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「アダムが耕し、イヴが紡いだ時、誰が領主だったか?」

ウィリアム・モリス『ジョン・ボールの夢』(1888) 挿絵

 

 

 

 

 

 

 

 

【7】 中世のキリスト教異端派――

ワルド派,アルビジョワ派,フスとウィクリフ

 


 「ドイツ農民戦争」は、一面において宗教戦争です。現体制のカトリック教会に向けて突き上げられたルターらの異議申し立てが、農民たちの蜂起に火をつけたと言ってよい。そして、反乱農民は、ミュンツァーをはじめとする宗教指導者に勇気づけられ、「千年王国」運動の秘密結社をきづなとして結集し、具体的要求としては、宗教改革と並んで、村落自治、租税・貢租の撤廃、人身の自由、身分制・農奴制の緩和ないし廃止といった政治的・経済的要求を掲げたのです。

 

 したがって、「農民戦争」の前史は、中世以来の「異端派」宗教運動にさかのぼって見ておく必要があります。

 

 エンゲルスは、中世以来の「異端派」運動を、3種類に区分しています。

 

 ① 第1種の「異端派」は、「押し迫ってくる封建制に対して、家父長制のアルプス牧人が示した反応の表現であり」、ワルド派がそれにあたります。「ワルド派の家父長制的異端は、スイス人の反乱とまったく同じように、形式的にも内容的にも歴史の流れを遮断しようとする反動的試みであり、単なる地方的意義のものであって、ここでは脇においてよい。」(p.32)

 

 「ワルド派」は、12世紀に南仏リヨンワルドがはじめた・清貧と禁欲生活を旨とする宗派で、その精神は、アッシジのフランチェスコ(異端とはされていない)に近いものです。ところが、ローマ・カトリック教会の統制を受けずに、街角で自由に説教を行なったために「異端」と宣告されました。「ワルド派」は弾圧を受けると地下に潜行し、秘密結社としてアルプス、北イタリア、オーストリアからチェコにまで広がりました。しかし、13世紀には、法王の呼びかけで「アルビジョワ十字軍」が掃討殲滅戦を行なうなど、徹底した弾圧が繰り返されたので、「宗教改革」が始まった 16世紀には、アルプスの谷間に細々と生き残っている状態でした。彼らは、スイスの改革派教会(プロテスタント)に合流しています。

 

 エンゲルスは、「社会発展史」(唯物史観)の見地から、「ワルド派」は、封建制以前の原始的「家父長制」――日本史の古代「首長制」に近いものか?――に基づく「反動的」な勢力だと決めつけていますが、この規定は、今日の研究水準から見れば明らかな誤りです。

 

 ところで、エンゲルスはこのあと、異端派の指導者や宗派の名前を、説明なしでどんどん出してきます。ヨーロッパの人には、それらは常識なのでしょう。日本で、空海や日蓮をいちいち説明しないのと同じですね。なので、かんたんな説明を加えていくことにします。

 

  第2種「異端派」は、都市市民の「異端」で、「封建制度の枠内におさまらないほど成長した都市が封建制度に対しておこなった反抗の表現であり」、カタリ派(アルビ派,アルビジョワ派)、ブレシアのアルノルトなどがあります。イギリスのウィクリフとチェコのフスも、ここに入りますが、彼らの信徒の一部は、より過激化して、↓の重要部分を形成します。

 

 「カタリ派」は、10世紀に南仏に現れ、アルビ市・トゥールーズ市など南仏~北伊諸都市に広まった「異端」信仰で、小アジア・ギリシャ方面から交易路を経て伝えられた東方「グノーシス主義」の影響を受けた教義を持っていたようです。近代以前に絶滅しており文献も乏しいため、その教義を知ることはできませんが、ローマ・カトリック教会とは異なるキリスト教宗派であったようです。「三位一体説」を否定し、旧約聖書を聖典と認めず、神が創造した精神と、悪魔が創造した肉体・物質の二元対立を重視、また、平等主義を強調して、女性聖職者に男性聖職者と同等の地位を認めました。13世紀には、法王庁とフランス王が協定した「アルビジョワ十字軍」によって討伐され、多くの指導者が処刑され、トゥールーズ伯は、フランス王とカトリック信仰への服従を宣言しました。

 

 

カタリ派の追放。カルカソンヌ市,ラングドック地方。1209年画。 

 

 

 「ブレシアのアルノルト」は、12世紀・北イタリアの宗教改革者で、パリに留学してアベラールの講義に触発され、北伊の故郷ブレシアに戻って、聖職者が世俗権力を持つことを否定しました。そのため、法王庁から睨まれて各地で、行く先々で追放を受けます。ところが 1145年、市民が自治を求めて動乱中のローマに突然現れ、市民側の指導者となって法王庁の世俗権力を否定し、古代共和制ローマの元老院統治を復活させました。法王庁では、神聖ローマ皇帝の支援を受けたハドリアヌス4世が法王に即位し、アルノルトは皇帝軍に捕えられて火刑に処されました。

 


『今日ブルジョワジーが安上がりの政府を要求するように、中世の市民はまず安上がりの教会を要求した。市民的異端は、〔…〕原始キリスト教の簡素な教会制度の復活と、排他的な聖職者身分の廃止を要求した。〔…〕都市は〔…〕それ自身すでに共和国であったが、市民階級の支配の正常な形態は共和制だということを、法王権に対する攻撃を通じてはじめて一般的な形で表明した。

 

 南フランスの場合もイギリスやボヘミア〔チェコ――ギトン註〕の場合も、〔…〕下級貴族の大部分が、坊主どもに対する闘争や異端説で都市に味方しているのが見られる』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,pp.32-33.  

