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フルドリヒ・ツウィングリ。Maximilian Simonischek as Zwingli

 in mv Zwingli,2019. オーストリアの農民戦争は、ルター,ミュンツァー

とならぶ宗教改革者ツウィングリの影響下にあった。© Ascot Elite.

 

 

 

 

 

 

 


【39】 「ベプリンゲン」以後の中・南部 ――

「ハイルブロン改革綱領」ほか

 

 

 「ベプリンゲンの戦い」は、「農民戦争」の分水嶺となりました。諸侯側の勝利がただちに影響をおよぼしたのは、すぐ西隣りのライン川沿い、ファルツ選帝侯領です。

 

 

 

 

 この間に傭兵の「募集を終えたファルツ選帝侯は、トルーフゼス勝利の報せを聞くと、ただちに農民との協約を破り、5月23日」自領ライン東岸の村々を襲撃し、激しい抵抗を潰して焼き払い、「多くの村を掠奪し、ブルフザール市を占領した。」意気の上がったトルーフゼスも選帝侯軍を支援して進入し、選帝侯領の一揆の中心だったライン東岸は「これをもって平定された。」そこで、両軍合計1万2500人は合同して、ヴュルツブルクに集まっていた「オーデンヴァルト勢にむかって進軍した。」ヴュルツブルクに向かう道すじで、トルーフゼスの「シュヴァーベン同盟」軍とファルツ選帝侯軍は、反乱農民を平定し、「全ネッカー谷を打ち据え、〔…〕多くの村々を焼き、〔…〕捕えた全逃亡農民を刺し刹したり縛り首にした。」(エンゲルス「ドイツ農民戦争」,マルエン選集10,p.77-78.)

 

 ヴュルツブルクでは、5月9日、マリーエンベルク砦に立て籠もっていた司教コンラトがハイデルベルクへ逃亡し、その際に、「いかなる事情があろうとも、シュヴァーベン同盟軍が来るまで」砦を死守するように命じました。ヴュルツブルクを包囲した農民勢は、この難攻不落の砦を落とそうとして消耗することになります。

 

 ヴュルツブルク市門の前で、「ネッカー谷・オーデンヴァルト農民団」と、「タウバー谷農民団」が、ヴュルツブルクの農民団と合同し、1万2000人を超える大農民軍団が結成されました。ところが、長引くマリーエンベルク砦攻囲戦のために、彼らは兵員の食糧にも事欠くようになり、士気も著しく低下したのです。(攻囲されている司教側が兵糧攻めにあうのではなく、攻囲している農民側が食糧不足に苦しんだ。)こうして 5月下旬になると、各農民団は、もとの本拠地に向かってばらばらに退却を始めます。

 

 そして、その退却の途上で、「ベプリンゲン」「ファルツ」の戦勝で意気の上がった諸侯連合軍と遭遇し、それぞれが正面戦となって撃破されることになるのです。6月2日、「ネッカー谷・オーデンヴァルト農民団(「明るい大農民勢」)」約1万名は、諸侯側「シュヴァーベン同盟」軍(歩兵1万,騎兵3千)と交戦し潰滅しています。諸侯側には、指揮官トルーフゼスのほか、ヴュルツブルク司教、ファルツ選帝侯、トリーア大司教(選帝侯)も臨戦していました。かたや、農民側の総大将ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンは、戦闘の直前に敵前逃亡し、他の指揮官ヒプラーメツラーも戦闘中に逃亡し、農民軍は総崩れとなりました(ケーニヒスホーフェンの戦い)。同様にして、「タウバー谷農民団」は、6月4日に「シュヴァーベン同盟」軍と会戦し惨敗していますが、最後に残った 300名は、フロリアン・ガイヤーの居城であるインゴルシュタット城に立て籠もって抵抗し、約280名が戦死しています(インゴルシュタットの戦い)。(ベンジング/ホイヤー,pp.86-99,152-156,208-216,279; ギュンター・フランツ,pp.299-302.)

