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高宮山寺址   奈良県御所市鴨神

鬱蒼とした杉林の中に、「史跡 高宮廃寺址」の碑が立つ。

石碑の立っている場所が「金堂基壇」で、柱台の彫を残す

礎石が並ぶ。低部遠方にある「塔」址の礎石は自然石のまま。

しかし、古瓦の年代からみると、行基がここで受戒した

年代には、まだ金堂も塔もない山中の草堂だったようだ。


 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。
  • 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
  • 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
  • 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
  • 681年 「浄御原令」編纂開始。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
  • 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧)。藤原房前を参議に任ず。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始?
  • 721年 元明太上天皇没。
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。
  • 728年 『金光明最勝王経』を書写させ、諸国に頒下。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。
  • 730年 行基、平城京の東の丘で1万人を集め、妖言で人々を惑わしていると糾弾される。朝廷は禁圧を強化。

 

 

飛鳥池    奈良県高市郡明日香村大字岡

発掘調査の結果、飛鳥池の周辺には、多数の官衙、倉庫、迎賓館などが

立ち並び、「飛鳥京」と呼んでよい都邑であったことが判明している。

飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥浄御原宮など、7世紀後半の皇宮はみな

この領域で営まれた。
 

 

 

【24】 7世紀の「山岳寺院」はなぜ低いのか?

 

 

 前回訪れた7世紀の「山岳寺院」は、いずれも標高100~300メートルほどの場所にありました。行基受戒の「高宮山寺」は、それらよりは高所ですが、標高550メートル弱です。比叡山延暦寺〔848m〕高野山金剛峯寺〔800-1000m〕といった後の時代の山上伽藍と比べれば、「山岳」と言うのもおこがましい低山かもしれません。

 

 理由はいくつか考えられます。伽藍建築の技術と労働力組織の制約が大きかったと思われます。高い場所まで資材を運ぶ困難さに加え、「瓦博士(かわら・はかせ)」というような渡来の少数のテクノ・エリートに依存していた7世紀の寺院造営体制では、ろくに道路も無い山の上まで行って作業する人材を確保することはできなかったでしょう。朝廷に幾つもの造営官衙群が設けられ、多数の日本人専門技術者が養成され組織されてはじめて、山上での工事は可能になります。

 

 また、そればかりでなく、7世紀の「山岳寺院」は、国家事業として行われたわけではなく、蘇我氏などの有力氏族の事業ですらなく、もっぱら小規模な在地首長、渡来人や信仰者の小グループの手で建設されました。のちの最澄、空海が組織しえたような「教団」というものは、倭国にはまだ存在しなかったのです。元興寺(飛鳥寺)の「三論宗」、興福寺・薬師寺の「法相宗」といったものは、あくまでも僧尼らのあいだの学派であって、仏教教学・学問上の派閥にすぎません。広く一般信者を集めて特定の信仰を組織するような「教団」が成立したのは、「天台宗」「真言宗」が最初なのです。

 

 おそらく行基という人は、そうした大衆「教団」を組織することを夢見たと思いますが、それが叶わなかったのは、民衆の自発性を神経質なまでに恐れる貴族たちの保身と、朝廷による度重なる弾圧のためであったと考えます。最終的に行基がなしえたのは、それぞれが独自の意識と纏まりをもつ小グループである「知識」衆の・ゆるい連合体を、精神的・「象徴」的な権威としてリードしていくことに限られたのです。


 

 

【25】 役小角と道教

 

 

 前々回【19】で役小角(えんのおづぬ)を扱った時には、もっぱら仏教の修行者として考えました。比較的に史実を汲んでいると思われる『日本霊異記』では、小角は「役優婆塞(えのうばそく)」と呼ばれ、在俗の仏教信者とされています。しかし、『日本霊異記』は、仏教の教理を俗人・民衆に解りやすく説く、という目的をもって編集された説話集です。【19】であらすじを見たように、かなりフィクション化されており、しかも、仏教の宣揚という著作意図が濃厚なのです。

 

