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R.シーストル(1878-1931):『笛吹きハンス』

 

 

 

 

 

 

 

 

【9】 農民革命の芽生え――「笛吹きハンス」

 

 

 前回の叙述からわかるように、中世の農民反乱も異端派運動も、今日のドイツの圏域ではまったく起きていません。ドイツで初めて、それが芽生えるのは、15世紀も終りに近づいた 1476年。ひとりの若い牧人兼大道芸人が、突然、「聖母マリアが現れた」と言って、自ら楽器を捨て、一切の快楽を断ち切る禁欲を説きはじめたのです。彼の名は「笛吹きハンス」……

 


『フス派の運動が鎮圧されてからおよそ 50年のち、ドイツ農民のあいだに、革命的精神が芽生える最初の徴候が現れた。

 

 ヴュルツブルク司教領は、フス戦争により、「悪政により、さまざまな租税、貢租、私戦、敵対、戦争、放火、殺人、投獄等々によって」とうの昔から貧しくされ、司教ら、坊主ども、貴族らによって引き続き恥知らずの掠奪を受けていた国であったが、1476年ここに最初の農民の徒党が発生した。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,p.46.

 

 

 笛吹きハンス」は、本名ハンス・ベーハイム。ヴュルツブルク近郊のニクラスハウゼン村に予言者として現れた彼と「ニクラスハウゼンの聖母」をめざして、農民たちの巡礼がはじまり、その数は日を追うごとに増えるばかりでした。

 

 

『彼はこう語った。聖母マリアが彼の前に姿を現わし、汝の太鼓を焼き捨てよ、踊りと罪深き快楽に仕えることをやめ、人びとに勧めて悔い改めさせよ、と命じ給うた。だから、人はみなおのれの罪深き行ないとこの世の空しき快楽をやめ、すべての装いと飾りを捨て、ニクラスハウゼンの聖母へ巡礼して、おのれの罪の赦しを得なければならぬ、と。


 

 「笛吹きハンス」の説教は、このような、快楽を断て、という禁欲主義から始まります。(エンゲルスの言うところ)搾り取られて何もないはずの民衆が、どうして禁欲しなければならないのでしょうか? それが、どうして民衆運動の発端になりうると言うのでしょうか ?! これについてエンゲルスは、「宗教的色彩を持つ中世のあらゆる反乱や、近世のあらゆるプロレタリア運動の始期に見られる・あの禁欲主義」だとしています。疑問を抱かざるをえませんが、彼の言説をもう少し読んでみましょう:

 

 

『この禁欲的な厳しさ、あらゆる生活の愉しみや快楽を断てという・この要求は、〔…〕社会の最下層の人びとが動きはじめるためにはどうしても通過しなければならない一段階である。彼らの革命的エネルギーを展開するためには、〔…〕彼らはまず現存社会秩序との妥協を可能にするものを一切棄てることから始めなくてはならない。すなわち、抑圧された生活を、つかの間堪えられるものにしてくれる・僅かばかりの楽しみ〔…〕をも、彼らは断念しなければならないのである。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,pp.46-47.  

 

 

 つまり、庶民芸能のような「つかの間の楽しみ」で気を紛らせるようなことをやめたとき初めて、民衆は、自分たちは抑圧されていることを自覚し、その全エネルギーを、抑圧体制への反抗と改革要求へと集中することができる。エンゲルスは、そういうことを言っているようです。そして、「この平民的・プロレタリア的禁欲主義」は、「ルター的な倫理や、英国のピューリタンが説いたブルジョワ的禁欲主義とは、全く異なっている」と論じるのです。

 

 このクダリのエンゲルスの見方には、私は大きな疑問を感じますが、とても大きな問題に突き当たってしまうので、ここでは深入りしないことにします。私の結論だけを言えば、エンゲルスの言うような区別は存在しない。彼の言う「プロレタリア的うんぬん」とは、彼言うところの「ブルジョワ的禁欲主義」――ウェーバーの言う「資本主義の精神」――そのものだ、と考えます。

 

 のちほど(【12】で)見るように、この時代の反乱農民結社には、(都市ギルドの封建的統制から逃れ出た)農村手工業者が、多数加入していました。彼らこそ、大塚学派によれば「資本主義萌芽」なのです。この問題は、後日、ルターの宗教思想に触れるさい、再論するかもしれません。

