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ミュンツァーとミュールハウゼンの同盟員 映画『トマス・ミュンツァー』より

© DEFA-Stiftung Manfred Klawikowski. 

 

 

 

 

 

 

 

 

【25】 トマス・ミュンツァー――根拠地ミュールハウゼン

 

 

 アルシュテットから(エンゲルスによれば、あわや逮捕されザクセン公ゲオルクに引き渡される寸前で)逃亡し、ミュールハウゼンに移ったミュンツァーは、2か月足らずでそこからも追放されます。

 

 しかし、今度の追放は、必ずしも失敗の結果ではありませんでした。それというのも、ミュールハウゼンミュンツァーは、プファイファーというギルド市民の同志を得、「同盟」復活のタネを播いたからです。ミュールハウゼン市当局は、これをかぎつけて直ちにミュンツァープファイファーを追放したのですが、ミュンツァーの「革命神学」というイデオロギーを得てにわかに活性化した中・下級市民の運動を止めることはできません。いずれは市民の力が強くなって市政を乗っ取るのは、時間の問題でした。市参事会を握っていた寡頭支配の都市貴族にとって、ミュンツァーらの追放は一時しのぎでしかなかったのです。

 


ミュンツァーは、ハインリヒ・プファイファーとも、すでに以前から関係をもっていたようである。プファイファーは脱走修道士で、ミュールハウゼン市民の息子であり、1523年のミュールハウゼンの反対運動は彼の名前と結びついている。

 

 「自由な帝国都市」ミュールハウゼンは、人口数と農村領域の大きさから、中部ドイツでは最も大きく重要な都市の一つに数えられていた。〔…〕ミュールハウゼンでも、16世紀の 20年代に社会的・政治的対立〔市政を握る寡頭・都市貴族とギルド市民・下層市民との対立――ギトン註〕が激化して、市参事会員になる資格をもたない市民〔有産者であるギルド市民――ギトン註〕が、貧民反対派を利用しながら、古い市参事会に反抗して立ち上がった。』

ベンジング,田中真造・訳『トーマス・ミュンツァー』改訳版,未来社,1981,p.65.



『ミュールハウゼンを見舞うことになる嵐の兆しが現れたのは、1522年から23年にかけて、脱走修道士たちが市を回り歩いて、聖職者に反抗するように民衆を煽動した時であった。世俗権力までもが攻撃され、聖書の裁きの座に据えられた。この修道士たちは手工業者の家で、または野外で説教した。民衆は彼らのもとに殺到し、宗教改革の闘争スローガンを熱意をもって受け入れた。とくに多大の共感を得たのが、元修道士のハインリヒ・プファイファーで、彼は〔…〕1521年に〔…〕シトー会修道院を抜け出し、あちこちを宣伝して回った後、故郷の都市に戻ってきた。〔…〕プファイファーは短期間で市内に親宗教改革的な雰囲気をつくり出すことに成功した。〔…〕教区民は「こぞって大挙して」市庁舎に押しかけ、〔…〕市参事会は激昂する住民の圧力を受けることになった。〔…〕市民は、40人の市民委員会と、「8人委員会」と呼ばれる8人の代表を選んだ。これらは市参事会に対して共同決定権と監督権を要求し、自分たちの不満を 54箇条にまとめた。』

H.-J.ゲルツ,田中真造・他訳『トーマス・ミュンツァー』,教文館, 1995,pp.200-201.

 ※註「シトー会」: 厳格な戒律で知られる修道教団。日本では、函館に「トラピスト修道院」がある。

 

 

 

仲間と相談する修道服の男(右):プファイファーか?  

映画『トマス・ミュンツァー』1956 より。   

© DEFA-Stiftung Manfred Klawikowski.    

 

 

 市参事会は、市民の要求に対して、ぐずぐずと先延ばし戦術をとったのですが、市民側はこれに対して「1523年7月に武装蜂起で答え」、市庁舎を攻撃するとともに、修道院と騎士修道会館を襲って収蔵品を掠奪し、暴徒のあいだで分配しました。

 

 

 1522-23年のプファイファーらの運動の結果、『選挙と〔…〕協定によって、ギルド市民層は、市の財務に意向を反映させることができるようにな〔…〕った。しかし、貧民勢力は、〔…〕何ら得るところがなかった。〔…〕市民の一部も不満を抱いていた。何よりも、ミュールハウゼンに属する多くの村の農民たちは、都市内部の運動とは無関係であった。〔…〕

 

 状況は複雑であったが、古い市参事会に対して広い反対運動をつくり出す可能性はあった〔各層が、それぞれの利害に固執してまとまらない点に問題があった――ギトン註〕〔…〕改革がさらに進んだ成果を挙げうるかどうかは、貧民勢力を糾合して運動の独自の分派に仕立て上げ、市民層の不平分子を急進化させ、さらに農民を味方にすることができるかどうかにかかっていた。』

ベンジング,田中真造・訳『トーマス・ミュンツァー』改訳版,未来社,1981,pp.65-66.

