ケルン大聖堂。ゴシック建築として著名な現在の建物は、
13世紀に着工されたが、16世紀の宗教改革で中断、
その後 19世紀に工事再開され、1880年に完成式典。
しかしその後も修築が続いており、現在は、第2次大戦の
空襲による破損修築箇所を、空襲前の形にもどすための
1990年代からの補修工事が行なわれている。なお、
現在の聖堂は、カトリック/プロテスタントどちら
にも専属しておらず、双方の協力で維持されている。
【4】 16世紀初めの諸身分・諸階層――
聖職者と法律家のハレンチな錬金術
貴族と並んで封建社会を支配していた階級は、キリスト教「聖職者」ですが、「聖職者」の内部は、貴族以上に、上から下まで多様な階層に分かれていました。宗教改革以前にあっては、その全部がカトリックです。貴族と違って、(表向き)子孫を作ることが許されない聖職者には、世襲はなかったので、そのぶん、貴族よりも下層の民衆からも「聖職者」となる者がいました。高位聖職者は、諸侯や上層貴族の子弟から供給され、末位の僧は都市の市民・平民を給源としていました。両者のあいだには、教会の厳格なヒエラルヒー(位階制)が貫いていたのです。
封建時代の末期になると、「聖職者」と並ぶ新たな知識階層として「法律家」が増えてきました。彼らは帝国と諸侯の枢要な官職を独占して、官界の頂点から聖職者を駆逐する勢いでしたが、彼らもまた金満化するにつれて「ますます怠惰に、ますます無知になり、」聖職者と同様の「無用の存在」になっていきました。
高位聖職者には、大司教、司教、修道院長などがあり、彼らの多くは自ら諸侯であったり、諸侯に次ぐ大領地を支配する領主でした。マインツ、ケルン、トリーアの大司教は、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)を選挙する権限を持つ「7選帝侯」のうちの3人でした。
彼らは、一般の貴族諸侯より「もっと破廉恥なやり方で、残忍な暴力のほかにあらゆる宗教上の奸策をもちいて」支配下の人々を搾取した。拷問、破門、贖罪拒否の脅迫と、告解聴聞を利用した「悪だくみを動員して、臣民から最後の1ペニヒ〔ドイツの最小の貨幣単位。1銭,1文〕まで奪い取った。」通常の賃租のほかに「十分の一税」を徴収するだけではまだ足らず、「霊験あらたかな聖者像」のほか、「イエス・キリストの遺骸をくるんでいた布」などの聖遺物を製造し、霊場・巡礼路網を組織し、「免罪符」を販売し、それらは「長いあいだ非常な成功を収めたのであった。」
「たえず増強された・修道僧という憲兵どもは、民衆のみならず貴族の坊主憎悪の的になっていた。〔…〕肥満した司教・修道院長・配下の修道僧の大群の放埒な贅沢三昧は、貴族の嫉妬心をかきたて、〔…〕贅沢の費用を負担しなければならぬ民衆をますます憤らせた。」
ピーテル・ブリューゲル(父)『守銭奴』,1568年作。
修道僧から財布を奪う人。
『聖職者の平民的分派は、農村や都市の説教僧〔末端の教区教会の司祭など――ギトン註〕から成っていた。彼らは教会の封建的ヒエラルヒーの外にあり、教会の富から何の分け前にも与かっていなかった。彼らの聖職祿は、たいていごく乏しいものであった。出身が市民か平民であったから、彼らは大衆の生活状態をよく知っており、〔…〕市民や平民の考えに共鳴しうる能力を失っていなかった。〔…〕
彼らのあいだからは、運動の理論家やイデオローグが輩出し、平民や農民の代表者である・それらの人びとには、処刑台の露と消えた者も多かった。』
フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,pp.24-25.