 

 

笛吹ハンスの・悔い改めを勧める説教は、大きな反響を呼び起こした。反乱予言者たちはみなこの説教をやりはじめた。〔…〕これまでの生活様式を一挙に捨ててしまうことのみが、〔…〕盲目的な屈従のうちに育ってきた農民階級をよく動かしえたのである。

 

 ニクラスハウゼンへの巡礼が始まり、急速に増えていった。〔…〕人々の群れが大きくなるにつれて、若き叛徒〔笛吹きハンス――ギトン註〕は、しだいに明からさまに自らの企図を語るようになった。彼は説いた。――ニクラスハウゼンの聖母が告げ給うには、これからは皇帝も諸侯も法王も居てはならぬ、その他一切の宗教的・世俗的 “おかみ” は存在してはならない。各人はたがいに兄弟となり、自らのパンは自らの手で稼げ、なんぴとも、他人より多く持ってはならぬ。すべての賃租・地代・賦役・通行税・租税及びその他の貢租と賦役は永久に消えよ、森と水と放牧地は何処においても開放されよ、と。

 

 

「笛吹きハンス」    

 

 

 民衆は、この新しき福音を喜んで迎えた。〔…〕「われらが聖母の御使い」の評判は、またたくまに遠方にまで広まった。オーデンヴァルト、マイン、コッヘル、ヤークスト、さらにバイエルン、シュヴァーベン、ライン地方からも巡礼が殺到した。人びとは、ハンスの行なった奇蹟について語り合い、彼の前に跪 ひざまず き、聖者のように拝んだ。彼の頭巾の房 ふさ を、聖遺物の御守りであるかのように求めて群がった。

 

 坊主どもは彼に対抗して、彼の見せる幻影は悪魔のまやかし〔…〕だと説いたが、むだであった。〔…〕この牧人叛徒の毎日曜の説教は、4万人の会衆とそれ以上の人びとをニクラスハウゼンに集めた。

 

 数か月のあいだ、笛吹きハンスは、群衆に説教を続けた。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,pp.47-48.  

 

 

 ハンスは、当初からだったのか、名声を獲得していった過程で影響を受けたのかはわかりませんが、明確な反乱の意図を持っていました。それを群衆に向って述べることは先送りにしつつ、反乱意図のある有力者と連絡をとっていました。ニクラスハウゼンの司祭と2人の騎士:クンツ・フォン・トゥーンフェルトとその子ミヒャエルです。(1)【3】と (2)【4】で述べられていたように、下級聖職者と下級貴族(騎士層)は、農民の反抗と連合しうる階層でした。蜂起のあかつきには、この2人が軍事指導者になる手はずだったのです。

 

 ついに、聖キリアン祭の前の日曜日ハンスは説教の最後に、会衆に向って謎のような行動計画を告げるのです:――「さあ、家に帰って、至聖の聖母が告げ給うたことをとくと考えなさい。そして聖マルガレーテの日〔7月20日〕、つまり今度の土曜日に(nächsten Samstag)、女子供と老人は家に残し、おまえたち男衆だけで再びニクラスハウゼンに来なさい。おまえたちの兄弟や友達をできるだけおおぜい連れて来なさい。〔…〕片手には巡礼の蠟燭、片手には剣と槍または矛を持ち、武装を整えて来なさい。そうすれば、その時、聖母は、おまえたちが何をなすべきか、ご意思を告げ給うであろう。」

 

 ※註「聖キリアン祭」: ヴュルツブルク市の守護聖人である聖キリアンの祭りで、7月第1土曜日から 17日間。だとすると、「聖マルガレーテの日」7月20日が「今度の土曜日」だというのは日数が合わない。15世紀の「聖キリアン祭」の日程は現在とは違っていたのか? あるいは、「聖キリアン祭の次の(nächst)土曜日」の意か?

