小説・詩ランキング

 

 

 

 

 

 


【1】「論理ではない論理」がほしい‥

 

 

 やっと【基礎考察】が終ったと思ったら、こんどは【中間考察】。なんでもいいから、早く実際の歴史の話に入ってくれよ、という感じですが‥‥

 

 そうは言っても、岩波新書の《日本古代史・中世史》を読み進めながら、まだ特定のテーマに深入りする気にはならないのです。こちらにもちょっと書いたように、私が追いかけているのは、「平等性への固執」という、縄文時代の「環状集落」に眼に見える形で表れていた日本人と日本社会の特質が、その後の歴史時代の過程で、どのような形で表れるのか? 現れては消え、消えては現れながら、今日の社会には、どういう影響を及ぼしているのか、ということです。

 

 その場合、私の考えが網野氏や多くの人と違うのは、縄文時代であっても、そこにある「平等」とか「自由」「コミュニズム(原始共産主義)」といったものは、決して、自然にそうなっているというようなものではない。むしろ強力な相互規制、宗教的な観念、それを離れては人間は生存しえないと信じられているような強力な観念のもとに、「平等」や「自由」が維持されているのだ、ということです。

 

 それが単なる「自然」ではない、ということは、その観念というか特質は、その後の歴史時代においても、いっしゅ眼に見えない伝統となって、さまざまに形を変えて現れてくるはずです。

 

 しかし、私は、その現れ方についても、「平等」は「平等」な考え方や社会の特質として現れるわけではない、と考えます。一見すると正反対の、不平等な社会編成や、閉鎖的・抑圧的なしくみの形で表れる場合もある。いやむしろ、そのほうが多い、と考えます。ただ、実際の歴史的事実として明らかにされているさまざまな事象のなかから、「平等」の「不平等な現れ」を見つけ出すためには、なにか方法論というか、思考の枠組みがないと、まっさらに見ているだけでは、なかなかに困難です。

 

 そこで、ちょっと思い出したのは、ヘーゲルの「疎外論」です。「疎外論」は、マルクス主義、実存主義、フランクフルト学派、さらにはもっと一般化され通俗化された「現代社会論」に至るまで、さまざまなかたちで流布されていますが、そのおおもとがヘーゲルであることは、異論がないでしょう。

 

 通俗化された形でいうと、「疎外態」という考え方があります。現代社会の人間は、人間本来の生き方をしていない、「疎外態」となって生きている、というような言い方がされます。これを私流に変形すると、歴史に備わった本来的な「理念」ないし「原理」が、現実の社会事象として現れるときには、しばしば「疎外態」として現れる。本来の「原理」とは似ても似つかないものになって現出する、ということです。

 

 このような考え方ができるのか? してよいのか? ‥‥もとの原理とは違うものになって現れる、という考え方を安易に適用すれば、何でもかんでも、それはしかじかの「理念」の現れである、と言ってしまうことになります。これではまったく無内容な、オカルトもどきです。

 

 そういうオカルトに陥る危険を避けるためには、「疎外論」のような、利用できる枠組みがあるのであれば、参照しておいたほうがよいのではないか? ‥‥そう思ったので、ヘーゲルをかじってみることにしました。

 

 

 すこし調べてみると、ヘーゲルの「疎外論」は、『精神現象学・序論』が主要なソースになっているようです。『序論』だけでなく、『精神現象学』の本文にも、「疎外」という語が多出する箇所があります。

 

 ただ、ちょっと不安なのは、多くの論者がヘーゲルの「疎外論」を、人間「個人」と、「社会」「国家」「歴史」とのあいだに生起する問題として論じていることです。「自己疎外」の主体――自分から疎遠になってしまう主体、自分とは疎遠なものを造り出す主体――は、あくまでも「個人」としての人間なのです。しかし、私は、社会そのものが持っている「理念」「原理」が、ある場合には「疎外態」として現れる…そういうことを考えたいので、これはネックになるかもしれません。

 

 おそらく、ヘーゲルの「疎外論」を最初に継承するというか変形して論じたフォイエルバッハが、「人間主義」を前面に立てたために、「疎外」といえば人間「個人」の「疎外」――ということになってしまったのかもしれません。しかし、ヘーゲル自身は、「疎外」の主体を「個人」には限定していないのではないか? なぜなら、ヘーゲルにとって「主体」とは、「絶対者」、すなわちこの世界そのものだからです。

