薬 師 寺 東 塔 奈良市西ノ京
以下、年代は西暦、月は旧暦表示。
《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。
- 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
- 668年 行基、誕生。
- 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
- 690年 「浄御原令」官制施行。
- 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受ける。
- 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
- 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
- 702年 遣唐使を再開、出航。
- 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
- 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
- 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
- 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、若草山に「天地院」を建立か。
- 710年 平城京に遷都。
《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。
- 714年 首皇子を皇太子に立てる。
- 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
- 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
- 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
- 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
- 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
- 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
- 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
- 723年 「三世一身の法」。藤原房前、興福寺に施薬院・悲田院を設置。
- 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位。長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
- 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
- 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池院」を建立、「檜尾池」を築造。
- 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
- 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
- 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。
《第Ⅲ期》 731-749 孝謙天皇に譲位するまで。
- 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
- 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
- 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
- 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
- 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
- 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
- 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児」徴集を停止。
- 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
- 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。金鐘寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説。藤原広嗣の乱。聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)京」を造営開始。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立。
- 741年 諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」に遷都の勅。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
- 742年 「紫香楽(しがらき)宮」の造営を開始。
- 743年 「墾田永年私財法」。紫香楽で「廬舎那仏」(大仏)造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
- 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
- 745年 「紫香楽宮」に遷都か。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。
- 746年 平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
- 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。
平城宮・内裏 井戸(出土位置での復元)〔上〕と 想像図〔下〕
背後のツゲ刈込は、発掘された建物柱穴の位置を示す。
内裏では、諸國郡司層の子女が出仕して雑役に従事していた。
【75】 パンデミックの衝撃
天平時代の政治にもっとも大きな影響を与えたできごとは、何でしょうか? 「大仏」の造営でしょうか? 聖武天皇による度重なる「遷都」でしょうか? 藤原氏の浮沈、宮廷陰謀、「藤原広嗣の乱」のような政変・内乱でしょうか?
ズバリ言います。最大の影響力を発揮したのは、仏教文化でも内乱でもなく、疫病であった。735-737年に西日本~畿内を襲った疫病:天然痘の猖獗であったと。「遷都」と「大仏」は、ある意味でパンデミックの結果にすぎなかった。「藤原4子政権」の崩壊と「広嗣の乱」も、パンデミックなくしてはありえなかった。――そう言えると思います。
このパンデミックによって、当時の日本の人口の3割が亡くなったとも、5割が亡くなったとも推定されています。これに比較できるのは、14世紀ヨーロッパを襲ったペストくらいではないでしょうか?
全人口の 25-35% あるいはそれ以上が、2年程度の短期間のあいだに死亡してしまうという事態が、社会にも国家政治にも影響を及ぼさないはずはありません。また、その影響がなくなるまでには相当に長い期間がかかったはずです。
そこで、この前後で眼につく記事を『続日本紀』から拾ってみると、つぎのようです:
- 736年 11月19日、京・畿内4國2監の今年の田租を免除(詔)。
- 737年 4月19日、大宰府管内の諸國で疫瘡がはやり、人民多く死す。6月1日、百官の官人が罹患したため告朔〔毎月初の朝会〕を取りやめた。8月13日、天下の今年の田租と公私出挙〔すいこ 高利貸し〕未納分を免除(詔)。9月22日、私出挙の禁止(詔)、筑紫にいる防人(さきもり)の任務を停止し故郷に帰らせた。12月27日、皇太夫人・藤原宮子が僧・玄昉を呼んで面会し、そこに聖武天皇が行幸、宮子は玄昉に会ったとたんに鬱病から回復。
- 738年 5月3日、諸國の健児(こんでい)徴集を停止。7月10日、かつて長屋王の寵臣だった大伴子虫が、長屋王を誣告した中臣宮処東人を斬殺して復仇〔子虫は咎め無し?〕。10月3日、京・畿内4國2監の今年の田租を免除。12月15日、役を終えて帰郷する仕丁(じちょう)に、はじめて程粮〔旅程の日数に応じ日に米1升塩1勺〕を支給した。
- 739年 5月23日、諸國の郡司〔郡の役所。筆頭が「郡守」〕の定員を削減。5月25日、勅を受けた同日付兵部省符により、諸國の軍団兵士の徴集を停止。5月30日、今年の公出挙の利息を免除;「封戸」について、租の半分を官倉に入れ半分を「主」に支給していたのを、租・庸・調の全部を「主」に支給と改め、運送する人夫の食糧・日当は、その租から取れ(詔)。
736年11月、737年8月、738年10月の3回にわたって、各当年の「田租」が免除されています。律令制下の主要な税目「租・庸・調」のうち、「庸・調」は中央政府に運ばれるのに対し、「租」は各國の国衙の倉に貯蔵されて、(この 8世紀半ば以降は)公出挙〔くすいこ 官営高利貸し〕の原資として用いられました。ですから、「租」を免除しても天皇や中央政府は痛くも痒くもないわけです(高位官僚は「封戸」から支給される租がなくなるぶんだけ、少し困りますが)。しかし、中央政府の取り分である「庸・調」は何が何でも減らすまいというのでしょう。まったく免除していません。
それでも実際には、生産人口が3割減という状況で、「庸・調」の生産もその運搬も、まともにできたとは思われません。737年6月には、平城京の官人にも罹患者が続出して、毎月朔(ついたち)の朝会を開けなくなっています。古代の官人が実務よりも重要だと思う儀式ができないくらいですから、官庁の日常業務などは完全停止の状態でしょう。8月には「出挙」の未納分を免除――つまり中世の用語でいえば「徳政令」の発令。9月には「私出挙」の全面禁止を布告しています。もちろん、この禁令は効果がありませんでしたが、それでも朝廷がここまで内容のある弱者救済策に踏み切るのは、従来はまったく考えられなかったことでした。