「聖職者」の頂点にいるのは、言うまでもなく「ローマ法王」です。法王は、ドイツ人でもドイツの住人でもありませんが、ドイツ全域から集められた「一般教会税」を取得していました(一般人民の払う「十分の一税」は、その一部か?)。「ドイツほど、この教会税が良心的に、つまり厳格に取り立てられた国はなかった。」ローマ法王庁で、より多くのカネが必要となるにつれ、「聖遺物販売、赦罪金、聖年赦罪金などが考え出された。巨額のカネが、このようにして年々ドイツからローマに出て行った。」
このことに最も憤懣を感じていたのは、ドイツ国民のなかでも特に「貴族(騎士)」でした。というのは、宗教改革以前の当時に、「ドイツ人」という国民感情を抱いていたのは彼らだったからです。彼らに比べると、皇帝とその側近も、聖職者も、農民も、「ドイツ人」という民族感情は希薄だった※のです。一般教会税や赦罪金の「重圧は、〔…〕当時もっとも国民的な階級であった貴族の感情を刺戟したのであった。」(p.25)
註※「ドイツ人」: そもそも「ドイツ(deutsch,teutsch)」という言葉が、ラテン語を解する高級な人びとに対して、「ふつうの人、卑俗な人々」を指す言葉でした。出自がゲルマンかローマか、住んでいる場所がアルプスの北か南か,といったことはあまり意識されなかったのです。
【5】 16世紀初めの諸身分・諸階層
――都市貴族と市民と貧民
都市の市民は、「はっきりと区別された3つの分派」に分かれていました。
『都市社会の最上部にいたのは都市貴族層(die patrizischen Geschlechter)、いわゆる「名門」であった。彼らは最も富んだ家柄で〔…〕、市参事会〔Rat 市政府:中世都市の統治機関――ギトン註〕や都市のあらゆる役職を独占していた。〔…〕彼らは、その富によって、また皇帝に承認された〔…〕貴族的地位によって、市民や、都市に従属する農民を、あらゆる方法で搾取した。
高利で穀物や貨幣を貸付け、各種の独占を行ない、都市の森林や牧草地の共同利用権を、市民から次々に奪い取って、これを直接自分たちの個人的利益に利用し、ほしいままに通行税、橋銭、入市税その他の諸税を課し、ギルド特権、親方権、市民権を販売し、裁判を売った。〔…〕集められた都市の収入は、まったく勝手気ままに処理された。市の出納簿の記入は、〔…〕これ以上は不可能なほどいい加減で、横領や現金の不足は日常茶飯事だった。』
フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,pp.25-26.
それというのも、「都市貴族」は、数も少なく、「四方八方から特権で護られ、利害関係と血縁関係で堅く結束」していたから、都市当局の豊かな収入を独り占めするのは、この閉鎖的集団にとってはきわめて容易なことだったのです。
銭湯で大便をするティル・オイレンシュピーゲル(1515年刊本の挿絵)
ティル・オイレンシュピーゲルは、都市の親方・司祭・上級市民を
さんざんに誑かして笑い飛ばす都市平民の狂言的人物の代表格だった。
こうした「都市貴族」の勝手気ままな市政独占は、中・下層の市民の反抗を呼び起こさなかったわけではありません。多くの都市で、市民たちは立ち上がり、市政に対する監督権を回復しました。ところが、市民は、彼ら内部でのギルド(ツンフト)間の争いのせいで統一がとれず、これに対して「都市貴族」のほうは他の都市と上層部どうし連携して対処したので、「都市貴族である参事会員たちは、あるいは策略で、あるいは暴力を用いて、たちまちもとの独裁権を事実上回復してしまった。」こうして、この 16世紀初めには、どこの都市でも、市参事会を独占する都市貴族と、反対派市民との争いが激しくなっていたのです(ツンフト闘争)。
都市貴族に対する市民の反対派には、2つの分派がありました。この2派は、「農民戦争のさいに、はっきりと姿を現わ」します。すなわち、「市民的反対派〔die bürgerliche Opposition ブルジョワ的反対派〕」と「平民的反対派〔die plebejische Opposition〕」です。
『市民的反対派は、今日のわが国の自由主義者の先輩で、かなり富裕な中流の市民と、〔…〕一部の小市民をふくんでいた。彼らの要求はもっぱら、都市の基本法に基礎をおいたものであった。彼らの要求したものは、〔…〕市政に対する監督権と立法権への関与であり、さらには都市貴族の親族優遇と 2,3の少数家族による寡頭政治〔…〕を制限することであった。この党派は、〔…〕すべての正規の市民会議やギルドで大多数を占めていた。〔…〕
16世紀の運動に際して、この「穏健な」「合法的な」「裕福な」そして「知的な」反対派が演じた役割』は、都市貴族や諸侯に対して妥協的なものであり、都市平民や農民の運動を、かえって抑えつけて潰そうとするものであった。
エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.26.