 

 

  

 

 


【2】ヘーゲル哲学の根本思想

 

 

 中公『世界の名著・ヘーゲル』の解説者・岩崎武雄氏によれば、

 

 

『ヘーゲル哲学〔…〕の言わんとする根本思想は案外簡単なもので〔…〕


  歴史のうちには我々人間の手でどう動かしようもない法則があり、この法則によって歴史の過程は必然的に定められている、

 という思想である。ヘーゲルの哲学はこの根本思想の基礎の上に立って、それに論理的形態を与えることによって成立した
〔…〕

 

 ヘーゲルが、フランス革命やテロリズムに遭遇する中から、啓蒙主義的な合理主義思想の限界を感じ取り、ここを超えでるために歴史の法則性に注目していった、とする見解である。〔…〕ヘーゲルの言葉(『世界の名著・ヘーゲル』,p146)を借りると、「真なるものは、その時がきたときにのみ現われる」のであり「早く現われすぎる」ことも「未熟な公衆しか見出さない」ということもない。まさに実現されるべき時期がこなければ実現されえない。絶対者は諸現象の変化を通じて歴史のうちに自己を実現していくものであり、歴史はその過程と考えてよい、とするものである。』

才野原照子「「自己疎外と自己形成」に即してヘーゲルを読む ―『精神現象学』「序文」を中心に―」日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No. 4, 449-459 (2003), zitiert hier: p.453.

 

 

 フランス大革命の動因となり導き手となった「啓蒙思想」とは、人間理性が考える純粋に合理的な思想をそのまま実現すれば、人間の社会は完全に理想的なものとなる。だから、人間に課せられた課題は、感情や迷信や思い込みを排除して純粋に合理的に思考し、その結果を実現することだ。合理的思考の結果を実現することを妨げる社会の慣習や悪弊を、ことごとく除去することだ、ということになります。その場合、歴史というものは、基本的に参照に価しません。むしろ、歴史的伝統も慣習も、破壊すべき対象にすぎないのです。

 

 しかし、そうして出発したフランス革命は、際限のないテロリズムをもたらし、断頭台の嵐に見舞われました。「不合理な弊害の除去」を叫んで政敵を次々にギロチンにかけた人びとが、つぎのフェーズでは、みずから次々にギロチンにかけられ、その繰り返し。いったい何が「合理的」で正しいのかさえ、しまいにはわからなくなってしまいます。この状況を見て、もっともショックを受けたのは、隣国ドイツでフランス革命やナポレオンに熱狂した進歩的な人びとでした。

 

 ベートーヴェンが有名ですが、青年時代のヘーゲルも、そのひとりだったのです。そして、長い思索の結果ヘーゲルが到達したのは、フランス革命以前の「アンシャン・レジーム」絶対主義体制も、「啓蒙思想」の現出も、フランス革命の勃発も、ナポレオンの活躍も、すべては「絶対者」という、人間の思惟を越えた絶対的理性・世界精神が自己展開する姿にほかならないのだ、という上記の思想だったのです。

 

 人は、自分の思想は現れるのが早すぎたので、人びとに理解されない、とか、愚昧な大衆が私の思想を理解しないのは、彼らが未成熟だからだ、などと言います。しかし、ヘーゲルに言わせれば、そんなのは知識人の思いあがった自己欺瞞にすぎません。「絶対者」は常に、現れるべき時に現れる。早すぎることも、遅れることもない。世に容れられない思想家は、自分の未熟を、歴史や大衆のせいにしているだけです。

 

 

 

 

 ヘーゲル哲学の理解に不可欠な・この「絶対者」というものは、キリスト教の伝統がない私たち日本人には理解が困難なのですが、さいわい私たちは、スピノザの思想に接することによって、この考え方になじんでいます(⇒:【必読書150】 スピノザ『エティカ』(3))。ヘーゲルの「絶対者」は、スピノザの「神=自然」と同じ汎神論的唯一神です。ただ、違う点は、スピノザの「神=自然」が、世界の個々の有限な存在者とは対立するものである(これは、ヘーゲルから見た偏見ではないかと私は思いますが、いまは深入りしません)のに対し、ヘーゲルの「絶対者」は、有限で相対的な個々のものを離れては存在しない、有限者としてのみ「絶対者」は現れかつ存在する、ということです。



