〔1〕 『精神現象学』もういちど
ヘーゲルの『精神現象学』、前回は、〔新書日本史〕の【中間考察】として、中公『世界の名著』の解説(岩崎武雄氏)、カント・ヘーゲルの権威・金子武蔵氏らを主な手引きとして、「フランス革命後」までの部分を読んでみました。
この人たちの「ヘーゲル読解」の基本線は、『精神現象学』を歴史哲学として読む傾向にあります。たしかに、それは分かりやすい読み方です。何よりも、こちらに緑色の表を示したように、西洋史の年表を傍らに置いて見ながら進んでいけば、『精神現象学』全体のあらすじをつねに鳥瞰しながら、“木にとらわれず、森を見るように” 読んでゆくことができます。
しかし、この読み方では、読後に残るものは、そう多くはない、というのが、私の正直な感想でした。もっと主体的な読み方はできないものだろうか? ヘーゲル自身が「フランス革命後」の混乱した時代のなかで格闘し、難解な語句を駆使してでも本質的な洞察を絞り出そうとした・その著述の現場に立ち会うような読み方は、できないものだろうか?
そういう印象が頭の片隅に残っていたのですが、今回たまたま斎藤幸平さんの最近のワークをチェックしていて、ごく最近、ヘーゲル『精神現象学』の平易な入門書を出していることがわかりました。
「『精神現象学』はまちがいなく今こそ読まれるべき一冊です。なぜならば、分断が進む現代社会において、意見や価値観の違う他者と共に生き、自由を実現するための手がかりが、『精神現象学』には書かれているからです。
ヘーゲルの時代のドイツは分裂状態にあり、〔…〕さまざまな対立や分裂が生み出された時代でした。〔…〕ヘーゲルはこう問います。完全にはわかり合えない他者と、共に生きていくためには何が必要か。どうすれば分断を乗り越えて、自分や相手の自由や価値観を押しつぶすことなく、社会の共同性や普遍的な知やルールを構築することが可能なのか――そういった重要なテーマが「承認論」として論じられているのが『精神現象学』なのです。
ところで、私の専門はマルクスです。〔…〕
とはいえ、マルクスの視点を持ち込みすぎると、ヘーゲル自身が『精神現象学』でやろうとしていたことが見えにくくなってしまいます。そこで今回は、ヘーゲルはヘーゲルとして、ストレートに読んでいこうと思います。」
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,2023,NHK出版,pp.8-10.
ページをめくってみれば、さすがに、修士論文をヘーゲルで書き、博士論文も『精神現象学』について書く計画を立てていたというだけのことはあります。マルクス経済学系の人にありがちな一面的な理解ではなく、ヘーゲルをヘーゲルとして真正面から取り組んでいることが、最初から伝わってきます。
以下では、4回に分かれている斎藤さんの放送の各回に1回をわりあててレヴューしてみたいと思います。今回 (1) は、「主・奴の弁証法」:前回は (5)【9】で扱った部分、――『精神現象学』の目次では 4B にあたります。
〔2〕 見方を変える――
「自由」と「対立」を、とことん見極めること
『ヘーゲルは、社会に対立が生じるのは、近代に特徴的な現象だと考えていました。というのも、前近代社会においては、身分や性別などによって役割や価値観が伝統的に固定されていたからです。〔…〕前近代社会の自由は著しく制限されています。就ける仕事も、住む場所も、信仰の内容にも著しい制限があったし、掟を破れば、村八分や投獄の対象になりました。