 

 

 

 

 これより先、「オーデンヴァルト勢」中の穏健派ウェンデル・ヒプラーは、ハイルブロン市に各地の農民団の代表を集めて、全国的な「農民議会」を開催する計画を進めていました。そこでは、ドイツ全体にわたる政治的・経済的改革案が採択され、当時まだ存命であったザクセン選帝侯フリードリヒら、数名の改革派諸侯の支持も取り付けて実現をはかる計画だったのです。「ベプリンゲン」敗北の報に接したヒプラーは、軍勢立て直しのためにヴュルツブルクに急行しますが、ハイルブロンに残った同志たちは「農民議会」準備を続け、審議に付す改革案として「ハイルブロン改革綱領」をまとめています。

 

 「ハイルブロン綱領」は、「農民戦争期に生まれたもっとも包括的な市民的改革計画」(ベンジング/ホイヤー,p.157.)と評価されています。とくにエンゲルスは、この改革案と、その成立を主導したウェンデル・ヒプラーの現実性を高く評価しているのです。

 


『いかなる身分も、したがって農民も、単独では、自分の立場からドイツの全状態を改められるほどには成長していないことが、〔ギトン註――準備と改革案起草のための〕審議のなかで明らかになった。その〔ギトン註――全国的な改革案をまとめ上げる〕ためには、貴族と、とりわけ市民階級を獲得しなければならない〔…〕

 

 ウェンデル・ヒプラーは、運動の全指導者のなかで現状をもっとも正しく認識していた人であった。〔…〕彼は多方面の経験を持ち、個々の身分がたがいにどんな立場にあるかを実際に知っていたので、運動にまきこまれた諸身分のうちどれかを代表して他にあたるということはできなかった。〔…〕

 

 いわば国民中の全進歩的要素の平均と言うべきものの代表であるウェンデル・ヒプラーは、近代的市民社会の予感に達したのであった。彼の擁護した諸原則は、〔…〕すでに始まっている封建社会解体の、いささか理想化されてはいるが必然的な帰結なのであった。だから農民たちは、〔…〕同意せざるを得なかった。


 こうして、農民たちの要求した中央集権〔聖俗領主の権力を剥奪して、皇帝のみに従うということ――ギトン註〕は、ここハイルブロンでは、より現実的な姿を〔…〕とった。すなわち、〔…〕貨幣及び度量衡の統一、国内関税の廃止など、〔…〕農民のためよりも都市民〔商人,有産市民――ギトン註〕のための要求が、詳細に取り決められた。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,pp.77-78.

 

 

 同様にして、急進的な農民たちが何よりも強く要求する、農奴制と貢租・賦役の廃止問題に対しては、農民は貴族から自分の土地を有償で「買い戻す」ことができる、という法規が決められました。つまり、フランス革命で穏健派「ジロンド党」政権が行なった改革であり、ロシアのアレクサンドル2世皇帝が行なった「農奴解放」にあたるものです。日本でGHQが行なった「農地改革」の進歩性にははるかに及びません。

 

 

「ハイルブロン市庁舎」 農民戦争後 16世紀の創建。装飾性豊かなルネサンス時計は

1580年完成。第2次大戦で建物全体が破壊され、現在の建物は復元再建されたもの。

 

 

 しかし、「ハイルブロン綱領」は、フランス革命の 265年前、ロシア「農奴解放」の 336年前に提起されているのです。その先見性は明らかであり、エンゲルスによれば、それは現実的実現可能性をも一定程度具 そな えたものでした。(これに対して、戦後東独のマルクス主義・歴史家は、なぜかエンゲルスと違って、「ハイルブロン綱領」をあまり高く評価しません。とくにその現実性には否定的です。ベンジング/ホイヤー,pp.157-159.ヒプラーは、「ケーニヒスホーフェンの戦い」から脱出したものの、ファルツ選帝侯領で捕えられ、ハイルブロンには戻って来られませんでした。「農民会議」は開かれず、その議題となるはずだった「ハイルブロン綱領」だけが歴史的文書として残ったのです。

