216,197-198,201,203.)

 

 

鎌倉・円覚寺 三門円覚寺は、北条時宗が、元軍の蹂躙を受けていた南宋から

招いた禅師・無学祖元を開山として、蒙古来寇の翌年 1282年に建立した。

 三門(山門)は、1785年の再築。

 

 


【23】 鎌倉期 ―― 伝統諸派、「本覚」思想の進展

 

 

 日本では、鎌倉時代になっても、天台宗真言宗、南都の法相宗などの伝統的な諸派が仏教の中心だった。法然,親鸞,日蓮らが創始したいわゆる「鎌倉仏教」は、鎌倉時代には決して広がることがなかった。鎌倉の末期、北条時宗の時代に一遍の「踊り念仏」が一時的に流行したにとどまる。「鎌倉仏教」が普及するのは、室町時代中期~戦国時代のことである。

 

 

 鎌倉時代には、『社会の上層においては、台密がさかんだった延暦寺・園城寺の天台宗,東寺の真言宗,興福寺の法相宗など伝統的な顕密仏教の勢力が根強く続いていた。密教の修法や灌頂はさまざまな場面で用いられ、儀礼がきわめて発達した。ただ、治病延命の祈祷では医療技術も併用され、五穀豊穣を祈る儀礼が行なわれる一方で、寺院は最新の農業技術を広める場ともなっていた。呪術と技術は分かちがたく結びついたまま発展していったのだ。〔…〕

 

 天台宗においては、草木成仏思想が、天皇の治めるめでたき世の礼賛や・自然信仰などと結びついてさらに進展し、文学や芸能にまで影響を及ぼしていった。その過程で源信〔恵心僧都〕以来の天台学の系譜が、しだいに本覚思想〔「仏性・如来蔵」を悟りの面から見た考え方〕の系譜とされ〔…〕た。』

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.206-207. .  

 

 

 ‥‥そして、「凡夫はそのままで仏であり、世間は無情なあり方のままで常住だ」と断定する擬書が現れる。また、人間と同じように〈草木も発心し修業して成仏に至る〉とする平安期の草木成仏説に加えて、「草木〔…〕は元来仏であるため改めて成仏することはない」との「草木不成仏説」も唱えられた。

 

 「凡夫のままで仏」なのだから「修業は不要だ」と主張する本覚論も書かれる一方で、自分が仏であることを自覚するためには、「指導者に出会い、[自分自身がそのまま仏だ]という究境の法を聞いて会得する必要」があることを強調する見解もあり、本覚論からする単純な「修業不要」論に対しては、復古派の僧から厳しい批判が向けられた。それでも「本覚論はさらに普及してゆき、経典の文句をすべて我が心のこととして見る観心主義が重視されるようになっていった。」(pp.207-208.)

 

 

 

【24】 鎌倉仏教 ――

専修念仏と「悪人正機」

 

 

『比叡山では、世俗化した延暦寺を捨てて・山内の別所と呼ばれる地に小さな庵を造って隠棲し信仰に励む「聖 ひじり」と称される者たちが増えていった。その一人であった法然1133 - 1212〕は、若くして学識の高さで知られたが、黒谷 くろだに の別所に移り、〔…〕浄土教に転じた。1198年、『選択 せんじゃく 本願念仏集』を著し、浄土宗〔…〕を明確に示した。

 

 法然は、経綸の研鑽と修業に励む聖道門 しょうどうもん は「雑行 ざつぎょう」であるとして捨て、口称念仏によって往生する浄土門の意義を説き、〔…〕浄土は心が作り出すものだとする唯心浄土説を否定して、西方に実在する浄土を信ずべきことを強調した。また弟子たちには、修業に励む善人ではなく、どのような修業もできない悪人のためにこそ本願〔仏となるにあたっては、称名すれば誰でも往生する浄土を必ず造る、との阿弥陀仏の誓約――ギトン註〕が立てられたと語っていた。

 

 