しかし、役割や価値観が固定されているということは、生活が安定しているということでもあり、あれこれ悩んだり迷ったりする必要がない。規則や慣習に縛られて窮屈そうに見えますが、それなりに快適でもあるわけです。〔…〕伝統のもとで、個人と社会が調和している状態といってもいいでしょう。
人々が美しく調和して、仲良く幸せに暮らしていた社会として、二十代の若きヘーゲルが強く憧れていたのが古代ギリシャの都市国家です。〔…〕
ギリシャ的な調和に憧れていたということは、裏を返せばヘーゲルが生きた時代のヨーロッパ社会は対立や分裂の状態にあったということです。〔…〕社会的共同性の基盤が解体し、個人もバラバラになって〔…〕それが行き過ぎれば、暴力や金の力が支配する野蛮状態になってしまうでしょう。
急速な不安定化のなかで、どうすれば、社会の対立や分断を乗り越え、調和を取戻せるでしょうか。この問いがへーゲルの哲学的な出発点だったのです。〔…〕
神や国王の権威に依拠した伝統や命令に代わって、近代社会で力を増したのが、自由で自立した個人という理想像です。その結果、人々は〔…〕自分自身で判断し、納得したものしか受け入れようとしなくなっていきます。すると、価値観を共有できない個人間の対立が生じるようになりました。〔…〕
現代では、〔…〕深刻な価値観の対立があります。それでも、将軍が勝手に決めてしまう時代よりは、現代社会のあり方がいいと感じる人がほとんどではないでしょうか。その意味で、近代になって私たちが獲得した自由には、非常に大きな価値があります。
意見の対立を前にして、「一人ひとりが自由ならバラバラになってもいいじゃないか」「オレはオレの好きなように生きていくぜ」という人もいるかもしれません。しかし、これもいうほど簡単なことではありません。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.16-19.
たとえば、最近の話題で言えば、木原官房副長官が違法デリへルに耽っているとか、故・ジャニー喜多川氏が 10歳前後の男子に性行為を強いる常習者だった、といったことが話題になっています。木原氏の場合は政府の要職に在りながら法律を恣に破っているので、非難が大きいかもしれません。しかし、喜多川氏は純然たる私人なのです。本人は、「オレはオレの好きなように生きている」以上の考えはなかったでしょう。しかし、その「オレ」の楽園を維持するために、絶対服従のプロダクションを作って芸能界に強権を振るい、数千人の少年の性と人生を踏みにじってきたことは、許されるべくもありません。いったい‥‥
他人を奴隷にする「自由」というものが、許容されうるのか? なぜ許容されてきたのか? ということが、このさい突き詰めて議論されなければならないのに、そちらの方向の話が全く出て来ないのは残念なことです。
『ここには、近代社会の自由がもたらす難題があります。つまり、人間は一人では生きていけず他者の存在が必要な一方で、自由な諸個人は他者と完全に理解し合うことができず対立や衝突を不可避に生む、というジレンマです。
要するに、近代社会に、もはや完全な調和は見込めません。だから、ヘーゲルは『精神現象学』において、古代ギリシャというかつての理想像を捨て去ります。〔…〕
近代社会の自由という難題に取り組むにあたって、ヘーゲルは「調和」や「同一性」ではなく、「矛盾」「対立」「否定」についてとことん突き詰めて考えることを重要視しました。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.19-20.
