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【9】『精神現象学』の目次を見ると‥

 

 

 ヘーゲルの『精神現象学』を、「疎外論」に焦点をあてて学んでみよう、というのがこの【中間考察】の狙いです。本格的にヘーゲルのテクストの読み取りに入ってしまうと一般向きではなくなるので、アメーバでは、その手前までを皆さんとともに歩むつもりで書いています。

 

 ここでもう1本、解説論文を見ておきたいと思います。平子友長氏というマルクス経済学者の論文(⇒:平子友長「ヘーゲル『精神現象学』における疎外論と物象化論(1)」, in:北海道大学『經濟學研究』,34-2,1984.09.,pp.38-49.)で、やや専門性が高くなりますが、ネットを見ると、政治的に批判する立場の人からも好意的に受けとめられているようです。ルカーチ廣松渉氏以来の和製「マルクス主義」の枠を越えて、ヘーゲルの本来の議論に踏みこんでいる点が評価されています。

 

 ただ、残念なことに、著者は (2) 以降を書かなかったようで、ヘーゲルに関しては「物象化論」のみの論考となっています。「物象化論」というのは、『精神現象学』の第Ⅴ部にかかわる議論で、「疎外論」が出てくる第Ⅵ部の前提になる部分と言えます。

 

 『精神現象学』の解説や関係論文をいくつか読んで、ヘーゲルのテクスト自体も、翻訳ですが、あちこち虫食って読んでみると、‥どうも、「疎外」というのは、『精神現象学』全篇で論じられてるんじゃないか、と思うようになりました。内容的には、そうなのに、「疎外」というコトバは、ほとんど第Ⅵ部にしか出てこないのは、なぜなのか? もしかするとヘーゲルは、第Ⅵ部を書いていた時に「疎外」という語を思いついて、使ってみたら気に入って、第Ⅵ部でたくさん使ったんじゃないか……そして、本篇を書き終わった後で執筆した「序文」でも、思い出して少し使ったんじゃないか。

 

 こちらの三段階の図にも書いたように、「疎外」というのはけっきょく「弁証法」の2段目に移っていく運動のことで、「対自」とか「外化」とか、同じ意味を表す語はたくさんあるので、べつに使わなくても支障はないのです。だから、第Ⅵ部に多いのは “たまたま” なのかもしれない。それなのに、20世紀になると、この語だけがなぜか一人歩きして、こんなに一世を風靡してしまうとは、さすがのヘーゲルも予想していなかったんじゃないんかな。。。 そんなことを考えています。

 

 ところで、平子氏の論文ですが、考察の対象にしているのは、第Ⅴ部「理性」の「B章」と「C章」です。

 

  ヘーゲル『精神現象学』の目次構成

 

序文

 

 ● 意識(対象意識)

Ⅰ 感覚

Ⅱ 知覚

Ⅲ 悟性

 

 Ⅳ 自己意識

A 欲望(生命)

B 承認(主人と奴隷)

C 自由(禁欲主義,懐疑主義,キリスト教)

 

 Ⅴ 理性

A 観察(自然科学、心理学、頭蓋論)

B 行為(快楽(けらく)と必然性(さだめ)

     心胸(むね)の法則(のり),徳と世路(せろ)

C 社会(だましあい,事そのもの)

 

 Ⅵ 精神

A 人倫(民主制ポリス,貴族政,皇帝専制) 

B 教養(絶対王政,啓蒙,革命)

C 道徳性(観念論とロマン主義)

 

 Ⅶ 宗教

A 自然的宗教

B 芸術宗教

C 啓示宗教

 

 Ⅷ 絶対知

 

 第Ⅵ部は、前々回と前回で、ひととおり見ましたので、ここでは、この本のはじめから第Ⅴ部までを、ざっとまとめておきたいと思います。

 

 まず、最初のほうで、章立てが少し混乱しています。ⅠⅡⅢ部は、まっさらの人間の意識が、自分のまわりの世界に対象を見出して、見たり感じたり考えたり、ということで、3部まとめて、「対象意識」について論じています。カントの『純粋理性批判』とよく似たはじまり方です。

 

 しかし、カントにはない「弁証法」の運動が、すでに始まっています。つぎの「第Ⅳ部」になると、「意識」は環境に、自分と同じ「意識」を見出して、他人の眼を意識するようになります。相手が自分を見る視線で、自分も自分を見ているわけで、意識は二重化して「自己意識」になります。第Ⅳ部のメイン・テーマは、「生命」と「承認」です。

 

