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ヘルマン・アイヒラー『炎上する居城の下で農民たちに

辱めを受けるヘルフェンシュタイン伯爵』,1867年作

 

 

 

 

 

 


 

【1】 エンゲルスとドイツ農民戦争

 


 1848年初め、フランスで起きた恐慌をきっかけに、革命と打ち壊しの波がまたたくまにヨーロッパ各国を席巻しました。フランス「二月革命」と、ドイツその他の国々での「三月革命」です。

 

 ドイツでは、フランクフルトに「国民議会」が設立され、ウィーンでは、ウィーン会議(1814年)を主導した外交官・宰相メッテルニヒが失脚してロンドンに亡命。市民革命とナポレオンを制圧した「ウィーン体制」は、ここに終焉しました。

 

 この時、エンゲルスはドイツに帰国して、ブルジョワジーの側で武装闘争に加わるのですが、プロイセン軍に敗北し、スイスに亡命します。ドイツ「三月革命」全体も、プロイセン王とオーストリア皇帝による鎮圧を受けて敗北し、以後、ドイツのブルジョワジーは、王政のくびきにつながれた状態で、プロイセンを中心とする統一と近代化の道を歩むこととなります。

 

 「ドイツ農民戦争」は、この革命敗北の失意の中でエンゲルスが 1850年に書き上げた歴史論文です。当然のことながら、彼の脳裏にあったのは、16世紀の「農民戦争」以上に、1848-49年のドイツ革命の敗因如何ということでした。執筆の動機について、エンゲルスは、初版冒頭の短い序文で、↓つぎのように書いています。



『ドイツの民衆もまた革命の伝統を持っている。ドイツが、他の国々の最もすぐれた革命家たちに比肩しうる人物を生み出した時代、ドイツの民衆が〔…〕根気と精力を示した時代、またドイツの農民や平民が、往々にして彼らの子孫を尻込みさせるような理念と計画を抱いていた時代、そのような時代があったのである。

 

 〔…〕今こそ、大農民戦争の不細工ではあるが力強く粘り強い姿を、ドイツ民衆の前に再現すべき時である。〔…〕農民戦争の際に見られたような・たくましい破壊行為が、近年の運動においてはほんの処々でしか〔…〕成功しなかったとすれば、〔…〕それは現代の反乱の名誉には決してならないのである。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,p.19.  



 つまり、エンゲルスは、19世紀の市民革命が不成功に終った失意のなかで、300年前の宗教改革時代の戦乱のうちに「民衆革命の伝統」を探ろうとしたのです。とりわけ彼の関心を引いたのは、16世紀の「農民や平民がいだいていた理念と計画」であったことが、この短い文からわかります。「彼らの子孫を尻込みさせるような理念と計画」とは何か? それこそは「千年王国思想」であり、法王も皇帝も諸侯も貴族もいない・完全な平等社会を地上にもたらそうとする過激な革命思想だったのです。

 

 この論文を書いた時のエンゲルスは、公式的な共産主義や「科学的社会主義」をはるかに踏み越えて、アナーキスト的なユートピア革命思想に一時的に大きく接近していたことがわかります。

 

 

ウェルナー・テュプケ:「農民戦争パノラマ画」部分。

中央の黒服: トマス・ミュンツァー



『近年になって、私が興味をもつようになったのは、〔…〕エンゲルスのほうである。〔…〕私が注目したのは、エンゲルスが史的唯物論に欠けていたような問題にいち早く関心を抱いたこと、のみならず、それを死ぬまで維持したということである。

 

 具体的に言えば、彼は『ドイツ農民戦争』(1850年)で、ドイツの千年王国運動の指導者トマス・ミュンツァーを論じた。この時期〔19世紀以降――ギトン註〕、社会主義者は、「科学的社会主義」を唱えたプルードンに代表されるように、宗教的な観念を斥けるのが普通であった。エンゲルス自身も、社会主義はたんなる観念の産物ではなく〔…〕と主張していた。そんな人物が、ミュンツァーのような宗教的指導者を称賛したのである。このような仕事が、その後〔…〕無視されてしまったのは無理もない。

 

 しかし、エンゲルスは原始キリスト教の起源を問う研究を、最晩年まで続けたのである。』

柄谷行人『力と交換様式』,2022,岩波書店,pp.33-34.  