一般的に言って、前近代の社会では、パンデミックの社会的影響は、支配層に不利、被支配層には有利に働いたといえます。ヨーロッパでは、「黒死病(ペスト)」のせいで領主階級が壊滅し、封建制は解体に向ったと言われるほどです。罹患による死亡者の割合は、支配者も被支配者も変わらないとしても、社会の混乱による流通・収奪機構の崩壊は、支配層に決定的ダメージを与えます。逆に、被支配層にとっては、人口が減ることで、荘民募集や日雇い雇用の条件が改善するので、生き残った者には生活向上のチャンスとなりえます。
おそらく日本古代でも同じであったでしょう。↑上の年表を “力関係” として見れば、パンデミックに対処する過程で、朝廷は、班田農民から郡司層に至る地方人民に対して、劣勢に立って押され気味になっている印象を受けます。
収税機構の混乱と、租税の免除、事実上の取り立て不能によって、防人、健児、軍団兵士といった地方軍備も維持できなくなって、つぎつぎに解散しています。739年5月には、ついに高位高官・功臣に支給する「封戸」の租が不足してきたのでしょう。租の半分を(國衙の)官倉に入れるのをやめて、「封戸」の租税は全面的に高官・功臣に支給する制度に改めています。
しかし、そうなると、「封戸」は全面的に主の支配を受けることになります。国司などの国家機構があいだに入って、定められた量だけを公正に取り立てる――というのが建前なのですが、国司がぐずぐずしていると、権勢のある高官家は、直接に「封戸」へ人を派遣して、自分の領地のように思うままに支配して取り立てるようになるでしょう。こうして、「律令制」のしくみが綻んでいきます。
それでも、ここで注目にあたいするのは、「封戸」から(高官のいる都へ)租を運ぶ人夫の日当や食糧について、忘れずに定めていることです。前の年 738年の末には、年期を終えた「仕丁」に帰郷旅費を支給するよう命じています。(「仕丁」は、班田農民 50戸に 2人の割合で、平城京にのぼって官司の雑役に従事する成人男子で、年限は3年間。在京中の経費は自弁でした――つまりタダ働き)
こんなことは、これまでありませんでした。かつて、庸調を都に運搬してきた運脚夫たちが、帰郷旅費を与えられず、平城京とその周辺で道路に屍をさらしたり、流民化・盗賊化していました。彼らを救護することが、行基が初期「行基集団」を結成した動機になっていました。行基自身は、たび重なる朝廷の弾圧によって、そこから手を引かざるをえませんでしたが、運脚夫たちの悲惨な状況は、今もそのまま続いていたのです。
「仕丁」に限ったこととはいえ、帰郷旅費の支給などということが、政府高官の頭に昇ったのは、パンデミックがもたらした圧力なしには考えられないことです。行基がどんなにがんばってもできなかったことを、パンデミックは一瞬にして成し遂げてしまったのです。
そして、パンデミックが引き起こしたと思われる・さらにおかしなできごとが、宮廷内でいろいろと起きています。たとえば、聖武の母・藤原宮子の覚醒と、聖武との面会。精神病がいきなり治ってしまった理由は分かりませんが、パンデミックで周囲が混乱してきた状況が、宮子の気の持ち方を変えさせた可能性があります。僧・玄昉の立ち合いは、突然の快癒をもっともらしく見せるための道具立て以上のものではないでしょう。
あるいは、「長屋王の変」にからむ復讐劇。“主君” の仇討ちとはいえ明からさまな殺人者が、罪に問われた形跡もないのは、パンデミックで混乱した官人社会の状況を想定しないでは理解できません。
740年2月 聖武天皇 難 波 行 幸 の経路
【76】 「智識寺」:盧舎那仏との邂逅
金鍾寺(東大寺)に造立しつつある毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)〔廬舎那仏に同じ〕の完成も間近い 749年12月、聖武天皇は、橘諸兄に読み上げさせた宣命(せんみょう)のなかで、こう回想しています。
『去(い)にし辰年〔740年〕河内國大県郡・智識寺に坐(いま)す廬舎那仏を礼(おろが)み奉りて、則ち朕も造り奉らむと思へども、〔…〕』
『続日本紀』天平勝宝元年12月27日条, in:遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,p.118.
『740(天平12)年2月7日、聖武天皇は難波宮に御幸した。〔…〕
この時、聖武は河内國大県郡の智識寺に立ち寄ったのである。〔…〕この寺で聖武が目撃したものが、彼の後半生を決定づけることになる。聖武、時に 40歳であった。〔…〕
聖武は知識寺にあった廬舎那仏を見て、同じような廬舎那仏を自分も造りたいと願うようになったというのである。いうまでもなく東大寺の廬舎那仏(大仏)建立の発端である。』
遠山美都男,a.a.O.
「智識寺」の廬舎那仏から聖武が受けたインスピレーションは、その直前に国土を襲ったパンデミックの衝撃から、いかにしたら立ち直れるのか?‥という為政者の思いと切り離せなかったはずです。
智 識 寺 址 から出土した 軒丸瓦 柏原市立歴史資料館
しかし、ここでひとつ考えておかねばならないことがあります。聖武天皇が「智識寺」で見たのは、「大仏」のような巨大な仏像であったのかどうか、ということです。
多くの類書が、聖武天皇と「廬舎那仏」の “出会い” を、↑上のように描いています。が、そこには、聖武が「智識寺」で見たのは「大仏」だった、という無言の予断がないでしょうか?
その予断はたいへんに疑わしい。なぜなら、東大寺の大仏は、ずっと後まで――1181年に平氏の焼討ちに遭うまで――残っていたのに、「智識寺」にあった “はず” の廬舎那仏については、その後に存在したという記録も痕跡も無いのです。大きな仏像だとしたら、そうかんたんに無くなってしまうでしょうか?