つまり、ヘーゲルが向かったのは、非妥協的な対立をとことんまで実践することではなく、意見の対立と矛盾は、なぜ生じるのか? それはどこへ導いていくのか? その先に期待に価するものがあるとすれば、それは何なのか? ‥‥といったことを、突き詰めて考えることだったのです。この違いは重要です。
たとえば、「オレはオレの好きなように‥」の対極にある態度として、すべては「科学的に」考えれば解決する。理性的・客観的な判断に、誰もが従うことで、調和ある世界は回復する、というものがあります。しかし、これも、改善の一助になることはあっても、対立をなくすことはできません。「科学」というものは常に、真理に達する途上にあるものであって、「科学的」解明には時間と「過程」が必要だからです。それぞれが途上にある「科学的」判断どうしが、ぶつかりあいます。
それどころか、「科学」は、ある場合には隠ぺいの手段にさえなります。福島の「処理」後・汚染水 の海洋放出が、「科学的」に完全に安全だと思っている人は、日本では半分もいないでしょう。しかし、韓国ではそれが「検察官政府」の公認する無謬の「科学的」真理であり、逆らう意見は「怪談」と見なされます。中国では、まったく逆の関係になります。(私は、中国や韓国より汚染水の影響を大きく受ける台湾での・ありのままの世論を知りたく思います。)
〔3〕 見方を変える――「真理」とは、「主体」であり、
今とは違う自分になることである。
『たとえ科学を持ち出したところで、社会から矛盾や対立はなくなりません。そこで、ヘーゲルは発想を転換し、そうした矛盾や対立こそが「真理」だと考えたのです。
「真理」と聞くと、絶対的で、不変なものをイメージしがちですが、彼は「真理は主体である」といっています。〔…〕
『精神現象学』の「序文」から引用します。〔熊野訳・ちくま学芸文庫(上),p.33.――ギトン註〕
〔ギトン註――ヘーゲルの洞察するところでは、いっさいは、〕真なるものを、実体としてではなく、むしろ同様に主体として把握し、表現することにかかっている。
「実体」は、固定されて動かないもの。「主体」は、行為したり変化したりしていくもの、と考えるといいでしょう。つまり、真なるもの(真理)を揺らぎ変わりゆくものとしてとらえ、生成の過程として表現しなければいけないというわけです。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.21-22.
つまり、引用箇所でヘーゲルが言わんとしているのは:――「真理」というものは、一面では固定的「実体」であるとともに、他面において、無常に変化しつづける「主体」として表現されうる面がある、ということです。それをヘーゲルの破格な(非文法的な)言い方は、いったん、「実体ではない」と否定しておいてから、「(一面では確かに実体だが)それと同じくらい、変化途上の主体でもある」と続けているのです。〔※〕
このような、ヘーゲルの難渋な構文を、斎藤氏は、「実体ではない」のほうに力点を置いて解釈しています。たとえ、「真理」というものに、固定的「実体」の側面があるとしても、今われわれは、それを変化つねなき「生成過程のもの」として・とらえ「表現しなければならない」というわけです。
註※ つまり、ヘーゲルは、「真理は固定した実体である」という側面も認めているのです。私は、斎藤さんとは異なって(じつは異ならないのですが)、「実体」の側面も、「生成する主体」の側面に劣らず重要だと考えています。というのは、「あったことを無かったことにする」あるいは「あったことは否定しないが相対化する」という病理が、現在の日本ではあまりにも蔓延しているからです。しかし、さしあたって斎藤さんの論旨に沿って述べていくことにします。
(私の見るところ)ヘーゲルは「真理」を、神様や絶対理性のように崇高な・人間の手の届かないものだとは考えません。むしろ、それとは逆の発想で考えようとします。つまり、「真理」に近づこうとする・人間の「知」の運動を重視するのです。
人間の「知」の運動とは、つねに生成過程にある「主体」的営為にほかなりません。だとすると、逆に、対象である「真理」そのものもまた、「主体」として把えられることになります。なぜなら、「真理が現実存在する・真なる形態は、……愛知〔哲学〕の目標である……体系的な知」のほかには存在しない〔熊野訳(上),p.16〕からです。ヘーゲルにとっては、「真理」とは、どこか遠くにある・見えないものではなくして、私たちの眼の前にある「知」こそが、「真理」の現実態であり、「真理」そのものなのです。
「真理」というものをそのように把えると、もはや、自然科学の「知」に特権的な地位は認められなくなります。道徳の「知」、芸術の「知」、日常生活の「知」、――さまざまな「知」の把え方を、「意識の諸形態(すがた)」として論じていくのが、「精神の現象学」なのです。ところで‥‥
『さまざまな知のとらえ方があるからといって、〔…〕「絶対正しいことなんてない」「何が正しいなんて誰にもわからない」と、投げ出していいわけではありません。対立や矛盾を乗り越えて、合意しなければならないことはたくさんあります。そのためには、共有可能な「正しさ」がどうしても必要となります。それがヘーゲルのいう「真理」です。
では、真理の創出はいかに可能か。科学哲学者の山口裕之さんは、共同作業によって「正しさ」をつくっていく過程は、ときに傷つきながら学び成長する過程であり、それは「今の自分を否定して、今の自分でないものになる」ことだと表現します。私もこれに賛同したい。
そして、学び成長しながら今とは違う自分になっていくという過程を「意識の経験の学」として展開している著作こそが、『精神現象学』なのです。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.22-23.
