6月16日(火)
27.6℃ 🌄 4:25 🏙️ 18:59
今回の記事 は 前回投稿分からの続き、『
東京モノレール 』の車窓から思い立った『
江戸の海岸線 』を歩きます。

上の写真から180°振り返り、『
増上寺 』や『
東京タワー 』のある 東方向 (下写真右側 ) から続くなだらかな勾配を下ると『
浜松町 』駅。 大雑把に言うと、この線路の左側には 海

が見えている イメージです。
妄想モードON
余談ですが、現在進行中の
浜松町駅『
北口橋上駅舎整備 』が完了すると
地上階 にある現在の『 北口 』は 廃止となりますので、間もなくこちらの風景も様変わりしそうですね。


『
江戸の海岸線 』を探索する前に、浜松町駅 の 隣にある『
旧芝離宮恩賜庭園 』にも寄って行きましょう。


海に接していた「旧芝離宮恩賜庭園」
『 旧芝離宮恩賜庭園 』は説明によると、1678 (延宝6) 年、4代将軍・徳川家綱 から 埋立地 だったこの地を拝領した 老中『 大久保加賀守忠朝 』が 藩地の 小田原 から庭師を呼び集めて作庭、1686 (貞享3) 年までに完成した庭を「 楽寿園 」と命名したのが起源なんだとか。🤠

『
楽寿園 』は典型的な「
池泉(ちせん) を中心とした回遊式 」で 中心に
瀬入りの池 があり、干満 によって景色が変化するよう 工夫がされていたようですよ。


かつては
海 に面していたものの、
海面 の埋め立てが進められ「
潮入り 」の機能を失い、現在は 「 海水取入口跡 」のみが残っています。

水路 の石垣 や 鋼鉄製の
水門 が遺構として残されています。


『 芝離宮全図 』芝離宮時代の庭園平面図
大久保 氏より数氏を経て、幕末には
紀州徳川家 の 『
芝御屋敷 』となりました。更に 有栖川宮家 を経て 1875 (明治8) 年に 宮内庁 が これを買い上げ、翌年に『
芝離宮 』となりました。


1891 (明治24) 年には 「 迎賓館 」としての役割を果たすために園内に『
洋館 』を新築し、多くの 外国貴賓 を迎えた事もありました。

しかし 1923 (大正12) 年 の
関東大震災 で敷地内の建物の全てが灰燼
(かいじん)に帰し、現在ではその 遺構 である礎石 と、植物模様の彫刻が施された 大理石 の一部 が往時を偲ばせます。

AI・Gemini に再現をしてもらいました。
(妄想です。

)

関東大震災 の翌年、1924 (大正13) 年1月、『 昭和天皇 』の 御成婚記念 として 東京市(都) に 下賜(かし) され、庭園の復旧と整備を施して 4月より『 芝離宮恩賜庭園 』として一般に公開されました。
さぁ、投稿2回に渡って 色々と回りくどいお話しを混じえさせて頂きましたが、ここからが “ 本題 ” です。

江戸時代の海岸線を追って
渋谷・宮益橋 から『 渋谷川 』として渋谷区内を 2.6km 流れ、天現寺橋 で 港区 に入ると『 古川 』と名前を変えて 4.4km を下ってきますが、その終点もほど近い『 金杉橋 』。
頭上の 高速道路 に 風情 を消されてはいるものの、多くの「 釣り船 」や「 屋形船 」が係留されていて
水辺の街 を実感させる 独特な雰囲気を感じます。


歌川広重『 名所江戸百景 』の一枚、『 金杉橋芝浦 (1857年) 』により描かれた 浮世絵 には 間近に “ 江戸湾 ” が見えています。

テケテケの脳内では、『 線路 』を “
海岸線 ” に見立ててお散歩中。
ついてこれる?