とはいえ、「市民的反対派」は、聖職者(つまりカトリック)に対しては極めて厳しい態度をとった。「坊主ども(die Pfaffen)の怠惰な贅沢三昧の生活と不品行が、彼らをひどく憤慨させたからである。彼らは、この品位高き男たちのスキャンダラスな行状を取り締まるよう求め、坊主どもの独自裁判権と租税免除の廃止、そしてそもそも修道僧の数を制限することを要求した。」
『平民的反対派は、零落した市民と、市民権を与えられていない都市の住民大衆から成っていた。手工業職人、日傭労働者、そして無数の〔…〕端緒的ルンペンプロレタリアートがそれである。
一般にルンペンプロレタリアートは、〔…〕いかなる社会発展の段階にも現れる現象なのである。』しかし、『16世紀の前半ほど浮浪者〔Vagabunden さすらい人,宿なし =ルンペンプロレタリア――ギトン註〕の数が多かったことはない。』
エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.27.
なぜ浮浪者が多かったかというと、当時、封建制の崩壊によって、王侯貴族の従者・食客として暮らしていた人びとが大量に吐き出され、他方で、農奴・隷農の身分的束縛から逃れようする人びとが都市に集まってきた。ところが、当時まだ「あらゆる生業部門・生活範囲が無数の特権で固められていた」ので、彼らが入り込む余地はなかったのです。近代社会のような・従業員やアルバイトを募集する工場などというものはなく、親方のもとで徒弟になるには確実な身元・縁故が必要でした。そこで‥‥
『これら浮浪者の一部は、戦争の時に軍隊に入り、他の一部は国じゅうを乞食して歩き、残りの第3の部分は、都市で日傭労働その他の・ギルド化されていない仕事によってぎりぎりの暮らしを立てていた。
この3つの群れは、それぞれ農民戦争で、ある役割を演じた。』
エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.27.
第1の群れは、農民たちを鎮圧した諸侯の軍隊を、傭兵となって助け、第2の群れは、農民軍に紛れ込んで糊口を凌いだが、彼らの存在は農民たちの士気を高めるどころか著しく低下させ、その行動を堕落させたのです。堕落の詳細を、私たちは、のちほど見ることになるでしょう。
しかし、第3の群れについて言うと、都市に滞留していた・この人びと「の大部分は、当時なお健全な農民気質の精髄を保持しており、」都市内党派の闘いで、一定の役割を果たしています。
ですが、この・都市の「平民的反対派」を全体として見ると、彼らはきわめて雑多な要素からなっており、さまざまな出自と嗜好と要求をもつ人びとの寄合世帯で、いきおいその党派的傾向も行動も、いちじるしく不安定なものとならざるをえませんでした。
しかし、「平民的反対派」というまとまりが、「政治闘争に党派として現れた」のは、この「農民戦争」が最初だったのです。そして、彼らの要求は多くの場合に、農民の要求に左右されています。あるいは、時には逆に都市の「市民 ブルジョワ 的反対派」に従属して、農村での都市の特権・独占の維持を求めるといった・農民を抑圧する反動的な役割に加担しているのです。
そういうわけで、16世紀にはじめて登場した時点での「平民的反対派」を、全体として見れば、独自の利害の自覚なく、その時々で、富裕市民と農民のあいだで付和雷同する存在だったということになります。のちの近代的プロレタリアートないし労働者階級のようなものではなかったのです。エンゲルスは、そう評価しています。
もっとも、地方によって例外はあります。
『ミュンツァーの直接の影響下にあったチューリンゲンと、彼の弟子たちの影響下にあった他のいくつかの場所では、都市の平民的分派が一般の〔ギトン註――農民戦争の〕嵐に深く巻き込まれ、一時は彼らのなかの萌芽的なプロレタリア的要素が、この運動の他のあらゆる分派に対して優位を占めたほどであった。
農民戦争全体の頂点をなす・このエピソードは、〔…〕自明のことながら、たちまちのうちに夢と消えた』
エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.28.
【6】 16世紀初めの諸身分・諸階層
――農民:「怨みつらみ」の一枚岩?
「平民(Plebejer)」をのぞく『これらすべての階級の下に、〔…〕農民がいた。農民の上には社会の全階層が、諸侯、役人、貴族、坊主、都市貴族、および市民(Bürger)が、重くのしかかっていた。農民は、属する主人が〔…〕誰であろうと、どこであろうと、品物のように、駄獣のように、否もっとひどく扱われた。〔…〕農民はその時間の大部分を領主の土地〔領主直営地。収穫は全部領主のものになる。――ギトン註〕で働かねばならなかった。わずかの自由な時間に〔ギトン註――自分の割当て地で〕稼いだものからは、十分の一税、賃租、地代、御用金(Bede)、路用金(戦役税)、領邦税および帝国税を支払わねばならなかった。彼らは、領主に〔ギトン註――結婚税,死亡税を〕支払うことなしには結婚することも死ぬこともできなかった。
農民の共同牧草地や森林は、ほとんどの地方で、領主に力ずくで奪い取られていた。領主は、〔…〕農民の妻や娘を恣に扱った。初夜権を持っていた。気の向くままに農民を牢にぶちこんだが、そこでは〔…〕必ず拷問が待っていた。殴り刹すも、首を刎ねるも、領主の思いのままであった。』
エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,pp.28-29.