 ところで、ここでちょっと留意しておきたいのは、当時(最澄・空海より以前!)の仏教信仰というものの内容に、純粋な仏教ではない、道教的な「仙人」信仰が混ざりこんでいることです。『日本霊異記』の「役優婆塞」の段には、真夜中になると空を飛ぶとか、トラの群れのなかから教理問答を持ちかけてきたが姿は見えずとか、書かれていました。こうした不純さは、朝廷の公式・護国仏教とは異なる・民間の「山林仏教」では、とくに顕著であったと思われます。

 

 この種の古い “習合仏教” ――「神道」成立以前の習合、神仏習合以前の習合――は、おそらく、大陸方面ですでに習合した状態の仏教が、倭国に入って来たためと思われます。

 

 しかも、この「仙人」というのは、かならずしも中国の道教とは限りません。こちらで東国の古い “習合仏教” の例に触れましたが、「シダンゴ」あるいは「シダゴン」というのは、上座部(小乗)仏教における「聖者」「仙人」を指すコトバで、(この丹沢地方の信仰では)山々の各頂きに、そういう「仙人」がいると信じられているのです。

 

 仏教のなかでも古い小乗仏教的な観念、道教的な「仙人」信仰、そして倭国固有の素朴な「おやま」信仰が、ないまざっているように感じられます。

 

 そこで、今後いちいち断りませんが、古代の仏教(最澄・空海より前)には、そうした非仏教的あるいは非大乗仏教的な要素がつねに付きまとっていることを、念頭においておく必要があります。

 

 ただ、さらに注意してほしいのは、朝廷が「律令体制」を整備するにともなって、呪術などの習合的な仏教の実践は厳しく禁止されるようになるということです。おいおい詳しく述べて行きますが、護国仏教を確立しようとする朝廷と、民間の習合的な仏教のあいだには、奈良時代を通じて厳しい緊張と対立の関係があったことを忘れないでいただきたい。この点を外してしまうと、行基の信仰上の苦闘も、社会活動での困難も、権力への妥協を強いられたかに見える生涯も、まったく理解できないこととなります。

 

 

     京都市左京区鴨川岸にて

 

 

 ところで、役小角にかんしては、そうした「道教的な要素」だけでなく、「道教」そのものとの明確なつながりを示すと思われる史料もあります。役小角が活動したのは、なんといっても、「律令体制」が確立する――「大宝律令」は 701年施行――以前の時代でした。

 

 前々回【19】で見たように、もっとも信頼性の高い同時代史料である『続日本紀』の伝記記事によれば、役小角は「百姓妖惑」の罪で……つまり、民衆に良からぬ考えを吹き込んだとして……流罪にされたということです。

 

 しかし、じつはこのクダリは、『続日本紀』の標準的な読み方(解釈)によれば、そうなる、ということなのです。別の解釈をすれば、ここから役小角と「道教」のつながりが検出されます。

 

 そこでまず、問題の箇所の原文を、読み下し文で見ておきます:

 

 

『丁丑〔699年5月24日〕、役君小角(えのきみ・をづの)伊豆嶋に流さる。初め小角、葛木山に住みて、呪術を以て称めらる。外従五位下韓国連広足が師なりき。後に其の能を害(そこな)ひて、讒づるに妖惑を以てせり。故、遠き処に流さる。』

青木和夫・他校註『続日本紀 一』,新日本古典文学大系 12,1989,岩波書店,p.17: 文武天皇三年五月条. 