新撰東京名所図絵 1902(明治35)年 芝金杉橋

地面の傾斜 とはいえ、建物が随分と斜めに見えていて怖い感じですね。
写真で気が付きました

1612 (慶長17) 年に当地・『
金杉 』の地に創建された『
圓珠寺 (えんじゅじ) 』をお参り。


『 圓珠寺 (えんじゅじ) 』の紹介文の中にも、「 金杉は、松平家の下屋敷が並ぶ 海ぞいの町 であり、当山は東海道につらなる 浜辺 の街道 にそって建立された 」とあり、疾走する『 モノレール 』の後ろに 海 が見えてきました。


いや、ここは『
蒸気機関車 』のほうがイイか。そんな 妄想 にも拍車がかかります。


『 圓珠寺 』でのお参りを終えて、ふと線路下の壁に目をやると「 皆様の町をきれいに致しましょう 金杉浜町 」「 きれいに致しませう 」などと書かれており、いつの時代だろう?
と、調べてみると、『 (芝)金杉浜町 』が存在したのは 江戸期から 1964年までで、「 きれいに致しませう 」は主に 戦前 の 仮名遣い であるため、戦後 (1946・昭和21年以降 ) は次第に使われなくなった・・という事から、かなり古くから書かれているようです。
なのに・・ ところが・・ このアリさま。
壁沿いにも、突き当たりにも ゴミ があり、『 昔も今も変わらない 』ようです。
かなりの数、書いてましたよ。

芝四丁目交差点 付近


大変、お待たせ致しました。前回投稿から続く、今回のテーマ『
江戸の海岸線 』へ、間もなく到着致します。


現在の 国道15号、『 第一京浜 』と呼ばれる道路 から海側に一本入った おしゃれな感じの道から左へ・・ いよいよです。

江戸の海岸線・芝浜の海


1872 (明治5) 年10月14日、わが国初の 本格的な鉄道 が 新橋〜横浜 間で開通しました。


テケテケの今いるこの場所は、現在『
本芝公園 』となっている所です。


時を経て、
蒸気機関車 は
電気 で走る『
電車 』になっています。
そりゃそうだ。

『 東京オリンピック・パラリンピック 』の開催を目前に控えた 1964 (昭和39) 年9月17日、浜松町から羽田空港を結ぶ『 東京モノレール 』が開業。

この場所こそが、前回投稿で A地点 としてご紹介をした場所になります。

現在、ここ『 本芝公園 』となっている場所は、下図の 最下部 緑色 で示された場所で、この辺りは 『 江戸時代 』よりも前から開けていて “ 本来の芝 ” という意味で『 本芝 』と呼ばれたそうです。

『
江戸時代 』のこの辺りは 海 に面した
砂浜で、魚が水揚げされたため、『
雑魚場 (ざこば) 』と呼ばれる
魚市場 がありました。


江戸八景 芝浦の帰帆(きはん)
渓斎英泉(けいさいえいせん) 1844〜1847年頃

『 雑魚場 跡 』を示す標。「 芝の漁業の主流となるのは、延縄(はえなわ)漁・網漁・鰻漁・海苔養殖 である。中でも芝の名前を冠した「 シバエビ 」漁は代表的なものであった。」と記されています。

上のアンダーパスの名に『 雑魚場架道橋 』として 「 雑魚場 」が 生きています。

ちなみにこのアンダーパスは、かつて “ 江戸 (東京) 湾 ” に通じる
水路 で、最後まで残っていた『
江戸時代 』の
海岸線 でしたが、芝浦が明治の末から次第に埋め立てられ、漁業も行われなくなって海水が滞留したので 1968 (昭和43) 年に埋め立てて、現在の『 港区立
本芝公園 』となっています。


舟が出入りするために橋台間に水路を確保していたことが 歌川広重 の錦絵に見て取れます。


砂浜をイメージする砂場 に、船の形を模した遊具・・ この場所の意味を知って見ると、深イイですね。


そして、この地・
芝浜 を舞台とした古典落語の演目があるので、wikipedia 様の資料と Gemini の漫画でご紹介しましょう。
19世紀中からあるんだとか。
『 芝浜 』
魚屋の勝は、腕はいいものの酒好きで、仕事でも飲みすぎて失敗が続き、さっぱりうだつが上がらない、裏長屋の貧乏暮らし。その日も女房に朝早く叩き起こされ、嫌々ながら芝の魚市場に仕入れに向かう。


