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司法試験情報局(LAW-WAVE)

司法試験・予備試験・ロースクール入試の情報サイトです。司法試験関係の情報がメインですが、広く勉強方法(方法論)一般についても書いています。※ブログは完全に終了しました。コメントなどは受け付けておりません。ご了承ください。

高校時代の話です。

 

桜蔭に通っていた知り合いの女の子がいました。

彼女とは、3年生のとき友人を通してある図書館の自習室で知り合いました。

 

今日は、その桜蔭の彼女がやっていた「スピードぐるぐる勉強法」(←苦し紛れにネーミング)について書いてみたいと思います。

 

彼女は優秀な桜蔭生の中でも極めて学力が高く、毎回の模試で志望校欄に「東大文Ⅰ」と書き、そして毎回のようにA判定を獲得していました(A判定以外取ったことがないと言っていたような・・・)。

 

私は、いまと違い当時は人間の地頭(=先天的能力)の存在を完全に信じていたので、彼女みたいな人間は私とは別次元の存在、別の惑星に住む宇宙人だくらいに考えていました。

当然、人の学力には先天的レベルの違いがあると信じていたので、彼女が如何に優秀であろうと、彼女の真似をしようだとか、何か一つでも盗めるものはないかとか、そんなことは全く考えませんでした。

 

そんなある日のことです。

彼女が「今日から世界史の勉強を始める」と言っていたので、(野次馬的な興味はあったので)それじゃ彼女の勉強の仕方でも覗いてみようかと思い立ち、しばらく(数分程度だったと思います)斜め後ろ辺りから、彼女の勉強の動作を観察したことがありました。

 

その「動作」は、当時の私にとって、たいへん驚くべきものでした。

 

彼女は、世界史の教科書を、読むというよりほとんど眺めるように、ちゃんと理解しながら読んでいるとは到底思えないような速いスピードで、ページをめくっていきました。

 

いわゆる速読というものよりはずっと遅いですが、まるでマンガでも読んでいるかのようです。

テキトーに、力を抜いて、どんどん先へ先へと進んでいくのです。

 

時折、気がついたように、1ページに2~3箇所くらい、シャーペンで「ピッ」と記を付けていきます。なんというか、しっかりとアンダーラインを引くのではなく、ちょっと斜めった感じの線を、チェックを入れるようにして「ピッ」と一瞬で引いてしまう感じです。

 

そんな「動作」を、ほんの数分、呆然と眺めていました・・・。

 

 

彼女が教科書を閉じて休憩に入ったので、すかさず私は聞いてみました。

叫び 「○○ちゃん、そんなやり方で覚えられるの?」

 

 彼女は笑いながら答えました。

 

おとめ座 「覚えられるわけないよー。だからこれから何度も読むんだよー」

 

叫び 「何度もって、何回くらい?」

 

おとめ座 「う~ん。100回とか? 200回とか・・・?」

 

 

 

 

・・・なんじゃそりゃ(?)。

 

そう思いました。

 

私だったらそんなやり方はできないし、そもそもそんなやり方で覚えられるわけがない。

勉強をするというのは、もっとこう、マークをしたり、書き込みをしたり、ノートを作ったりetc…そんな風にちゃんと勉強することを言うんだ。

 

あんな風に、ただテキトーに読んでいくだけの「勉強」なんて、そんなの勉強じゃない。

私は思いました。
 

そうか。やっぱりこの子は特殊なんだ。 天 才 なんだ。

天才だからこんなやり方をするんだ。

 

「オールA判定で東大に行く人って、こういう人なんだ・・・」

 

何ひとつ参考にできる部分があるとは思いませんでした。

やっぱり違う人は最初っから違うんだなぁ~、としか思えませんでした。

 

ちなみに、彼女はその日の数時間で、世界の全歴史をひとまず最後まで読み終えていました。

 

 

********************

 

 

・・・時は過ぎ、3年生の12月を迎えていました。

 

私は、理系クラスであったにもかかわらず、

①国語が超得意科目になっていたこと

②高校2年くらいから、担当教師のせいでどんどん数学嫌いになっていったこと

 

以上の理由から、3年生の夏休み頃に、理系クラスに在籍したまま、文系への転向を決めていました。

 

受験科目は、私大受験でいうと「英・国・数」です。選択科目は数学です。

腐っても理系なんだから、やっぱり選択科目は数学でしょ、というノリです。

 

しかし、よくよく考えてみれば分かることですが、数学アレルギーを発症したせいで文系に転向した私が、数学選択を維持することには最初から無理・矛盾がありました。

 

そもそも、勉強という勉強を人生でほとんどしてこなかった私です

それでなくてもやらないのに、更に輪をかけて「嫌い」まで付いてくる数学(=文系数学)の成績が上がるはずもなく、12月を迎えても偏差値は40台のまま「安定」していました(ちなみに英語も40台でした)。

 

叫び 「やばい・・・このままでは大学に行けない・・・」

 