 

 

 とはいえ、『ドイツ農民戦争』には、千年王国運動だけが書かれているわけではありません。叙述の中心は、「大農民戦争」に与かった諸勢力の階級的性格の分析と、階級間闘争としての「農民戦争」過程の解明です。つまり、広い意味での「唯物史観」「階級闘争史観」で貫かれているわけですが、それにしても、公式的な「唯物史観」からは大きくはみ出す諸現象を、軽視することなく正面から扱っていることも、たしかなのです。

 

 エンゲルスによれば、15世紀までのドイツでは、貴族・僧侶・市民・農民それぞれが、じつにさまざまな階層に分裂していて、2大陣営の階級対立のようなことは、起きようがなかったのです。ところが、ここに、ルター、ミュンツァー、その他の改革者によるプロテスタンティズムという・政治的宗教的イデオロギーが登場することによって、ドイツ国民は大きく3つの勢力に分かれました。

 

 カトリック的反動陣営、ルター的な市民・改革派陣営、ミュンツァーらの革命派陣営。には、「現状の維持を利益とするすべての分子、したがって帝国権力、聖職諸侯、一部の世俗諸侯、富裕な貴族、高位聖職者、および都市貴族が結集し」、には、「反対派の有産分子、すなわち下級貴族群、市民階級、そして一部の世俗諸侯までが」教会財産を没収してリッチになろうとして群がった。「最後に、農民と〔都市の〕平民は革命派として結集」した。(p.35)


 つまり、3つの陣営、2人の指導者が、「ドイツ農民戦争」の主な登場人物です。「農民戦争」と言っても、農民だけではなく、下から上までドイツの全階層を巻きこんだ内乱であったのです。

 

 さいごに、訳文についてですが、数種の訳を比べてみた結果、古い訳ですが、新潮社版『マルクス・エンゲルス選集』収録の藤原・長坂訳が、もっとも良いと見きわめてテクストに選びました。なによりも日本語の文としてこなれているので読みやすく、それでいて、社会経済史用語が正確に訳されています。

 

 なお、引用に当たっては MEW のドイツ語原文を参照して、適宜訳文を改めた箇所がありますが、いちいち断りません。

 

 

ウェルナー・テュプケ:「農民戦争パノラマ画」部分。

 


 

【2】 中世のたそがれ――

ローマをめざす帝国と富豪、平穏にまどろむ農民たち

 

 

 16世紀初めと言えば、ヨーロッパでは中世の終りで近代の初頭。イタリアではルネサンスの繁栄が終り、独仏両軍の侵入を迎えて混沌としていました。コロンブスがアメリカ大陸に到達。英仏は百年戦争を終えて、チューダー朝,ヴァロア朝のもとで、それぞれ中央集権を強めていきます。

 

 が、ドイツは逆に、神聖ローマ皇帝〔ローマを名のるドイツ皇帝〕がイタリア侵攻に熱中しているあいだに聖・俗諸侯の権力が強くなり、分裂状態が深まっていきます。加えて、商工業で力を蓄えたギルド諸都市は、皇帝に直属して特権を得、諸侯の支配から独立する勢いです。

 

 



『ドイツの工業は、14-15世紀に著しい躍進を遂げていた。封建的・農村的な局地的工業に代わって、都市のギルド的工業経営が現れ、〔…〕遠隔地市場さえ目あてにして生産していた。〔…〕商業は工業と足並みをそろえて進んだ。ハンザ同盟はその1世紀にわたる海上独占によって、全・北ドイツが中世の野蛮状態から抜け出すのを助けた。15世紀末以後は、ハンザ同盟はすでにイギリスとオランダの追い上げを受けて急速に圧倒され始めていたけれども、インドから北欧への大通商路は、ヴァスコ・ダ・ガマの〔ギトン註――喜望峰回りのインド航路〕発見にもかかわらず依然としてドイツを通っていたから、アウクスブルクも昔と変わることなく、イタリアの絹製品、インドの香料、近東(レヴァント)のあらゆる産物の大集散地であった。〔…〕

 

 しかし、ドイツの国民的生産の躍進は、他の国々の躍進の速さには相変わらず及ばなかった。〔…〕人口は依然としてきわめて希薄だった。ドイツの文明は、各商工業生産地に分かれて点々と存在したにすぎない。各中心地のもつ利害は、たがいに懸け離れたもので、ここかしこにかろうじて接触点があるだけであった。〔…〕イギリスにとってロンドンがすでにそうであったような・全国の商工業の重心となりうるような都市は、ひとつもなかった。〔…〕