 

 

 「称めらる」は、呪術を行なうという評判が立った、という意味。朝廷か誰かに褒められたということではありません。「韓国連広足(からくに・の・むらじ・ひろたり)」の「韓国」は、朝鮮半島とは無関係。「韓国」氏は渡来系ではなく、物部氏から岐れた純倭人系の氏族です〔こういうのを「軽く」誤解して日韓大ボラ大賞をめざす人たちには本当に困ります〕。その広足が「外従五位下」に叙せられたのは 731年で、小角の流刑よりずっと後の話です。広足は、小角の弟子だったと云うのです。

 

 問題は、「後にその能を害ひて」の部分です。この部分の主語を誰にするかで、解釈は大きく違ってきます。

 

 標準的な解釈は、主語を「役小角」と解します。役小角は、自分の呪術の能力を悪用するようになったので、讒言されて遠方に流刑されたのだ、と。

 

 しかし、「その能を害(そこな)ひて」を、自分の能力を「悪用する」という意味に解するのは、やや無理があります。同じ「そこなう」でも、「益」の反対語である「損」が、「たくさんあるものを減らす、不完全にする」という意味であるのに対し、「害」は「利」の反対で、「さまたげになる、災いになる」という意味です(『新字源』「同訓異義」)。自分の能力の「妨げになった」というのは、意味として変です。

 

 しかも、すぐ後の「讒」の主語は、どう見ても役小角ではない。誰かが役小角を讒言したのでなければならない。また、「讒」は「誣告」と同じでウソの告発。ウソの告げ口をして、冤罪に陥れることです。役小角は自分の能力を悪用するようになった、だから、ウソの告発によって陥れられた‥‥文脈として変ではないでしょうか?

 

 他方、吉田靖雄氏によれば、「その能を害ひて」の主語は「広足」です。役小角の弟子であった広足は、師の能力と名声を妨害しようと考え、朝廷にウソの告発をして、師に濡れぎぬの罪を着せた。……このほうが、脈すじは通ります。

 

 ところで、その広足が後に朝廷に取り立てられて「外従五位下」にまで出世したのは、「呪禁師(じゅごんし)」として重用されたことによります。732年には宮内省典薬寮の頭(かみ)に任命されています。この「典薬寮」は、医・針・按摩の各博士や薬園師のほか、呪禁博士・呪禁師・呪禁生が配属されており、道教系の呪術の色彩が濃い役所でした。(その点が、薬草類の栽培製造と民衆への施用をもっぱらにする「施薬院」とは、大きく異なるのです。)

 

 そうすると、広足の道教系呪術は、師の役小角から学んだもので、役小角自身も道教系呪術師であった。そのような推測が成立します。

 

 当時、道教系呪術に対しては、朝廷も貴族たちもたいへんに警戒していました。なぜなら、道教は中国において、たびたび民衆反乱を引き起こして諸王朝を倒壊させているからです。そこで、広足はまず、この貴族たちの恐怖心を利用して、師の役小角は呪術で民衆を惑わし、朝廷の支配を転覆させる反乱を起こそうと企んでいる、と告げ口して、師を亡き者にします。同時に、この告げ口によって朝廷の歓心を買い、広足小角と違って善良な呪術師だ、朝廷と貴族に奉仕する目的にだけ呪術を使う、という評判を獲得したのではないか? 『続日本紀』の短い記事の背後には、このような悪辣な出世アクロバットの秘密が隠されている‥‥

 

 『続日本紀』が編纂された 794-797年の平安初期、桓武天皇の時代には、前代・奈良朝の諸政権に対する批判と反省が起きていたと見ることも可能でしょう。すでにこちらで、『続日本紀』には「長屋王の変」に対する批判が現れているのを見ましたが、「役小角の流刑」に関しても、そのころにはもう、それが冤罪であったことや、広足による操作があったことも、世間に知れわたっていたのではないでしょうか?

 

 

広足がよくした呪禁(じゅごん)とは、道教系の呪術技術で、病気を防ぎ除くことが含まれていた。広足の呪禁という技術は、師匠の小角から伝授されたものであろう。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.15-16. 