 

 他方、フロリアン・ガイヤーは、農民軍と離れて外交工作に従事していたので、自城が戦場となった「インゴルシュタットの戦い」には参加できませんでした。親戚を頼って逃亡したものの、逃亡先で従兄弟の奴僕によって刹害されています。

 

 さて、こうして中・南ドイツ全域で農民軍は敗北し、または自壊して解散し、6月10日頃には、「全農民勢のうちまだ征服されていないのは[シュヴァルツヴァルト=ヘーガウ勢]と[上・下アルゴイ勢]の2つだけ」という情況になりました(エンゲルス「ドイツ農民戦争」, マルエン選集10,p.83.)。つまり、一番最初に蜂起が始まった南西ドイツが、最後まで残ったのです。

 

 「アルゴイ勢」の抵抗は、7月25日、ケンプテン修道院領民のトルーフゼス軍への降伏をもって最後とし、「シュヴァルツヴァルト=ヘーガウ勢」も、12月6日、最後の拠点であった独瑞国境ライン河畔のワルツフートが陥落しています。(pp.84-85.)

 

 

 

【40】 周縁部の「農民戦争」―― アルザス

 

 

 ライン河の西岸:アルザス(エルザス)とその西隣りロレーヌ(ロートリンゲン)地方は、国境が西へ東へと移動を繰り返してきたドイツ/フランスの権力が鬩ぎ合う境界域。そこでの「農民戦争」は、歴史的な独仏戦争のひとコマの面をもっています。

 

 

 

 

アルザスでは、一揆の勃発はライン右岸よりも遅かった。4月の半ば頃〔4月14日――ギトン註〕にようやくストラスブール司教領の農民が立ち上がり、その後しばらくして上アルザス〔アルザス南部――ギトン註〕ズントガウ〔アルザスの南隣り――ギトン註〕の農民が蜂起した。4月18日、下アルザスの一農民勢が』蜂起し、他の農民勢と『まもなく一つに集まって下アルザス大農民勢となり、都市や田舎町の占領と修道院の破壊を組織的に始めた。いたる処で 3人に1人が〔ギトン註――農民〕軍に徴集された。この農民勢の 12箇条は、シュヴァーベン=フランケン勢の箇条に比べて著しく急進的である。

 

 下アルザスの一隊は、〔…〕ツァーベルン〔フランス名サヴェルヌ。ストラスブール司教の居城があった――ギトン註〕を包囲した。同市は 5月13日に降伏した。〔…〕

 

 〔ギトン註――アルザスを統治していた〕オーストリア政府とこの付近の帝国直属都市は、ただちに農民勢に対抗して手を結んだが、本格的に抵抗するには、まして彼らを攻撃するには、あまりに弱すぎた。こうして、5月中頃までには、2,3の都市を除いて全アルザスが反乱側の手に帰していた。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.90.  

 

 

『アルザス、そしてその南にあるズントガウにかけては、ストラスブール〔ドイツ名シュトラスブルク――ギトン註〕、バーゼルという2大商業都市が並んでいる。バーゼル〔…〕宗教改革をめぐる種々雑多な理念の震源地と見なされていた。幾多の中世的異端運動の中心となったストラスブールでも、早くから宗教改革の運動が目ざましかった。〔…〕

 

 〔ギトン註――アルザスの〕西の境界線であるヴォージュ山脈のかなたには、強力なカトリックの要塞ロレーヌ地方があり、〔ギトン註――カトリック〕信心に凝り固まったアントンロレーヌ公アントン2世。ロレーヌのフランス所属を確定させた――ギトン註〕をかしらに戴いていた。〔…〕アルザス土着の貴族たちは分裂しており、彼らはロレーヌ公に期待をかけていた。』

 