比叡山 黒谷 青龍寺。延暦寺で得度した法然は、18歳の時ここに移って修行を続け、

43歳の時、「専修念仏」への回心を得、浄土宗を開宗した。

 

 

 その結果、法然の信者のなかには、〔…〕学問に励む僧をあざ笑い、念仏後の罪業は往生には関係ない』から『悪業をなすことを恐れるなと説くなど、過激なふるまいをする者たちも出てきた。〔…〕法然は、一声の念仏でも往生できるとし〔…〕ながら、自身は戒律堅固で有名な学僧であって、毎日念仏を数多く唱えていた。〔…〕


 こうした状況のもと〔…〕法然門下はさまざまな問題を起こしていたため、〔…〕1205年には興福寺の衆徒が』朝廷に法然の「専修念仏」の停止を求めた。』その結果、『弟子のうち 2名が死罪〔…〕法然は土佐に流された。

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.209-210 .  



 「専修念仏」とは、「阿弥陀仏の本願↑」を信じて、他の修行をしないでひたすらに「ナムアミダブツ」の念仏だけを唱えることです。その効果は完全に平等であり、臨終まぎわにただ1回唱えただけでも、生前の行為いかんにかかわりなく救われる〔「阿弥陀浄土」の聖衆が迎えに来て、浄土に天人として生まれる〕とされたが、その一方で法然は、これを信ずる者は、ふだんから念仏を一生涯唱え続けなければならない、唱え続けることが、阿弥陀仏の本願に従うことである、と説いている。信仰のある「善人」にとってはたいへんに厳しい教えだったのです。

 

 

 『法然門下のひとりであった親鸞1173 - 1262〕は、法然が土佐に流された時、越後に流された。赦免された後は、関東で妻帯して布教し〔…〕た。〔…〕

 

 自らを、罪業が重い凡夫とみなしていた親鸞は、浄土経典のうち、衆生が往生を願うという箇所や、信心を起こすといった箇所を〔…〕、末法の凡夫が自力でそうした心を起こすことは不可能とし、〔…〕阿弥陀如来の働き=「はからい」として読み替え、例がないほど他力を強調した。〔…〕

 

 のちに浄土真宗と呼ばれるようになる親鸞の門下は、親鸞に倣って肉食妻帯を行ない〔…〕寺院を実子が継いでいくなど、戒律がゆるい日本仏教のなかでもとりわけ特異な宗派となった。

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.210-211. . 

 

 

 『歎異抄』は、常陸の唯円が「晩年の親鸞の言葉を録したものとされる」。冒頭の語句で・いきなり開陳される「悪人正機 しょうき 説」は、〈浄土経典は悪人を主な対象として説かれた〉とする考え方である。が、それにとどまらず、「悪人こそが往生浄土の正因〔主因〕である、とまで説く」。世に悪人がいなければ、極楽浄土は存在しない。悪人こそが、浄土の存在根拠である、ということだろうか。

 

 また、「悪人正機説」のすぐあとの箇所で、〈自分の往生だけを願うべきで、自分が往生しないうちに父母の往生を願うべきでない〉とも言っている。これは、儒教と習合して「」の徳目を強調する東アジア仏教のなかでは稀な考え方だろう。仏教本来の考え方に復帰していると言えるのではないだろうか。

 

 しかしながら『歎異抄』にかんしては、あくまでも弟子が弟子なりに受け止めた言葉であって、親鸞の思想と同じかどうかは分からない、との指摘もある。(pp.210-211.)

 

 

 

【25】 鎌倉仏教 ――

踊り念仏と「非人」救済

 

 

『法然の孫弟子に師事した一遍1239 - 1289〕は、熊野神社で得たお告げをきっかけとして、すべてを投げ捨てて南無阿弥陀仏を唱えることだけを勧める「捨聖 すてひじり」となって全国を旅した。〔…〕庶民を多く含むその信者』とともに『念仏をつづけるうちに』一遍と信者たちは、『自分が唱える念仏でなく、仏と共に申す念仏となり、最後にはその自分も仏も消え果てて念仏が念仏を唱えるまでに至り、南無阿弥陀仏になりきることを理想とした。その高揚感のなかで、阿弥陀仏と一体となった歓喜踊躍 かんぎゆやく の「踊り念仏」が行なわれた。

 

 一遍は臨終に際して自分の著作や所持していた書物を焼き捨て、没後は〔ギトン註――信者たちに〕解散を命じ』た。

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,p.211. .  