しかし時間が早過ぎたため市場はまだ開いていない。

誰もいない美しい夜明けの浜辺で顔を洗い、煙管を吹かしているうち、足元の海中に沈んだ革の財布を見つける。


拾って開けると、中には目をむくような大金。有頂天になって自宅に飛んで帰り、さっそく飲み仲間を集めて大酒を呑む。


翌日、二日酔いで起き出した勝に 女房、こんなに呑んで支払いをどうする気かとおかんむり。勝は拾った財布の金のことを訴えるが、女房は、そんなものは知らない、お前さんが金欲しさのあまりに酔ったまぎれの夢に見たんだろうと言う。焦った勝は家中を引っ繰り返して財布を探すが、どこにもない。彼は愕然として、ついに財布の件を夢と諦める。


つくづく身の上を考えなおした勝は、これじゃいけねえと一念発起、断酒して死にもの狂いに働き始める。 懸命に働いた末、三年後には表通りにいっぱしの店を構えることができ、生活も安定。


そしてその年の大晦日の晩のことである。勝は妻に対して献身をねぎらい、頭を下げる。すると女房は、三年前の財布の件について告白をはじめ、真相を勝に話した。
あの日、勝から拾った大金を見せられた妻は困惑した。十両盗めば首が飛ぶといわれた当時、横領が露見すれば死刑だ。長屋の大家と相談した結果、大家は財布を拾得物として役所に届け、妻は勝の泥酔に乗じて「財布なぞ最初から拾ってない」と言いくるめることにした。時が経っても落とし主が現れなかったため、役所から拾い主の勝に財布の金が下げ渡されたのであった。 事実を知り、例の財布を見せられた勝はしかし妻を責めることはなく、道を踏み外しそうになった自分を真人間へと立ち直らせてくれた妻の機転に強く感謝する。

妻は懸命に頑張ってきた夫をねぎらい、久し振りに酒でもと勧める。はじめは拒んだ勝だったが、やがておずおずと杯を手にする。「うん、そうだな、じゃあ、呑むとするか」といったんは杯を口元に運ぶが、ふいに杯を置く。🍶
「よそう。また夢になるといけねえ」

さぁ、『 オチ 』もついたところで そろそろ ブログ も締めないとね。
ラストスパートです。
1479 (文明11) 年創建の『
御穂(みほ)神社』と 1624年〜1644年 (寛永年間) 創建の『
鹿嶋神社 』が 2004 (平成16) 年に合祀された 『
御穂 鹿嶋 神社 』に参拝。



1868 (慶応4) 年3月14日、幕府の陸軍総裁・
勝海舟 が江戸100万市民を災禍から守るため、
西郷隆盛 と会見し、
江戸無血開城 を取り決めた『 勝・西郷会談 』の行われた 薩摩藩屋敷跡 がこの場所です。


先述した通り、この場所の裏はすぐ
海 に面した砂浜で、国元から船で送られてくる米などは ここで陸揚げされたそうですよ。


当時この辺りには 旧薩摩藩邸 のほか 軍用地 もあって国防上必要であるとして、兵部省が鉄道局への引き渡しを拒んだことから、大隈重信が海上に鉄道を敷設する事を指示。
本芝ー品川間 の 約2.7kmを建造当時の
海岸線 に沿って建設したそうです。

その際の名残りが、2019(平成31)年4月に JR東日本 による TAKANAWA GETEWAY CITY ( 高輪ゲートウェイシティ) 建設に際して、約1.3km に渡って発見され『 高輪築堤(ちくてい) 』と呼ばれています。
1872 (明治5) 年に鉄道が敷かれ、現在は 埋め立てが更に進んで
海 
までは遠くなりましたが、やはりこの辺りは最後まで残った『
江戸時代 の
海岸線 』だったのです。



お〜い、Gemini、よろしく〜

さっそく、タイムスリップをさせてくれました。

「雑魚場」周辺の埋め立て風景
田町駅西口のビルから 1968(昭和43)年頃

雑魚場埋め立て前(1) 現・本芝公園 1967(昭和42)年頃



雑魚場埋め立て工事中

雑魚場埋め立て工事中(2)

雑魚場への水路埋め立て(1) 1967(昭和42)年頃

雑魚場への水路埋め立て(2)
今回も入力文字数60000のうち、59000以上を使っており、上限いっぱいです・・それではまた。
