智 識 寺 模 型 製作 柏原市市民歴史クラブ
以下、年代は西暦、月は旧暦表示。
《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。
- 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
- 668年 行基、誕生。
- 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
- 690年 「浄御原令」官制施行。
- 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受ける。
- 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
- 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
- 702年 遣唐使を再開、出航。
- 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
- 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
- 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
- 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、若草山に「天地院」を建立か。
- 710年 平城京に遷都。
《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。
- 714年 首皇子を皇太子に立てる。
- 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
- 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
- 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
- 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
- 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
- 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
- 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
- 723年 「三世一身の法」。藤原房前、興福寺に施薬院・悲田院を設置。
- 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位。長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
- 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
- 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池院」を建立、「檜尾池」を築造。
- 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
- 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
- 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。
《第Ⅲ期》 731-749 孝謙天皇に譲位するまで。
- 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
- 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
- 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
- 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
- 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
- 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
- 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児」徴集を停止。
- 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
- 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説。藤原広嗣の乱。聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)京」を都と定め造営開始。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立。
- 741年 諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
- 742年 「紫香楽(しがらき)宮」の造営を開始。
- 743年 「墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
- 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
- 745年 「紫香楽宮」に遷都か。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。
- 746年 平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
- 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
智 識 寺,河内6寺,河内国分寺 等 の 想像図 柏原市立歴史資料館
【79】 「知識」の構造
『一般に知識の構造は、仏事を行おうとする発願主があって、人々に協力を求め(「知識を勧める」「知識を率いる」)、それに応じた(「知識に預かる」)人たちで団体を結成し(「知識結い」)、中心となる者を「知識頭(がしら)」というが、願主と頭は同人・別人の場合がある。
知識から提供した財物を「知識物」、知識を呼びかける趣旨書を「知識文」という。〔…〕
東大寺(廬舎那大仏)の造営は河内の智識寺にならい、国民を知識として協力を仰ぎ、国分寺の造営もまた地方豪族より知識物の寄進を受けている。』
『国史大辞典』,1985,吉川弘文館:「知識」.
↑この説明から顕著に印象付けられることは、「知識」の名を冠せられることによって、単なる財や労力の贈与が、宗教的な「利他行」の色彩を濃く帯びることです。単なる物質的な財や労力の出資が、一定の宗教的価値と結びつけられ、施主の「功徳(くどく)」として約束されるといってもよい。
ただ、そこでさらに懸念されることがらは、たとえば「大仏の造立」のような、それ自体としては何らの物質的利益を――施主自身にも、社会一般に対しても――もたらさない事業が、それに無償で参加する人びとに、どれだけの達成感をもたらしえたかということです。
それによって、前世の業(ごう)や、現世で犯した罪と釣り合う「功徳」がもたらされ、来世が約束されるという理念は、実感としてどれだけの説得力を持ったのか? あるいは、そのような「来世」がほんとうに存在するのかという疑惑を超えて、いま・ここでの「利他行」の献身自体が自己実現をもたらす幸福感を、人びとは求めたのか?
