大正10年10月 歌舞伎座 第二期歌舞伎座最後の公演 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は久しぶりに歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。
 
大正10年10月 歌舞伎座

 
演目:
 
一、大阪城
二、市原野
 
本編に入る前に6月から9月までの流れをザクッと説明するとまず6月は以前紹介した通り諸々の事情から僅かに中車が横浜劇場、羽左衛門が恒例の帝国劇場出演をした以外は専属幹部役者の殆どが新富座へと出演し吉右衛門のサポートへと回り、歌舞伎座は久しぶりに新派の公演となりました。
こちらは演芸画報でも触れましたが三巨頭が揃い踏みしながらも成績の方は今一つな結果となりました。
 
次に7月はと言うと主要幹部は引き続き吉右衛門のいる新富座の事実上の二の替り公演に出演を続けた事で今度は史上初となる曾我廼家劇を招いて公演を行いました。こちらは史上初と言う触れ込みや二の替りを入れた飽きられにくい仕掛けもあって新派公演と異なり夏場としてはそれなりの入りとなりました。
 
そして真夏の8月公演は恒例の左團次一座の夏芝居となり段四郎の他、珍しく中車と雀右衛門が加わっての座組となり
 
・雷鳴
・大久保彦左衛門
・播州皿屋敷
・村井長庵
・かつぽれ
 
を上演しました。
こちらは一番目の大久保彦左衛門が段四郎の一筋縄ではいかない頑固爺を自身の反骨人生そのままに巧みに演じて絶賛された他、左團次の番町皿屋敷も夏の怪談物としての要素もあり雀右衛門のお菊の凄惨な死が話題を呼んだ事もあり20日間全て大入りという好調な成績の内に終わりました。
余談ですが今回の10月公演は段四郎が明治座に回った事もあり、結果としてこの8月公演は段四郎が歌舞伎座に出演した最後の公演となりました。
 
最後に9月は主要幹部役者が恒例の横浜劇場出演に回った為に再び新派公演となり、6月公演の反省を踏まえて公演日数を減らす等して改善した結果、1日辺りの見物客は増えたそうですが総体的には6月とあまり変わらない入りで終わりました。
この様に4ヶ月間で歌舞伎公演は僅かに8月のみと長いブランクを経て行われたのがこの10月公演となりました。
 
主な配役一覧

 
段四郎が明治座に行った以外は久し振りに幹部役者が勢揃いした事もあり、歌右衛門、中車、左團次、仁左衛門、羽左衛門とそれぞれの出し物がひしめく賑やかな演目が並ぶ事となりました。
 
大阪城

 
一番目の大阪城は岡本綺堂が新たに書き下ろした新歌舞伎の演目となります。
言わずもがな淀君集の1つであり坪内逍遥、松居松葉、高安月郊と当時名だたる一流の劇作家達に書いてもらっていた歌右衛門でしたがこれまで無縁とまではいかないものの、専ら左團次に多くの作品を提供していた綺堂とは関係が薄かった歌右衛門がここに来て急に書いてもらう様になった経緯はこの年の4月に始まった淀君会の影響でした。この会は読んで字の如く歌右衛門の淀君役を書く為に集められた会で松居松葉、高安月郊、池田大伍、山崎紫紅の四氏に岡本綺堂が加わって行われました。
その席で綺堂は歌右衛門に
 
・再建された徳川大阪城には不開の間が設けられていたという噂がある事
 
・家康の夢枕に淀君の怨霊が現れたという逸話がある事
 
・秀頼と淀君が薩摩に逃れて生き延びたという地方伝承がある事
 
の3点を話した所、歌右衛門が食いつき桐一葉と沓手鳥弧城落月の間に作品が無い事から大阪落城前を舞台に弧城落月の糒櫓の場で見せた淀君の精神錯乱の伏線を兼ねた新作の依頼して書かれたのがこの作品となります。
今回綺堂は上記の話3点を盛り込んで落城を目前とした大阪城内で島津の手引きで脱出を模索する家臣の伊集院半兵衛とのやり取りや既に精神の均衡を崩してしまった淀君が棄てられぬプライド故に落ち延びを拒否して大阪城と運命を共にする決意を固め、家康に呪詛の念を込めて1年以内に呪い殺すという不気味な予言をする所で終わるという怪談物のテイストを少し入れてこれまでの作品と一線を画しているのが特徴でもあります。
今回は淀君を歌右衛門、伊集院半兵衛を左團次、速水甲斐守を市蔵、真田大助を亀蔵、池邉権五郎を左升、おきくを芝鶴、小笹を秀調、阿茶の局を中車がそれぞれ務めています。
配役を見ても分かりますが歌右衛門と中車を除けば綺堂物を幾つも演じて演り慣れている左團次一座が脇を固めている事もあり演じやすかったのか劇評には
 