 

 

 

【8】 ワットタイラーの乱,フス戦争

 


  「農民一揆の直接的な表現」となって現れた「異端派」が、第3の種別です。ジョン・ウィクリフの教えを受けた聖職者ジョン・ボールを思想的指導者とするイギリスの「ワット・タイラーの乱」。チェコのフス教徒の一派であるターボル派。ガイスラー派。ロラード派など、各地で起こった異端的信仰をもつ一揆ないし結社があります。この異端派は、「農民と平民の要求の直接の表現であり、ほとんどつねに一揆につながって」いました。

 


『坊主ども、法王権、原始キリスト教的教会制度の復活にかんしては、彼らは市民的異端と、あらゆる要求をともにしていた。が、さらに先まで、とどまるところを知らずに進んだ。農民・平民の異端派は、信徒共同体のメンバーのあいだで、原始キリスト教的平等関係を打ち立てようとしたが、それを、一般市民のあいだ(die bürgerliche Welt)でも規範として認めるよう要求した。彼らは、「神の子としての平等」から、市民的平等を、場合によっては財産の平等という帰結さえ抽き出した。貴族を農民と、都市貴族や特権市民を平民と同等に扱うこと、賦役・地代・租税・特権の廃止、および少なくとも特別にはなはだしい財産の格差を無くすこと、それらは、多かれ少なかれ決然と提起された要求であった。それらは、原始キリスト教教義の必然的帰結として主張されたのであった。

 

 これらの農民的・平民的異端は、〔…〕14,5世紀には、明確に区別された党派意識となるまでに発展し、通常は、市民的異端とならんで、完全に独立して登場するようになる。イギリスのウィクリフ運動にならんで起きたワットタイラー一揆の説教者ジョン・ボールがそうであり、ボヘミアのカリクス派〔フス信徒のなかの穏健派――ギトン註〕にならんで現れたターボル派がそうであった。


 ターボル派にあっては、神政政治の粉飾のもとに早くも共和主義的傾向さえ現れた。この傾向は、15世紀末・16世紀初頭に、ドイツの平民の代表者たちによってさらに育まれてゆくことになる。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,pp.33-34.  

 

 

中世イングランドの若い農夫    

 


 ジョン・ウィクリフは、14世紀イングランドの神学者で、清貧であるべき教会が富を蓄え、特権を振るっている現状を批判し、王権の力で教会財産を没収し、教会税を廃止することを主張しました。神以外の者への礼拝を否定し、「免罪符」を斥け、聖書を翻訳した点でも、ルターの先駆者と言えます。

 

 ウィクリフは、「ロラード派」と呼ばれる巡回説教団を組織し、福音伝道を行ないました。

 

 ですから、ウィクリフと「ロラード派」は、前節の市民的異端派のひとつで、穏健な改革思想を特徴とする運動――それでも弾圧された――なのです。ところが、エンゲルスは、ロラード派をなぜか、「神秘主義を奉ずる狂信的な教派」としてに分類しています。何か誤解があるのかもしれません。

 

 しかし、ジョン・ボールは、ウィクリフの改革思想に心酔した狂信的な神父で、↑上の引用にあるように過激な平等主義を主張して「ワットタイラーの乱」の精神的指導者となりました。こちらは明らかにです。

 

 イングランドで、穏健なウィクリフ・ロラード派に対して、過激化したジョン・ボールとワット・タイラーがいたように、チェコでは、神学者ヤン・フスの改革思想を受け継ぐフス派のなかから、急進的な「ターボル派」が出現します。

 

 当時、ボヘミア(チェコ)は、神聖ローマ帝国の大領邦のひとつで、14世紀にはボヘミア王カレル1世が神聖ローマ皇帝カール4世になっているほどです。しかし、住民の大部分は南スラヴ系のチェコ人で、優越的なドイツ人と、商人の多いユダヤ人がいました。プラハという都市は、もともとユダヤ人の建設した町で、ユダヤ人の旧市街のまわりにチェコ人が集まって住み、さらにルクセンブルク家などのドイツ人貴族が支配者として君臨して成立しています。

 

 そういう事情から、フスの宗教改革は、一面ではスラヴ人の自己主張の側面があるのです(エンゲルスは民族問題を完全に無視していますが)。フスはチェコ語聖書で典礼を行ないましたが、これがドイツ人の皇帝をもっとも怒らせたと言われています。フスは宗教裁判で断罪されたうえ火刑に処せられますが、彼の信徒はチェコとポーランドに同じくらい居て、頑強に抵抗を続けました。神聖ローマ皇帝とローマ法王は、何度も十字軍を組織してボヘミアに差し向けますが、15世紀前半の数次にわたる「フス戦争」は、ことごとくフス派の勝利に帰したのです。