これは、「大仏造営」にかかわる歴史過程を追いながら、今後継続して考えてみたい問題です。
【80】 「智識寺」と知識衆と聖武天皇
大和川が奈良盆地から河内平野に出る部分は、両側から丘陵部が迫り、深い谷間を急流の「瀬」となって貫いています。ここを通っているのが「竜田道」で、『万葉集』に歌われた紅葉の名所「竜田川」は、この付近の大和川を指す名称です。このルートは、生駒山・暗峠越のような山越えをしないですむので、古くから天皇や貴人の行幸の道としても、よく利用されました。
「瀬」の谷間を「竜田川」が蛇行して、すこし平らになっている部分に「竹原井頓宮」があり、天皇の行幸は、ここで宿泊するのが常例になっていました。「頓宮」の対岸に「河内国分寺」と「国分尼寺」があり、丘陵を越えた西に、「智識寺」をはじめとする「河内6寺」があります。「竜田道」は、「智識寺」の前を通って「河内大橋」を渡り、「難波宮」へ向かっています。
もっとも、740年に聖武天皇が難波行幸の途次にここを通り、「智識寺」に立ち寄った時に、↑これらがすべてあったわけではありません。「国分寺」「国分尼寺」は、翌年 741年に「建立の詔」が出た後に建てられたのですし、「河内6寺」は、「智識寺」以外は、幾つがすでにあったのか不明です。「河内大橋」は、730年ころの創建と推定されますが、すでに傷んでおり、739-740年にかけて改修工事が行なわれていました。しかし、都度都度洪水などが襲ったためでしょうか、改修は困難で、工事は 754年以後まで継続されています。
「河内6寺」も、「河内大橋」の創建・改修もともに、地元のみならず河内國一円の諸氏族からなる「知識集団」によるものであったと考えられています:
『知識が河内大橋を改修したと考えると、最初に橋を架けたのも知識だったのではないでしょうか。橋は人々の往来のためだけでなく、彼岸へ渡るという仏教的思想の影響も大きく、当時は僧道昭や行基など知識による架橋が盛んでした。この周辺には、行基らの力が必要ない強力な知識集団が存在したと思われます。
智識寺も蘆舎那仏も知識によって造られました。智識寺以外の河内六寺も知識によって建立された可能性が高いと考えられます。300~400m間隔で接近して並ぶ寺院はあまりに多すぎます。また、これらを建立し、維持管理するほどの生産力は大県郡にはなく、一族の氏寺を建立できるような有力な氏族も見当たりません。大県郡だけでなく、安宿郡や志紀郡、古市郡など、広い範囲の氏族らが知識として建立したのが河内六寺ではないかと考えられます。
また橋の日常的な管理について、橋は皇族や貴族も利用したため、国府、あるいは津積駅家(うまや)が行なっていたとも推測できますが、それらでは十分な補修等はできず、知識の力に頼らざるを得なかったのではないでしょうか。この地域の知識はそれだけの力をもっていたということです。〔…〕
柏原周辺を本拠とし、渡来系氏族を中心とした知識の人々によって河内大橋は架橋されたようです。』
「河内大橋」,柏原市文化財課,2019.7.23.
広い範囲のさまざまな氏族が、この場所の「知識集団」に集中して参加したのは、ここが重要な交通の結節点であったこと、そして、商業的な意味以上に文化的・政治権威的な意味で、天皇の行幸路をはじめとする古くからの由緒ある地であったからと思われます。
たしかに、行幸路の真ん前に「智識寺」の・東西の塔を備えた伽藍が聳えているのですから、いやでも眼に入るし、聖武天皇でなくとも、ちょっと寄ってみたいと思うでしょう。しかし、「竹原井頓宮」が近いことからすると、聖武の参詣はただの気まぐれではなかったと思います。地元の「知識集団」と、行幸を取り仕切った官司のあいだに、もとから繋がりがあって、「知識集団」が天皇の来駕を招請したと考えられるのです。
聖武は、天皇・上皇時代を通じて、娘の孝謙天皇と合わせて3回、「智識寺」に詣でています。2回目 749年は、孝謙天皇の行幸で、門前にあった「茨田宿禰弓束女(まんだのすくね・ゆみつかめ)」の家に宿泊しています。「茨田宿禰」氏は、この「知識集団」の中心的氏族でした。3回目 756年の行幸は、聖武・孝謙両名で行幸し、孝謙天皇は「智識寺」だけでなく「河内6寺」全部を巡行しています。
このように、聖武父娘が「智識寺」の「知識衆」と懇ろな交流をもっていたことは、聖武の「大仏造立」発願の動機解明にかかわります。
「大仏造立」は、当然に聖武天皇の創意だと言う人が多いのですが、彼は仏教の専門家ではありません。数ある宗派と仏格のなかから、「華厳宗」の主仏である「廬舎那仏」を選び、その造立を強く決意したことには、それなりの宗教思想的根拠があるはずです。それを示教した、あるいは誘因となった人はいたと思うのです。考えられる誘因を挙げてみると:
① 735年に唐から帰国した僧・玄昉