淀君としての定評あるだけ矢張りこの優ならではと思はせる處があるが、鰻の旨さも再々では鼻につく
 
と相変わらずの淀君の上手さは評価しているものの、今一つの出来だった醍醐の花見から僅か4ヶ月余りで再び淀君を見せられる劇評家や見物にとっては食傷気味だったらしくケチが付いた評価となりました。
 
歌右衛門の淀君

 
対して醍醐の花見では三成を演じていた左團次が今度は薩摩武士の伊集院半兵衛を務めていますがこちらは
 
左團次の伊集院半兵衛は如何にも薩摩武士らしいが、この優には未だ物足るまい
 
と演技については申し分なく、却って役不足気味であったのでは?と指摘される程の高評価を受けました。
そしてこの手の新歌舞伎の演目には滅法縁のない中車が加役で務めた阿茶の局はというと
 
中車の阿茶の局も出て来た處が化け相だが、勧降の長台詞は力が籠ってゐる
 
と苦手とはとても思えない太々しさと勝者の余裕振りを台詞廻しに力強く出せているとこちらも高く評価されました。
 
この様に問題は個々にあるものの、演技については主要陣3人はどれも好評であり決して悪くは無かったのですが醍醐の花見から間を置かずの上演が足を引っ張る形となり見物受けは期待していた程の物では無かった様です。
 
市原野

 
続く市原野はだんまりの演目です。
詳しくは後述しますが中幕の仮名手本忠臣蔵が親バカで歌右衛門と仁左衛門が倅である福助と千代之助を出したが為にそれを不服に感じた羽左衛門が倅の竹松の為に拵えて格を保つ為に出し物が無かった中車の出し物として実質的には彼に付き合ってもらった形になります。
今回は平井保昌を羽左衛門、鬼童丸を竹松、袴垂保輔を中車がそれぞれ務めています。
どうせだんまりを入れるのであれば一番目の前に序幕で入れれば良いのでは?と思いますが劇評も同じ気持ちだった様で
 
絵のやうだが、余計な出し物である
 
道具がお粗末なので、この狂言の命とする風情がなく
 
とばっさり切り捨てて酷評しています。
自分自身に確固たる実力がある故に普段役揉めには淡白な羽左衛門ですが倅の事になると意外にも人並みの親バカになる羽左衛門の意外な一面が窺える意味では面白いですが演目としては大して意味のない無駄な演目だったと言えます。
 
佐々木高綱

 
そんな他愛のない市原の後に出された佐々木高綱は杏花十種の1つであり一番目と同じ岡本綺堂が書いた新歌舞伎の演目となります。
 
明治座の筋書 

 

今回は佐々木高綱を左團次、子之助を市蔵、おみのを秀調、佐々木定重を亀蔵、僧智山を左升、鹿島与一を翫右衛門、薄衣を芝鶴、馬飼千之助を市蔵がそれぞれ務めています。こちらは一番目と同じくいつもの左團次一座の面子で固められている事もあり、安定度は非常に高く劇評も左團次の高綱について
 
例の石橋山の物語「暗さは暗し雨は降る」「這ひつく張ったあの態は」など、相変らず痛快を極めて若い見物の血を湧かせる。野性的な慄悍な武士の不平こうした役にかけると左団次は矢張り他にその比を見ない特質を有してゐる。
 
と一番目の伊集院半兵衛とは異なりいつもの左團次らしさ全開の演技で大向うからも黄色い声援が飛ばせるなどかなり絶好調の演技振りを魅せる形となりました。
 
左團次の高綱

 
一方で優れた実力を持ちながらも普段は松蔦の陰に隠れがちなおみのを演じる秀調に関しても
 
秀調のおみの左升の僧は書卸し以来の役でこれもいい」 
 
と評価している他に意外にも芝鶴についても言及し
 
芝鶴の薄衣がよい、この優若いが近来メキメキと技量が上って来た。
 
と成長著しいと非常に高評価しました。
 
市蔵の子之助、秀調のおみの

 
結果としてこちらの演目は役者達の充実した演技と左團次贔屓の熱烈な支持もあり
 
この一幕は痛快味があって受けて居ました
 
と前2つの演目の低調ぶりが嘘の様にかなり好評だった様です。
 
仮名手本忠臣蔵

 
同じく中幕の仮名手本忠臣蔵は以前にも紹介した事のある九段目の見取り上演となります。
 
九段目を上演した時の歌舞伎座の筋書 

 