〔4〕 意識の「経験」――意識の「弁証法」
『『精神現象学』には、さまざまな姿の意識が登場します。具体的には「感覚的確信」「知覚」「悟性」「自己意識」「理性」などです。どの意識も、それぞれのやり方で対象や状況をとらえ、「このように認識するのが正しい」と判断します。つまり、それぞれの意識は「自分こそが知っている」と主張するわけですが、〔…〕どれも対象の一面をとらえているにすぎません。本当は、「真なるものは全体」〔※〕であり、特権的な見方はないからです。〔…〕
最初は相手の意見を強く否定し、自分の正しさを自信たっぷりに説くけれど、「あれ? 自分が間違っていたかも」「むしろ私のほうが悪かったかもしれない」と疑い、反省することはないでしょうか。ヘーゲルが重要視したのは、この「自分を疑う」という経験です。〔…〕つまり、自分が正しいと思っていたことが正しくなかったというショッキングな経験が、意識にとって成長の糧 かて になるのです。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.24-26.
註※ この「全体」こそが、ヘーゲルが破格語法によって暗示していた・「固定した実体」としての「真理」です。つまり、私の理解と斎藤さんの理解は、異なっているようで、じつは何ら異ならないのです。
『みずからが考える正しさに安住するのではなく、「徹底的に遂行される懐疑主義」によって、たゆまず新たな知(真理)を獲得し、それによって対象をとらえ直す。ヘーゲルはこれを「弁証法的な運動」と呼びました。
〔…〕この運動が、そこから意識にとってあらたな真の対象が出現するかぎり、ほんらい経験と呼ばれるものにほかならない。
懐疑と絶望〔自分を疑い、自分の間違いに気づくこと(ヘーゲル特有の用語)――ギトン註〕という自己否定を経て新たな知を獲得すると、目の前の対象や現実が、それまでとは大きく異なって見えてきます。たとえば、ただ使い勝手がいいだけだと思っていた皿に、美術的な価値を見いだせるようになったり、ゴルフ場にすれば金儲けになると思っていた森が、生物学的に重要な意味をもつことに気づいたりする。このように現実が大きく変化する――ヘーゲル風にいえば「あらたな真の対象が出現する」――のでなければ、それは本来的な意味での経験ではない〔…〕
ヘーゲルのいう「ほんらい経験と呼ばれるもの」は、自分が正しいはずだと考えている真理(知)が根本から揺らぐような性格をもっています。それによって自分も変わり、その結果、世界のあり方まで変わるような大転換なのです。実際、私たちの意識が変わることで、皿が美術館に飾られ、森が保護区になったりするわけです。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.28-30.