 「生命」というと、なにか躍動したみずみずしいものを思い浮かべるかもしれませんが、ヘーゲルはそんなにスナオじゃありません。「自己意識」が「生命」ならば、環境にも生命あるものを見出すわけで、生命にとって他の生命は捕食の対象です。「生命」は「欲望」を発揮して他者を破壊し、自分の栄養にして命をつなぎます。しかし、完全に食ってしまうと、他者はいなくなりますから、それではおもしろくない。「自己意識」は「自己意識」を相手にしているときが、いちばん満足できるのです。相手は生かしておいたほうがよい。そこで、「主人と奴隷」という関係になります。

 

 奴隷は主人に殺されたくないので、いつも主人の意向を気にするし、主人の言うことを聞きます。そこで主人の「承認」欲求はみたされる。主人・奴隷の関係では、「承認」は一方的です。「承認」は双方的でなければ、ほんとうの満足を与えてくれないし、「自己意識」は「個」として自立することができないのですが、そういう境地に達するには、すこし迂回しなければなりません。

 

 奴隷は、主人の欲望をみたすために、労働をして、いろいろのものを作ります。殺されないためのブラック労働ですし、労働の成果はまるごと主人に持っていかれますから、完全な自己実現にはなりませんが、それでも労働すること自体で、自分の能力や才能を外化して客観化し、達成感を得ることができます。こうして、労働が精神を育(はぐく)んで、対象や環境に働きかける能力、自己を客観的に見る能力を高めます。これに対して、主人のほうは享楽しているだけですから、すこしも高まりません。この段階での「教養」は、満足を得ている主人ではなく、もっぱら奴隷に働くのです。奴隷のなかから、ストア哲学やキリスト教信仰などの普遍的な思想が生まれます。

 

 “主なる神” は人間の似姿であり、その神は、天地を創造したのですから、あらゆる実在は、人間が作り出したのであり、本来的に人間のものにほかなりません。こういう確信が、どこから生じたかというと、「労働」によって環境に働きかけ、自己実現をつづけた結果なのです。

 

 

『奴隷はせっせと働き、他物に働きかけて、これを形成してゆくことによって自分の主観的内面的のものを客観的なものに転換してゆきます。〔…〕つまり、いろいろの知識や技能が得られ、これによって、対象はもはや他者ではなくして自分のものであるという確信、すなわち無限性が生まれてくるのです。〔…〕しかし単なる労働と形成とではだめで、やはり畏怖と奉仕、ことに絶対的な主人である死の恐怖のあることが必要で、これによりあらゆる個別的のものへの執着をたちきり、自己の無限性や普遍性を実現してゆくことができます。そこで奴隷は単なる我欲にとらわれず、普遍的、客観的にものを考える力をもつようになるから、無限性の概念をうるのです。〔…〕奴の方が、自己の無限性を、つまり真の自由を実現することになります。

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』, 1996,ちくま学芸文庫,p.142.    

 

 

 このクダリを書いたヘーゲルは、マルクスサルトルも絶賛しているほどで、彼の思想の多面性がよく表れています。

 

 

Jules-Élie Delaunay(1828-91): "Moissonneurs"

 

 

 

【10】 第Ⅴ部――「理性」の登場

 

 

 さて、第Ⅴ部の入り口に達したときには、人間の意識も、奴隷になって厳しい訓練を受けたかいあって、単なる意識を脱し、「理性」となっています。「理性」とは、「対象意識(ⅠⅡⅢ)と自己意識(Ⅳ)の統一であり綜合」です。つまり、「自分は、あらゆる実在である。」という確信に達した人間精神のことです。

 

 ただ、『精神現象学』の「意識」(人間精神)は、各段階で、その時々の自分に合った対象を「実在」のなかから適当に選んで、それを相手に自己研鑽をつづけてゆく感じなのです(『ヘーゲル全集・4 精神の現象学・上巻』,金子武蔵・訳,p.695)。たとえば、「Ⅳ-A」では猛獣と獲物、「Ⅳ-B」では奴隷と主人が、「意識」の自己と他者との関係でした。「Ⅴ-A」では科学者のように環境の事物を対象にして「観察」しますし、「Ⅴ-B」では、もっぱら対人関係に没入して行動します。そういう意味では、遍歴の修行者が、相手や修業場所を変えながら研鑽を積んでゆくイメージで読むのもいいかもしれません。

 

 

『「理性〔…〕という段階の最初におきましては、理性はすでにあらゆる実在であるという確信をもってはいましたが、この確信はまだ確信たるにとどまって、客観的な真理性をもつものではありませんでした。そこで理性はこの確信を確認するために、「観察」を行なうのですが、これによって、対象あるいは存在のうちにも、理性ないし法則のあることを発見しました。