柏原市の説明によると、平安末の史書『扶桑略記』に、「応徳3年(1086)6月に、智識寺が顛倒し、6丈の捻像(塑像)の観音立像が粉々に砕けた」という記載があるそうです。『扶桑略記』は 1094年以降に編纂されているので、この記載が細かい点まで正確かどうかは分からないのですが、「6丈」とすれば、「小尺」で 17.58m,「周尺」で 12.6mです。智識寺には、このころまで巨大な仏像があったことがわかるのですが、それは廬舎那仏ではなく観音菩薩です。
当時、東大寺の大仏が「大和の太郎」と呼ばれたのに対し、智識寺の 6丈の観音は「河内の二郎」と呼ばれていました。つまり、智識寺にあった “大仏” は廬舎那仏ではなく、巨大観音像でした。
そこで、この「6丈の観音」が、いつ造られたかですが、『七大寺年表』に、「天平勝宝7年(755)に、智識寺に高さ6丈の観音立像が完成した」とあります。聖武天皇は 740年9月に、「國ごとに観世音菩薩立像 1躯、高さ 7尺なるを造れ」と勅していますが、「智識寺」は、それ以上の大きさのものを造立したわけです。
そうすると、740年2月に聖武天皇が「智識寺」を訪れた時には、そこには廬舎那仏の大仏は無く、巨大観音もまだ無かった。廬舎那仏像があったとしても、それは決して大きなものではなかった。そう考えざるをえないのです。
↑上で引用した聖武の 749年の宣命も、「大きな廬舎那仏を見た」とは言っていません。たんに「廬舎那仏を見た」としか言っていない!
それでは、「毘盧遮那仏」の小さな像を見て、聖武天皇が「大仏」の造営を思い立ったのは、なぜなのか?
この時、小さな像を拝みながら聖武の脳裏にあったのは、唐・長安近郊の「龍門」にあった「廬舎那仏」の巨大石像であったと私は考えます。「龍門」の巨大摩崖仏に関する情報は、入唐留学から帰って来た僧たちによってもたらされていたと思うからです。
龍 門 奉先寺 廬舎那仏 675年完成 (Alex Kwok - Wikimedia)
【77】 我レ龍門ニ在リ矣
「龍門」には、北朝・北魏の時代から、石窟の仏龕が多数掘られ、巨大な摩崖仏が、岩を掘り残す形で造形されてきました。「奉先寺」の摩崖仏は、唐・高宗の時代に則天武后が自分の化粧品代の一部を拠出して造営したものです。仏座から頭のてっぺん(肉髻)までが 17.14メートル。向背の頂までは約20メートルという巨きさです。
則天武后は、新興の「華厳宗」を信仰し、「華厳経」の教主であり時空を超えた巨大な存在である「廬舎那仏」を可視化することを願って「奉先寺」の大仏を造立したのです。
『国際都市長安における西域との文化交流がもっともさかんであった唐の時代に、華厳宗の思想が形成された。それはコスモポリタンをめざした思想であった。
〔…〕経とはなにも文字に書かれたものだけをいうのではない。〔…〕宇宙、天地の相(すがた)こそ経典そのものである。〔…〕『華厳経』の思想にほかならない。大宇宙に遍満している微塵そのものが仏の相(すがた)であるという雄大宏壮な世界観〔…〕
この不書の経文、宇宙の真理を見るには、〔…〕心眼をもって見なければならぬ。〔…〕無限を見るのは心眼でなければならない。〔…〕
仏は時間と空間を超えているもので、そういう仏を説いたのが『華厳経』である。〔…〕
『華厳経』では仏が毘盧遮那仏である。毘盧遮那というのはヴァイローチャナ Vairocana というサンスクリットを音でうつしたのだが、ふつうは「光明遍照」と訳す。無限の光が遍(あまね)く照らしだしているもの、その主体が仏であり、光明そのものを言っている。
たとえば、太陽のようなものを連想すればよいと思う。』
鎌田茂雄『華厳の思想』,1988,講談社学術文庫,pp.26,31-32,44,78.