焦りだけは最高潮に達していた私は(※勉強しない人ほど焦る←受験あるある)、12月の半ばになって、つまりセンターまであと1ヶ月という時期になって、突如、私大受験の選択科目を数学から世界史に変更することにしたのです。

 

世界史はそれまでほぼ勉強したことがありませんでした。

もちろん、教材も持っていませんでした。

 

そこで、当時受験生の間で定評があった山川出版の世界史の教科書を急いで買ってきて、とにかくそれだけに絞って勉強していくことにしました。

多くの受験生が持っていた教材、用語集・歴史地図・人名事典・過去問集・問題集・一問一答etc…、そういった参考書の類は一切ありませんでした。

 

文字通り、山川世界史一本勝負です。

 

やり方はシンプルで、まずひと回し目に人名に赤マーク、その他の主要な事柄には黄マークをしました。そして、あとはひたすら繰り返し教科書を読んでいくだけという単細胞な方法です。

もう、それしかする時間がなかったのです。

 

周りの受験生は、一問一答を解いたり、用語集を参照したり、模試を受けたり、様々な教材を使って様々な勉強をしていましたが、私にはそんな余裕は全くありませんでした。山川世界史で手一杯…というより、それ以外の教材を勉強する時間自体がありませんでした

 

勉強方法の点でも、当時の私は和田秀樹の名前すら知りませんでした。

つまりは、勉強には方法があるなんてこと自体を知りませんでした。

当時の私は、勉強とは才能と努力のみでするものだとしか考えていませんでした。

勉強方法を工夫してみようか…なんて発想がでてるく余地は、どこにもありませんでした。

 

このように、当時の私には、教材という選択肢も、勉強法という選択肢も、どちらもありませんでした。できることといえば、ただ闇雲に焦ること。それしか選択肢がなかったのです。

 

ただひたすら焦って、山川世界史一冊と心中する

これが当時の私にできたすべてでした。

ともあれ、センターまでの1ヵ月間、闇雲ながらも怠け者の割には結構頑張ったと思います。

もっとも、普通の受験生なら、遅い人でも4月、早い人なら1・2年生の段階から勉強を始めているわけです。正直、心の中では、「どうせ1ヶ月じゃ無理だよね・・」と諦めの境地になっていたのは事実です。

ところが、です。

これは我ながら非常に驚いたのですが、1ヶ月が経ち、センターまで残り数日となった頃、自分がいつの間にか教科書の内容を全部覚えてしまっているという事実に不意に気づきました。

ただひたすら教科書を読んでいただけなので、それまでは記憶の確認もしていなかったのですが、ふと思い立って頭の中で問題を作ってみると、それらの問題に全て答えられてしまう自分がいました。

 

1ヶ月では絶対に無理だと思っていたのに、よく分からないけど、どうやら間に合ってしまったようでした。センターの得点はたしか89点だったように記憶しています。私には大満足な結果でした。

 

ちなみに、ここに挙げた「勉強法」では、最初のマーク期間に1週間を費やして、その後の繰り返しはもの凄いスピードでやりました。1ヶ月で合計数十回(1日に2~3回)は読んだと思います。

 

最後のほうでは1日に何回しもできるようになっていたので、ひょっとすれば100回以上読んだかもしれません(正直にいえば、もう何回読んだのか分からないくらい読んだ&読めるようになっていました)。

 

とにかく焦っていたので、ゆっくりじっくりやっている暇自体がなかった、というのが率直なところです。狙って、つまり勉強方法として意図して、あえてそういう方法を採ったわけではもちろんありません。もし、世界史を始めたのが3年生の春か夏だったら、もっとゆっくりじっくりやってしまっただろうと思います。

 

教科書を一冊に絞ったのも、教科書をハイスピードで回したのも、繰り返し何十回も読んだのも、しつこいですが、それ以外に選択肢がなく、そうせざるを得なかっただけのことなのです。

 

世界史の偏差値が最終的にどこまで行ったのかは、模試を受けてないので分かりません。

ともあれ、この世界史の1ヶ月」があったことで、私はなんとか無事大学生になることができました。

 

私が大学受験でともかくも意識的に勉強をしたのは、この1ヶ月が全てでした。

 

以前、国語で問題集を1冊解いたことがあるというエピソード を書いたことがあります。

国語が超得意科目になったきっかけで、そのエピソードを「勉強」に入れてもいいのですが、そのときは興味本位でちょっと試してみた程度でしたし、しかも1週間程度やってみただけのことなので、これをちゃんとした勉強と呼ぶのは少し無理があるかなぁ、と考えています。

 

ちなみに、私が大学受験の勉強でも司法試験の勉強でも、「本当にほとんど何もやらなかった」と言うと、反射的に「嘘つけ」と言ってくる人がいます。「格好つけちゃダメだよ」と言われたこともあります。

 

でも、地頭説の信者には理解できないことかもしれませんが、人はやれば必ずできるようになるのですよ。

 

できていないのは、やっていないことに他ならないのです。

 