 ※註「農民たち」: ハンブルク大学ゲルツ教授によれば、ミュールハウゼンは、17か村からなる広大な農村領域を擁しており、上層市民のみならず多くの手工業者が農村に農場や領地を持っていた。改革派市民もまた、このようなブルジョワ領主としての利害を農村に持っていたため、農民との対立を乗り越えることは難しかったのである(H.-J.ゲルツ『トーマス・ミュンツァー』,pp.198f.)。↓下で触れるように、1524年9月に、ミュンツァーらの改革が頓挫し、ミュンツァーとプファイファーがミュールハウゼンから追放されるのも、農民たちが都市貴族側の古い市参事会に味方したことによる。

 


 ミュンツァーは、この情勢のただなかで、アルシュテットから移ってきたのです。

 

 

ミュンツァーは、プファイファーの信奉者たちに好意的に迎えられ、即座に多くの共感を博し、〔…〕まず礼拝式の改革に着手し』た。

H.-J.ゲルツ,田中真造・他訳『トーマス・ミュンツァー』,教文館, 1995,p.203.


 

 平民・貧民を「選ばれた人びと」として名指すミュンツァーの「革命神学」は、自分たちの利害しか見ていなかった有産ギルド市民の眼を下層に向けさせ、幅広い結合をまとめあげるプログラムを示していました。ミュンツァーは、「なによりも都市貧民層に狙いをつけ、彼らを動かすことによって打開策を示した。〔…〕プファイファーとブルジョワ〔有産市民――ギトン註〕反対派も、ミュンツァーのプログラムに感激して、急進化していった。」

 

 もっとも、都市壁外の農民層との連合という課題は、なお残っていました。最初の高揚が2か月足らずしか続かなかった原因は、農民層を運動の圏外に放り出していたことも大きかったのです。この欠の補充は、追放後のミュンツァーが西南ドイツに旅して、ちょうどそこで開始されていた「農民戦争」の反乱農民たちに遭遇したうえ、ミュールハウゼンに戻って来ることによって果たされるでしょう。

 

 

 

『帝国自由都市ミュールハウゼン』 ミュールハウゼン市・古文書館 61-38.

 

 

『貧民と小市民の連合勢力は、1524年の 9月中旬、「神との永遠同盟」を設立して、軍事同盟をつくり出し、ミュンツァープファイファーが起草した『ミュールハウゼン11箇条』によって独自のプログラムを持つことになった。

 

 このプログラムは、都市生活を民主的に変革すること、都市のあらゆる階層が市参事会にその意向をより強く反映させること、市参事会は市民に対して責任を負い、罷免もされうること、を約束した。〔…〕11箇条のなかでは、打破されるべき敵が名指されているだけでなく、新しい民主的な社会構成の要点が展開されている〔…〕ミュンツァーのこの時期のさまざまな発言からは、彼がミュールハウゼンを改革して、これを、〔…〕平和的な現状変革の手本とし、場合によっては、普遍的な革命運動の中心地兼出発点にしようと考えていることがうかがえる。

 

 9月中旬には、〔…〕〔ギトン註――ミュンツァーら〕反対派の勝利はすでに間近いと思われた。その時、市周辺の農村の農民たちが、古い参事会〔都市貴族――ギトン註〕に味方した。このように分裂してしまったので、民衆は敗北せざるをえなかった。

 

 この体験は、ミュンツァーのその後の発展にとって重要な意味をもった。それ以後、彼の眼は何よりも農民に向けられることになったのである。

 

 しかし、市参事会側の勝利も、完全なものではなかった。〔…〕「神との永遠同盟」のメンバーの一人が市参事会員〔最高幹部会議員のようなもの――ギトン註〕となったのである。都市下層民の運動を長期間阻止することは不可能であった。この運動は、意のままになる組織と、プログラムを持っていた。だから、都市内の社会的・政治的緊張が、ほんの少しでも激化すれば、必然的に全面戦争にならざるをえなかった。〔…〕

 

 ミュンツァーは、この追放を利用して、かねて計画していたニュルンベルクへの旅に出かけた。』

ベンジング『トーマス・ミュンツァー』改訳版,pp.67-68.  