しかし、「太陽」というのも結局は比喩なのです。廬舎那仏は、密教では「大日如来」と呼ばれ、太陽の神格化――“おてんとうさま”――だとも言われますが、太陽そのものが仏なのではありません。太陽は黒いガラスを通せば肉眼で見ることができますが、廬舎那仏は心眼でしか見ることはできません。
どんなに巨大な仏像を建てても、それは比喩でしかない。無限の大きさの仏像を造ることはできないからです。まして、『華厳経』によれば、仏は無限大であるのと同時に無限小であり、すべての無限小の微塵の中に無限大の仏が含まれているのです。このようなものは、はかりしれない修業と訓練によって研ぎ澄まされた “心眼” によってしか「見る」ことはできないでしょう。
紫 香 楽 甲 賀 寺 址 滋賀県甲賀市紫香楽町黄瀬
聖武天皇の「大仏造営の詔」は、この「紫香楽宮」で発せられ、
はじめ、この「甲賀寺」で廬舎那仏の造立が開始された。
このような『華厳経』の思想から言えば、聖武が、中国の「龍門」にある「6丈の大仏」を、じっさいに見たことがなかった。河内の「智識寺」でも見なかった。「大仏」を見ることなく、その造立を発願した‥というのは、むしろ彼の信仰の真実性を証しているといえます。
たとえば、743年10月に発した「大仏造立の詔」のなかで、つぎのように言っています。
『〔…〕智識に預かる者〔大仏造営の事業に参加する者――ギトン註〕は〔…〕各(おのおの)介(おほき)なる福を招きて、宜(よろし)く日毎(ひごと)に三たび廬舎那仏を拝むべし。自ら当(まさ)に念を存して各(おのおの)廬舎那仏を造るべし。』
青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,p.433.
毎日3回拝む「廬舎那仏」とは、心眼で見る「廬舎那仏」だと考えるほかありません。おのおのが「造る」廬舎那仏というのも、物理的に建造される一個の金銅像だけを意味するわけではないように読めます。ここはふつうは、「それぞれ廬舎那仏造営に従うようにせよ」などと訳されるのですが、「詔」の原文は、そうなっていません。参加者おのおのが、《自分の廬舎那仏をつくる》‥‥というのが、「大仏造立」に賭けた聖武の本意であったのです。
【78】 「知識」とは何か?
「知識」(「智識」とも書く)というコトバが、人の特殊な集団やその集団的行為を表したのは、歴史上特定の地域と時代におきた現象です。『佛教大辞典』を見ると:
『ちしき 知識 もともと仏教用語で知人・朋友を意味するが、転じて人を仏道に導く識者の意となり、さらに
仏道に結縁して、造寺・造仏・写経・法会などのために財物などを寄進する行為、もしくはそうした行為を行なう人々を意味するようになった。〔…〕
すでに飛鳥時代から行なわれているが、奈良時代にさかんになり、〔…〕中世には、勧進(かんじん)・普請(ふしん)などの語が用いられるようになった。』
『総合 佛教大辞典』,2005,法蔵館.