「できていない」のは、

方法が間違っている or ②努力していない

のいずれかです。

 

やっていない(勉強していない)という意味では、どちらも同じようなものです。

私は努力(②)する習慣を根源的に欠いていましたが、一般人基準ならそんな人はたくさんいます。司法試験受験生のような努力癖が備わっている人の中ではこういうタイプは珍しい、というだけです。
むしろ、一般人基準では、何もやっていないから何もできていない人のほうが
圧倒的に多いです(もちろん、そういう人が単に努力さえすれば直ちにできるようになるなんて保証はどこにもありません)。

 

司法試験受験生のような努力(②)する習慣ができている人でも、方法(①)が間違っているために、実質的には勉強していない人がたくさんいます(というか、ほとんどの司法試験受験生がそうです)。

そういう人は一般に、ただ怠けているから結果が出ない人と違い、苦労しながら結果が出ないという辛い目に会っている分、能力をめぐる考え方に強い歪みを持った人が多くなります。

プライドとコンプレックスに引き裂かれたような、めんどくさい人格構造を持った司法試験受験生が多いのも、こういった事情を考えると頷けるところです。

 

しかしです。司法試験受験生のような努力する習慣(②)を身につけている人には理解できないことだと思いますが、単に努力ができないということも(人格が歪むまではいかないものの)それはそれで結構しんどいものなのです。この巨大な壁を乗り越えようと私がどれだけ苦労したことか・・・いずれ機会があればまた。

 

 

********************

 

 

私が何の意図もなく行った世界史の1ヶ月」が、桜蔭の彼女の自覚的な勉強方法に極めて似ている(その劣化版である)ことに気づいたのは、それからずっと後、司法試験受験生になってからです。

 

司法試験を始めて勉強に方法があることを知り、何人もの優秀な受験生&合格者に出会い、更に一部の飛び抜けて優秀な受験生たちと、広く試験勉強一般から司法試験に至るまで、あらゆる方法という方法を検討していく中で、上記の勉強法が、正当な方法の一つであったことに気づきました。それは、桜蔭の彼女がやっていた方法そのものでしたし、私も部分的には実行していたものに違いありませんでした。

 

この「スピードぐるぐる勉強法」の特徴を適当に列挙します。

 

①とにかく早く回す。

②質のことは考えない(質は後回しにする)。

③適度に力を抜く(意識的にちゃんとやらない)。

④早く回せば、1回にかかる時間が短いので、何回も(何百回も)回せる。

⑤早く回せば、人が1回やっている間に10回以上回せる。その差は加速度的に広がっていく。

⑥何回も回すと、何回も同じものを見ることになるので、更に早く回せるようになる。

⑦何百回も回せば、その内容は完全に自分のものになる(対象を潰し切ることができる)。

⑧最後には、じっくりやっている人との間に、隔絶した差が生まれる。

 

(以下、心構え)

⑨人間には本来こういう能力が備わっているのだと、常識をいったん捨てて信じる。

⑩自分も人間である以上、自分にもそれができると信じる。

 

まず⑥から解説すると、司法試験のような、自分が法そのものになるくらい法に習熟することが求められる試験では、じっくりやろうと早くやろうと、最終的には数百回・数千回と繰り返す必要があるのです。

当ブログの方法論とは真逆の努力型の受験生も、間違いなくそこまでやって合格しています。

じっくりやったら最終的に回す回数が劇的に減らせるかというと、そんなことはないと私は思います。

 

⑦は、このブログで主張している「手を広げない」方法と表裏の関係にあります。

手を広げなければ、たとえ最初はじっくり回していても、範囲が限定されているぶん習熟も早くなるため、1回に回すスピードが上がっていきます。そうなると、回す回数も劇的に増えていきます。回す回数が桁違いに増えてくると、内容を完全に潰し切る(=自分のものにする)ことができるようになるのです。

教材の浮気を繰り返している人は、永遠にこのサイクルに入れません。

 

方法論には疎くて、ただ真面目だけが取り柄のような女子が司法試験では結構順当に受かりますが、これは、彼女が真面目→手を広げない→潰すというサイクルに自然に入っていくことができるからです。

 

②についても少し触れておくと、人は油断するとすぐに意味」(=テキストの理解)を求めてしまう生き物だということです。

テキストを力を抜いて適当に流し読むのは案外難しいものです。質=意味のことは気にしないと言い聞かせても、すぐに「意味」を把握できる水準まで読むスピードを落としてしまうのです。

 

最後に。

一番難しいのは、③と⑩です(②を加えてもいいです)。この③⑩の難しさゆえに、私は、この勉強法は万人におすすめできるものではないと思っています。

 

あくまで私が奨励している最重要の方法は、手を広げないことです。

これができていれば、最終的には誰でも「潰す」ラインまで到達することが必ずできます。

ですから、今回紹介した方法が自分に合わないからといって、どうかそこはあまり気にしないでください。実際、この方法は、受験オタクの注目を集めるほどには、実行可能性の高い方法ではありません。

 