 

 

 

【26】 「農民戦争」との出会い 

 


『そうこうするうちに、農民と平民の間の激動は高まり、ミュンツァーの宣伝は著しく容易になった。彼は、再洗礼派という・この宣伝には計り知れず貴重な代弁者を獲得していた。この教派は、はっきりした積極的な教義をもたず、ただ全支配階級に対する共通の反抗と、再洗礼という共通の象徴によってのみ結ばれ、品行においては禁欲的な厳しさを示し、煽動においては倦むことを知らず、狂信的かつ大胆不敵であったが、』彼らのあいだに、しだいにミュンツァーの教えが浸透しはじめていた。迫害によってあらゆる定住地から閉め出された彼らは、全ドイツをさまよい歩き、いたる処に〔ギトン註――ミュンツァーの〕新しい教えを伝えた。彼らにとっては、彼ら自身が求めていること、望んでいることをはっきりさせてくれた・この教えを。〔…〕

 

 そういうわけで、ミュンツァーは、テューリンゲン〔ギトン註――ミュールハウゼン〕からの逃避行において、いたる処に地盤が用意されているのを見いだし、行きたい場所に行くことができた。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,pp.44-45.

 ※註「再洗礼派 die Wiedertäufer」: アナバプティスト。ただし、この時代にはまだ「再洗礼」は行なわれておらず、「再洗礼派」という呼び方もなく、むしろ、幼児洗礼の拒否が彼らの共通ドグマだった。「後世に再洗礼派と呼ばれることとなる教派」と言うべき。ツヴィッカウシュトルヒのグループも、これに属する。ベンジング『トーマス・ミュンツァー』改訳版,p.33.

 

 

ホーエンシュタウフェン砦, シュヴァーベン。

 

 

 ミュンツァーがミュールハウゼンを離れて西南ドイツに旅行した時点(1524年9月~25年2月)で、各地に、ミュンツァーのパンフレットを読んで信奉者になった人びとがいたのは事実で、そのなかには「再洗礼派」に属する人もいました。とは言っても、彼らすべてが「再洗礼派」だったとするのは無理です。教派セクトのような結合でなくとも、各地の人士のあいだにはネットワークがあって、信奉者からその知己に紹介してもらう、という形で、ミュンツァーは、不自由も危険もなく旅行することができました。

 

 ただし、ネットワークを利用するにあたっては、ミュンツァーのほうでも、迷惑がかからないように自制する必要がありました。とりわけ旅行の前半、ミュンツァーは、行く先々の当局に要注意人物としてマークされないよう、説教はめったに行なわず、言動にも気をつけていました(ベンジング,pp.68-72.)。ですから、ミュンツァーは決して、革命煽動のようなことをしていたわけではありません。

 

 エンゲルスは、まるで、ミュンツァーが各地で革命組織のオルグをしていたかのように書いていますが↓、無理な憶測と言うべきです。



ミュンツァーは、まずニュルンベルクに行ったが、そこでは、農民一揆が萌芽のうちに息の根を止められてやっと1か月たったかたたないかのところであった。ミュンツァーは、ここで秘かに煽動活動をした。〔…〕ニュルンベルクミュンツァーは、ルター〔の弾劾――ギトン註〕に対する回答を印刷させた。彼はルターを正面から非難して言う:ルターは諸侯におもねり、その優柔不断のゆえに反動的党派を利している。だがそれにもかかわらず、民衆は解放され、ルター博士は、捕えられた狐のような目に合う〔皮を剥がれる――ギトン註〕であろう。〔…〕

 

 ミュンツァーのこの遊説旅行が、民衆派の組織、その要求の明確化、そしてついに一揆の全面的勃発に決定的貢献をしたことは明らかである。〔…〕彼は、〔…〕この地で南西ドイツの全革命運動の中心となり、ザクセン、テューリンゲンからフランケン、シュヴァーベンをへてアルザス、スイス国境に及ぶ同盟を組織した。〔…〕

 

 こうしてミュンツァーは、5か月ばかり上ドイツ〔南ドイツ――ギトン註〕で煽動を行ない、〔ギトン註――ミュールハウゼンで〕謀叛の勃発が近づいた頃ふたたびテューリンゲンに戻った。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.46.