 

 

 当時「時衆」と呼ばれたのは、一遍に限らず、「日夜ひたすら念仏をつづける」彼らのような集団のことでした。そういう人びとの集団が多数発生していたと考えられます。一遍は解散を命じましたが、弟子のひとりは「遊行上人二世と称して教団の確立」に努め、「藤沢の清浄光寺 しょうじょうこうじ を本拠として遊行 ゆぎょう を続け、」武士にも近づいて支持者を増やしていった。「この系統がしだいに時宗と」呼ばれるようになった。

 

 

西大寺 愛染堂。奈良市西大寺芝町。西大寺は、奈良時代の 765年、孝謙上皇の創建

初期は、道鏡の影響を強く受けた。その後は荒廃し、鎌倉時代に叡尊が復興に尽く

し、真言律宗の寺となった。愛染堂は、叡尊の住房があった場所に建てられて

いるが、現・建物は、1762年に京都御所にあった近衛家の政所を移築したもの。

手前の礎石は、叡尊の住房のものだろうか?

 

 

 一遍の「時衆」に関しては、「非人」集団とのつながりが指摘されています。『一遍上人絵伝』には、一遍の僧衣の集団に常に付き従い、一遍入滅の場面では川に入水して殉タヒしようとする柿衣の集団が描かれているのです。「柿衣」とは、柿の渋で染めた無紋の衣で、山伏や非人が着用しました。

 

 「非人」の関連では忍性にんしょう:1217 - 1303〕も重要です。

 

 

忍性は、幼いころから文殊信仰を抱き、文殊菩薩の化身とされた行基を慕っており、差別されていた非人たちの救済を志し、彼らの宿 しゅく に文殊の画を掲げてその号を唱えさせ、施物を与える行をおこなった。忍性〔ギトン註――真言律宗の〕叡尊を慕って西大寺に入ると、叡尊はその影響を受け、〔…〕非人や囚人たちの支援に尽くした。〔…〕

 

 忍性は、けがれを嫌って清浄さを守り国家の安泰を祈る官僧とは異なって、『官僧に忌避されていた非人やハンセン病患者を含む病人などへの慈善事業を積極的に進めた。鎌倉の極楽寺を本拠としつつ、〔…〕国分寺や法華寺国分尼寺――ギトン註〕の再興、橋や港湾の整備に尽くし、長らく廃絶していた尼への授戒を再開して女性信者の支援も行なった。

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.215-216. .  

 

 

 さらに、「けがれを忌避しない」という「時衆」僧の特性は、戦場での武士の救済という意外な方面にも発揮されています:

 

 

『鎌倉末期から南北朝期の戦場では、陣僧と呼ばれる僧が、檀那〔外護者――著者註〕である武士の傷の手当てをし、臨終時には極楽往生ができるよう南無阿弥陀仏の十念を授け、亡くなると葬儀を営み、地元に帰って遺族に最期の様子を語った。陣僧〔…〕清浄光寺などの時衆(時宗)の僧が当たることが多かった。これは、時衆の僧は、戦場でも自由に往き来ができ、官僧と違って、真言律僧と同様にタヒ穢を忌まず、葬送儀礼を行なうことができたことによる。

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,p.233. .  

 

 

 このように、時宗真言律宗の僧が、「戦場で自由に往き来ができ」「けがれを忌避せず」「非人,ライ患者,タヒ者の圏域に自由に出入り」することができたのは、彼らが「無縁」――西洋の「アジール」――を体現する存在だったからにほかなりません。

 

 

 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

セクシャルマイノリティ