『ヘーゲルの絶対者観をかいつまんで述べると次のようになる。絶対者(Absolutes)は精神であり理性である。本質は自由である。歴史のうちに自己を実現していくものである。〔ギトン註――「絶対者」は、無限の実体であるけれども〕有限者と対立するものではない。有限者を自己のうちに包み込む〔…〕有限者を自己のうちに含んだ無限者である。

 絶対者は、それ自身において無限であると同時に有限でもある。そしてまた、普遍と特殊の総合であり、有限者の変化を通じて自己を展開していくものである。』

才野原照子「「自己疎外と自己形成」に即してヘーゲルを読む ―『精神現象学』「序文」を中心に―」, a.a.O.

 

   

 つまりこの、「絶対者」が、歴史の展開過程で、さまざまな個別の有限な事象となって現れ、展開してゆく――ある「理念」が、歴史の展開に応じて、さまざまな形をとって、現実の人や集団や行動、事件となって現れる――という考え方は、私の求めているリクツに近いかもしれません。ちょっと期待がもてます。先を読んでみましょう

 

 

『ヘーゲルの絶対者観は、

 

  「真なるものは実体(Substanz)であるだけでなく主体(Subjekt)である」、「絶対者は主体である」〔ヘーゲルの言う「主体」は、①属性・性質に対して、そうした性質をもつ「基体」「実体」。②述語に対する「主語」。③哲学を思惟する者の「主観」「認識主観」。④概念的把握において対象となるもの。の4つの意味をもつ――ギトン註〕

 「真なるものは全体である」、「絶対者は精神である」というような表現によって、そのまま全てを語ることができる。』

才野原照子, a.a.O.    

 

 

 注に記した「主体」の4つの意味のうち、重要なのは④です:「概念的把握においては、論弁が〔…〕実体や主語として定立しているものは、自分自身が定立したのであり、存在的に浮動なものではない。生きている精神として自分自身を反省して規定を定立し、区別や対立に陥りながら、統一を回復し、常に自分自身の根拠に帰還しているところの主体である。」――ヘーゲルを解りやすく説こうとしている解説じたいが難解ですが、私なりに把えてみますと、

 

 「世界」そのものである「絶対者」「絶対精神」の自己運動として、世界のさまざまな有限な「もの」や、諸概念、歴史的事象が生み出されてくる。それらの実体は、「絶対者」がみずから定立したのだから、それらそれぞれが弁証法的な自己運動を行なって、そのたびに・つねに、「自分自身の根拠に還ってくる」。

 

 そういう意味で、「真なるものの全体」すなわち「絶対者」「絶対精神」とは、固定した死んだ客体などではなく、生きた精神であり、「主体」なのだと。



『学問体系を確立するにあたってヘーゲルは、この根本思想に基づいて「弁証法」という方法を用いている。〔…〕弁証法の最初は「意識の展開」に始まっている。絶対者観と深く関連しているため、歴史の過程がそのまま弁証法的過程として考えられるようになる。そこに「歴史の弁証法」という意味が加わる。さらにそれが「概念上の展開」という意味に転化する。矛盾の存在を認めることで「矛盾の論理」という意味が加わる。さらに汎論理主義的な意味も加わる。そうしてこの上に、ヘーゲル独特の難渋な文章表現が加わる。結局、真意を捉えようとするあまり、さまざまに解釈がなされることになる。』

才野原照子「「自己疎外と自己形成」に即してヘーゲルを読む ―『精神現象学』「序文」を中心に―」, pp.453-454.

 

 

 ヘーゲルの「弁証法」は、さまざまな志向の人によって、さまざまな解釈が加えられているために、その結果は、まるで同じ思想とは思えないほどまちまちです。しかし、そのようにさまざまに解釈できるということは、「弁証法」という思考の枠組みは、たいへんに汎用性がある、ということでもあります。

 

 しかし、「弁証法」に深入りする前に、ここで回を改めることにします。

 

 



 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらは自撮り写真帖⇒:
ギトンの Galerie de Tableau