 

 河川や商業路からずっと離れて、いくつかの小都市があったが、それらは大規模な交易からは締め出され、中世後期の〔…〕平穏無事な眠ったような生活を続け、外国の商品を使うことも輸出生産物を供給することもほとんどなかった。〔…〕農民大衆は、ごく狭い地方的なつながりと、それに相応しい地方的な視野を、けっして越えることがなかった。


 イギリスとフランスでは、商工業の繁栄は、全国的な利害の連結と、それとともに政治的集中をもたらしたが、ドイツでは、たんに地方的中心地のまわりに地方ごとの利害をまとめ上げ、それによって政治的分裂をもたらしただけだった。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,pp.20-21.  

 

 

 ここで注釈しておきたいのは、近代資本主義の草創期について、マルクスエンゲルスの描く歴史像は、現在の社会経済史学の通説とは異なることです。↑この引用にも、それが現れています。ヨーロッパの資本主義を勃興させた要因としてエンゲルスらが強調するのは、遠隔地商業の発展と、その結節点である中世都市の繁栄です。それらが、農業領主層が農奴を搾取する封建社会体制を突き崩したと考えるわけです。

 

 これに対して、日本の経済史学界(大塚久雄学派)では、局地的な狭い市場圏における独立自営農民の成長と、家内工業生産のマニュファクチャーへの発展を、より重視します。そして、遠隔地商業や中世都市・商人貴族層は、むしろ古いギルド規制などによって、農村から興った資本主義発展を抑え込む役割をしたと考えます。大塚学説の背景には、20世紀の2人の思想家:マックス・ウェーバーレーニンの影響があります。

 

 つまり、ごくごくザックリと言えば、マルクス/エンゲルスは、都市は進歩的で、農村は保守的で遅れている‥という “常識” の線で考えた。そうすると、資本主義のような新しいものは都市で発達した、ということになります。とはいえ、その反面で、農民は古いものに固執するから、かえって「千年王国」のような・超古くてウルトラ進歩的な過激思想を受け入れたりもするのだ、と。

 

 しかし、その後 100年以上の研究をへた社会経済史学者は、中世の都市ではギルド規制や親方/徒弟のような古いしきたりががんじがらめにあって、かえって新しい動きは潰されてしまう。だから、資本主義はむしろ、都市の規制が及ばない農村で、農民の家内工業から発展した、と考えるのです。そうすると、「千年王国」のような平等思想を農民が主張した理由についても、エンゲルスとは違った見方をすることになります。

 

 ただ、このレヴューでは、じっさいの歴史がどうだったかということよりも、エンゲルスの歴史観・歴史叙述の方法から何を学べるか、という観点で見ていきたいと考えています。ですので、学者の見解はとりあえず脇に置いて、エンゲルス流の見方を前提として述べていくことにします。


 なお、そうは言っても、現在のドイツでの歴史把握ではどうなっているのか、やはり気になるので、‥エンゲルスの “古典学説” と、その後現在までの学説との相違についても、ところどころで紹介したいと思っています。

 

 

アウクスブルクの “フッゲライ”。中世都市アウクスブルクは、大商人富豪フッガー家

の本拠だった。ルターが槍玉に挙げた法王庁の「免罪符販売人」も、フッガー家の

手助けを受けていた。ヤーコプ・フッガーが 1521年に建てた貧困者のための共同

住宅 “フッゲライ” は、今も現役で使用されつつ、観光スポットになっている。

 

 

 

【3】 16世紀初めの諸身分・諸階層――

諸侯の抬頭、貴族・騎士の没落

 


 ‥‥しかし、喜望峰回りのインド航路の隆盛、新大陸貿易と植民の登場、イタリアのルネサンス諸都市の凋落、といった情勢を受けて、中世以来のドイツ商業路の繁栄は、もはや長くは続かなかったのです。アウクスブルクフッガー家の富の源泉であった南ドイツの銀鉱山も、新大陸から大量の金銀が流れ込んでくると、貴金属価格の暴落のために衰微し(価格革命)、フッガー家のヨーロッパ商業に対する独占力は急速に衰えたのです。

 

 時の人びとは、これを、「青天の霹靂(Donner aus dem Wetter)」と表現しました。

 