 しかし、これと同時に、自分自身はただ働きにおいてのみ成立しうるものとして、対象や存在とはちがったものであることに気づき、自分を行為的に実現しようとします。そうして「行為」を通じて理性は、個人としての直接態を洗いおとして「社会」生活を営むことができるようになりますが、さらに直接態が一層純化せられるに及んで人倫のうちに安住することができます。そこに理性の確信は真理性にまで高められて、本来の意味における精神、即ち〔…〕 Ⅵ「精神」が誕生するのです。』

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』, 1996,ちくま学芸文庫,pp.217-218.    

 


 「人倫 Sittlichkeit」とは、習俗 Sitte から派生した語で、「習俗にしたがうこと」あるいは「習俗となって現れた人びと(民族,国民,…)の精神」を意味します。「ならわし」に従う、などというと、個人が自分を抑えつけて言いなりになるニュアンスがありますが、ヘーゲルの場合には、むしろ、習俗に従うことによってこそ個々人がより自由に生きられるような・理想的な社会を想定してのことなのです。現実にそれが実現していた社会として、ヘーゲルは、古代ギリシャの民主制ポリスを考えています。したがって、そこでの「習俗」は、国法(ポリスの法)や神々の宗教を含みます。ただ、そういうポリスの「ならわし」や人びとの倫理観念は、理性的な反省を重ねて考えた結果ではなく、自然にできあがったものですから、多分に不合理で、迷信もいっしょくたに信じている部分があります(たとえばソクラテスは、理不尽な判決を喜んで受け入れて死刑になります)。ともかく、ポリスの「人倫」は、初期的に成立した理想的な社会で、後世のヨーロッパ人は、その回復をめざして努力してきたのです。

 

 そうすると、このような「人倫」を目標とする人類の “研鑽” が問題になっている「第Ⅴ部」とは、どんな時代を念頭においたステージなのか?‥といいますと、近代の入り口であるルネサンス時代が、それにあたると思われます。

 

 第Ⅴ部における「理性」の活動の結果、自己形成を遂げた第Ⅵ部「精神」が、まず訪れるのは「人倫の国」――すなわち古代ギリシャのポリスにおける個人と国家との幸福な調和状態です。これは、ルネサンス人が夢見た理想と一致しています。

 

 そこで、「第Ⅴ部」の内容をざっと概観しておきますと、

 

 「Ⅴ-A-a 観察」は、ルネサンスに始まるガリレイ,ケプラー,ホイヘンス(ハイゲンス),フックなどの科学的実験・観察に対応します。

 

 「Ⅴ-A-b 行為」の「快楽(けらく)」は、宗教の束縛から解放されたルネサンス人の・奔放な快楽追求の営みを彷彿とさせます。

 

 「心胸(むね)の法則(のり)」については、ヘーゲルは、シラーの戯曲『群盗』を引き合いに出し、「徳と世路(せろ)」には、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を「徳の騎士」として登場させています。

 

 さらに、次の節「Ⅴ-C 社会」は、平子友長論文によると、アダム・スミスが『国富論』で称揚した近代の商品生産者社会のような、自由競争によって成立する自由市場社会を念頭においています。しかし、私はむしろこの C節は、スミスが観察した 18世紀イギリスよりも、ルネサンス文化を成立させた 13-15世紀イタリア、あるいは 16-17世紀オランダの商業都市にかかわるものだと思います。

 

 ついでに言いますと、【基礎考察】で触れた網野善彦氏のいう日本中世の「無縁」…とくに自治都市にかかわる部分(⇒:『生きるための日本史』(15))は、西洋史で「ルネサンス」諸都市がもったのとよく似た歴史的位置づけにあるように思われます。その点で網野氏は、ブローデルを通してヘーゲルの影響を受けていると言えるのかもしれません。

 

 

 

 

 ところで、「Ⅴ-A-a 観察」のさいごのところに「頭蓋骨論」というのが出てきます。これは、人間の頭蓋骨の形や大きさを研究して、その人の性格や知能、とくに犯罪傾向の有無を判断しようというもので、当時はこんなものが科学として行われていました。行き過ぎると、頭の形で有罪かどうか決めたり、社会防衛のために、じっさいに罪を犯す前に捕らえて安楽死させようということになりかねません。

 

 ヘーゲルが「頭蓋骨学」を取りあげたのは、信用できない科学の例として否定するためですが、否定の理由は「人権」ではなくて、「科学的」過ぎるからです。

 

 

『大脳に一番近いのは頭蓋骨で、〔…〕大脳に興奮が生じたりすると、表面の頭蓋骨にも影響を及ぼす。そこで骨相で人の性格を判断することが可能だというわけです。しかしヘーゲルによれば、これも精神の自由を無視した見方であります。精神も物によって、〔…〕頭蓋骨によって束縛せられ〔…〕ますが、しかし同時にもっと自由なものであるというのがその理由です。

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』, 1996,ちくま学芸文庫,p.185.    