 エンゲルスは、神学者ミュンツァーを革命家に仕立て上げるだけでは足らず、全「ドイツ農民戦争」は彼が引き起こしたという神話をこさえたいらしいのです。それはあまりに事実に反するので、(このレヴューはエンゲルスの語りを紹介するのが目的ではありますが)これは言っておかなくてはなりません。

 

 ミュンツァーが「農民戦争」の一揆そのものに関わったのは、その後半のうちわずか1か月、ミュールハウゼンを中心とする中~北東ドイツ地方でのことです。前半の・西南ドイツ各地で起きた一揆に関しては、ミュンツァーは直接参加していません。ただ、ミュンツァーがこのとき農民のために起草した箇条書き状が、西南ドイツ各地の農民軍の箇条書き状や憲法草案に影響を与えたことは事実であり、こうした形で「反乱を促進した」ということは言えるでしょう。ベンジング,pp.72-73.


 

 ミュンツァーは、西南ドイツで『始まったばかりの農民反乱に接触した〔…〕その後の数週間、〔…〕箇条書を起草し、この箇条書を土台にして、さらに他の農民プログラムが作成された。〔…〕

 

 ミュンツァーは、この反乱から強い印象を受けて、ミュールハウゼンにいた数週間前よりも、もっと強烈に、農民と農民暴動の非常に重要な意義を感じとったのであろう。』

ベンジング『トーマス・ミュンツァー』改訳版,pp.72-73. 

 

 

 しかし、つぎの部分になると、エンゲルスは、もうどうしようもない革命幻想に酔い痴れています。私たちが今後二度と、このような党派的妄想に誑 たぶら かされることの無いように、あえて収録しておきましょう:

 

 

『ミュンツァーは〔…〕、平民や農民の直接の観念や要求をはるかに超え、当時存在した革命的分子の精鋭をすぐって、初めて一つの党(Partei)をつくった〔…〕ただし、この党は、ミュンツァーほどの高い理念に立ちまた彼ほどのエネルギーをもつ限りにおいては、なお反乱大衆の中の・ごく少数者にすぎなかった。

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.46.

 

 

サンクト・ヴェンデル市の攻略(コンラト・ファーベルの木版画 1523年)

1522年9月、ジッキンゲン麾下の騎士軍は、トリーア大司教領の

城砦都市サンクト・ヴェンデルを占領した。©Wikimedia

 

 

 

【27】 「騎士の乱」 

 

 

 「宗教改革」のなかで、「農民戦争」に先立って 1522-23年に勃発した「騎士戦争」についても、エンゲルスは1章を割 さ いています。しかし、「騎士戦争」は、農民とも、ルター派、ミュンツァー派等々の宗教改革勢力とも別個の動きで、原因・結果ともに「農民戦争」には影響を与えていないと思われます。ですから、ここでは要点のみを記しておきましょう(pp.59-62.)

 

 

 〇 下級貴族(騎士)が、諸侯と高位聖職者に対抗した武装蜂起である。

 

 〇 諸侯と高位聖職者とローマ法王庁の支配を除去して、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)のもとで、貴族による共和制を打ち立てようとした(帝国改革要求)。それは、ポーランドのヤゲロー王政のような古い型の貴族政治(農奴制に基礎をおく貴族民主政)への復帰を理想とした。そのかぎりで、16世紀の高度化した封建的階層制(レーエン制)にも反対していた。

 

 〇 首謀者は、フッテン、ジッキンゲンという2人の騎士。ジッキンゲンは、自衛という名目で、中~西南ドイツ「ライン、シュヴァーベン、フランケンの貴族の6年期限の同盟」を拵え、ライン下流・北西方面で組織的な募兵(傭兵の募集)を行なって兵力を集めたうえ、「1522年9月、トリーアの選帝侯大司教に」私戦宣言を投げつけて戦端を開いた。しかし、諸侯たちは直ちに連合してトリーア大司教に援軍を送ったので、フッテン、ジッキンゲンとの「同盟に加わっていた貴族たちは」彼らを見殺しにして退いた。ジッキンゲンは討ち死にし、フッテンはスイスに逃れたが、数か月後チューリヒで死亡した。

 