私が今まで「手を広げない」ことと「潰す」ことばかりを強調してきたのには、そういう意味もあります。

速さは、いかなる意味でも受験の本質ではありません

本質はむしろ「手を広げない」ことにあります。この堅実さをこそ、私は強調したいです。

 

手を広げさえしなければ、いずれ、速く回すというステージが自然にやってきます

手を広げずに何度も教材を回していれば、回すスピードは自然に速くなっていきます。

スピードが速くなっていけば、それに比例して回す回数も加速度的に増えていきます。

そうなれば、必然的に対象を潰し切る地点まで到達することができるのです。

 

したがって、スタート段階で教材潰しを「ゆっくりじっくり」行うことは問題ない、と私は考えています。

まず、③適度に力を抜くことができない一番の原因は、これを適当にやってしまうからではありません。むしろ、どんなに適当にやろうと思っても、適当にやることが難しいことに最大の要因があります。

 

「テキトーに力を抜いて読めばいい」と言われれば、誰にでも簡単に実行可能なようにも思えるのですが、その割に、私の受験仲間でこの方法を試して上手くいった人は多くありません。

この方法には独特の難しさがあるからです。

 

一言でいうと、この方法には適当にやり続ける根気、あるいは「慣れ」のようなものが必要なのです。「適当にやり続ける根気」とは、楽をする努力と言いかえてもいいです。これがないと、すぐに教材を回すスピードに無意識がブレーキをかけてしまいます

 

上の青字部分で書きましたが、司法試験受験生のほぼ100%が、苦労する努力を習慣化する能力を身につけています。しかしそれゆえ、いわば楽をする努力」がなかなかできないのです。

 

おそらくは、頑張って楽をしようとしても、無意識に染みついた苦労する能力との間でジレンマが起こり、楽な勉強にブレーキをかけてしまうのでしょう。

 

つまり、努力型受験生がこの方法(適当に読む方法)を実行しようと努力すると、次第に楽をする努力」に疲れてきて、結局、住み慣れた「苦労する努力」に帰っていってしまうのではないかということです。

 

皮肉な話ですが、ほとんどの司法試験受験生にとっては、いまや苦労するほうが楽なのです。

彼らには、そのほうが「馴染み」があるのです。

 

「楽をする努力」ができない根本的な原因は、普通、人にとって、「努力する」とは、苦労することを意味しているからです。

逆にいえば、「楽をする」とは、努力していないことを意味するからです。

 

努力型受験生には、このテーゼが一般人よりもはるかに深く心に刻み込まれています。

彼らは、自分が努力できることにアイデンティティ(自分が一般人と異なる優れた存在であるとの証)を見出しています。一般人よりも努力できることが、彼らを彼らたらしめているのです。

 

そう考えると、彼らが「楽をする努力」ができないのはむしろ当然です。

彼らにとって、そんなものはそもそも努力ではないからです。

 

「楽をする努力」なんて言葉は、彼らにとって語義矛盾でしかありません。

自らのアイデンティティにかけて、そんな方法を採るわけにはいかないのです。

 

彼らには、試験に受かることより、ずっとずっと大切なものがあります。

彼らはとにかく 努力=苦労がしたい のです。

 

ちなみに、楽をすると、人はふつう罪悪感に駆られます。自分がズルをしているように感じるのです。

この罪悪感の発生もまた、今回の「スピードぐるぐる勉強法」に限らず、受験生(特に努力型受験生)に勉強法一般を存分に駆使することを躊躇わせる根本的な原因となっているように私には感じられます。

 

よく「自分の中のリミッターを外せ」なんて言いますが、これは言うほど簡単なことではありません。人は習慣の生き物です。その習慣を変えろというのは、自分の人格を変えろと命令されるのと同じくらいの抵抗感を人に与えるのではないでしょうか。今までのやり方と根本的に異なる思考・方法は、人間に強い拒絶反応をもたらすのです。

 

一方で、私などはあまり抵抗なくこの方法が採れるのですが、それはまず私がそもそも努力する環境に住み慣れていないため、「リミッターを外す」といった面倒な作業をする必要がないのが一番大きな理由です。あとは、無茶苦茶怠け者なので、楽をすることにどこまでも貪欲になれることです。

 

また、今までの読書経験から、本の読み方に複数のパターンを持っていることも大きい気がしています。私はアンチ速読派ですが、たとえば、新書1冊を5分でざっと見るパターンや、帰りの電車で1冊を30分で流し読むパターンには、たぶんかなり習熟しています。こういう読み方ができる人には、「スピードぐるぐる勉強法」は無理なく採用できる方法だと思います。

 

繰り返しますが、私自身は、この方法は万人におすすめできるものだとは思っていません。

方法論として、絶対に採用しなければならないものだとまでは思っていません。

この方法を採用しなくても、大学受験も司法試験も、何の問題もなく合格できると思います。

ただ、このブログで再三書いてきたように、人は、やったことはやった分だけできるようになるものです。ですから、現時点でこの勉強方法が向かない人であっても、訓練次第ではできるようになるかもしれません。