② 金鍾寺(東大寺)別当であった僧・良弁と、そこでの『華厳経』講説を主宰した審祥(しんじょう)
③ 「智識寺」の「知識集団」
玄昉は、唐から 5000巻の『一切経』〔『大蔵経』に同じ。仏教経典の全部を指す称〕と多数の仏像を携えて帰国し、翌年、聖武の母・宮子の精神病を快癒させ、737年に僧正〔僧官の最高位〕に叙せられ、内裏の仏事を仕切るとともに、橘諸兄政権のもとで政治に深く参与します。たしかに、天皇・皇親に最も影響力のある僧といってよいと思いますが、玄昉は、唐で法相宗を学んだ法相宗の僧です。
「龍門」の「廬舎那大仏」について伝えたのは玄昉だとしても、「華厳宗」を伝えたことはなかったでしょう。前回見たように、聖武の「大仏造立」の本願は、決して仮りそめではない「華厳宗」の信仰に根ざしています。誘因は玄昉以外に求めなければなりません。
海 龍 王 寺 西 金 堂 奈良市法華寺北町
731年創建。海龍王寺は奈良時代には「隅院」と呼ばれ、光明皇后宮の
北東隅にあって、宮中の仏事道場であった。初代住持・玄昉と伝える。
つぎに、良弁は、740年に金鍾寺に審祥を招いて、『華厳経』の講説を開始しています。『華厳経』は、前回もすこし触れましたが、宇宙に遍在する無限大の仏を信ずる特異な哲学をもっており、仏教諸派のなかでも独特の教義です。早くから日本に伝わった『法華経』が、凡夫の位置から一歩一歩仏に近づいてゆく道を示しているとすれば、『華厳経』は逆に、最初からいきなり仏の眼で見た宇宙を全面的に開示するのです。良弁らは、この新興の教派哲学を研究するために、新羅僧審祥(新羅に留学した日本僧ともいう)を招いてゼミを始めたのでした。
この『華厳経』講説は、聖武天皇の命によって開かれたと述べる本もあり、だとすると、聖武はもともと「華厳宗」に関心をいだいていたことになります。あるいは、この年 2月に『智識寺』で廬舎那仏を拝し、そこで「知識衆」から「華厳宗」について聞いたのがきっかけになったかもしれません。
したがって ②,③ いずれかが、聖武の「華厳宗」信仰の誘因となったと考えられます。上で見たような、河内の「知識集団」の隆盛を考えると、②以上に③の可能性を考えたくなります。河内の「知識集団」には渡来系氏族の参加が多く、彼らのもとに、新羅からの無名の渡来僧が来て「華厳宗」を伝えていたことも考えられるのです。
【81】 「知識寺」と「河内6寺」の現在
「智識寺」はじめ「河内6寺」については、最近の考古学的調査の積み重ねで、かなりわかってきました。発掘を行なうだけでなく、その結果を文献史料と突き合わせる綿密な研究を、市が独自に追行しています。柏原市文化財課のホームページを見ると、学芸員の募集採用を毎年行なっており、また市民からなる委員会を設けるなど、他の自治体とは力の入れ方が異なる印象を受けます。
南から順に見ていきます。↑上の「6寺」の地図をご覧いただきたいと思います。
まず、「鳥坂寺」址↑。手前の畑が「講堂」址、奥の低い畑の線路ぎわに「金堂」址、正面の小山の頂に「塔」址があります。
金堂の屋根についていたと思われる鴟尾(しび)↓のほか、「鳥坂寺」と墨書した土器が出土しています。
「家原(いえはら)寺」址↓は、そこから高台を北に下りてすぐです。右手前の老人会館の新築工事の際、発掘が行われました。前節に引用した柏原市の説明にもありましたが、塔・金堂などを備えた本格的な伽藍が、これだけの密度で立ち並んでいたことに驚かされます。
家 原 寺 址 軒 丸 瓦 柏原市安堂町11
「智識寺」は、金堂と東西の塔をそなえた薬師寺式伽藍配置の大きな寺でしたが、東塔の心礎が「石(いわ)神社」の境内↓に移されて残っています。石神社の裏山に登ると、「智識寺」址の全景が展望できます。もちろん建物は残っていませんが、標示板の透視写真と見比べて想像することができます。
智 識 寺 址 「石神社」裏山の標示板写真 柏原市太平寺2丁目
「石神社」裏山 の 実 景
智 識 寺 址 出 土 葡萄唐草紋の鴟尾 断片
「大里寺(だいりじ)」の礎石↓は、「高井田横穴公園」内で見ることができます。調査以前に持ち出されて個人宅の庭石になっていたため、もとの位置関係は不明ですが、塔の心礎のように見えるものもあります。軒丸瓦は、きれいな形のものが出土しています:
《単弁蓮華紋》→ 7世紀半ば~後半のものとされます。これは、「智識寺」址からも出ていました。瓦の紋様は、下限に関しては示準力が弱いと言われています。貯蔵されていた古い瓦が使われることは珍しくないからです。しかし、両寺の創建は、かなり古い可能性があるといえます。
【82】 「智識寺」から「大仏造立の詔」まで――3年間の意味
聖武天皇は、740年に「智識寺」で廬舎那仏に出会ったものの、すぐに「大仏造立の詔」を出したわけではありませんでした。「詔」までには3年間の経過があります。なぜすぐに実行しなかったのか? 3年間の意味は何なのか?