このように、新しい「経験」によって意識が変わり、これまで「これこそが唯一の自分」と思っていたもの(アイデンティティー)が疑われ、その結果、これまでの自分を否定して、自分と自分のまわりの世界のあり方が変化してゆく、‥このような転換が起きる・一つの場合として、他人との意見の対立・衝突から、自分への疑いと反省に向かう場合があります。
その場合、「意見A」を信じていた人が、「意見B」の人と対立して、「意見B」に変わる場合もあるでしょう。しかし、それは、本来の意味での転換ではありません。AがBになり、BがAになる、というだけでは、A,Bのあいだの価値の優劣は明らかにならないからです。ある人から見れば「改心」だが、別の人から見れば悪しき「転向」だ、ということにもなります。
《弁証法》で云う「止揚(Aufheben)」とは、AとBの対立から、AでもBでもない新たなCが生み出されることです。その場合、「止揚」は「廃止」「廃棄」の意味を含みますから、AもBも廃棄されて無くなるのです。「止揚」は「折衷」でも「妥協」でもありません。(A+B)÷2 は「弁証法」ではありません。
『2つの矛盾する主張がある。〔…〕一面ではどちらも正しく、一面ではどちらも間違っている。弁証法とは、そのような「どちらも一面的で不完全」な状況において、両者を統合する、新たな知に至るための方法論です。
AでもBでもない、両者を統合したまったく新たなCに移行していく。〔…〕
2つのものを単に合体させるのではなく、また、折衷案や妥協点を見つけるということでもない。
自分の知が否定されるような矛盾に耐えて考え抜き、悪いところは棄て、良いところは残しつつ、より高次の知を生み出していく――。〔…〕そのための思考法としてヘーゲルが定式化したのが弁証法です。〔…〕
対立や否定性は、自由で自立した個人からなる近代社会の特徴なのです。したがって、矛盾や対立を完全になくそうとするのではなく、むしろそれを根本原理としなければなりません。
つまり、意見が完全に一致することのない社会で、相手を全否定したり、排除したりせずに、協力して、自由な共同性を構築することは、どうすれば可能になるのかを問わなければならないのです。
これがヘーゲルを悩ませた難題です。そして、『精神現象学』で辿り着いた答えが、「相互承認」でした。」
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.31-33.
〔5〕 「相互承認」への道――
「主・奴の弁証法」
『ヘーゲルが『精神現象学』に展開した承認論は、ただ単に互いの良さを認め合って仲良く生きていきましょうとか、多様性を尊重しましょう、といった話ではありません。〔…〕
弁証法と承認論、この2つが一緒に展開されているのが、「自己意識」章の「主奴の弁証法」です。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.33.
最初に示されるのは、植物や他の動物を捕食して生きている動物たちの生です。
『食べる――つまり、相手の命を奪うことを、ヘーゲルは「否定する」と表現しています。餌となる対象を否定することで、欲望を満足させる。それが、動物的な生命のあり方です。
ただし、餌となる対象を否定しても、得られる満足は一時的〔…〕いずれまた腹が減り、別の対象を否定しないといけない。動物は、欲望の発生→対象の否定→欲望の発生という過程を、ひたすら繰り返している〔…〕
自分で餌をとって命をつないでいる動物は、家畜とは違って自立した自由な存在であるかのように思えます。しかし、否定する対象がいなければ、みずからの欲望をみたすことも生きながらえることもできない。ですから、否定する側は否定される側に依存しているといえます。そして、依存しているということは、自立していない。つまり、動物は自由な状態にはないとヘーゲルは指摘します。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.34.
このような「動物の生」に対して、「人間の生」はどうかというと、人間の場合には、欲望が生じても、それを抑えて遅延させることができます。つまり、「自分の欲望を自覚的に反省し、距離をとる」ことができます。
『ヘーゲルは、こうした反省する「意識」のあり方を「自己意識」と呼んでいます。私は、直接的なあり方から距離をとり、なりたい私になろうとするのです。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.35.