 

 

 当時の「頭蓋骨学」にあたるものを今日の科学で探せば、人間の心理は脳内の化学反応で完全に説明できるという考え方だと思います。大脳生理学と同じ説得力と精密な議論で、この考えを否定できるかどうか考えてみてください。なかなか難しいのではないでしょうか。

 

 しかも、ヘーゲルの場合には、「物とは精神であり、精神とは物である」という考えを基本に置いています。唯物論ではないために、かえって「精神=物」を否定しにくくなっているのです。そこで、ヘーゲルがここで持ち出しているのは、「無限判断は、肯定判断であると同時に否定判断である」というテーゼです。

 

 

『頭蓋論は根本的にいうと、理性が物であり、物が理性であるということに、その根拠をもっており、この根拠によって立つものが観察的理性にほかならないのだから、頭蓋論はこの理性の極限であり、完成であります。〔…〕しかし、精神や理性が物であるのは、右の無限判断の肯定面において成立していることにすぎません。〔…〕否定面からすると、〔…〕〔…〕は精神などから分離したものですが、この分離の面を頭蓋論は忘れているというのです。〔…〕結合の一面だけを見て、分離の面を全然忘れている、〔…〕客観や物に対して、主観や精神や自己〔…〕は自由に働き活動するものである〔…〕活動をやめるならば、人格は人格として存在せず、また、精神は生き動くときにのみ存在すると申せましょう。

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』, 1996,ちくま学芸文庫,pp.186-187.    

 

 

 じゃあ、一体どっちなんだよ?‥と言いたくなりますが、両面を考えたうえで、現実の行為において「客体との統一をはからなくてはならない」というのが、ヘーゲルの答えです。つまり、「観察」だけだと、どちらとも言えて、結論は出ない。「行為」においてこそ「理性」は試される――試練を受ける、ということです。

 

 

 『頭蓋骨論の「無限判断」において、理性の主客統一は理論的に見いださるべきものであるよりも、むしろ自己意識において実践的行為的に実現せらるべきものであることが想到せられ、かくて観察的理性は行為的理性に移る。』

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』, 1996,ちくま学芸文庫,p.223.    

 

 

 そこで、「Ⅴ-B 行為」に移りましょう。

 

 

『「理性章」B は a「快と必然性」b「心の法則,自負とその錯乱」c「徳と世の成り行き」の節から構成されている。ここでの意識の経験の歩みは,イポリット〔1907-68 フランスのヘーゲル哲学者――ギトン註〕によれば,近代的個人主義の三形式を扱った場面である。言い換えれば,近代市民社会における代表的人間像の三つの類型を扱った場面とも言える。近代市民社会にふさわしい人間の自己形成の発達過程を描いたものといってもいいだろう。〔…〕

 ヘーゲルは確かに,ゲーテの『ファウスト』の主人公,シラーの『群盗』のカ-ル・モーア,セルバンテスの『ドン・キホーテ』あるいはロマン主義の改革者を念頭において,これらの人物像を批判的に捉え返していく』

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」 in:『日本福祉大学研究紀要 現代と文化』,128号,2013.9.,pp.9-10.

 

 

 しかし、↑いちばん上の「『精神現象学』の目次構成」を見ると、金子氏訳では、このあたりに何やらおかしな用語が並んでいます:「快楽(けらく)と必然性(さだめ)」「心胸(むね)の法則(のり)」「世路(せろ)」……。

 

 第Ⅴ部「理性」は、意識の自己が「精神」となる一歩手前の状態ですから、自己をとりまく環境のほうも、まだ社会と言えるより少し前の状態です。「ルネサンス」、つまり、近代社会の一歩手前なのです。そこで、訳者の金子武蔵氏は、「世間(せけん)」「世の中」というやや古めかしい日本語、また明治時代に使われた「心胸(むね)の法則(のり)」「世路(せろ)」「人情の向背」といった表現を巧みに利用して、ヘーゲルの描写を、日本に “社会” が成立する少し前の状態に移し替えているのです。

