小説・詩ランキング

流氷を載せて流れるエルベ川。 ドレスデン市内。

 

 

 

 


 


【47】 「農民帝国」の危うさ――ギュンター・フランツ

 


 フランツの最後の章は「第8章 終結」と題され、「㈠ 挫折の原因」「㈡ 農民戦争の結果」に分かれています。㈠ から見ていきましょう。フランツが最初に指摘するのは、「農民戦争」による農民の犠牲者数の多さです:


 

『農民運動は完全に敗北した。殆どすべての年代記は、騒乱のあいだに命を落とした農民が 10万人にものぼったと記している。その数は明らかに端数を切り上げたものではあるが、〔…〕過大評価しているとも言えない。あらゆる戦闘で何千人もの農民が〔…〕虐刹されたのである。捕虜にすることは、まず無かった。〔…〕

 

 農民戦争において上部ドイツ〔南ドイツ――ギトン註〕と中部ドイツで約 10万の人々が戦死し〔…〕たとすると、これらの地域の武装能力のある男子全体の約10ないし15パーセントが、数週間以内に刹されたことを意味している。』

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』,1989,未来社,pp.400,426.

 


 加えて、数百人が処刑され、逃亡・追放が数千人にのぼった。主な逃亡先はスイスだったが、ハンガリー、トルコにまで逃げた者もいた。「彼らは悲惨な状態で一生を終えた」。(p.400.


 

『農民運動の急速かつ決定的な挫折を説明するのは容易ではない。農民の軍事的な劣勢が決定的な理由だとはいえない。〔…〕

 

 いつも決定的だったのは、戦闘のさいに農民の側に軍事的指導者がいなかったことである。歴戦の傭兵』経験のある農民が指揮官を務めたが、彼らは指揮官としては役立ちようがなかった。彼らはつねに、農民の軍事的に有利な地位を軽率にも放棄して、みずからの安全を求めて逃亡してしまった。』

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』,pp.401-402.



 同時代の人びとには、農民軍が勝ちそうになると決まって瓦解してしまう現象が理解しがたかったので、指導者の裏切りのせいにするのが常だった。しかし、事実は裏切りではなく、無能力だった。(pp.402-403.)

 

 エンゲルスは、農民側の敗北をきまって「裏切り」のせいにする、ということを、私はこれまで何度か指摘しました。が、それは必ずしもエンゲルスの党派根性ではなく、農民戦争当時の年代記作者の見方を反映していたのかもしれませんね。
 

 

アルブレヒト・デューラー「市場で話す3人の農民と農民の夫婦」1496年頃

 

 

『軍事的指導の欠如よりも、なお一層決定的だったのは、政治的指導が欠けていたことである。〔…〕農民の指導者は、大てい小市民か、村の有力者であって、自分の故郷では指導者としての地位を確立できたものの、故郷の境界をこえた見透しに立ち、君侯の連合勢力に対しては統一行動だけが戦果の展望を切り開くことを認識してはいなかったのである。〔…〕

 

 彼らとならんで、〔…〕狂信的な性格の持ち主や、幻想的な予言者トマス・ミュンツァーがいたが、これらの人々は大衆を心酔させることはできたものの、戦闘においては役立ちようがなかった。〔…〕

 

 これらの人々の誰ひとりとして、〔…〕彼らの故郷をこえて影響を及ぼすことはできなかった。フロリアン・ガイヤーウェンデル・ヒプラー〔…〕といえども、彼らの軍団のなかでさえ、真に自分の地位を固めることができなかったのである。もしかすると農民戦争全体で最大の人物であったミヒャエル・ガイスマイヤー、この唯一の現実的な革命家にして指導者も、ティロルとザルツブルクにおいてのみ事態を牛耳っていたにすぎない。〔…〕

 

 指導が無能だったことと密接に関連していたのは、農民にはおよそどんな統一組織も無かったという事情である。

 

 農民戦争は、ブントシュー〔⇒:(4)【10】~【12】とは違って、慎重の上にも慎重に準備されたわけではない。〔…〕ミュンツァープファイファー〔…〕ウェンデル・ヒプラーのような・騒乱を煽動した人々がたがいに連絡をとりあっていたとは思われない。〔…〕農民戦争は彼らとは独立に、シュヴァルツヴァルト南部で地域的な諸前提から勃発したものであった。そこから蜂起はどんどんと蔓延していった。そこの蜂起が成功した実例が、蜂起の拡大に寄与した〔…〕

 

 多くの地域の農民を統一した行動に統合しようという試みは、ハイルブロン農民議会〔⇒:(12)【39】などで『行なわれているが、〔…〕蜂起が終りに近づいた時期にやっと行なわれたから、成果をあげるところまでは達しえなかった。』

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』,pp.403-404,406-407.