この間に、つぎのようなできごとが起きています:
- 740年 2月、聖武天皇、河内・知識寺で廬舎那仏像を拝し、大仏造立を決意。6月、國ごとに『法華経』10部の写経と七重塔の建立を命ず。9月、藤原広嗣の乱勃発に際し人民を安んずるため、國ごとに高さ7尺の観音像1躯の造立と観音経10巻の写経を勅命。10-12月、聖武天皇、伊勢・美濃等を巡行し、「恭仁(くに)京」に来着、都に定める。金鍾寺(東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説を開始(~743)。行基、恭仁京右京に「泉大橋」と「泉橋院」等2院・1布施屋を建立。
- 741年 2月、諸國に国分寺・国分尼寺を建立し、『金光明最勝王経』『法華経』各1揃を納め、七重塔1基を造立せよの詔。3月、聖武天皇、泉橋院に行基を訪ね終日懇談か。10月、聖武天皇、「恭仁京」の鹿背山東橋造営に労役した「行基集団」750人の出家を許す(第2緩和令)。
- 742年 8月、「紫香楽(しがらき)宮」の造営を開始。
- 743年 10月、紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。
↑このようにまとめてみると、聖武天皇が「大仏造立」を発案してから、じっさいにそれを国家の元首として宣言し実施するまでに経なければならなかった重要な関門は、2つあったと思われます。ひとつは、①『華厳経』と廬舎那仏の「護国仏教」としての正統性が確立されることであり、いまひとつは、②行基集団の応援助力を得ることです。
前回、【76】で述べたように、聖武天皇が「大仏造立」を強く願った大きな理由は、パンデミックでずたずたになった国土と国家支配機構を、何とかして恢復させたい、人心をひとつにまとめて復興の意欲を吹きこむような目標が欲しい、ということだったと思います。「華厳宗」という新しい宗教に傾倒したのは、たんに、教義が変っていておもしろいとか、雄大宏壮で気持ちがよいといった興味本位ではなくして、為政者としては実に差し迫った危機意識に基いていたと思うのです。
「天然痘の猖獗」が始まる以前から、730年頃には、京(平城京)の東の山原に1万人近い群衆が蝟集して、(行基か否かわかりませんが)カリスマ的な怪僧の “妖言” に感化されて騒ぐ、という事態が日常化していました。それをようやく鎮圧したと思ったら、連年のように(多分に為政者の強迫観念の所産ですが)異常な天変地異が続きます。下級官人層を中心とする京内外の人心の動揺は、皇族・高官を震撼させるほどのものであったと思われます。おそらく、識字者が増えてインテリ化し、“人の悩み” を持つようになった人びとは、信ずべきものを求めているのに、為政者は彼らから一方的に宗教を奪い去るだけで、それに代わるものを与えなかった。それが人心荒廃(アノミー)の原因であったと私は考えます。
そして、パンデミックは、物質的・物理的にも首都の機能を麻痺させ、アノミーは頂点に達したと見えたのではないでしょうか。ここでようやく、聖武は、人心を収攬するには統制を強化するだけではだめで、宗教のようなソフトな手段で、人びとの心を内側から変えてゆく必要があるということに思い至ったのだと思います。それは、多かれ少なかれ(のちに述べますが)橘諸兄ほか政権首脳部にも、共通する思いとしてあったのです。
しかし、そこで聖武が懐いた・他の人にはない見解は、従来の護国仏教や固有・神信仰では足りない、ということであったと私は考えます。護国仏教は繁栄し、諸処の神宮も神坐す社(やしろ)も参詣が絶えないのに、アノミーは確実に力を増しています。これまでの宗教を、いくら力を入れて奨励してもダメだ。何か新しい信仰、人びとの眼に見える目標がなければならない。聖武が、新羅から伝わった「華厳」という新しい信仰の形に惹かれ、“宇宙大の” 仏像の造立を夢見たのは、そのためだったと思うのです。