 

 このことを知ったヴュルツブルクの司教は、騎馬隊を差し向けてハンスを捕らえ、マリーエンベルク砦 とりで(↓下図)に幽閉してしまいます。予告された「聖マルガレーテの日」には、3万4000人の武装した農民が集まりますが、ハンスが現れないのを見ると、意気消沈して半分以上の者が帰ってしまいます。それでも 1万6000人ほどがフォン・トゥーンフェルト父子に率いられてヴュルツブルク城に向かいます。

 

 こういう時の聖職諸侯のやり口は、のちの「農民戦争」まで一貫して同じですが、次のようなものです。ヴュルツブルク司教は、やってきた武装農民団に向かい、まずは彼らの要求に応じてさまざまな約束を与え、丁寧に諭して帰路に就かせます。そして帰ってゆく彼らを、司教の騎馬隊が後ろから襲い、多くを捕らえ、2人を斬首し、そこで砦から「笛吹きハンス」を引き出して公開で火炙りに処します。約束は、言うまでもなくすべて反古 ほご です。

 

 フォン・トゥーンフェルト父子は、からくも逃亡しましたが、全財産を修道院に譲り渡して、ようやく帰ることを許されました。

 

 ハンスがいなくなっても、巡礼はしばらく続いたので、ヴュルツブルク司教は、これを弾圧して禁止しなければなりませんでした。(pp.48-49)

 



ヴュルツブルクのマリーエンベルク砦。「笛吹きハンス」が、火刑までの間、幽閉された

 

 

【10】 「ブントシュー」――

エンゲルスはジェノサイドがお好き♡

 


 その後ドイツでは、しばらく平穏が続きますが、1490年代になると、ようやく各地で農民の徒党や一揆が見られるようになります。1491-92年のオランダの農民一揆は、ザクセン公アルブレヒトの遠征でようやく鎮圧され、同じころ上シュヴァーベン・ケンプテン修道院領〔現在のオーストリア国境に接する丘陵地帯で果樹園芸や酪農がさかん〕でも農民一揆が起きています。1497年には、フリースラント〔オランダ北海岸地方。イギリスに移住したアングロサクソン人の故郷〕で一揆が起き、やはりアルブレヒト公によって鎮圧されています。

 

 これらは、ドイツの周辺部で起きた一揆であり、「いままで自由であった農民が、封建制を押しつけようとする試みに対して行なった闘争」だったと言えます。しかし、同じ時期に並行して、ドイツの中央部では、農民・都市平民の秘密結社が結成されていました。それが「ブントシュー」です。

 

 「ブントシュー(Bundschu)」とは、くるぶしの上で紐で縛る式のブーツで、当時は農民特有の履物でした。蜂起の時に、長い紐のついた・この農民靴の旗印を掲げたので↓、彼らは「ブントシュー」と呼ばれ、また自らも称するようになったのです。

 

 

「ブントシュー」:農民靴の旗を掲げた反乱農民が、騎士を

捕えている。 /ペトラルカ親方の『慰め画報』1539年 木版

 

 

 最初に表面化したのは、フランス国境に近いアルザスの「ブントシュー」で、1493年の復活祭の前の週、蜂起を起こす直前に発覚して、当局の弾圧を受けました。

 

 アルザスの「ブントシュー」は、農民と都市平民が中心でしたが、アルザス諸都市で市政を牛耳る都市貴族と抗争中の有産市民が加わり、下級貴族(騎士層)の一部も共鳴していました。彼らの要求は、第1に、ユダヤ人を掠奪し根絶すること。ヨベルの年〔すべての借財の破棄。日本の「徳政令」にあたる〕を実施すること、でした。それに、関税・間接税の撤廃、租税協賛権、教会裁判所の廃止と、各村落・街区の自治裁判所の設立、聖職祿の上限額設定、告解懺悔の廃止、などが続きます。

 

 これら要求項目を見ると、農民・平民以上に都市有産市民の要求が反映されていると言えます。とりわけ「ユダヤ人の殲滅」が最初に掲げられていることは、この集団のデマゴギー〔民衆扇動〕的性格をうかがわせます。エンゲルスは、こうした問題にはまったく無頓着です。ユダヤ人は、「当時すでに、今日と同様に、アルザスの農民を高利で搾取していた」と書いて、ジェノサイドを正当化しています。(担保に入れる土地など持たない貧農や平民が、カネを借りられるか ?!)もしかして、お友達のマルクスとかいう人はユダヤ人じゃなかったっけ? なるほどなるほど、資本家のエンゲルスから、いつもカネをせびって贅沢してるよね。どうして刹さないんかな?