 

 第Ⅴ部・B章は、「理性的な自己意識の己れ自身を介する現実化」と題され、そこでの主要なテーマは、a「快楽(けらく)と必然性(さだめ)」,b「心胸(むね)の法則(のり)」,c「徳と世路(せろ)の戦い」です。「世路」とは明治時代のコトバで、露伴、一葉に用例がある:「世渡りの道、人世(じんせい)行路」といった意味です。見たところ、プリミティヴな個人の内面の葛藤が主題になっているようですが、それは世間とのあつれき、人情の向背とかかわっており、この章の最後には「徳の騎士」が登場して、そうした荊棘(いばら)の人世行路と戦いますが、あえなく敗退‥という筋書きです。

 

 つづくC章は、「即自かつ対自的に実在的であることを自覚している理性」と題されています。前章での矛盾がいったん解決されて「総合」のステージを迎えたかのようですが、すでに新たな葛藤が始まっています。主要なテーマは、まず、「事そのもの」ないし「物象そのもの die Sache selbst」。個体の側のステージ進化に対応して、前章の「世路」「世間」は、より複雑に編成され、「社会」に近いものになっています。それは、「だましあいの国」または「精神的動物の国」とも呼ばれます。

 

 つづいて、「立法的理性」と「査法的理性」がテーマになります。

 

 

 

 

 

【11】 平子論文について。――ホッブズとアダム・スミス

 

 

 ところで、平子友長氏の論文ですが、ざっくりと大意を言えば:

 

1 ヘーゲルは、「Ⅴ-B」では、「物化」について述べており、「物化」された世界とは、ホッブズが描いたような「万人の万人に対する戦い」の世界である。

 

2 これに対して、「Ⅴ-C」では、「物象化」が述べられている。「物象化」によって成立する世界は、アダム・スミスが描いたように、各人はもっぱら自己の利益を追求しているにもかかわらず、それらの行為が総和されると、社会全体として福祉を増進する結果となる、という調和的な世界である。

 

3 このことは、ヘーゲルを参照したマルクスの「疎外論」「物象化論」の理解に影響を及ぼす。というのは、従来「マルクス主義」界隈では、もっぱら上の「Ⅴ-B」に基いて『資本論』の「物象化」を解釈してきたからである。

 

 このうち、3 については、ヘーゲルよりもマルクス解釈の問題ですので、ここでは検討から除外します。

 

 しかし、2 は、見たところ、ふつうのヘーゲルの読み方とちがう斬新な解釈で、しかも説得力があります。とくに、アダム・スミスの自由主義経済観の影響を読みとっているのが興味深い点です。↑上に出した目次式の「構想」では、「Ⅴ-C」には「だましあい」という内容見出しがあり、金子武蔵氏はこれを重要点として「Ⅴ-C」を解釈しています。しかし、金子氏の理解でも、この「だましあい」とは、人々の活動を混乱に陥れるようなものではなく、むしろ活力を与えるものです。「だましあい」による矛盾・「二重性」をもはらみつつ、全体としては、安定した活発な活動が展開されてゆくのです。

 

 市場における商品生産者の自由競争にしても、「だましあい」の面があることは否定できません。経験のある商人ならば、一定範囲の「だましあい」は織り込んだうえで取引するのが一般ではないでしょうか? それでいて、市場取引が不可能になるほどの軋轢もなく、安定した取引が展開されているのが実際なのではないか?

 

 したがって、このような多少の混乱や矛盾もふくみながら、人びとの行為が織り合わされて、社会がダイナミックに形成されてゆくプロセスを表現するものとして「Ⅴ-C」を理解する平子氏の観点は、注目にあたいすると思うのです。

 

 これに対して、1 の平子氏の解釈には、批判が多いようで、私も疑問に思う点があります。「Ⅴ-B」は、ホッブズの「万人の万人に対する戦い」とはかなり違うのではないかと思います。ホッブズの場合には、社会の成立を不可能にしてしまうような「万人の戦い」を抑えつけてやめさせるために、強力な「国家」が出現するのですが、「Ⅴ-B」で問題になっているのは、奔放な「快楽(けらく)」、つまり性愛などのきわめて個人的な関係なのです。国家が出てくる場面ではない。「必然性(さだめ)」も「心胸(むね)の法則(のり)」も、国家権力とは無関係ですし、「徳の騎士」というのはドン・キホーテです。


 したがって、「Ⅴ-B」については、平子氏の 1 の解釈には乗れないので、金子氏ほかの解釈に依ろうと思います。


 

 

 

 

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