適性試験失敗談(あるいは地頭否定論) | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

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昨日のエントリー から(少し)続いています。


【適性試験での失敗】
 

私は、適性試験、特に読解以外の論理・分析系の問題(ちょっと前まで推論分析と呼ばれていた分野)に「超」が付くほどの苦手意識がありました。

 

なんというか、まだ何もやっていない段階からアレルギー全開、何もかもが嫌という感じで、すでに方法論としての過去問主義が完全に確立していたにもかかわらず、適性試験については、自分自身で築き上げた方法論に背いて、過去問を一問も解かずに本試験を受けました


模試すら1回も受けませんでした。さらに、本試験を受験する機会が2回あったにもかかわらず、単に適性が嫌いというだけの理由で、勝手に受験回数を1回に減らし、少しでも高得点を取る機会を自ら進んで放棄しました(苦手なんだったら、なおさら2回受けとけよ・・・というのが普通だと思うんですが)。

それくらい適性試験が嫌いでした。

 

ただ、さすがに全く何もしないのはマズイと思い、本番1週間前から、本試験問題よりはだいぶ簡単そうに見えた『ロースクール適性試験ハイスコア基本問題集』 をざっと一通り解いたわけです。

 

この問題集の特徴については、↑のエントリーをご覧いただければと思いますが、一言でいえば、適性の本試験の問題を、パーツ毎に分解して何倍も簡単にしたような非実践的な問題集でした。

 

これが私が行った適性試験対策の全てです。

適性対策に費やした勉強時間は、全部で数時間程度だと思います(ちなみに読解はゼロ時間です)。

 

そして、その対策の結果は・・・・・まさに惨憺たるものでした。

 

私が行った「対策」には何の効果もなかったということが、試験開始から3分も経たないうちにはっきりと分かりました。

 

「あぁ・・失敗した・・」

「こんなことなら、どんなに億劫でもちゃんと過去問を解いておけばよかった・・」

 

そんな後悔が、試験開始から試験終了まで、頭の中を駆け巡り続けたことを今でも覚えています。

 

過去問か、せめて過去問に似た問題を解いておかなければ、実際の本試験の現場では何の役にも立たないのだということを、このときほど思い知らされたことはありません。

 

このブログでさんざん書いてきたことを自分に向かって語らなければならないわけですが、

 

はっきり言って、適性試験の問題を解いていない人間に、適性試験の問題を解くことなどできるはずがありませんでした(泣)

 

その通りでした。こんなのは当たり前の話だったのでした。言うまでもない話だったのでした。。

 

ここで非情にも、自分自身が自ら作り上げた方法論が指し示すとおりの結果がでてしまったわけで、まさに自業自得とはこのことだなぁ・・と、そう思わずにはいられませんでした。

当たり前すぎて恐縮ですが、いくら方法論が正しくたって、本人がそれをやる気にならなかったら何の意味もありません。あまりにも当たり前の話ですが、意外に重要なところかなと思います。

 

 

【やったことはやった分だけできるようになる】

 

結局、基本書や論証例を延々と読んで覚えても論文が書けるようにならないのと全く同様に、適性試験の思考のパーツだけをいくら学んでも、本物の適性試験の問題と格闘していなければ、本番で適性試験と対等に戦うことはできないのです。当たり前のことです。

 

私は適性試験でコケるべくしてコケたわけです。

適性の合計得点については、得意だった読解分野に救われる形で何とか最悪の事態は免れましたが、本当に危ない賭けをしてしまったと、このときのことは今でも後悔しています。

 

ちなみに、読解分野は元々、大学入試センターの現代文で満点を取る程度には得意な分野でしたが、現代文が得意になったのは、高校生のときに①正しい方法に則って②一定の訓練をした結果であって、まさに、やるべきことを、やるべき形で、やるべき分だけやったからに他なりません。

 

私は高校では理系クラスに所属していて、国語はどちらかというと苦手科目でした。

ところが、高校2年のときにふとしたきっかけがあって、現代文のあるコツ(法則)に気づきました。

その方法に則って現代文の問題集を1冊解いたのですが、それからというもの、50以下だった偏差値が一気に60台まで上がり、3年生になったときには、もう2度とその60台も取ることがなくなっていました。

 

★この「法則」については、現代文&小論文が苦手な人へ の【補足】部分にもう少し詳しく書きました。

 

私にとってはこれが、①正しい方法で、②一定の訓練をすれば、できないこともできるようになる、ということを学んだ初めての経験です。

 

もっとも、高校生の時点では、そこまで明瞭な形でこの①②を自覚できたわけではありません。

試験勉強において何かができないのは、①②のどちらか(あるいは両方)に問題があるとはっきり声に出して主張できるようになったのは、やはり司法試験を始めてからだと思います。

小論文も、ロー入試で首席をいただける程度には得意な分野ですが、これについても全く同様です。

それまでやった分の結果が、そのまま過不足なく正直な形で出ているだけのことです。

 

受験界ではいわゆる地頭(=先天的能力)を云々する人が多いですが(そういうものが全くないとまでは私も思いませんが)、何人もの優秀な受験生を見てきた経験から言わせていただければ、たかだか司法試験ごときの、2000人も合格するような普通の試験で、先天的な地頭なんて特殊能力を生まれながらに有しているようにみえる人など、一人もいませんでした。

 

どれだけ優秀な受験生でも、生じた結果に見合うだけの相応の努力を、人生のいずれかの段階で、誤魔化さずにきちんとしてきただけにしかみえませんでした。

 

たとえば、友人に、ゼロ対策で適性試験でかなりの高得点を取った人がいます。

 

彼は小学生の時に御三家に入るべく、それはもう膨大な量の算数のプリントをこなしたそうです。それから中学・高校を経て大学入試時に至るまで、方法の限りを尽くして問題を解くという作業を継続し、高校生の段階で既に一般の大学生をはるかに凌駕する事務処理能力を身に付けていたと思われます(特に東大生にはこういうタイプが多いです)。

 

こういう人が、ゼロ対策で高得点を取るのは、そういうベタな努力の結果に過ぎません。

本当に何もしないで、「地頭」だけで高得点を取っているわけがありません。

 

もっと言ってしまえば、ここまでのベタな努力を、人生のどこかで相当量してきている以上、むしろ高得点を取らないほうがおかしいと考えるべきなのです。

 

ここに、「地頭」などという曖昧模糊とした概念が介在する余地はほとんどありません。

 

話はもっと単純です。

 

彼らは、単にめちゃくちゃやったからできるようになっただけなのです。

私は、だからそういう優秀な人たちを尊敬する必要はない、と言いたいのではありません。

そうではなくて、尊敬の念を向かわせる先を間違えてはいけない、と言いたいだけです。

彼らが尊敬に値するのはめちゃくちゃやったからです。間違っても、頭がいいからではありません。

むしろ、「頭がいい」というのは、「めちゃくちゃやった」ことの結果であって、原因ではありません

 

正しく努力をした人は、した分だけできるようになります。

 

「正しく」努力していないか、「努力」自体をしていない人は、していない分だけできるようになりません。

 

つまり、

 

やったことは、やった分だけできるようになる

やっていないことは、やっていない分だけできるようにならない

 

すべては、正当な原因から正当な結果が生じているだけなのです。

 

私自身、適性試験→ロースクール入試で、このことを身を持って思い知りました。

今では良い経験をしたなと思っていますが、同じ失敗は二度はしたくないと思っています。