今回は加古川本蔵を仁左衛門、大星力彌を千代之助、大星お石を秀調、小浪を福助、戸無瀬を歌右衛門、大星由良之助を羽左衛門がそれぞれ務めています。

さて、大正6年の時は当時好き勝手に暴走気味であったが故に評価が著しく良くなかった仁左衛門が「義太夫腹のある優とて台詞のメリハリもよく気持ちも十分でよい本蔵なり。」と大絶賛される程の王道たる本蔵を演じましたが今回はどうだったかと言うと

 

初日になって一見した處風采に於いては如何にも典型的で、当代この右に出るものはあるまいと思はされた、併し科は矢張松嶋式を全然離れる事の出来なかったのは巳むを得ざるとするも、三宝を踏み碎いて「破れ三宝のフチ放れ」のあたりは、少しく師直が乗移って居た形があった

 

この前と少し演出を替へて手負になっても大努力

 

と前回とは演じ方を少し変えて演じた様ですが、風采や演技の部分では問題はなかったものの台詞廻しの部分になると師直を彷彿させてしまう点が見受けられたらしく少しケチのつく結果に終わりました。

一方で戸無瀬を演じた歌右衛門と小浪を演じた福助親子は

 

歌右衛門の戸無瀬と福助の小浪が前の通りの嵌まり役で、改めて兎角いふ迄もない

 

歌右衛門の戸無瀬派手に立派にして居て、別にいふ事もない

 

福助の小浪も前回より色気があって結構であった。

 

とこの手の役をやらせると仁左衛門同様に右に出る者はいない歌右衛門は無論の事、2度目となる小浪を演じた福助もよく言われる色気の無さを克服した演技を見せて七光りではない事を証明し親子共々好評でした。

そんな大名題2人+福助に対しても見劣りしなかったのが佐々木高綱でも高評価されたお石を演じた秀調で

 

秀調のお石も押出しが好く、する事も慥かであった

 

と普段は余り評価されない彼も品位高い歌右衛門を相手に真っ向から立ち向かえる実力を評価されました。

 

仁左衛門の本蔵、秀調のお石、千代之助の大星力彌、羽左衛門の由良之助

 
しかし、好調な女形役者に反して立役の方はというと逆に冴えない出来だったらしくいつもは勘平役者が持ち役だけに今回は珍しく由良之助を演じた羽左衛門は

 

羽左の大石はその人ではない、余りにか細い

 

羽左の由良之助は所謂可もなく、不可もなしである。

 

とどう考えてもニンではない由良之助役をお付き合いとはいえ演じなければならなかっただけに本人もやる気が無かったのか適当に演じたのを見透かされた様な評価になっていますが、問題なのが大星力彌を演じた千代之助で

 

千代之助の力彌は先づ及第といふ處

 

千代之助の力彌は最初の出に正面の襖を左右に開かせて、お殿様然と出て来るのは如何いふ考へであるか、それが為に後に正面を開いて、雪景を見せるのが一向に引立たない

 

と普段なら舞台上手から出て来る筈の所を正面から出て来る珍型で演じた事について厳しい評価を受けています。

戦後に由良之助や本蔵を何度も演じて高評価を受けていた彼も若い時は父親の意向(?)なのか珍型を演じていたという意味では非常に興味深い評価でもあります。

 

この様に立役陣は仁左衛門以外は不調、女形陣は好調と明暗を分ける形になりましたが、幸い欠点はあれど仁左衛門の本蔵の出来も良さもあり総体的には好評寄りの評価となりました。

 
赤星重三郎

 
二番目の赤星重三郎は泣く子も黙る辛口の劇評家である岡鬼太郎が青砥稿花紅彩画に登場する白浪五人男の1人である赤星重三郎に焦点を当てて書下ろした世話物系統の新歌舞伎の演目となります。
こちらも歌右衛門の淀君会と同じく羽左衛門に新たな新作を出そうと集められた可江会で発案されたらしく岡は書くに当たって原作の稲瀬川勢揃いの場でのツラネにある
 