 

 この「フス戦争」のなかで、「ターボル派」は軍事拠点としてターボル市を建設し、農民を巧みに訓練して、火器と装甲馬車(ターボル)を使った戦術でドイツの騎士団を打ち負かし、勝利を導いています。

 

 しかし、皇帝・法王側を撃退して優勢になると、フス派のあいだで穏健派と急進派(ターボル派)の争いが起き、穏健派がターボル派を皆刹しにして(1434年)皇帝と和解し、皇帝をボヘミア王として承認、カトリック教会に復帰します(1436年)。ルターの宗教改革が開始される 80年前のことでした。

 

 「ターボル派」は日本ではほとんど知られていませんが、チェコと周辺国では有名です。スメタナ作曲・連作交響詩『わが祖国』の第5曲「ターボル」↓は、このターボルの戦いを描いています。(3:49 から聴いてみてください)

 

 

 

 

 以上のほか、神秘主義的な狂信派として「ガイスラー派」があります。いわゆる「鞭打ち苦行者」です。加入者は、主に平民・下層階級でした。エンゲルスは、これら狂信派も、「弾圧の時代に革命的伝統を守り伝えた。」として評価しています。

 


『当時、平民は、公的に存立する社会の全き外にある唯一の階級であった。彼らは、封建的なきづなの外部、かつ市民的きづなの外部にいた。彼らには特権も財産も無かった。〔…〕彼らの生活条件は、現存の諸制度とは直接なんの関係もなく、それら諸制度から完全に無視されていた。

 

 彼らは、封建的、ギルド市民的社会の解体の生きた徴候であったし、同時に近代市民社会の最初の先駆者であった。

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.34.  

 


 こうした平民の社会的存在形態が、彼らが、原始キリスト教的な完全平等社会を地上にもたらそうとする・過激な異端思想に惹きつけられた理由を説明してくれます。既存の支配体制および身分秩序から何の恩恵も受けず、むしろそれらから圧迫のみを被っている彼らにとっては、いっさいの制度は無いほうがよかったからです。彼らは、封建制や都市貴族の特権と闘うだけでは足りなかったのです。「初期キリスト教の千年王国の狂信〔まもなく「最後の審判」があるという信仰――ギトン註〕は、これに格好の糸口を与えた。」

 

 

『しかし、それと同時に、現在ばかりでなく未来をも乗り越える〔まだ未来のものである資本主義を超えて、一気に共産主義に行く――ギトン註〕というのは、ただ強引で空想的というほかはなく、それを実際に適用しようとすると、最初の一歩から、当時の状態がそれしか許さない・狭い限界内に退かざるをえなかった。

 

 私有財産に対する攻撃、財産共有の要求は、結局おそまつな慈善組織を生みだして終った。漠然としたキリスト教的平等は、せいぜい、市民的な「法の前の平等」に落ち着くのがせいいっぱいだった。あらゆる “おかみ”(Obrigkeit)の廃止は、結局のところ、民衆が選出する共和制政府〔市参事会――ギトン註〕の樹立に化けてしまった。空想では、共産主義まで行ってしまったが、じっさいには近代市民 ブルジョワ 的諸関係を先取りすることとなったのだ。

 

 このようにして、のちの歴史の歩みを強引に先取りしたわけだが、それは平民的分派の生活状態から十分に説明できるものであった。この先取りは、まずドイツで、トマス・ミュンツァーとその一派のもとで見出される。ターボル派にもたしかに、ある種の千年王国的財産共有制が見られはしたが、〔…〕この共産主義の最初のひびきは、ミュンツァーの場合にはじめて現実の社会集団の志向の表現となっているのであり、あるていど明確に定式化されているのである。

 

 彼以後それは、大きな民衆動乱のたびに繰り返し現れ、ついには徐々に近代プロレタリア運動と合流するに至るのである。

 

 それはちょうど、中世に自由農民たち〔↑「ワルド派」などの前封建的社会構成の人びと――ギトン註〕が、自分らをますます包摂しようとする封建支配に対して行なった闘争が、封建支配の完全な打破をめざす農奴・隷農の闘争と合流するのと同じことであった。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,pp.34-35.  

 

 

 

 

 

 ↑さいごの段落の指摘は、注目に価します。エンゲルスは 32ページでは、「ワルド派」などの独立自由農民の異端派について、「家父長制のアルプス牧人」が、より進んだ制度である封建制に対して示した反応であり、「歴史の流れに逆らう反動的試み」にすぎない。‥として斬り捨てていました。

 

 しかし、ここでは、封建的支配に捉えられまいとする・自由農民の戦いを、肯定的に評価しています。さきほどとは考え方が変っていると言わなければなりません。さきほどの斬り捨ては、公式的「唯物史観」・悪しき「進歩史観」にとらわれていたためであり、ここでようやくエンゲルスは、「唯物史観」の通弊を乗り越えようとしている――と言うことができます。

 

 

 

 

 

 

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