しかし、そのことを政権内部で他の人にも解らせるのは、容易なことではありません。「智識寺」での廬舎那仏・邂逅の後で、聖武がつぎつぎに打ち出した政策は、『華厳経』でも廬舎那仏でもなかった。『法華経』と『金光明経』を写経せよ、塔を建てよ、観音像を造れ。‥‥これらは、まったく旧態依然とした仏教振興策です。「観音経」は『法華経』の一部(観世音菩薩普門品)です。「国分寺・国分尼寺の建立」も、国分寺は「金光明護国之寺」、国分尼寺は「法華滅罪之寺」で、『法華経』と『金光明経』を信仰するものです。
こうして、さしあたっては、旧来の仏教観念に凝り固まった人びとにも理解できる施策を命ずるほかはありませんでした。そして、あんのじょう、旧態依然たる政策に、地方の人びとを惹きつけることはできませんでした。国分寺も、国分尼寺も、その建設は遅々として進まなかったのです。741-742年にかけて、……やはり今までの護国仏教ではだめだ。「華厳」の幻想と廬舎那仏が、ぜひとも必要だ……聖武は、その思いを強くしていったでしょう。この間に、聖武がみずから行基を訪ねたというエピソード(事実としての真偽は、のちほど検討します)は、彼の精神的彷徨の一齣を垣間見せています。
そういうわけで、743年に聖武が「大仏造立の詔」にたどり着いたのは、やはり「金鍾寺(東大寺)」での良弁らの『華厳経』講説が完了して、従来の諸宗の僧にも軽んぜられないだけの華厳教学の理解が確立した、ということが大きかったと言わざるをえません。
東 大 寺 「二月堂」裏から「大仏殿」を望む。
①↑は、精神的・権威的側面ですが、他方で、物質的・社会的側面でも、「大仏造立」という政策に至るには、越えなければならない障碍がありました。
「大仏造立」の動機は、人心の荒廃(アノミー)であり、パンデミックによる・人心の決定的な衰微を、何とかして恢復させたいという思いです。しかし、他面においては、パンデミックは、そのような事業の実施を物質的・物理的に不可能にしているのです。生産者人口の3割減という条件のもとで、このような、通常の官庁事務も農民の納貢負担も予想していない “余計な” 事業を行なう余力があるのかどうか?
741年に発令した「国分寺・国分尼寺建立」は、国家財政だけでは到底遂行できないために、地方豪族による寄進・出捐を呼びかけていましたが、その寄進・出捐がまったく集まらないために難渋していました。まして、そこにさらに巨大廬舎那仏像の造立を加えた日には‥‥
それでは、河内の「智識寺」の知識衆に助力を仰げないのか? …それも無理だったのだと思います。彼らは、「河内6寺」と周辺の諸寺の建設・維持に手いっぱいで、とても他の事業に手を出す余裕はなかったのでしょう。むしろ、近江・大和での聖武の「大仏建立」に並行して、「智識寺」で《巨大観音像》の造立を行なっています。彼らの「知識集団」の結合は、河内國一円の諸氏族が集まっていたとはいえ、河内國の境域を越えて広がってゆくものではなかったのでしょう。
こうして、「行基集団」という、近畿一円場所を選ばないユニヴァーサルな集団の協力を得たことによって初めて、聖武の「大仏建立」構想は、現実味を帯びてきたと言ってよいと思います。
↑上の年表を見ると、「行基集団」は、740年末に遷都が宣言された新都「恭仁京」の造営にからんで、それを新たな事業開拓と布教のチャンスととらえ、この地域に進出していることが分かります。彼らの新都建設への協力を受け入れ、架橋などの工事を委ねたのは橘諸兄であり、腹心であった諸兄の推奨によって「行基集団」の働きぶりを身近に眼にすることができた聖武天皇も、彼らに対して、従来の弾圧策から一転した高評価と信頼を向けることができたのだと思います。
「大仏造立の詔」から2年後の 745年、聖武は行基に「大僧正」の地位を与えています。
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こちらはひみつの一次創作⇒:
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