 

以下、今回のエントリーに興味を持って積極的にやってみたいという方に、私が有効だと考えるやり方(考え方)を少し補足しておきたいと思います。

まずは、

【1】とにかく速度を落とさないように気をつける。

【2】自分にそれができるということを、とにかく意識して疑わない。

既に述べたことですが、心構えの問題としてこの2点が非常に重要です。

さらに具体的なアドバイスですが、

【3】具体的な時間を設定することで、いつまでに読み終えるかを先に決める

といいと思います。

つまり、速く読むという動作を意識するのではなく、読み終える時間を意識するのです。

先に時間的な制約を作って、それを動作として守るように心掛けるわけです。

 

たとえば、どこからどこまでを「10分で見る」と決めたら、絶対に10分で見終えます。

電車が駅に着くまでにここまで読み終えると決めたら、それまでに絶対に読み終えます。

あと1時間で自習室が閉まる。それまでに間に合わせると決めたら、絶対に間に合わせます。

 

あたかも時間ピッタリにしゃべり終える生番組の司会者のように、何分と決めたらその時間までに必ず(終了時間ピッタリに)終えられるよう努力してください。そうやって、環境(時間)に合わせて動作を自在に調整できるよう心がけるのです。

 

動作を意識すると動作に力が入ってしまいますが、時間に意識を移すと動作の「力み」がとれます

 

このように、自分が最もやりたい動作(=速く読むという動作)に意識を集中させずに、意図的に時間に意識を奪われるように仕向けると、(①~⑩のうちの)②③が上手くいくと思います。

おそらく、時間を強く意識すると、時間のほうに「力み」が持っていかれるため、動作のほうの「力み」がとれて自由になるからだと思います。

時間(リミット)設定のコツですが、自分で設定する主観的リミットよりも、たとえば電車の到着時刻や自習室の閉館時間のような、制度上強制的に終わりが来る客観的リミットをターゲットにするほうが、格段に効果は高くなると思います。

 

先に述べたように、人間は習慣の生き物です。こういった訓練を地道に積み重ねていけば、いずれはこちらのほうがあなたの自然な習慣になっていくはずです。

 

以上です(なんか今回は久々に長くなりました)。






【後日談】

 

件の桜蔭の女の子ですが、その後、彼女は東大の「文Ⅱ」に現役合格したそうです。

 

なんで「文Ⅱ」?? 

 

後日、友人から聞いたのですが・・・

 

 

おとめ座

「そもそも東大の男子をgetするために東大に行こうと思ったのに、文Ⅰじゃ相手が委縮して選択の幅が狭くなっちゃうかもしれない。その点、文Ⅱだったら相手に “安心” してもらえるでしょ」

 

とのことでした。

 

 

 

・・・なんじゃそりゃ(?)。

 

 

 

 

 

LEC のベテラン講師です。

講師歴はかなり長い方のようです。

 

伊藤塾系統の講師たちと似たような講義スタイルです。

テキスト加工を細かく指示する点で、呉講師 に近い講義スタイルなのかなと思います。

 

話し方のスタイルは結構極端です。

ざっくばらんに話していたかと思いきや、いきなりもの凄いスピードになったりします。

 

ボソボソとしゃべる感じが良くないですが、入門講座の質は平均点以上だと思います。

 

(getwinintest)

 

 

 

今回は、数日前にいただいたコメントに返答する形で記事を書きます。個別の質問に対する回答に留めず、より一般論として展開する意義があると感じたので、独立したエントリーを立てることにしました。

先に内容を簡潔にまとめておきます。

①基本書などの法学テキスト&インプット講義は、本来の目的そのものではない。

 これらは「加工食品」に過ぎない


ところが、受験生の意識は、どうしてもこれら「加工食品」に向かいがち

 だからこそ、「加工食品」ではなく、本来の目的に意識を向けなければならない


以上です。


********************

【いただいたコメント】


伊藤塾つながりということで、1つお尋ねしたいことがあります。

塾長の書いた勉強方法論本、「夢をかなえる勉強法」のなかに、「全体像を把握するために、まず目次をコピーせよ」というのがあります。

軸となるテキスト(塾生だったら基礎マスターテキストでしょうか)の目次をコピーして、それをいわば「地図と磁石」代わりにして、自分が今学んでいるトピックや論点が、当該科目のなかでどのあたりに移置づけられているのかを、常に意識しながら学びなさい、という趣旨みたいです。

NOAさんは、上記を実践なさっていますか?

もしくは、このアドバイスの当否について、どう思われますか?