 〇 彼ら騎士は、都市市民とも農民とも宗教改革指導者らとも同盟できなかった。当時の情勢が、同盟の条件を塞いでいたからである。とくに重要なのは農民勢力との連合であったが、騎士階層は、領主階級の一部として、農民・農奴に対する自らの権利を手放す気はまったく無かったから、手を結ぶ余地はなかった。(のちの「農民戦争」では、幾人かの騎士が、農民の側に立って加勢したり、農民軍の指導者になったりしているが、それらはあくまで少数の個人的な例であり、大部分の騎士・貴族は、農民を鎮圧する側に廻った。)

 

 〇 「この敗北と両指導者の死とともに、諸侯から独立した一階層としての貴族の力は潰え去った。以後貴族はただ諸侯に仕え、その意のままに動くにすぎない。〔…〕ドイツの貴族は、〔…〕諸侯の主権のもとで今後も農民の搾取を続ける途を選んだ」のである。(p.62.)

 

 

騎士の乱・ドイツ農民戦争 要図

 


 

【28】 「農民戦争」 の初発動向――西南ドイツ

 

 

 1524年8月24日、西南ドイツ・ヘーガウ地方で「農民戦争」の狼煙 のろし が上がりました。南ドイツからスイス北部にかけての一帯では、この年春から、領主に対して貢納と賦役を拒否し、教会に十分の一税を支払わない村が続出し、その動きが広がっていました。この日、シュチューリンゲン方伯領の農民たちが「突如として貢納を拒絶し、ハンス・ミュラーに率いられて、ワルツフート市に進軍を開始した」のです。折からワルツフート市民は、ミュンツァーの弟子である説教師に対する迫害に抗議して、帝国政庁と事を構えていたので、農民軍と結んで「福音兄弟団」を結成し、富裕な市民に巨額の同盟税を課するとともに、ライン川沿岸、アルザス、モーゼル川流域の各地に密使を送って、各地の農民に同盟を呼びかけました。



『同盟の目的として、封建的支配の撤廃、いっさいの城と修道院の破壊、および皇帝以外のすべての領主の排除が宣言された。同盟旗は、ドイツ三色旗であった。

 一揆は、今日のバーデンの全高地地方に急速に広がった。上シュヴァーベンの貴族は恐慌をきたした。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.63.

 

 

 それというのも、彼らの手兵は、イタリアでフランスのフランソワ1世の軍と戦うために、おおかたが出払っていたので、鎮圧しようにも兵隊がいませんでした。領主貴族たちに残された手段は、農民軍と話し合いをして事態を先に延ばし、そのあいだに富裕市民からカネを調達して傭兵を集め、十分に力を蓄えてから農民軍と農村を襲撃して、情け容赦ない「焼き討ち、掠奪、殺戮」を加えて懲らしめることでした。しかし、それはすぐにできることではなかったのです。

 

 農民勢は、進軍してゆく各地で加入者を加え、10月半ばには 3500人となってシュチューリンゲン近郊に布陣しました。これに対する貴族側の人員は 1700人足らずでした。そこで、いったん休戦が成立し、貴族側は、帝国地方裁判所で農民側の訴願を審査することを約束します。

 

 農民軍は、16箇条の意見書をまとめて、裁判所に提出しましたが、その内容は、↑かねて掲げてきた同盟綱領と比べ、きわめて穏健な・譲歩したものでした。「狩猟権・賦役・過重な租税・および領主特権一般の廃止、恣意的な拘禁、恣意的判決を下す不公平な裁判からの保護、――これ以上の要求はしていなかった。」(p.64.)

 

 これは、あえて要求のレベルを下げて当方の正当性をアピールし、より広範な層に参加を募る戦術でしょう。エンゲルスは、農民軍が弱腰になったかのように非難していますが、私は当たらないと思います。相手が専制的な権力である場合には、古今東西この戦略は有効です。ついでに言えば、最近の北朝鮮の核軍拡に対する米日韓の戦略は、この点がわかっていないので、決して成功しないのです。

 

 ともかく、この休戦は、双方が相手を叩く力を蓄えるために、思惑が一致して設けられた期間だったと言えます。まもなく抗争は再燃し、農民蜂起の動きは、ブライスガウを越えて北側にまで広がります。ところがここで、貴族側に、ゲオルク・トルーフゼスという残忍かつ有能な軍事指導者が登場し、農民軍中の出過ぎた動きを牽制しつつ、農民軍本体との決戦は避けて、ふたたび協定に持ち込みます。