貴族から都市民まで、他の階級はみな・さまざまな階層に分裂していたと述べられたのに、エンゲルスは農民については、ひとつのまとまりとして述べていて、階層分化については触れてもいません。これは、エンゲルスの叙述の・たいへん特徴的な部分です。
じっさいの事実としては、当時の農民には富農も、貧農(小屋住み農)もいました。村役人のような富農層が「農民戦争」で果たした役割は、けっして小さなものではありませんでした。これらのことは、エンゲルス以後の「農民戦争研究」で明らかになってきました。エンゲルスの時代には、まだよく解っていなかったか、注目されていなかったので、エンゲルスも、当時の他の歴史家と同じ見方をしていたのかもしれません。
しかし、身分について言えば、中世のドイツ農民には、「農奴(Leibeigener)」「隷農(Höriger)」の2種類がありました〔日本語訳だと判りにくいのですが、従属度は 農奴>隷農 なのです。隷農は、小作人に近い・比較的自由な存在で、イングランドの custom holder にあたる〕。この区別は古くから知られていましたが、エンゲルスは、両者の社会的地位は実際にはほとんど変わらなかった、と叙述しているのです。〔農奴・隷農以外に、「国人」すなわち領主に従属しない独立農民も、中世をつうじて一定割合存在したことが、現在では明らかになっていますが、エンゲルスは知らなかったようです〕。つまり、どうも、エンゲルスは、研究の実証的水準に制約されていたという以上に、自らの歴史構想として、「農民は、他の全階級から圧迫を受ける・ひとまとまりの人びとだった」と規定したいようなのです。農民内部の差別や搾取は、ないものとして捨象するということです。
このことは、彼の「農民戦争」に対する見方と関わっています。エンゲルスとしては、ざっくり言えば、「農民」という一体性のある被抑圧者集団が、中世以来のさまざまな異端教派からミュンツァーに至る「千年王国」運動・にインスピレーションを受けて、ユートピア的な平等社会をめざして立ち上がる――という構図を描こうとしているのだと思います。柄谷行人氏が賞賛するように、それは歴史の流れの重要な一面を鋭く剔抉しているわけで、一面的だからだめだ、というような否定的な見方をすべきではありません。
このようなエンゲルスの史観は、ニーチェに言わせれば「ルサンチマンだ」ということになるのでしょう。「ルサンチマン」とは、適切な日本語に置きかえると「怨みつらみ」です。国じゅうの全階級から・とことん虐げられた「怨みつらみ」が「農民戦争」となって爆発する‥‥
「公課の支払い」――農民が役人に、金貨と山羊・アヒルを貢いでいる。
ただ、エンゲルスは、自分の史観ですべてを裁断してしまおうとはしません。たとえ自分の史観と矛盾しようとも、事実には、それなりの敬意を払っています。それは、のちの公式教条マルクス主義者と大きく異なる点です(事実を大切にする点では、マルクスもエンゲルスに劣りません)。16世紀農民の「一体性」について言えば、エンゲルスは、農民は上下に階層分化していない代わりに、狭い地域ごとに孤立していたので、農民軍として大きな動きに出ることを、独自にはなしえなかった。彼らが政治勢力としてまとまるためには、「千年王国」運動による結社的つながりと、ユートピア的イデオロギーが必要だったと考えているのです:
『農民は、恐るべき圧迫に歯ぎしりしながらも、容易に蜂起することはできなかった。彼らの分散は、およそ共同一致ということを著しく困難にしていた。代々受け継がれてきた永年の隷従の習慣、多くの地方で武器をとる習慣がなくなっていたこと、領主の人がら次第で搾取のひどさにも強弱があったこと、これらは農民をおとなしくさせておくに力があった。したがって、地方的な農民一揆は中世に多数見出されるが、〔…〕全般的、国民的な農民の蜂起は、「農民戦争」以前にはまったく見られない。
農民は、諸侯、貴族および都市の組織的な力がたがいに結束して農民に対抗しているかぎり、自分たちだけで革命を起こすことはできなかった。他の身分と同盟してのみ、勝利のチャンスをつかめる状況であったが;しかし、どうして、他のどの身分からも同じだけ搾取されていた農民が、どれかの身分と同盟することなどできようか?』
エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.29.
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