 アルザスの諸都市では、『貧しい手工業者と農民とのあいだの共同行動は、この地方の経済構造と都市・農村間の密接な交流関係とによって容易にされていた。アルザスの大部分の都市では、市民を一歩出た処でもう、農業や園芸、とりわけブドウ栽培が行なわれていたのである。〔…〕

 

 4月はじめには、アルザスおよびズントガウ全体が農民蜂起に包まれてしまった。農民蜂起はズントガウを越えて、フランシュコンテフランス・ブルゴーニュ地方の東部。中心都市ブザンソン――ギトン註〕にまで広がっていった。〔…〕

 

 1525年4月末までに、アルザスおよびズントガウには5つの大農民団が形成された。〔…〕

 

 4月末、ゲルバーはアルザスの村々や部落の軍役に耐えうる男たちを4つのグループに分けた。各人は月のうち 8日間、農民団で軍事的勤務に従事し、勤務に就いていない 3週間は農事に従事しなければならない。ただ緊急な危険にさいしては、4グループの全員が武器をとるように呼びかけられる。こうして、一揆の期間中、武器をとることのできる者はすべて一度、あるいは数度にわたって農民団に参加することになったのである。

 

 農民戦争の起ったどの〔ギトン註――他の〕地域にも、このような・最後の一員をも包括する組織は生まれなかった。』

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,1969,未来社,pp.128-132.  

 ※註「ゲルバー Erasmus Gerber ?-1525」: ストラスブール南方モルスハイムの手工業者。アルザスの農民戦争指導者。

 

 

Darstellung der Schlacht von Frankenhausen aus dem 19. Jahrhundert,

Foto-picture alliance AKG-images.

 

 

〔ギトン註――アルザスとズントガウでは、〕すべての農民団の綱領は、「シュヴァーベン農民」の 12箇条〔≒メンミンゲン12箇条――ギトン註〕であった。〔…〕しかし、運動が拡大すればするほど、それだけ運動は急進化した。すべての権力に対する全般的な憎悪があらわれた。修道院と同様に、貴族の居城も襲われた。まず神に、ついで皇帝に服従する以外には何者にも服従するつもりはない、というアピールが響きわたった。〔…〕

 

 諸権力は蜂起に対して無力であった。〔…〕

 

 帝国代官は〔…〕外部の援助〔…〕、とりわけロレーヌアントンの援助を期待していた。

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』,1989,未来社,pp.219-221.

 

 

 アルザスの農民蜂起の特色は、急進化したこと、農民軍で徴兵制が行なわれたこと、鎮圧はフランス側諸侯によって行なわれたこと、などにあったと言えます。

 

 この地域は、経済発展に関しては西南ドイツと同じ先進地域で、富農として力を蓄えた村役人層が厚かった。彼らの存在無くして、村人に対する徴兵は実施できなかったはずです。また、農民の利害にかかわる急進的要求が優勢になったのも、富農層が反乱勢のなかで強い発言権をもったためでしょう。

 

 他方で、ストラスブールバーゼルなど、この地域の大都市は、局外中立を維持し、農民軍に対して市門を閉ざす対応を続けました。市の内部で平民の反抗が起こり、農民軍に降伏したツァーベルン(サヴェルヌ)の場合は例外です。都市民の参加が少なかったので、アルザスの農民勢には、ドイツ中央部では多かった穏健派がいなかったと言えます。

 

 そして、鎮圧側は、カトリックに凝り固まった強硬なフランス側諸侯軍に依存しました。いわば、“両極の激烈なぶつかり合い” が、この地域の特徴だったと言えます。

 

 

 

ツァーベルンの戦い。 1526年パリ刊行のパンフレットの挿絵。

上部に、「主は正しくいらせられ、罪人の首を打ち砕かれる」 

 

 

ロレーヌ公の軍隊は、およそ 6000人の重装騎兵、5000人の傭兵〔歩兵――ギトン註〕、少なくとも 12門の野砲を擁していたといわれる。歩兵にはさまざまな国籍の者が入り混じっていてスペイン人、ドイツ人、フランドル人、アルバ〔北イタリアの一地方――ギトン註〕出身者といったぐあいであり、〔…〕寄せ集めの軍隊であったばかりでなく、野蛮な血に飢えた軍隊でもあった。』

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,p.133.
 