動物的欲望の直接性という制約を乗り越えた「人間」は、これでようやく自分は「自立した自由な存在」になったと考え、現実に、自立した生を営もうとします。しかし、「自立して自由」であるためには、環境や他者(他の人間、他の動物)から及ぼされる制約を排除しなければなりません。何ものにも制約されずに、自分の思い描いている通りの自分であること、――そのことを、「自己意識」となった人間はめざします。それは、他面から見れば、世界を自分の意のままにすることにほかなりません。
『自己意識はさしあたり単純な自立的存在(für sich Sein)であり、いっさいの他のものをじぶんから排除することで自己自身とひとしい。その実在(Wesen)であり絶対的な対象であるものは、自己意識にとっては〈私〉である。
〔…〕まず自己意識は、対象や他者からの制約を排除し、世界を意のままにしたい「私」として表れてくる。そして、自分が思い描いている「私」と、実際の「私」のありようが一致している状態を求めるというわけです。
〔…〕そんな二人〔2つの「自己意識」=人間――ギトン註〕が出会ったらどうなるか。どちらも世界を意のままにしたいと思っているわけですから、相手は邪魔な存在〔…〕そんな存在を「承認」することなど到底できないでしょう。〔…〕
みずからの自立性をおびやかす相手はなんとしても排除しなければなりません。つまり、二人は命がけでぶつかりあう。「承認」をめぐるこの闘争〔たがいに、「自分を、無制約な存在として承認せよ」と要求する闘争――ギトン註〕に勝たなければ、世界を意のままにできる「私」であることを証明できません。だから、相手が死ぬか、自分が殺されてしまうまで闘おうとする。〔…〕
ただし、相手が本当に死んでしまうと、みずからの自立性を証明してくれる人もいなくなってしまう。それでは意味がありません。そこで、相手を否定(殺す)せずに、とりあえず生かしておいて、降伏を迫ることになります。〔…〕
対立していた二人は主従の関係を取り結ぶことになります。これが「主奴の弁証法」のはじまりです。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.35-36.
こうして、「主人と奴隷」の関係が成立すると、主人は「自立した自由な存在」となり、奴隷は、主人の自立性を「承認」して、みずからは「非自立的存在」となったかのように見えます。
奴隷は主人のいいなりになって労働し、主人は日常の労働から解放されます。主人は、奴隷の労働を道具として、世界を意のままにしているかのように見える。しかし、主人のこのような「自由」と「自立」は、まやかしのものです。
『自立しているかに見える主人は、自分ではご飯をつくることもできないし、着替えもできない。実のところは奴隷の「労働」と「奉仕」に依存しきっているというわけです。主人は自分が自由だと思っているから我慢することを知らず、「お腹がすいた」「なにか食べたい」とわめき散らし、自分が動物的欲求に隷属する存在であることを隠そうともしない。
その反対に、主人に依存しているかのように見える奴隷は、「奉仕」において〔主人に奉仕することによって――ギトン註〕我慢することを学び、動物的欲求を乗り越えることができる。しかも奴隷は、小麦粉からパンを造ったり、木を切ってベッドを作ったりと、〔…〕「労働」を通じて世界を自分の構想に合わせて自在に変えていくスキルを身につけていくのです。
ここで転倒が起きるわけです。つまり、見方を変えると、主人のほうが依存的で、むしろ奴隷のほうが自立的な存在であることが判明する。〔…〕
我こそは自由で自立した絶対的存在だとする主人の確信は、この現実を突きつけられて大きく揺らぎ、主人と奴隷の優劣は逆転します。〔…〕
自分は自立しているという主人の意識は、実際には、奴隷に依存した非自立的意識にすぎません。むしろ、主人に従属した奴隷の側にこそ真の自立があるとして、「自立的意識の真のあり方は、したがって奴隷の意識である」と〔ギトン註――ヘーゲルは〕述べています。
このように、主人と奴隷の意識や内実を弁証法で洞察すると、両者の真のあり方は反転し、関係性が逆転するのです。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.37-39.
