古の里 太宰府の四季と歴史 -4ページ目

残暑・筑前国分寺

国分僧寺と国分尼寺は741年に聖武天皇の詔勅によって建立が始まり、743年には、東大寺を総国分寺とする東大寺建立の詔を出しました。その場所として国分寺は国の精華であるから、必ず良い場所を選んで建てるように命じました。国分僧寺は全国に68箇所に建立されましたが、財政上順調には行かず、一部は私寺をもって国分寺に当てられました。このような歴史的大事業は桓武天皇の平安遷都、台蜜、東蜜の勃興により、平安末期から鎌倉期には薬師寺東塔や唐招提寺金堂を残し、次第に姿を消していきました。

筑前国分寺、国分尼寺は観世音寺の北西、四王寺山のふもとにあり、水城を一望に見ることができます。建立の時期は明確ではありませんが、801年にはその存在が文献に示され、それ以前に建立されていたことが窺えます。その存在は、1035年には文献に示されていますが、鎌倉期には礎石を残すまでになっていたことが筑前国総風土記に記されています。現在は、国分寺跡の一郭に龍頭山国分寺という真言宗の寺が建っています。筑前国分寺遺跡の近くには「文化ふれあい館」(入場無料)があり、その庭には原寸の1/10のスケールの復原された七重塔があります。総高5.2m余りで、実際の建物は高さ52mと考えると当時の壮大な風景が忍ばれます。一方、国分寺はどんな役割を担うものであったのでしょうか。国家鎮護と無病息災を願って建立されたと言え、結果的には大和朝廷の威勢を示すものではなかったのでしょうか。


                    復元された筑前国分寺七重塔1/10スケール


                             七重塔跡


                            講堂跡


          国分窯跡

国分寺跡から徒歩5分のところに国分寺窯業跡があります。ここが、大宰府官で用いる瓦や土器などを焼いた場所で、19344月にこのあたりの桑畑を掘り起こしている最中に「鬼瓦」が発見されました。それは、太宰府独特のものであり、その源流は慶州(新羅)の鬼面文瓦に求められ、大宰府の瓦作りは、新羅からの帰化人の手によって始められたと推測されています。



 
太宰府市分化ふれあい館(入場無料)現在は空海についての催しが行われています。


 
             五条付近の御笠川から宝満山を望む水彩スケッチ

太宰府天満宮

仏教、キリスト教とはと問われると釈迦、キリストの教えを体系化したもので、お経は哲学的で新約聖書は道徳的なものに感じられます。しかしながら、神社とは問われと聖典もなく、教義もないようであるようで困ってしまいます。しかしながら、私はこの曖昧さこそが真の「宗教的」ではないかと思うときがあります。天満宮も曖昧さを充満させたその一つであると思います。天満宮は菅原道真が没した翌々年の905年に筑前安楽寺天満宮が創建されました。明治の神仏分離まで天台宗の寺院でもありました。天満宮は全国に14千あると言われています。「天満宮」=「菅原道真」です。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」に由来します。現在の本殿は、1591年に、当時の筑前国の領主であった小早川隆景が、5年をかけて造営、竣工したものです。菅原家は代々学問をもって宮中に仕え、菅原道真は宇多天皇に重用されて右大臣にまでなりました。そのため現在では学問の神様、受験の神様とされており、毎年正月を過ぎると受験生で賑わいます。太宰府天満宮と京都の北野天満宮が天満宮の2大拠点となっています。まさに受験も神頼みで曖昧さがここにあります。



道真の遺言に「私の亡骸は牛の車に乗せ、人に引かせずに、その牛の行くところに止めよ。」があり、遺言のとおり、牛が止まったところに道真を葬り、その上に社殿を建てたのが安楽寺の創草であるとされます。



                 本殿

   


  飛梅          


              楼門(国の重要分化財)


  

梅雨の水城

いよいよ7月に入り、梅雨も本格的になりました。九州では集中豪雨による土砂災害が心配されています。今回は「梅雨の水城」を紹介します。水城は現在も久留米・熊本・佐賀・長崎へ通じる要所で、旧国道3号線(県道112号線)と県道574号線と交わるところには車も止められる公園があります。そこから東へ登り、眼下の水城を眺めると重要な地点に水城を築いたことが納得させられます。水城が築かれたその当時の日本を取り巻く国際情勢は厳しいものであったことが窺い知れます。663年に白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に百済・大和朝廷軍は破れ、百済は滅亡し、大和朝廷も朝鮮半島から完全に撤退することになりました。そこで664年に新羅の攻撃から大宰府を守るために堀と土塁の水城が築かれました。土塁は、高さ14m、幅80m、長さ1.2kmあり、その博多湾側にあった堀は、幅60m、深さ4mで水を貯えられていました。朝鮮半島情勢も刻々と変化し、新羅も滅び、その後は高麗の来襲や刀伊(とい:満州:女真族)の度々の略奪行為があり、対馬、壱岐、玄界灘の海岸に住む人は悩まされました。その後1274年蒙古(元)の来襲もありましたが、幸いにも水城は戦場とはなりませんでした。今考えるとその当時の大和朝廷はなぜ無謀にも20万人以上の新羅・唐の連合軍に戦を挑んだのか分かりません。国際情勢に疎かったのも知れません。


                水城跡



                     水城


 
  大宰府側水城                      博多側水城



            水城土塁上