 

 ともかく、おみごと!! エンゲルスさまがヒトラー総統の大先輩とは知りまへんでふた。。。

 

 「関税・……」以下も明らかに、商業の繁栄を望む有産市民の要求です。農民裁判所などの自治体裁判所の設立は、これから「農民戦争」時期にかけて、富農・村役人層や都市の親方・商人層がひろく要求している項目です。じっさいに、「村裁判」も行なわれています。(日本の現在の刑事裁判もそうですが、陪審裁判というものは、多かれ少なかれ “魔女狩り” です)

 

 その関連で言うと、この集団全体が、「村八分」的な「大衆による抑圧」の傾向を多分に抱えています。「ブントシュー」秘密結社の集会は、夜間に険しい山の上で行なわれ、異様な儀式とともに、裏切者には過酷なリンチを加えることが誓われました。(pp.49-50)

 

 とはいえ、未然に発覚したため、‥‥

 

 

『多数の徒党加盟者が捕えられて拷問にかけられ、四つ裂きや斬首に処せられ、手や指を切り落とされて国外追放〔領邦外への追放――ギトン註〕されている。スイスへ逃げた者も多かった。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.50.  

 

 

 

 

 

【11】 「ブントシュー」の再起

 

 

 アルザスの「ブントシュー」は鎮圧されましたが、その残党は四方に散って秘密結社を組織し、新たな反乱のタネを播いていきます。

 

 

『ブントシューは〔…〕ひそかにその存在をつづけ、スイス・南ドイツ一帯に散らばった多数の逃亡者は、そのまま密使となった。すなわち、いたるところに同様の圧政があり、同様の一揆への傾向が認められることを見出し、ブントシューを今日の全バーデン地方に広めたのである。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.50.  

 

 

 こうして、「ブントシュー」は 30年間にわたって粘り強く組織を広げました。

 

 1502年、ライン河谷に近いブルッフザール(↑上図)近郊で、「ブントシュー」は 7000人規模の組織を再興していたことが発覚しました。その秘密会員の所在地は、北はマインツから南はバーデンにまで達していました。彼らの蜂起計画は、ブルッフザール市当局を襲って占領し、軍隊を組織して他の諸侯領を征服してゆくというものでした。そして、要求項目として、聖俗の諸侯にも領主にも一切の租税・貢租を支払わないこと、農奴制を廃止すること、教会財産を没収して民衆に分配すること、そして、皇帝以外のいかなる支配者も認めないことを掲げていました。

 

 彼らは、アルザスの「ブントシュー」と同様の秘密集会と誓約、異様な加入儀式(イニシエーション)、および農民靴の旗印を持っていました。

 

 しかし、↑上の要求項目を見ますと、まず、「ユダヤ人排斥」のようなデマゴギー的要素が消えています。関税撤廃などの有産市民的な要求項目もなくなり、農奴制の廃止、農地解放(土地分配)など、農民的な要求に純化していると見ることができます。ただ、エンゲルスはこれを、「民衆のためにする教会財産の没収と、統一ドイツ王国という2要求を、農民が初めて表明したもの」として評価し、のちのミュンツァーの改革構想につながっていくものだとしています。(ズレてないか?)

 

 

『軍隊が集結され、大量逮捕が行なわれた。〔…〕皇帝マクシミリアンは〔…〕残虐きわまる処罰令を発した。そこここに暴動が起こり、武装抵抗が行なわれた。しかし、ばらばらに分散していた反乱農民は、長く持ちこたえることはできなかった。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.50.  

 

 

 とはいえ、今度の「ブントシュー」結社は、秘密がよく保たれていたので、多くのメンバーは摘発されることなく、自分の住地で内密の活動を続けることができたのでした。

 

 上で見た要求項目の純化といい、組織防衛の進歩といい、農民たちは、アルザスでの弾圧の経験から多くを学んでいることがわかるのです。

 

 その後しばらくはまた、一揆は鳴りをひそめ、貴族・聖職者にとっては平穏な時代に戻ったかに見えたのですが、その間に、シュヴァーべン(↑上図)では「貧しいコンラト」という新たな秘密組織が結成され、「シュヴァルツヴァルトでは、ブントシューが孤立した小集団として存続し、」約十年後には、ブルッフザールの残党であるヨス・フリッツという指導者が、「一本一本の糸をつなぎ合わせて、ふたたび一つの大徒党を組織することに成功した」。こうして、1513-15年には、次の革命的高揚期を迎えることになります。