 

(コメントおわり)


********************

 

その本は読んだことないのですが、塾長の目次重視思想は有名なので知っています。

私も一般論として目次は重要だと思います。

 

同じ本を読む場合でも、漫然と適当に流し読むのと、全体の構造を意識しながら読むのとでは、理解に大きな差が生まれると思います。

私は、司法試験の勉強でも普段の読書でも、目次をコピーするところまではしていませんが、インプットにおいて目次を大事にすべきという点については同意します。

ただ、ここが私が塾長の本を1冊も買ったことがない(買う気にならない)理由なのですが、あと、伊藤塾という予備校全体の問題点でもあるところなのですが、伊藤塾系の講師たちの関心は、このようにいつもいつもインプットばかりに向かうんですよね。

この点に私は大きな不満を持っています。

「なんだ、またインプットの話か・・・」

塾長や伊藤塾講師が何か気の利いたことを言う度に、いつもそう思います。


だって、インプットはほとんどの場合、何かのためにしているインプットなわけです。

試験勉強においては常にそうですし、経済学の勉強でも哲学の勉強でも、インプットのためのインプットなんてものは本来ありません。基本的には、その知識を何らかの形で使うためにインプットがなされるのです。

 

本来、インプットは何かの目的があってのインプットであるはずなのです。

ところが、総じて伊藤塾系の人たちは、おそらくはインプットの教授能力が高すぎるがゆえに
、逆に、この本来的な目的に目が行きにくい人が多いと感じます。

 

その意味で私には、塾長の目次重視思想も、たしかにその限りでは正論だとは思うのですが、どうしても本来の目的から離れた「インプットの、インプットによる、インプットのためのインプット」の話をしているようにしか感じられないのです。

誤解のないように言っておきますが、私は別にインプットが嫌いでアウトプットが好きなわけではありません。単に、インプットは基本的に目的それ自体にはなり得ない、という点を指摘しているだけです。

もし、インプットが目的と直結する試験があれば(そういう試験もあると思います)、インプットに拘ることは何の問題もありません。

私が批判しているのは、多くの受験生の意識が、本来の目的と異なるインプットの次元にロックオンされてしまっていることです。そして、そうなった大きな原因のひとつに、上記のような伊藤塾的発想があると考えています。

司法試験の目的は、あくまでも法を使う(使えるようにする)ことです。

内容を正確かつ効率的にインプットすることではありません。

 

そして、「法を使う」とは、つまるところ条文を使うことに他なりません。そうなると、法律学において、本当の意味で「地図」と呼べるものがあるとすれば、それは条文(条文構造)しかないはずなのです。

他の学問分野においては、条文という制約条件がなく、研究範囲にある程度自由な広がりがあるので、地図=目次と言ってよい(言わざるを得ない)ところが確かにあります。

しかし、法律学はそうではありません。歴史研究で「一次資料」「二次資料」という言い方がありますが、その言葉を借りていえば、シケタイや基本書のような体系書は、条文という一次資料をその人なりの仕方で説明し直した単なる注釈書に過ぎず、その意味で二次資料に限りなく近いものです。

最近、出版会でちょっとしたニーチェブームが起きていますが、売れているのは、ニーチェを切り刻んで食べやすく加工した流動食のような解説書の類です。あれらはただの解説書であって、言うなれば
ニーチェの偽物です。

 

偽物も本物の風情を残しているからこそ偽物たり得るのだとはいえますが、どこまで行っても偽物は偽物でしかありません。本来、偽物は本物に至るための通過点に過ぎないはずです。偽物のあと本物に移行するのでなければ、いったい何のための偽物だったのか分からなくなってしまいます。

しかるに、司法試験業界においても、ニーチェブームと同様、本物をなおざりにして偽物の意義ばかりを強調する学者・予備校人が多すぎます。受験生の側も、(特に問題を解くことから逃避しがちの人に多いですが)彼ら「偽物業者」の宣伝に易々と乗せられる人が多すぎます。

 

この点はもっと問題にされなければなりません。

受験界には、初学者を脱してなおインプット学習にこだわり続けるインプット大好き受験生が多いです。

彼らは、偽物ばかりを勉強し続けた結果、いつしか、偽物を学習し続けることが学習の本分だと思い込んでしまっているようです。

このことによって利益を得るのは、本物(条文)を加工した流動食(基本書)を顧客に提供することを生業にしている加工業者(法学者)です。

あるいは、流動食(基本書)の美味しい食べ方を顧客に指南(講義)することを生業とする加工業者の子分(予備校)です。

 

予備校は、加工食品(基本書)を更に加工することを得意とする、れっきとした加工業者の一味です。

ここで「加工食品を加工する」とは、ようするに、流動食(基本書)をさらに食べやすくすることです。

食べやすくするための商品とは、あるときにはシケタイであり、あるときには基礎マスターであり、そしてまたあるときには「目次を大事にせよ」などの「食事マニュアル」であったりします。

 

彼ら偽物業者は日夜、「加工業者が製造した加工食品を通してしか、本物に触れることはできません」と顧客を欺罔(脅迫)し続けています。それが彼らの食い扶持(あるいは存在意義)なのだから当然です。
 

 

 本物加工食品の図】

    条文           ⇒こちらが本物(基本)

     ↓ 加工
基本書&予備校本   ⇒こちらが加工食品(応用)