 

 

 


 道教系の呪術的医術は、後漢末 2世紀の「太平道」「五斗米道」に淵源します。同時に、この2道は道教そのものの起源でもあります。

 

 

『張角の始めた太平道は、病気の原因は病人の犯した罪にあるとし、反省悔悟のうえ、護符や神水を飲ませて治療する呪術儀礼が中心の宗教団体であった。弟子を各地に派遣し布教した結果、数十万と伝える農民集団を組織した。〔…〕184年に挙兵反乱(黄巾の乱)に踏み切り、反乱は成功しなかったが後漢王朝の崩壊は早まった。

 

 同世紀の張魯の組織した五斗米道も太平道と同じく祈祷による病気治療を中心にすえた宗教団体であり、四川省東部に政治権力を樹立した。〔…〕

 

 呪術による病気治療はのちの道教のなかでも大きな比重を占めていた。〔ギトン註――日本では、〕大宝元年(701)の「僧尼令」では僧尼が道教による符禁と湯薬を行なうこと、つまり道教由来の護符とまじない、煎じ薬による病気治療などを行なうことが認められていた。〔…〕

 

 〔ギトン註――当時、日本の貴族たちが中国から得ていた知識のなかには、〕道士らが歴代の王朝に対して謀反反乱を起こした事例が多く存したということがあり、知識人たる貴族層は道教の政治的危険性を認識していた。

 

 〔…〕道教そのものを危険視する意識が為政者に存する以上、』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.16. 

 

 

 ……たとえ律令に明確な禁令がなくとも、道教の医術を行なうことは、僧尼にとって危険が伴うと認識されていたでしょう。『続日本紀』は、奈良朝朝廷でのおびただしい数の誣告、讒言、冤罪による処罰を記録しており、証拠手続きといえばクガタチくらいしかなく、けっきょくは国守や天皇がどう思うかで処罰が決まってしまう裁判では、眼に見える権力をもたない僧尼は、ひたすら疑われないように努めるほかはないからです。

 

 しかし、そのような環境を逆に利用して巧く立ち回り、道教的医術・呪術を売りものにして成り上がり、「呪禁師」として朝野の名声をほしいままにした韓国広足のような人もいるのです。

 

 権力者への忖度と大勢におもねる偏見を利用して、ずるい者だけが出世する・日本の官僚機構の特性は、この時に始まるといってもよい。

 

 

 

 

 上で見たように、吉田靖雄氏は、道教的呪術に対して、日本の律令には明確な禁止規定がなかったとしているのですが、この点について、異なる見方をする論者もいます。たとえば、千田稔氏が挙げているのは「職制律」の禁書目録です。(僧尼に関しては、「僧尼令」に明確な禁止規定があります。僧尼が「吉凶」の「卜相」や「巫術療病」を行なうと、処罰として還俗されました)

 


『養老職制律には禁書として、天文・図書(ずしょ)・讖書・兵書・七曜暦・太一雷公式の名を挙げている。

 

 〔…〕禁書とされた書物の多くは、吉凶占いの書の類である。「僧尼令」に、みだりに罪福を説くことを禁じたとあり、それは〔…〕、おそらく養老律において禁書とされた書物と内容的に関わっていたものである〔…〕

 

 「僧尼令」においては、他の条文においても吉凶を占うような呪術的行為を禁じている。』

千田稔『天平の僧 行基――異能僧をめぐる土地と人々』,1994,中公新書,pp.91-93.  

 

 

 「養老律令」は「大宝律令」の改正ですが、内容はほとんど変わらないと思ってさしつかえありません。つまり、8世紀の律令体制下では、天文学から、兵法、こよみ、占いに至るまで、朝廷が知識を独占して、選ばれた者にだけ厳重な監視の下で研究を許す体制になったということです。これらの知識は、天体の動きを見るのも吉凶の判断が目的である、というように、皆けっきょくは「吉凶の占い」と結びつくものでした。では、朝廷はなぜ、これほどまでに神経質に「占い」を禁止したかというと、自由に占いをさせれば、けっきょくは、政権と天皇の吉凶を占うことになると考えたからです。占いの結果によって天皇を退位させるとか、世継ぎ選びに口出しする者が現れかねない。それを何よりも恐れたわけです。

 

 しかし、この問題は、のちに、行基の民衆布教活動に対する弾圧に、大きく関わってきます。さきに「長屋王の変」に関して取り上げた呪術禁圧の詔も、そこに大きく影響して来ます。したがって、のちほど詳しく取り上げることになるので、今の段階では、以上の検討にとどめておきたいと思います。