 こうしてドイツは世界市場から締め出されると、急激な凋落のなかで、政治的分裂が深まっていきます。

 


『純封建的な帝国が崩壊するにつれて、帝国の結束も全般にゆるみ、帝国封地受封者の大きな者は、ほとんど独立した諸侯に転化し、一方では帝国直属都市が、他方では帝国直参の騎士が、あるいは互いに敵対し、あるいは諸侯や皇帝に対抗して同盟を結んだ。〔…〕無数の錯綜した紛争のなかで最後に勝利を得た』のは、『地方的・州邦的中央集権の代表者たる諸侯であった。そして、皇帝自身は、ますます他の諸侯と同列の諸侯になっていった。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.21.  



 こうした・いわば水平的な分裂が深まるのと並行して、貴族、聖職者、都市住民、農民、それぞれの内部での垂直的分裂も激化します。

 

 貴族層の内部では、諸侯下級貴族(騎士階級)への両極分解が進行します。諸侯たちは、皇帝を無視して「勝手に宣戦講和を行ない、常備軍をたくわえ、国会(等族会議)を召集し、租税を課した。」領邦内の下級貴族と都市の多くを支配下に入れ、さらに帝国直属都市や貴族領までも併呑しようと画策していた。「諸侯は、奢侈と宮廷の規模が拡大し、常備軍が置かれ、施政の費用が増加するにつれ、ますます多くの貨幣を必要とした。〔…〕彼らは勝手気ままに租税を課し、」都市の商人から金を借り入れた。「都市は多くの場合に特権によって保護されていた」ので「租税の重圧はすべて農民にかかった。」金を借りられるだけ借りてしまい、もはや抵当にする土地も財産もなくなり、農民に重税を課するにも限度に達してしまうと、諸侯は、帝国を無視して領内でだけ通用する貨幣を発行するようになった。悪鋳に悪鋳を重ねて経済を混乱させても気にしなかった。(p.22)

 

 中世のドイツには居た「中級貴族」は、この時代にはもはや見られなくなっていました。諸侯と「下級貴族」に両極分解してしまったのです。

 

 しかも、「下級貴族(騎士)」は、急速に没落しつつありました。彼らは諸侯に領地を寄進して臣従したり、文武の官僚として仕えることで、かろうじて生活と “騎士の誉れ” を維持していました。「軍制の発達、歩兵の重要性の増大、火器の完成は、彼らの重騎兵としての軍事的職能」の価値を失わせ、彼らの誇る「城砦の堅固さを昔の夢にしてしまった。」諸侯の軍隊と戦闘のやり方が近代化していくなかで、「騎士〔…〕無用の存在となってしまった」のです。居城での大盤振る舞いも、馬上試合(トーナメント)などの催しも、ますます費用がかさみ、「価格革命」で馬や武器の値段は高騰する一方で、収入源には増える要素がありませんでした。領地の年貢を増やせる見込みは乏しく、掠奪・私戦(フェーデ。騎士同士の武力闘争)といった・かつては勇猛な強者 つわもの たちの収入源であった乱暴狼藉も、今では「あまりにも危険になっていた。」

 

 

ヴィルヘルム・ブロス『大ドイツ農民戦争』1891年刊、表紙。

 

 

 けっきょく、騎士たちの困窮のシワ寄せは、もっとも弱い関係者――所領の農民たち――に向かうほかなかったのです。新たな賦役や賃租が課され、さまざまな名目の手数料が値上げされましたが、そのたびに農民の反抗を招かないことはなかった。騎士たちは、もうほかに手がないとなると、目ぼしい農民を理由なく牢屋にぶちこんで、身代金をせしめるという手段にも出たのです。

 

 騎士たちは、農民と衝突しただけでなく、「他の諸階層とも仲は決してよくなかった。」諸侯に対しては、何かにつけ皇帝の権威を借りて争ったので「諸侯との紛争は絶えなかった。」聖職者に対しては、その広大な領地と富を妬み、都市を支配する商人たちとも、いがみ合っていました。騎士たちは、商人に多額の負債を負う一方で、ともすれば、私戦や掠奪によって武力で都市から収入を得ようとしました。「これらすべての階層に対する騎士階級の闘争は、金銭の問題が〔…〕生きるか死ぬかの問題となるにつれて、ますます激しくなっていった。」(pp.22-23)


 

 

 

 

 

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