 

 1524年「12月の末に帝国裁判所で審理が始まり、農民たちは、法廷〔判事団〕が貴族だけで構成されていることに抗議。〔…〕審理は長引いて、貴族、諸侯、シュヴァーベン同盟〔諸侯と都市政府の同盟〕は戦備を整えた。」

 

 他方、この間に農民側にも貴族の援軍――あやうい味方――が現れます。1514年にヴュルテンベルクで起きた「貧しいコンラト」の農民反乱を鎮圧したヴュルテンベルク公ウルリヒです(⇒:(4)【13】)。ウルリヒは、その後、皇帝の姪である妻に暴力をふるったり、不倫の愛人の夫と争って殺害するなど行状が悪く、皇帝から2度も「帝国追放刑」を宣告され、1519年には「シュヴァーベン同盟」と戦争して敗北し、領国のヴュルテンベルクから追放されてしまいます。ウルリヒは、スイスに亡命したり追い剥ぎをしたり、(ドイツ皇帝と戦争中の)フランス王フランソワ1世に仕えたり、はてはルター派に改宗したりと、しっちゃかめっちゃかな行動で物議をかもしますが、1524年に「農民戦争」が始まると、農民軍を利用してヴュルテンベルク公位に返り咲こうともくろみ、シュテューリンゲンの農民軍(シュヴァルツヴァルト=ヘーガウ勢)に共闘を申し出るのです。「追放以来、彼が革命党派を利用しようと努め、たえず彼らを支援していたことは事実である。」(p.65.)


 「こうして、両陣営とも決定的なことは何もせずに冬が過ぎた。諸侯は姿を見せず、農民一揆は拡大した。1515年1月には、ドナウ川、ライン川、レッヒ川のあいだの全土が沸きかえり、2月には嵐がはじまった。」

 

 これまでに表面化していたシュテューリンゲンの農民軍(シュヴァルツヴァルト=ヘーガウ勢)のほかに、5つの地方農民勢がつぎつぎに蜂起します。エンゲルスによれば、それは次のとおりですが、これら以外の地方でも各地で農民勢の蜂起があり、全体はもっと大きかったと思われます。

 


 ① シュヴァルツヴァルト=ヘーガウ勢/ シュテューリンゲン,ブライスガウ/  ハンス・ミュラー,ウルリヒ公(加勢)/ 1524年8月/ 3500人以上 

 

 ② バルトリンゲン勢/ バルトリンゲン,沼沢地方/ 1525年2月/ 1万~1万2000人

 

 ③ 上アルゴイ勢/ ケンプテン,メンミンゲン/ 1525年2月/ 7500人 

 

 ④ 湖畔勢/ ボーデン湖畔/ 1525年2-3月/ 

 

 ⑤ 下アルゴイ勢/ ヴルツァハ/ 1525年3月/ 7000人 

 

 ⑥ ライプハイム勢/ ウルム,ライプハイム/ ウルリヒ・シェーン/ 1525年2-3月 

 

 ○ 名称/ 根拠地,主要都市/ 指導者/ 蜂起開始時期/ 規模:合計 3-4万人(1525年3月初め)

 



 さて、このへんで 1956年の映画『トマス・ミュンツァー』のトレイラーを2種見ていただきましょう↓。東ドイツ製作の映画ですが、もとは 135分の大作でした。1974年に、翌年の「ドイツ農民戦争450周年」に合わせて短縮版で再公開されています。いま youtube で視られるヴァージョンは、この短縮版のようです。(短縮版は、たんにカットしただけでなく、東ドイツ文化省の方針に合わせて、BGMを変えるとか、ずいぶん化粧直ししたように見えます)。詳しい情報は、こちら

 

 この映画、ルターを完全に無視していることで難癖がついたものか(登場したら、「百姓どもを刺し刹せ」とか、かえって評判を落とすだろうにww)、西ドイツでは長いこと公開されませんでした。統一後、2005年に発売されたDVDも短縮版。2017年にようやく「中部ドイツテレビ」で、カット無しの完全版が放映されたそうです。

 

 ↓トレイラーは、上が最近のもので、下は(おそらく)完全版上映当時の東ドイツのもの(らしい。短縮版にないシーンを含むので)。同じ映画のトレイラーとは思えないくらい雰囲気が違います。これ以上は書きませんが、見て何か感じましたらコメント欄へ!

 

 

 

 



 

 

 

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