もっとも、ある程度実践的な勉強が進んでくると、彼らの宣伝活動の嘘に気づく受験生が一定程度でてきます。
具体的に問題解く段階になると、シケタイや基本書のような「内容」しか記載されていないテキストの使い勝手の悪さが分かってくるからです。

問題を解く際に必要なのは、具体的な条文の具体的な文言(≒要件・効果)です。

シケタイや基本書のような「内容」ばかりが書かれているテキストを読んでも、「何となく理解した感じ」あるいは「非常によく理解した感じ」にはなりますが、その「理解」と「条文を使う」ことの間には、ほとんど関係らしい関係がありません。

 

法学のテキストで習得した理解・記憶をもって、司法試験の問題を解くことはほとんどできません

一部の(優秀な)受験生は、一定の実践的段階に達して、ようやくそのことに気づきます。

 

彼らの最終使用教材が、(基本書やシケタイのような「内容」が整理されたテキストではなく)条文が整理された短答六法になることが多いのは、その意味では当然といえるでしょう。

ここで、過去に少し持ち上げすぎた基礎マスターの批判をしておきたいと思います。
具体的には、私が最高レベルでおすすめした呉先生の講義内容についてです。

 

呉先生はテキストの内容を加工することに定評のある講師です。しかし、実はあれだけ内容の加工に情熱を注がれる方であるにもかかわらず、「条文というテキスト」にはほとんど加工の指示をしません

内容の整理を重視する姿勢に比べて、この条文の絶対的軽視ともとれる姿勢は一体なんなのだろう…とそう思わずにはいられません。

伊藤塾の他の講師、そして他校の講師も、ほぼ100%そんな感じなので、今までこの点は不問にしてきました。しかし、本来の目的に則した“本当に分かりやすい講義”というものがあるとすれば、それは内容ではなく、条文を分からせてくれる講義であるはずです。どれだけ
内容(加工品)を分かりやすく整理・理解・記憶させてくれたとしても、それは目的に則したインプットとは言えないからです。

最後に。

もちろん、私だって、基本書やシケタイや基礎マスターといった偽物あるいは加工食品(流動食)の存在を全否定はしていません。その有用性についても認めます。

しかし、それは早くそこから脱することができてこその有用性です。

単なる手段(≒偽物)として利用できてはじめて、「有用」といい得るものなのです。
 

目的-手段の関係、本物-偽物の関係を逆転させてはいけません。

繰り返しますが、法学テキストは、本来、条文の加工品(注釈書)に過ぎないものです。
条文が主テキストはただの脇役、だったはずなのです。

それがいつの間にか、加工業者の台頭とそれに伴う利権構造の構築によって、ただの脇役にすぎなかった法学テキストが、気がついたら「主役づら」をし始めていたのが、法学&司法試験の歴史です。


加工業者には加工業者の事情があるでしょうから、彼らが彼らの業界内部で加工食品を神聖化するのは勝手です。しかし、条文を使うことを生業とする法律実務家を目指す受験生までが、加工業者たちの事情に振り回される必要はないはずです。いかに彼らが加工食品のご利益を説き、加工食品の習得の仕方を熱く語ったとしても、我々受験生は本物に意識を向けなければなりません。

加工業者にとっての利益と
、受験生にとっての利益は、ほとんど重なっていません。

その現実に、受験生たちはもっと自覚的にならないといけません。

 

加工業者は、あくまでも加工業者の切実な利益を基に語っています。

それは、彼らが加工業者である限り当然のことです。

 

↑ここボヤっと聞かないでください。本当に当然なのですから。

もし、彼らが学生のことを第一に考えているように見えるとしたら、それは彼らの語り口が強い切実さを帯びているからです。

しかし、彼らが切実に語るのは、学生のためではありません。自分たちのためです。

 

もし、彼らが本当に日本の法曹志願者の幸福を考えるなら、ロースクールの廃止を主張するべきです。

お金と時間がないというだけで自分の目の前に座ることができなかった貧乏人たちを真に思うなら、そうすべきです。

本当に誠実な学者はきちんとそう主張しています。そう主張することが、もはやできなくなったというわけではないのです。

ロースクールを廃止しても、修習所があれば困る人は誰もいないのですから(ローの教授は少し困るかもしれませんが)。


だからこそ受験生は、より自覚的に、受験生の切実な利益に基づいて考えなければなりません。

 

加工業者にとっての加工食品とは、主役と同じ、あるいはそれ以上に大切なものです。

彼らは一貫してそういうスタンスで語っています。

 

受験生は、そういう加工業者の圧力に抗して、本来の主従関係を分からせてやらなければなりません。

 

加工食品に対して「お前は脇役なんだ」と言ってやること。これは受験生の義務です。

流動食の食べやすさ吊られて流動食を食べ続けていたら、いつまでも日常生活(=本来の目的)に復帰できません。流動食はあくまでも病院を出て社会に復帰するまでの「つなぎ」に過ぎません。流動食は、「つなぎ」として利用する限りで価値があるものなのです。