 

ロレーヌアントンは、すでに 5月6日、3万の軍をひきいて行動を起こした。この軍には、フランス貴族の精鋭と、これを助けるスペイン人、ピエモンテ〔北西イタリア――ギトン註〕人、ロンバルディア〔北東イタリア――ギトン註〕、ギリシャ人、及びアルバニア人の部隊が含まれていた。

 

 5月16日彼は 4000人の農民と衝突して苦もなく打ち破り、はやくも 17日には、農民たちが占領していたツァーベルンに降伏をよぎなくさせた。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,pp.68-70.  

 


 ロレーヌ軍に包囲されたツァーベルン市の農民勢は、周辺の農村農民団に救援を求め、包囲の外から突破に向かった農民団と、ロレーヌ軍との間で、市外で激しい戦闘が起きました。外国人傭兵部隊による・救援農民団の凄まじい殺戮のさまが、市内に伝えられてきました。「血は雨と混ざり合い、激流となって村の路地を流れた」と、ある年代記は語っています。これを知って恐れをなした市内の農民勢は、市門を開いて出撃しようとはしませんでした。「包囲突破軍が虐刹されている間に、ツァーベルンの膨大な数の農民大衆は無為にとどまっていた。」包囲軍を外と中から挟み撃ちにするという千載一遇のチャンスを、農民軍は失してしまったのです。

 

 結局、ツァーベルンは無条件降伏しました。農民たちが武器を捨てて町を立ち去ろうとした時、「ロレーヌ公の軍隊は、おそるべき刹戮を始めた〔…〕傭兵たちは無抵抗の者を四方八方から突き刺し、斬り刹し」た。農民の一部は市内に逃げ戻ったが、今度は市内が刹戮の巷となった。「街路には死体が折り重なり、都市に入るには死体の山を」登って越えなければならなかった。「農民のお人好しは、ツァーベルンでもまた刹戮によって報われたのである。」(ベンジング/ホイヤー,pp.134-137.)

 

 その後アントン公は下アルザス一帯を平定しましたが、上アルザスの農民勢の一隊にかろうじて勝利した際に、みずからも相当の兵力を損耗し、5月25日、ロレーヌへ帰還しました。上アルザスズントガウの貴族たちがなお援けを求めていましたが、拒絶しています。(ベンジング/ホイヤー,p.138.)

 

 これらの地方をオーストリア政庁が、アントン公をまた呼ぶと言って脅して、農民たちに協約を結ばせて平定したのは 9月18日のことでした。(エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」,p.91.)

 


ザルツブルク旧市街とホーエンザルツブルク城。© Wikimedia.

農民蜂起がおこると、ザルツブルク大司教は難攻不落の

ホーエンザルツブルク城に立て籠もった。農民軍は

市内を占領したが、城を落とすことはできなかった。

 

 

 

【41】 周縁部の「農民戦争」―― 

ザルツブルクとオーストリア

 

 

 オーストリア大公国本領での「農民戦争」は、1525年5月9日南ティロルで始まっています。ザルツブルクで一揆が始まったのは、少し遅れて 5月25日でした(ベンジング/ホイヤー,pp.228,238.)。そして、ドイツ中央部で反乱農民の動きが終息した後も、オーストリアの一部では何度か一揆が再発し、最終的には、ヴェネチア領に逃げこんで再起をはかっていたガイスマイヤーの農民軍が 1527年に首領を暗殺されて崩壊するまで続きます。「アルプス地方の農民戦争は、ドイツ農民戦争のなかにあって、それ自体完結した出来事である」。というのは、そこには、ドイツ中央とは異なる・著しく地方的な特性が幾つも作用していたからです。この地方は、農業よりも牧畜の比重が高く、社会構造の特殊性が際立っていました。また、支配層の内部で、ハプスブルク家(スペイン王家)のオーストリア大公と、その臣下である群小諸侯が激しく争っているという、ドイツ本体には無い複雑な事情をかかえていました。(ベンジング/ホイヤー,p.225.)