 

 

農民に対する裁判と処刑。手前に、貴族の服装をした裁判官と、引き

立てられる農民、奥に、車裂き刑、絞首刑、斬刑、焚刑などが見える。

ペトラルカ親方の木版画 1519-20年。

 

 

 

【12】 「ブントシュー」――3度目の蜂起

 

 

 1513-15年の蜂起は、アルザスバーデンシュヴァルツヴァルトの再興「ブントシュー」、シュヴァーベンホーエンシュタウフェン山麓を本拠とする「貧しいコンラト」、「1514年春、ハンガリー全土をおおった農民戦争」、オーストリア治下のスロヴェニア農民の反乱、というように、各地に特徴ある形で展開します。


 再興ブントシューから見ていきましょう。ヨス・フリッツは、「兵士上がりの、あらゆる点ですぐれた人物であった。逃亡して以来、ボーデン湖シュヴァルツヴァルトの間を転々と渡り歩き、さいごにはフライブルク〔…〕居を定め、そこで畑の番人をしていた。〔…〕この模範的陰謀家の外交手腕と倦むことを知らぬ忍耐は、騎士、坊主、市民、平民、農民など、あらゆる階層の驚くべく多数の人びとを同盟に引き入れることに成功した。」しかも、それらのメンバーは、密約度の異なるいくつかのグループに分けて、きっちりと組織されていたことも、たしかなようです。そのなかには、「あらゆる姿に変装して国じゅうを歩きまわる腹心の密使」がいたほか、「浮浪者や乞食が下級の密使として使われた。ヨスは、乞食の大親分たちと直接連携して、巨大な全浮浪人口を握っていた。」同盟には、こうした乞食の大親分が 10人以上いて、高額の報酬を受けていました。彼らは、2000グルデンの報酬で、2000人以上の手下を連れて、アルザスサヴェルヌ〔Saverne ドイツ名ツァーベルン Zabern〕大市を占領して蜂起を助ける計画でした。

 

 ※註「グルデン」: 1グルデンは金貨1枚。15世紀ドイツで通用した「ライン・グルデン」金貨は、1419年には 2.76グラムの純金を含んでいた。16世紀になると、「価格革命」で、金の諸商品に対する価値は約半分に暴落する。現在日本での金相場は1グラムあたり 10,000~11,000円。したがって、「価格革命」以前の 16世紀初めの「2000グルデン」は、1億0960万円~1億2144万円。蜂起を手伝う報酬が1億円とは、信じられない話だが、当局に逮捕された叛徒がそう自供している。

 

 「正規の同盟員のあいだでは、宿場から宿場へとつなぐ伝令組織も設けられていた。」ヨスと彼の「密使長」は、たえずあちこちへ馬を駆って、新規加入者のイニシエーションを行なっていました。当局の人相書き付き調書によると、同盟員の「大多数は手工業の職人(Handwerksgesellen)、ほかに、農民、宿屋の主人、若干の貴族、坊主、退職した傭兵」がいました。つまり、これまでよりも「都市平民」の要素が強まっています。

 

 ちなみに、【9】で触れたように、「ブントシュー」の構成員に多かったという「手工業の職人」とは、はたして都市ギルド手工業の傭われ人だろうか? むしろ、都市の統制に対抗する・農村の手工業者ではなかったか? という疑問を私は持っています。

 

 フライブルク近くで開かれた指導者の秘密集会で採択された「14箇条の同盟条項」によると、皇帝以外のいかなる支配者も認めないこと、帝国裁判所の廃止、教会裁判所の権限の制限、利率の制限(最高5%)〔現在日本の利息制限法は最高18%〕、元本額を超える利子取得の禁止、狩猟・漁撈・放牧・伐採の自由、聖職禄の制限、教会財産の没収、「不当な(Unwilling 気に入らない)」租税・関税の廃止、などが要求項目であり、それらを実現するために、フライブルク市を占領して同盟の本拠とし、同盟軍を集結してただちに皇帝と交渉を開始することが決議されています。