そのことを忘れて、流動食の美味しい食べ方」などを追及していくのは、完全に本末転倒です

加工業者がそういうマニュアルを提供したがるのは、彼らの立場上の問題なのであって、利権構造の外にいる我々一般人がそんな話に付き合わされる義理はないのです。

しつこくて申し訳ありませんが、目次を大事にすることは、それはその限りでは当然良いことです。

しかし、目次を大事にすることに必要以上に意識が行ってしまうのは、もう既に良いことではありません。目次を大事にすることに何か巨大な意義があるのではないかと考えてしまうくらいなら、目次なんか大事にしないほうがまだマシかもしれません。それは本来の目的とは何の関係もないことだからです。


人によっては、今回の話は極めて小さい話とお感じになる方がいるかもしれません。目次が大事であることを肯定してるなら、それ以上に話を広げる必要はないじゃないか、と思われるかもしれません。

 

しかし、私は、「目次が大事である」などという本来はどうでもいい話に意識が「グー」っと寄っていってしまうような人は、気の持ちよう or 試験に臨む姿勢として、試験対策という勘所を完全に外しているようにみえます。そして、どこか一ヵ所で外している人は、たぶん、その他数百ヵ所でも同じように「外している」に違いないと思います。

 

人の本性はディティールに全て表れます。

今回の話はそういう観点からお読みいただければ幸いです。

受験生は早く、本来の目的に復帰すべきです。

それは、

①法律の勉強においては、法律(条文)をきちんと学ぶ(使う)ことであり、
②試験勉強においては、試験問題(過去問)を解くことです。


重要なのは、

加工前の食品(条文)を、一日でも早くきちんと味わえるようになることであり、

②流動食を一日でも早く卒業して、本来の目的(過去問を解くこと)に向き合うことです。


「流動食の美味しい食べ方」なんて、そんなのどうでもいいことです。





 

伊藤真が選んだ短答式一問一答1000 憲法/法学書院
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通称「マコ短」。 伊藤塾 の肢別問題集です。

 

辰已の肢別本 やWセミナーの考える肢 と違って、司法試験過去問の肢別集ではありません。

あくまでも予備校作成の新作問題の肢別問題集です。

 

肢別本などとの比較でいうと、肢の数が予め「1000」と決まっている点が第一の特徴です。

(民法だけは2分冊で2000肢あります)

 

本試験問題が毎年増え続けていくために、年を追うごとに太っていかざるを得ない肢別本と違い、勉強すべき分量が各科目1000肢と確定している点は、学習の目安が立てやすくgoodです。

この、潰すべき分量がコンパクトに限定されている点が、本書の一番の利点です。

 

また、過去問では、分野を散らしながら出題されているが故に、出題知識が重複したりする一方で、重要であっても未だに出題されていない知識・分野がでてきてしまいます。

 

その点、本書のような、最初から重要知識の網羅を企図して編纂された問題集は、上記のような知識の偏りや重要知識の抜けを心配する必要があまりありません。このような効率的な編集がなされている点も、非常に評価できるところです。

 

もっとも、肢別本なども、重要知識の抜けについては新作問題の肢を挿入するなどして対応していますから、知識の抜けの問題はそんなに心配する必要はないと思います。

 

もっとも、完全に本書だけで短答を突破しようというのは、絶対に無理だとまでは言いませんが、かなり危険なことは間違いありません。

 

よほど過去問が嫌いならともかく、優先順位の問題として、過去問は原則外さないほうがいいです。

 

たとえば、本書を完璧に潰すのと併行して、過去数年分程度の短答過去問潰しをきちんとやるなら、折衷案としては良い落としどころといえるかもしれません。

 

もちろん、すでに短答過去問集を潰した人が、肢別本には行かずに本書に行くのは全然OKです。

そこまでやれば短答対策は完璧でしょう。

おすすめ度⇒A

 

 

 

憲法 (伊藤塾試験対策問題集:短答)/弘文堂
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シケタイ問題集(論文編) の姉妹版(短答バージョン)です。

まだ憲法・民法・刑法・商法の4科目しか出版されていませんが、そのうち7科目揃うでしょう。


本書は、短答の新作問題集です。

問題数は各科目200問前後と、多すぎず少なすぎずの適度な分量です。

 

各分野の終わりに、更なる知識網羅のための肢別問題が付属しています。

また、シケタイ 譲りの緑を基調としたきれいなレイアウトが見やすくてgoodです。

 

新司法試験・予備試験対策としては、まずは過去問が優先されるべきです。

ただ、過去問を解き終わった方が、もう一冊問題集を潰したいという場合には使えると思います。

 

また、ロー入試対策として本書を使用するという用途も十分にありだと思います。

なお、刑法で、近年の新司短答では少なくなってきた旧司型のパズル型問題が多いことは、改変の必要があるところかなと思います。

 

全体的には、最小限の問題量で一定の網羅性を(問題形式+肢別形式で)実現している点で、独自性のあるなかなか良い問題集だと思います。

 

おすすめ度⇒B