以前は武家の中小姓、故主のために切取りも鈍き刃の腰越
 
花水橋の 切取りから今牛若
 
月影ヶ谷神輿ヶ嶽
 
という3つのフレーズから物語を膨らませて作り、赤星十三郎が旧知の水澤頼母、お照父娘と再会する所から物語が始まり、紆余曲折を経て悪党の羽田大助と僧妙源が父娘を襲い頼母は殺害され、お照は連れ去られてしまい重三郎が助け出すもこの2人は実は南郷力丸の手下であり、一度は恋仲になったお照の為に重三郎が殺した薬師の八蔵との手打ちと言う事で南郷と話を付けて夫婦になろうと持ち掛けるもお照は何と許婚が明かし夫婦にはなれないといけしゃあしゃあと言った上で2人を殺させてくれと主張した為、重三郎との関係も拗れてしまい最後はお照が妙源を見つけて船の上で重三郎から奪った脇差で斬りかかるも重三郎に止められ、仇を討てぬ無念の思いと一度は心許した男の正体を知った絶望からお照が海を身を投げて終わるというかなりビターな結末で終わる内容となっています。
この内容に就いては余談があり何でも上演直前になって警視庁から「勧善懲悪の意は何処にあるのか?」というイチャモンに近いクレームが入って岡鬼太郎が何ヶ所か書き直したそうですがそれでも最後の結末だけは死守したらしく今様薩摩歌同様に古典にありがちなハッピーエンドには終わらせないシニカルな彼の感性が垣間見えます。
 
今回は赤星重三郎を羽左衛門、南郷力丸を左團次、お照を福助、番頭伊兵衛を翫右衛門、羽田大助を左升、僧妙源を市蔵、お六を秀調、水澤頼母を仁左衛門がそれぞれ務めています。
さて、いくら新作とは言え前幕の大星由良助同様に普段なら弁天小僧が持ち役の羽左衛門が赤星重三郎を演じるという一種の賭けに近い試みとなりましたがこちらの出来はどうだったかと言うと
 
羽左衛門の重三郎若衆の優男で大盗賊で義気ありとはうってつけ
 
船で黒っぽい裾模様を引っかけて立つ姿など事実羽左衛門ならではである、又お照に「いやなものなら頼まれねぇ」と破裂する所、「この重三郎に逆らう奴はこの通り」り怒鳴る處、同く羽左衛門ならではである、かうした羽左衛門の巧味は態だけで芝居する處と、生一本の感情が爆発する處とである。
 
と岡が羽左衛門からのリクエストである「若衆の悪党で強請騙りをする様なもの」という役を作り上げた事もあり、羽左衛門の持つ色気と彼の引き出しにある世話物の伊勢音頭の福岡貢と三人吉三のお嬢吉三をミックスした様な役所を苦もなく演じれたらしくかなりの高評価を受けています。
そんな好調な羽左衛門に対して他の役者についてはどうだったかと言うと自分の発した余計な一言が仇となって父親の仇を打てないばかりか自分の命を絶つ羽目になってしまうお照を演じた福助は
 
福助のお照は無論作者の手加減が功を奏してゐる。ああ書かれてゐれば福助として失敗のしようがあるまい
 
と前置きした上で欠点として
 
福助は単にあの役の中に自分を仄かに見せてゐるだけである。(中略)福助のお照は未だあの役を自分で消化し切ってゐないと思ふ。つまり、持味でやっと彌縫してゐる形である。
 
と持ち前の美貌と頭だけで演じているだけで肚が足りないと実力を出していない事を惜しまれています。
 
羽左衛門の赤星重三郎と福助のお照

 
そんな壁を作りがちな福助と比較して株を上げたのが妙源を演じた市蔵で
 
市蔵の長所が偶然役を引立てた
 
とあくまで偶然の産物だと断りつつ
 
市蔵は常に芸に余裕がある。いい時はそれが鷹揚となり、悪い時に鈍重となる。烈しい事と鋭い事とに欠ける代りに、腹八分といった良さ加減がある。この役など懸命すぎては却って困る。烈しすぎても困る。といって鈍重は尚困る。(中略)市蔵の妙源は大きな悪党でもなく、しすぎる芸でもなく、無論、独りよがりの臭味もなく、誠に役に成り了せてゐる。
 
と頭で考えて演じていなくても彼の持つ腹八分の芸風が自然と滲み出ていて自然と小悪党である役に成りきれていると高評価されました。
 
この様に羽左衛門の出来が良いのは無論、福助のお照もそれなりと出来で脇を固めた市蔵の思わぬ副産物が生み出した好い演技もありマンネリ気味だった歌右衛門との新作よりかは新鮮味があった分だけこちらに軍配が上がる形となりました。
そして羽左衛門はこの演目の出来に大変満足して「可江集」の最初の演目に制定しました。
余談ですが現在の歌舞伎の商業出版物で紹介される可江集は実は羽左衛門が制定した物ではなく「1985年に雑誌の演劇界において匿名の人間によって勝手に制定された偽物の可江集」であり、偽物の方は如何にもお家芸らしく羽左衛門の当たり役が12演目あるのに対して本物の可江集はこの演目含め僅か4演目、しかもその全てが新作しかありません。何故この様な事態が起こり現在も偽物が紹介され続けているのは理解不能ですが幸い2つ目と3つ目の演目に関しては上演された時の筋書を所有していますので後程紹介したいと思います。
 