 

 前2回の「ブントシュー」と比べると、要求項目も行動計画も、ユートピア色を落として現実化ないし穏健化しています。それとともに、農民裁判のような「村八分」的要素は消え、有産市民的要求が入ってきています。

 

 蜂起は 1513年秋を期していましたが、ヨス・フリッツが行動開始する前に、一部の同盟軍がフライブルクを奇襲しようとして発覚し、フライブルク市参事会〔市政府〕バーデン辺境伯は「ブントシュー」の一斉検挙に踏み切ります。最も怒り狂ったのは、前回の蜂起を経験しているアルザスの帝国政庁で、「非常に多くの者が斬首、車裂き、四つ裂きにされた。」これまでは残党の逃げ場になっていたスイス各州政府も、亡命者の捜索と処刑をはじめました。それでも、「今回も大多数の者は逃れ、ヨス・フリッツもまた逮捕を免れた。」

 

 そればかりでなく、翌 1514年には、スイスのベルン、ルーツェルン等に農民一揆が発生し、「貴族的諸政府と都市貴族を一掃」し、「農民たちは多くの特権を獲得した。」(pp.51-54)

 

 

レムス河谷から見たホーエンシュタウフェン山 ―― 一揆農民の

秘密結社「貧しいコンラト」は、この「レムスの谷」に本拠を置いていた。

 

 

 

【13】 「貧しいコンラト」――はじめて橋頭堡を築く

 

 

 ② 同じ時期に、ライン河上流の「ブントシュー」と並行して、やや下流域(北方)のシュヴァーベン地方に「貧しいコンラト」という徒党組織ができていました。記録によると、この組織は 1503年から存在していました。ブルッフザールでの鎮圧以来「ブントシュー」という名称はあまりにも危険になったので、彼らは新しい名称を採用したのです。

 

 シュヴァーベンは、数年にわたる凶作にみまわれており、これに、ヴュルテンベルク州〔シュヴァーベンの州名〕の諸侯ウルリヒ公爵の圧政が重なり、「これが同盟員の数を増やしていた。」1513年頃までには、組織の存在はほとんど公然のものとなっていました。ウルリヒ公の増税が誘因となって、「1514年の春、一揆は開始された。」

 

 3000人ないし5000人の農民が、ショルンドルフ町の近くまで進軍しましたが、ウルリヒ公は 80名の騎馬隊を率いて駆けつけ、新税の撤回を表明し、その他の要求については州都シュトゥットガルトに領邦議会を召集して審議させると約束し、これによって農民軍はいったん解散します。

 

 しかし、いちど約束して安心させておいてから裏切って鎮圧するのが、諸侯のいつも使う手だ、ということを、これまでの事例から学んでいた「貧しいコンラト」は、6月25日開会と予告された領邦議会より前に、5月28日に同盟大会を開いて、今後の行動を審議します。

 

 ショルンドルフでの “勝利” に意気を上げていた同盟員の間では、積極論が大勢を占め、ただちに各地で扇動を行ない、機会をとらえて蜂起し、一揆を拡大していくことが決議されました。

 

 こうして、たちまち各地で一揆の火の手が上がり、町々はつぎつぎに市壁内の「平民と結んだ農民の手に落ち」、6月半ばには、州の「全土が、公然たる反乱状態にあった。」

 

 農民軍は代表たちをシュトゥットガルトに送り、公式召集日前の 6月18日、高位聖職者が到着しないうちに議会を開かせ、次のような・革命的としか言いようのない決議を上げさせます:

 

 (1) ウルリヒ公爵の3人の顧問官を罷免し処罰する、(2) 代わりに、4人の騎士、4人の市民、4人の農民からなる評議会を公爵に付けて(beigeben)輔弼する、(3) 公爵には、一定額の内廷費だけを認める、(4) 修道院財産を没収して国庫を強化する。――つまり、ほとんど立憲君主制に近い体制が決議されたのです。

 