 

 

 蜂起した農民たちは、自分に諸侯の軍勢が迫って危うくなった時にだけ、他の地方の兄弟分に助けを求めた。が、それくらいだから、本気で救援に行く農民勢などは無かった。そういうわけで、諸侯側が「シュヴァーベン同盟」のような連合体制を組むようになると、ばらばらな農民勢を各個撃破することができた。農民勢も束になって戦えば敵を圧倒できるということに、気づいた指導者がいなかったわけではないが、気づいた時には遅かったのです。

 

 

アルブレヒト・デューラー「鞭を持つ農夫」


 

『運動がこのように分裂したことではっきりするのは、農民が統一的な目標を持っていなかったことである。

 

 シュチューリンゲンの農民〔「農民戦争」の口火を切った(⇒:(8)【28】)――ギトン註〕古き法を根拠として蜂起した。彼らの数多くの・純粋に地域的な苦情は、〔…〕他地方の農民層にはあてはまら〔…〕なかった。

 

 シュヴァルツヴァルト農民の〔…〕神の法というスローガンは、いろいろの地域的要求をカバーすることはできたが、〔…〕新しい内容をふくんでいるわけではなかった。

 

 上シュヴァーベンの人々が初めて 1525年3月に『12箇条』でもって、農民の運動にしっかりした綱領を与えたのであった。その諸箇条〔…〕は、統一的に聖書から根拠づけられ、純粋な神の言葉の説教、共同体による司祭の選挙と、十分の一税の新しい規制を求める、純粋に福音主義的な要求と切り離しがたく結びついていた。〔…〕こうした宗教的な根拠づけこそ、『12箇条』の普及を特に確実なものとし』た。

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』,pp.407-408. 

 

 

 しかし、「神の法にしろ『12箇条』にしろ、ある地域の農民軍団とその指導者の関心事であったにすぎず、それらを援用した他の地域の農民たちの要求は、それらの枠を超えていたのです。「他の農民軍団にとって神の法は、もっと広い諸要求を内に隠す外套にすぎなかった。」各地でさまざまな改革プログラムが構想され、さまざまな要求箇条書が作られた。

 

 上シュヴァーベンの「キリスト教同盟」は、すべての権力を農民とその指導者の手中に集めることを求めた。当然に、これまでの統治権力は、すべて完全に無力化する構想だった。その背後には、「農民が他の諸身分とならんで同権であるような新秩序」への憧れがあった。

 

 他の多くの箇条書では、もっと明確に、これまでの特権階級である「貴族と教会を、その地位から駆逐」することが要求された。フランケンの農民は、貴族、聖職者が市民、農民と同じ法に従う国家の建設を求めた。バーデン辺境伯領の人々は、純粋の農民国家を建設したいと願った。そこでは、辺境伯も一介の農民となる計画であった。最も先に進んだのは「農民共和国を志向したクライヒガウの農民たちで」、その構想では農民が独裁し、他の諸身分は権利を剥奪された。

 

 ガイスマイヤーの『ティロル領邦条令』は、もっとも農民本位に徹底したプログラムだった。それは、「諸都市さえも農村と等しくし、商業や手工業は」必要最小限のものに制限しようとした。

 

 

アルブレヒト・デューラー「大砲のある風景」1518年.


 

 このように、農民たちのプログラムは地方ごとにさまざまだったが、これらが「明確に物語っているのは、農民の運動が古き法および神の法の基盤から離れて、ドイツ農民を担い手とする現実の政治革命へと発展していった」ことである。その「担い手」とは、「村の貧民層ではなく、〔…〕村の名望家層、〔…〕富裕な農民たちであった。」(pp.408-410.)

 

 そして、フランツによれば、これらの農民的国家構想が含意しているのは、「19世紀的」つまり近代的な・民主主義国家ではなく、地域レベルの小さな共同体的社団(Verband)を基盤とする「ドイツ本来の国家思想」だと言うのです。その内容は明らかではありませんが、「ローマ法的な特徴をもつ領邦国家に対抗する」ゲルマン的国家――ということのようです。そこには、ナチス抬頭時代の国粋主義的傾向が感じられます。

 

 もっとも、戦後のフランツは、この部分の「社団」に加筆して、「自治組織的社団(genossenschaftlicher Verband)」としています。そこに微妙な変化はあるものの、村落名望家層・富農層を担い手とするドイツ的「農民国家」の建設という歴史把握のはらむ危うさ・曖昧さが、解消されたわけではありません。ブリックレら戦後の新しい史観による把え直しは、必然であったと言うことができます。