 

 今この段階で、とりあえずまとめれば、①律令の個々の条文はともかく、「律令体制」全体としては、呪術、あるいは道教といったことに対して、ひじょうに神経質な禁圧を加えていた。②しかし、朝廷自身も呪術や占いを必要とする場合があったために、禁断と利用のあいだには複雑でこみいった関係があった。③そのなかで、とくに、占いや呪術が民衆のあいだに広まってゆき、民衆の自発性を助長してしまうことを、朝廷と貴族は何よりも恐れていた。

 

 このように言えると思います。

 



【26】 『日本霊異記』が伝える「高宮山寺」の怪奇

 

 

 『日本霊異記』上-4 によると、行基が「具足戒」を受けた「高宮山寺」には、かつて「百済国之師」なる渡来僧「円勢」師が住していたといいます。円勢には、聖ひじり。聖者,仙人〕を見抜く力があったというのが、この説話の大意です。

 

 寺の住僧のなかに、毎日夜明けから夕刻まで里に下りているのを常とする者がいるのを、弟子が不審がって円勢に告げると、師は「黙っていなさい」と言う。弟子が、その僧の部屋を覗いて見ると、身体から光を放って部屋中が耀いていた。弟子が驚いて円勢に告げると、「だから、そっとしておけと言ったのに!」

 

 するとまもなく、その僧はポックリ亡くなってしまったので、円勢の指示で火葬にした。弟子はその後、近江國に移住していたところ、火葬にしたはずの僧が現れて、「このごろお目にかからないので、とても恋しく思っておりました。」と、なつかしそうに語った。――――

 

 つまり、この僧は、自在に反化へんげ。生まれ変り〕することができる聖聖者,仙人〕であった。そして、円勢は、聖者を見抜く「通眼(天眼通)」の能力をもつ人であったというのです。

 

 

『こうした能力は、山林における禅波羅蜜の修業により獲得されるものであって、円勢が「師」と尊称されるのはこうした能力に拠っている。彼のような通力をそなえた山林修行者が、高宮寺に居住していた』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,p.34.  

 

 

  

 

 

 ここでまた、ちょっと目をとめておきたいのは、たしかに仏教にも、この「天眼通」や、前回の【23】で見た神叡の「求聞持法」のような「神通力」――一種の超能力を得るための修業方法があります。「山林修行」とは、もっぱらこのような「神通力」を得るための修業です。しかし、それらは一見して判るように、占星術や「吉凶の占い」のような呪術とは異なるものです。目標は、人間の通常の能力を伸長することにおかれていますし、修業方法も、精神統一などの肉体的・精神的鍛練を積み重ねるものです。呪術・占術のように、世界に関する特別な “隠れた” 法則体系のドグマを習得し操作するものではありません。


 こうした点から考えても、本来の仏教に専心する僧尼や在家崇仏者にとっては、道教系にしろ陰陽道系(四柱推命、七曜暦など)にしろ、そうした呪術の習得や行使は、何かうさんくさいもの、仏教の本来の信仰・教義とは無関係なもの、‥という意識があったにちがいないと考えられます。

 

 この点は、都邑の大寺で研学する公式仏教の僧尼ほど、そういう意識を持ったのではないかと思われます。

 

 この時代の仏教――古代の仏教は、民間におけるほど呪術・占術との境界があいまいであったと思われますし、民間ベースでは、そうした混淆した内容で海外から入ってきたものと思われます。しかし、経典に就いてまじめに学ぼうとする仏教徒であれば、誰しも、そうした部分は純粋な仏教ではないという意識を、程度の差はあれ持たざるを得ないでしょう。その一方で、大衆が仏教に求めたものの大きな部分が、占術的な予言や呪術的な力の行使であったことも否定できません。

 

 こうした両側面に注意を払うことは、行基の変貌してゆく活動実態の理解、また彼らに対する律令国家の圧迫とそれに対する行基らの対応を理解するうえで、たいへんに重要だと思うのです。

 

 

 

 

 

 

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