 これに対して、ウルリヒ公は、反乱の勢力が及ばない南方のテュービンゲンに移動し、ここに高位聖職者と有産市民(都市当局者)を呼び寄せて6月21日から農民・騎士抜きの州議会を開き、シュトゥットガルトでの決議を反古にするとともに、百万グルデン〔約500億円〕にのぼる公爵の負債を議会が肩代わりする決議を上げさせます。また、農民の「反乱と団結に極めて厳しい処罰を科する法規」を制定させました。これが「テュービンゲン協約」です。協約には、公爵側が形式的に農民側に譲歩する条項もありましたが、ウルリヒ公はそれらを一つとして守りませんでした。

 

 ウルリヒ公は、莫大な負債から解放されたことで、他の諸侯や州内貴族の信頼を回復したので、彼らの送ってきた援軍が睨みをきかせるなかで、州全土が「テュービンゲン協約」を受け入れ、ウルリヒ公への臣従宣誓もあらためて行なわれました。

 

 「貧しいコンラト」とその同調者は、本拠「レムスの谷」のまわりに残るだけとなりましたが、「ウルリヒは協約を無視してレムスの谷間を急襲し、そこの町々、村々を掠奪した。1600人の農民が逮捕され、うち 16人は直ちに首を刎ねられ」、残りの者も、長期の投獄や重い罰金に処せられた。(pp.54-56)

 

 しかし、こうした弾圧も、運動全体を見れば、どれだけの効果があったのかわかりません。回を追うごとに、弾圧が繰り返されれば繰り返されるほど、農民結社の立ち直りは早くなっていくようにさえ見えます。

 


『早くも 1516年には、ブントシューと貧しいコンラトの亡命者たちは、大部分の者がシュヴァーベンとライン上流地方に帰り、1517年には、ブントシューはシュヴァルツヴァルトでふたたびさかんに活動していた。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.58.  

 

 

 

オスマン・トルコのヨーロッパ侵攻(15-16世紀)

 


 ハンガリーの農民反乱については、やや複雑な事情があります。当時、ハンガリーを支配していたのは、ポーランド=リトワニアのヤゲロー王家でしたが、1453年に東ローマ帝国を亡ぼしたオスマン・トルコ帝国が東ヨーロッパに進出してきており、ハンガリーもその脅威に晒されていました。そして、1526年モハーチの戦いでハンガリー王(兼ボヘミア王)がオスマン・トルコに敗北して戦死すると、ハンガリーの大部分はオスマン帝国の直轄領となり、以後2世紀近くトルコの支配を受けることとなります。

 

 1514年の農民反乱は、この↑「モハーチの戦い」以前ですが、「トルコ人に対する十字軍が唱導され、いつものように、参加する農奴や隷農に解放が約束された。およそ 6万人が集まった。〔…〕しかし、ハンガリーの騎士や大貴族たちは、彼らの財産である奴僕を奪い取ろうとするこの十字軍を喜ばなかった。」彼らは、農民部隊を追いかけて行って、「自分の農奴を、力づくで、ひどい目に会わせながら連れ戻した。このことが十字軍部隊に知れわたると、抑圧された農民の怒りが爆発した。」

 

 十字軍のマジャール人指揮官ドージャ・ジェルジ〔ハンガリー人は姓・名の順〕も、他の十字軍唱導者たちも、これに同調し、「裏切り貴族に対して憤激した。」こうして、十字軍全体が「革命軍となり」、きびすを返して、貴族たちの居城を襲って次々に陥落させ、貴族を人民裁判にかけていったのです。最終的には貴族の廃止と共和制の樹立、万民平等を掲げる農民軍と、貴族・ブダペスト市民の連合軍との内戦になり、後者が勝利して農奴制を復活しました。(pp.56-57)

 


 オーストリア南部のシュタイアーマルク、ケルンテン等の一揆も、1513,14,15年に連続して起きています。この地には、ドイツ人農民とスロヴェニア人農民が混在していましたが、チェコと違って民族意識は希薄だったようです。「スロヴェニア人農民はドイツ人農民とともに、スタラ・プラーヴァ(古き法)の戦旗をかかげて立ち上がった。〔…〕各地の城や修道院が破壊され、捕えられた貴族は、農民の盟約者の手で裁かれ、首を刎ねられた。」(p.58)

 

 「スタラ・プラーヴァ」というスラヴ語のスローガンを掲げたのを見ると、この一揆は、スロヴェニア農民を主体とする運動だったと考えられます。

 

 

 

 

 

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