ところで、このようなパラドックスは、古代ローマのような奴隷制社会にだけあてはまるのではありません。むしろ、現代日本のような社会にこそ、よりよくあてはまるのです:
『一般に「自立して自由に生きている」と思われている人――例えば企業の男性経営者は、実のところ社員や秘書の献身的な労働に依存し、日常生活においてもご飯や洗濯、育児、介護などで家族やケアサービスに依存しています。ヘーゲル的に考えると、男性経営者こそがむしろ非自立的な存在であるといえる。
ところが今の社会は、こうした男性的な自立モデルを称揚していますし、社会制度もそれに合わせて設計されています。ヘーゲルの表現を借りれば、男性的自立を「本質的」なものと位置づけ、ケアワークや奉仕活動は「非本質的」なものとして評価が低められている。それは、賃金や社会的ステータスにも歴然と現れています。
21世紀になって以降の日本では、〔…〕ケアの分野はますます軽視され、現場は人手不足や予算不足で、労働条件も悪化し、相当に深刻な状況です。こうしたケアの危機を招いた背景にあるのは、みなが自己責任で経済的に「自立」すべきだ、という自助の考え方でしょう。しかし、〔…〕そういう考え方では社会が立ち行かない〔…〕
私たちは、旧来の(男性的、新自由主義的)自立の価値観に合わせて男女平等やケア労働の賃上げをめざすのではなく、「ケアこそが自立である」と、ヘーゲル的に反転させて社会を変えていく必要があるのではないでしょうか。
つまり、他者への依存や他者からの介入を排除し、世界を支配することが自立ではありません。むしろ、他者と新たな依存関係を結び、安心や自尊心をはぐくむケア実践こそが自立なのです。
持続可能性の問題も同様です。産業革命以降、生産とそれに伴う経済的成長こそが善であると私たちは信じ込んできた。しかし、』そこで云う「生産」とは、物を作る活動だけに光が当たり、ほかは見えなくなっている。『例えば食器や洋服は、それを作るために費やす時間やコストよりも、使う時間のほうが圧倒的に長い。その際には、洗ったり、片づけたり、取れたボタンを付けたりというメンテナンスやケアの行為のほうが、よほど本質的なはずです。
ところが、生産と成長を偏重してきた社会は、ケアやメンテナンスを、GDPに寄与しない「非生産的」な活動として周辺化してきました。』その結果は、「使い捨て社会」の価値観を蔓延させ、廃棄物汚染による環境危機・気候危機をもたらしています。『だからこそ、「生産こそが非生産的(破壊)である」という弁証法的な把握が必要なのです。
このように弁証法という思考法は、既存のルールや常識を疑い、世の中の見方を変え、社会を変革していく武器となります。』
斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.39-41.
〔6〕 ほんとうの「自由」とは?――
「相互承認」の3つの条件
それでは、「主人」になろうとするのはやめて、誰もが「奴隷」になれば、みなが自由と自立を獲得することができるのか? ‥‥もちろん、そうも言えません。「奴隷」はやはり不自由なのです。移動も言論も所有も制限された状態で、本当の自由も自立もありないことは明らかです。
へーゲルの見るところでは、問題は、主人と奴隷のあいだの関係の「非対称性」にあります。奴隷は主人の自立を「承認」していますが、主人は奴隷の自立を「承認」しようとはしません(だからこそ、奴隷であり主人なのです)。この関係がつづくかぎり、どちらも「自立した自由な存在」とはなりえません。
したがって、問題のカギは、相互的な「承認」の成立と、関係の「対称」化にあることがわかります。そこでヘーゲルは、自由を実現するための「相互承認」の3つの条件を挙げています:
- 【1】 関係は対称的でなければならない。したがって、双方が互いに、同じやり方で相手の自立を「承認」する必要がある。
- 【2】 しかし、無制限の自由を承認すると、相手はこちらの自由を侵すようになる。したがって、相手の自由と自立性を、一定程度は否定しなければならない。
- 【3】 しかし、相手の自立を否定しすぎると、「主奴」の関係に逆戻りしてしまう。そこで、他者に対する否定を適度にとどめるためには、「自分もみずからの自立性を自己否定する(断念する)こと」が必要になる。
しかしながら、このような「相互承認」が成立するためには、人間は、たんなる「自己意識」から「精神」に成長しなければなりません。
そこで、次回は、『精神現象学』「精神の章」に入ります。
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