 さらに、もうひとつ気づくことがあります。フランツは、この叙述の初めでは、農民勢の狭い地方的偏狭さと分裂が、彼らが敗北した原因である、というエンゲルス以来の農民勢評価を繰り返していました。ところが、「古き法」「神の法」にはじまる具体的な要求箇条書の検討に入ると、まったく逆の視点に変って、種々さまざまな要求箇条に共通する国家構想ないし社会変革構想を抽出・解明する方向に転じていきます。

 

 これは、肯定的に評価できます。この、現代にまで連なる・唯物史観とは別個の歴史的運動を明らかにする仕事は、やはりブリックレらに引き継がれてゆくのだと思います。

 

 


【48】 「近代」からの疎外――ギュンター・フランツ

 

 

 ㈡ に移りましょう。

 

 「農民戦争」の敗北の結果、農民層はさしあたって打撃を受けたが、長い眼で見れば大きな変化はなかった、とする点では、フランツの見立てもエンゲルスと同様です。しかし、エンゲルスが、農民たちはこれ以上搾り取れないほど貧困だったから、という理由でそう言うのに対し、フランツは、農民たち、とりわけ蜂起に立ち上がった農民たちは裕福で、余裕があったから、打撃を吸収できた、とするのです。罰金的な貢租や賠償金を「彼らが支払い可能だったということは、〔…〕暮らし向きが経済的には決して悪くなかった」ことを証明している。「損失が克服されたということは、農民層に経済的な力があったことを裏づけている。」

 

 もっとも、中・南ドイツの農民が全体として「農民戦争」前よりも貧困化したことは、フランツも認めています。ライン河沿岸地方では、次のような民謡が唄われたといいます:「我らが持っていたものを、我らは失った。今や我らは貧しい」ギュンター・フランツ『ドイツ農民戦争』,pp.419-420.)

 

 

下ザクセンの平野を流れるエルベ川

 

 

『経済状態と同様、農民の法的地位も、長期的に見ると根本的には変えられなかった。〔…〕

 

 〔ギトン註――農民戦争の発端となった地域の中心部〕ケンプテンにおいてのみ、死亡税を僅少の手数料に軽減し、領民の結婚と移動の』制限を緩和する改革が定着した。『とりわけ、貢租と隷属関係は正確に固定され、それにより』領主の恣意的な誅求や人身拘束、身勝手な貢租加重が制限された。

 

『個々の地域で農民がこのように地位を改良させたことに比べれば、他地域での農民の状態悪化は、それほど本質的なことではなかった。〔…〕これ以後の数世紀間に農民の社会的地位が悪化したのは、農民戦争を経験しなかった〔…〕エルベ川の東側の地域だけだった。

 

 エルベ川の西側においては、農民戦争がまさに警戒信号として作用し、〔…〕農民にさらに勝手な負担をかけたり、民衆の激情の新たな暴発を惹起することが止められたのであった。西南ドイツの土地領主制の化石化、つまり〔…〕農業制度が 19世紀初めに至るまで殆ど不変のままであったという状態こそ、〔…〕農民戦争の一つの結果なのである。〔…〕

 

 農民的自治と、領邦君主の中央集権制のあいだの闘い――〔…〕この闘いの最後の環こそ農民戦争であった――は、農民の敗北でもって最終的な決着がつけられてしまった。農民と市民は、臣民として領邦君主の権力に完全に服従させられた。』

 

 こうして『諸侯に、古い身分制国家を克服し、近代的な絶対主義的な領邦国家を構築する道が拓かれたのである。〔…〕それは、〔…〕騎士をも、市民や農民と同様に一人の君主の臣民としてしまう・国民均等化の絶対主義の体制をもたらしたのであった。〔…〕

 

 

エルベ川(中央)。河畔にハンブルク,マグデブルク,ウィッテンベルク,ドレスデン.

 

 

 農民戦争は、ルター派の活き活きとした共同体キリスト教――そのもっとも明瞭な表現が、〔ギトン註――村人・地区住民による〕自由な司祭選挙であった――から、領邦教会の階層序列制の硬直化にいたる道をひらいたのである。〔…〕

 

 宗教改革から、その最良の生命力が奪われた。〔…〕宗教改革者ルター――ギトン註〕が農民層を拒否した後、もう農民はルターの中に君主の奴隷しか見なかったのである。彼らは、ルターとその教えから離れていった。その後、農民は宗教改革に〔…〕無関心の態度をとった。〔…〕

 