とあって、もっぱら仏教・仏寺のための寄付を行なう集団を意味するように書かれています。しかし、寄付の目的も、寄進の内容、集団の性質も、辞書によってかなり変化があります。以下では、『国史大辞典』『平安時代史事典』なども参照して、「知識」の語義をまとめておきます。それは単なるコトバの問題ではなく、「知識」が意味する運動ないし集団が存在した時代範囲とその内容にかかわることだからです。
【地域と時代】 三階宗の諸経典にも述べられていたように、仏寺などが広く一般民衆から寄付を募る行為は、隋・唐代の中国でも行われていました。しかし中国では、その場合に「知識」というコトバは用いられていません。コトバが違うということは、実態にも相違があったことを推定させます。
「知識」の早い用例は、6世紀後半の新羅・百済に見られます。倭国・日本で現れるのは、7世紀前半。どうやら、渡来移住者を通じて伝わって来た宗教運動であったようです。なかでも、こちらで見たように、「野中寺」の 666年造立・弥勒半跏思惟像の銘には、118名の「智識」らが、「中宮天皇」(聖徳太子のことか??)の病気平癒を願ってこの仏像を造ったと刻されています。
野 中 寺 塔 址 大阪府羽曳野市野々上5
心 礎(塔の中心柱を支える礎石)。亀に見立てる線刻が
施されている。右に口と眼、手前に足。
こうして、飛鳥時代から使われ始めた「知識」「智識」の語ですが、一般化するのは奈良時代に入ってから。河内の「智識寺」の創建は 7世紀後半~奈良時代初めと推定されます。
『平安時代以降も知識の活動は見られるが、総じて前代ほどの社会的広がりは持たなかった。』
古代学協会・編『平安時代史事典』,1994,角川書店:「知識」.
そして、鎌倉時代以降の中世になると、「知識」に代わって「勧進」と呼ばれる寄付募集活動が盛んになります。コトバが違うことは、実態の相違を示唆します。「知識」がどちらかというと、寄進をする在家信者の側の自発的な結合と運動であるのに対し、「勧進」は寺院や「勧進僧」による働きかけの面が強く、実態においては地方権力と結託した村ごと戸ごとの割り当て・強制徴収である場合も多かったのです。
【主体・行為・内容】 『佛教大辞典』では、「財物などを寄進する行為」もしくは寄進する「人々」。『国史大辞典』は、「財物や労力を提供する者」「その動機・行為」「結成された団体」「寄進した資材」を指すとしています。『平安時代史事典』では、「財物・労働力を寄進し、助力する人」、また「寄進行為、財物自体についてもいう」となっています。
つまり、「知識」の主体は単数でも複数でも団体でもよく、また、人だけでなく、寄付する行為や動機、寄付された財物・資材を「知識」と呼ぶ場合もある。というように、広い意味で使われたことがわかります。しかし、歴史事象として重要な「知識」のコアの部分は、人の集まりないし団体と、そういう人たちが集まって寄付などをする動機・目的にあったことは明らかでしょう。
さらに、寄付のしかたは、財物・資材の提供だけでなく、労力の提供を含んでいます。労力の提供は、工事人夫や専門職人として自分で働いて提供する場合と、豪族や有力者が、配下の人間や奴婢を連れて行って働かせる場合とがあったと考えられます。
【対象・目的】 『佛教大辞典』は「知識」の目的を「造寺・造仏・写経・法会などのため」とし、『平安時代史事典』は、これに「架橋」のみ加えています。総じて事典類では、「知識」とはもっぱら、寺院の造営、写経などの「仏事」、すなわち狭義の宗教的行為のための結合と理解しているようです。
しかし、「行基集団」の場合を考えてみればわかるように、奈良時代の人びとは、寺院の建設や写経・法会だけでなく、溜池の造成や灌漑工事、堤防、港湾、道路の建設、行路遭難者や行き倒れ運脚夫の救護・救済に至るまでを宗教的行為と考え、これらを広く「知識」活動の対象と把えていました。またそれは「行基集団」に限ったことでもなく、たとえば河内「智識寺」を建立した「知識」集団は、大和川に「河内大橋」を架けています。
したがって、この面では事典類の定義は狭すぎると思わなくてはなりません。ただ、溜池造成・灌漑工事などの、一見すると宗教とは無関係な事業であっても、「行基集団」などの「知識」集団は、それらをあくまでも宗教の実践として、「利他行」のひとつとして遂行したのだということ。――このことを忘れてはならないでしょう。
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ギトンのあ~いえばこーゆー記
こちらはひみつの一次創作⇒:
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