 

 ミハエル・ガイスマイヤーは、南ティロルの蜂起から出てきた農民指導者ですが、その急進性だけでなく軍事的能力と指揮力において優れていました。彼は、司教政庁の書記・税関吏の出身でしたが、このような平民出身の優れた軍事指導者の存在が、ドイツ本体には無いものです。彼が 1526年2-3月に起草したのが「ティロル領邦綱領」です。その内容は、「私有財産は廃止され、鉱山、商業は国営に移される。政治権力は農民・鉱夫の手中におかれ」る「民主的農民共和国」の大胆な見取り図であった。(ベンジング/ホイヤー,pp.284-285,244.)

 

 エンゲルスは、ガイスマイヤーを「ミュンツァー派」としていますが、実際にはツウィングリの影響をより強く受けており、ツウィングリ派と連絡を保っていました。ガイスマイヤーは、ミュンツァー派というよりも、彼自身が「ミュンツァーとならぶ」ドイツ農民戦争の「最もすぐれた指導者」のひとりでした(ベンジング/ホイヤー,pp.276-277.)

 

 ザルツブルクで成立した「ザルツブルク領民の24箇条」も重要です。

 

 

『すでに 1525年6月、農民と鉱夫は、「全ザルツブルク領民の24箇条」にその要求を定式化していた。〔…〕箇条書は、教会に関するすべての貢納や貢租が、小十分の一税をふくめて、廃止されねばならない、と要求している。大十分の一税は、〔…〕村落共同体によって管理されねばならない。〔…〕農奴制は、反キリスト教的なものとして非難されねばならない。』

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,pp.243-244.
 


 また、農民の世襲保有権〔つまり小作権――ギトン註〕の明文化、領主の狩猟権独占を廃止し、森林・草地を一般民衆に開放すること、などを要求項目に掲げています。

 

 

ザルツブルク。岩塩鉱の露頭。 ©アルペンザルツのふるさと

 

 

 オーストリア諸地方の農民蜂起の・いま一つの特徴は、鉱山の鉱夫が大きな役割を果たしたことにあります。


 

『アルプス地方で大きな役割を演じたのは、領邦国家によって開発されていた鉱山であった。ティロルでは圧倒的に銀が〔…〕採掘された。しかし、鉱山は支配者の富の源泉であったばかりでなく、〔ギトン註――一揆〕農民にとって、規律正しく武器操作に長じた同盟軍、つまり鉱山労働者を供給する源泉でもあった。この鉱山労働者こそ、アルプスの農民戦争において非常に大きな役割を演じた

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,pp.227-228.
 

 

 ザルツブルクでは、一揆の中心となった地域には、『多くの金山、銀山があった。鉱夫というのは、「定まった住居はなく、自由人で、多くは他国者であり……戦争に慣れている、……かれらは、一揆指導者とか、蜂起農民の相談役になった」と、〔ギトン註――ザルツブルク〕大司教の顧問官は書いている。実際、〔…〕鉱夫は運動の先頭に立ったのである。他の史料によれば、農民は「事をはじめる意志をもっておらず、鉱山の鉱夫たちによって動かされ、一揆を起こすように仕向けられた」』

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,pp.238-239.
 

 

 一揆が広がってゆく先には、かならず、国有鉱山、官営製塩鉱業所、銀山、などの所在する鉱山地域があり、鉱夫のグループとネットワークが、蜂起の広がりに大きな役割を果たしていることを窺 うかが わせるのでした。
 

 

 

 

 

 

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