 宗教改革は、農民にとり宗教運動以上のものであった。農民が『精神的・政治的生活に対等の身分として関与することを勝ちとるための出発点であった。農民戦争の敗北は、この目標をあきらめることを意味した。敗北とともに農民は、およそ3世紀にわたり我らの民族の生活から閉め出されてしまった。その後、農民はもはや何の政治的役割も果たさなかった。〔…〕農民の系列から精神的指導者が出現することはもうなくなった。〔…〕農民は、〔…〕無気力のうちに日々を過ごし、もはや何の変化も期待しない臣民と化した。〔…〕

 

 農民層の継続的な弱体化を、おそらく最も明白に証明しているのは、農民がみずからの最終的な解放、つまり 1525年の諸要求の実現に、自力ではなく、もっぱら政府の好意〔プロイセン「シュタイン・ハルデンベルク改革 1807-15 」等――ギトン註〕によって到達したことである。〔…〕

 

 成立しつつあった立憲国家は、その最重要の職業身分〔農民――ギトン註〕の参加を断念することはできなかった。それに、国民皆兵の義務は、自由で健康な農民層だけが担いうるものであった〔から、農民解放は富国強兵の前提だった――ギトン註〕。しかし、農民を国家生活の中にもう一度組み入れようという、プロイセンの改革者の最終目的は、不完全な仕方でしか実現しなかった。19世紀においてもなお、農民は見放された存在であった。19世紀の政治的指導者の誰ひとりとして、農民層の出身ではなかった。1848年「三月革命」の「フランクフルト国民議会」において、『代議員のなかにはたった一人の農民がいたにすぎない。

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』,pp.421-427.

 

 

 このように、農民層だけが――つまり、当時のドイツ人口の大部分が――、近代へ向かう歴史の流れから切り離されていた。フランツもまた、農民層の歴史的役割に対するエンゲルス以来の低評価を踏襲して、そう述べるのです。それは、「近代」からの疎外、と言ってもよい現実なのかもしれません。

 

 しかし、このような歴史認識は、戦後・西ドイツのブリックレ学派によって、大きく改められることとなります‥‥

 


17世紀初頭のティロル等族制(身分制)議会. 他身分とならんで

農民の代表もいる。 © Tiroler Landtag.

 

 


【49】 奇妙な軍団の奇妙な「戦争」

――ペーター・ブリックレ

 

 

 ブリックレの研究は、「ドイツ農民戦争」に関するこれまでの・マルクス主義/非マルクス主義・双方の歴史認識のパラダイムを、大きく変更する、あるいは変更しようとする・意欲的な労作と言うことができます。他の3冊と違って「農民戦争」を標題としていない――日本語訳の副題「ドイツ農民戦争の社会構造史的研究」は、原著には無い――ことにも、意味があります。

 

 1524-25年の事件を「戦争」として見た場合、軍事的衝突という目立った事象に眼が行きがちです。農民側が軍事的に敗北したことは明らかなので、するとどうしても、結果を農民側に不利に解釈することになり、その敗因いかん、といった追求に向かうことになります。

 

 しかし、農民たちの “反乱” は、はたして戦争を目的としていただろうか? ‥と考えてみると、戦争目的にしては腑に落ちないことが数々浮かんできます。当初の農民蜂起は、武器を携行した示威行進というべきものでした。沿道の城と修道院は焼討ちに遭いましたが、それは当時、農民の村が彼ら領主から焼討ちされた被害よりも大きなものではなかった、とブリックレは言います。向かった先の都市が門を開いて受け入れれば占領して同盟に加入させ、市門を閉ざせば、戦闘を回避して先へ進軍しました。農民軍団がスローガンとして掲げた「神の法」は、聖書の「福音」に基づく平和の法でした。戦闘を始める前には、ほとんど必ず相手と交渉し、和睦を追求しました。戦闘が始まってからも、怯懦と逃亡は恥ではないようでした。農民軍団の・このような奇妙な特質を、エンゲルス以来の歴史家は、農民勢の欠点として評価し、ブルジョワ的あるいは小市民的な妥協・裏切りと見たり(エンゲルス)、地方的な分裂と未熟のせいだと考えたり(フランツ)しました。

 

 けれど、農民勢の行動を、その内的論理に沿って把えるならば、彼らは何をめざして、生命の危険と犠牲をも顧みずに立ち上がったのか?

 

 そこで、ブリックレ以前(1960年代まで)の研究史を振り返ってみますと、……

 

 と、ここまで書いて、ブリックレの紹介がアメーバの字数制限に収まらないことがわかりました。フランツでながながと書いてしまったのがいけませんでした。

 

 きょうで最終回と思っていましたが、やむを得ません。もう1回だけ、続けることにします。


 

 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!