戒壇院(6月)
大宰府を経て平城京に入った鑑真は755年に奈良の東大寺に戒壇院を始めて建立し、戒律が伝えられました。この戒律を守れるものだけが僧として認められることになりました。その結果、仏教界の規律は守られるようになりました。戒壇で戒を受けるには厳しい資格試験があり、かつ奈良より遠い僧尼にとっては困難を伴いました。そこでその後、761年に太宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築きました(天下の三戒壇)。現在の戒壇院は1703年に観世音寺から独立し、
戒壇院を望む

戒壇院 不許帯酒肉入境内
戒壇院
戒壇院スケッチ(水彩+色鉛筆)
大宰府の鬼門除け 6月の竃門神社
東北の方位が鬼門とする思想は前漢(BC2世紀)の時代と言われ、大宰府政庁が設置される際、664年に鬼門除けとして大宰府政庁の東北の方位である竃門神社に八百万神を祀りました。さらに673年、心蓮(しんれん)という僧が山中で修行中に玉依姫が現れたとされることにより、朝廷によって社殿が造られたと伝えられています。また、最澄は瀬戸内海で暴風雨に遭い、難破した遣唐船の修理を待つ間の約一年間を筑紫で過ごし、803年この山に参籠して薬師仏4体を彫って竈門神に入唐求法、航海の安全を祈りました。
それ以後、高僧の往来が盛んで平安時代末から鎌倉時代には、麓の村に学問を主に行った宗徒方300坊、修行を主に行った行者方70坊の坊舎があったと伝えられ、優れた宗教文化が華開きました。しかしながら、室町時代以降の戦乱で衰退し,明治の神仏分離・廃仏毀釈により、仏教色の強い竈門山寺は建物のほぼ全てが破壊され、わずかに残った一つの社殿が竈門神社とされました。山中に石仏や堂跡が残っています。その後、祭神が神武天皇の母神の玉依姫命であり、かつての式内社、九州総鎮守であることなどから、1876年(明治28年)、官幣小社に昇格しました。
竃門神社は標高829.6mの宝満山の麓にあり、その山の登山口になっています。その宝満山は

竃門(かまど)神社


竃門神社入口

竃門神社スケッチ
6月の大宰府政庁(都府楼)跡
大宰府の起源は527年に起こった「磐井の乱」に起因するとも考えられています。当初は

政庁跡の石碑と礎石(レプリカ)



これらもレプリカの礎石です。 政庁中央部

都府楼の本格的発掘調査は1965年から行われました。当時はご覧のとおり、農地でした(現地の案内パネルからの写真)。現在は、きれいに整備され、太宰府市民の憩いの場にもなっています。

都府楼跡前のお堀の色鉛筆によるスケッチ