忍夜恋曲者

 
大切の忍夜恋曲者は天保7年6月に市村座で初演された常磐津の舞踊演目となります。元の外題を世善知相馬旧殿といい通称将門と言いますがこれは平将門伝説を下敷きに描かれているだけで将門本人は登場せず将門の娘である瀧夜叉姫が大宅光圀に正体を隠して忍び寄り殺そうとするも正体を見破られ激しい立廻りをするのが見所になります。
更に言うとこの演目は元々通し演目の中盤に差し込まれており二代目市川九蔵(六代目市川團蔵)が一挙六役を演じ分ける中で舞踊も演じるのがポイントでもありました。
今ではそんな事は無く只の一舞踊演目として現在でも時折上演されたりします。
 
今回は大宅光圀を市蔵、傾城如月実は瀧夜叉姫を秀調がそれぞれ務めています。
普段であれば自分の出し物など出せない市蔵と秀調と言うかなり通好みな2人の出し物となりましたが劇評は相変らず冷たく
 
大切の片市と秀調の「将門」は見残した
 
と見なかったと一言で片づけています。
現代と異なり全て観終わると12時近くになってしまう為に一概に観なかった事を責め立てる訳には行かないものの、もう少し書き方があるだろうと思わずにはいられないものがあります。
 
とこの様に各幹部が得意の演目を並べた公演となりましたが、結果の方はと言うと同月行われた市村座の公演などに客が流れたのか決して悪くは無かったものの、期待していた程の大入り満員にはならないという何とも微妙な結果に終わりました。

公演中の状況からこのままおめおめと負け下がるわけには行かないと思ったのか、翌月の11月公演は

 

佐倉新絵巻
辨内侍 
ひらがな盛衰記
牛念仏祇園夜話
 

と内定し初日を11月3日に決まり素稽古も終えていよいよ鬘、衣装を合わせての通し稽古が始まる筈だった10月31日午前8時5分、
 
歌舞伎座は突然出火、炎上しました。
 
燃え盛る歌舞伎座

 
この日歌舞伎座では午前2時半まで大道具の人達20名が夜通し舞台セットの製作に取り掛かっており、7時半に起床し詰めの作業に取り掛かろうとした矢先に2階の電気室から
 
木の燃えるような音がした」(目撃者談)
 
のを聴いて電気室に覗きに行くと天井まで届く青紫色の炎が上がっているのを目撃しました。慌てて消火に挑むも火の回りは尋常ではない速さで燃え広がり8時40分には写真にある通り歌舞伎座全体が炎に包まれる大火災となり東京市管内の消防車9台が駆け付けて懸命な消火作業をしたにも関わらず出火から僅か1時間25分後の9時30分には劇場本体は脆くも崩れ落ち座付の芝居茶屋である武田屋と劇場の真裏にあった河原崎権十郎の自宅を類焼する形でようやく鎮火しました。
逃げ遅れた大道具のスタッフ3名と消火作業中に落下物等で負傷した消防士9名を含む大惨事となりました。
この火災により歌舞伎座の建物、公演用の道具一切を含めて60万円(現在の貨幣価値で約9億5000万円)の損害となり、保険支払いにより実質的な損害は26万円(現在の貨幣価値で約4億1000万円)程度となりましたが1989年の創立以来32年間銀座にあった歌舞伎座が焼失するという前代未聞の事態になり大谷竹次郎は11月公演の差配も含めた対応に追われる事となりました。
松竹は当時東京に新富座、本郷座、明治座と大歌舞伎を上演出来る劇場を所有する他に麻布南座、麻布末広座等複数の小芝居の劇場も所有していましたが既にどの劇場も11月公演の出し物を決めており歌舞伎座の役者達を割り振って出せる余裕は無い状態でした。
そんな窮地の大谷に救いの手を差し伸べたのは一座の主役たる吉右衛門を奪われ憎しみ募る筈の田村壽二郎で、偶々市村座が父成義の一周忌と菊五郎が和倉温泉に狩猟に行く為に休暇を願い出た関係で空いていた事もあり、火事と葬式は話が別だと思ったのかは定かではありませんが火事の一報を聴いて直ぐ様大谷の元を訪れて提供を申し出た事と不幸中の幸いにも三越の作った衣装は焼失を免れた事もあり、田村への好意からか成義の命日に当たる11月8日を初日に異例となる市村座への引越公演という形で次の11月公演が行われる事となりました。