今回は帝国劇場の筋書を紹介したいと思います。
大正9年11月 帝国劇場
演目:
一、吾妻五人男
二、勤王遺聞
三、国性爺合戦
四、艶姿女舞衣
五、寿靱猿
参考までに10月公演の様子を紹介した演芸画報
タイトルにも書いた様に大正5年から始まった歌舞伎座と帝国劇場の相互出演協定に基づく幹部役者の出演でこれまで唯一出演していなかった市川段四郎が重い腰を上げて出演を果たしたのが今回の公演の目玉でした。
澤瀉屋の帝国劇場出演については以前に触れましたが大正6年9月に新進気鋭に富む二代目市川猿之助が息子團子、弟小太夫を連れて女優劇に客演したのが最初で八百蔵も養父中車に連れられて大正7年6月公演に出演していました。
八百蔵が出演した大正7年6月公演の筋書
猿之助と團子が出演した大正8年12月公演の筋書
特に猿之助の目指す演劇志向と帝国劇場の方向性の相性が良かった事から猿之助は何度も出演を果たしていましたが、
新作物があまり得意でない父段四郎は肌が合わないと感じたのか息子たちとは対照的にこれまで1度も出演する事はありませんでした。
そんな段四郎も松竹に説得されたのかはたまた帝国劇場側からの要望だったのか定かではありませんが、ここにきてようやく出演し新作が苦手な彼に配慮してか中幕の国姓爺合戦と二番目の艶姿女舞衣のみの出演となりました。
吾妻五人男
序幕の吾妻五人男は帝劇恒例の若手による一幕芝居で芝居前に群がる破落戸5人に襲われそうになる雑賀屋の娘のおみつを吹上半蔵が救うという単純な内容です。
今回は吹上半蔵を長十郎、巽金太郎を榮三郎、浜也武五郎を高助、芝浜浪右衛門を田之助、雑賀屋与四郎を介十郎、妹おみつを錦吾、忍三吉を小太夫がそれぞれ務めています。
ポイントとしてはこの演目の主役が長十郎である事と段四郎加入に伴い息子の小太夫が顔を出している点です。
まず、最初の長十郎についてですが彼は以前紹介した様に帝国劇場と契約と共に長十郎を襲名するという特別扱いで初出演を果たしてから10年が経過し、兄宗之助に従い巡業に行ったり本公演では専ら勇猛な役や時にはおさすりお兼など柄に合わない役にも果敢に挑みそれなりに評価されるなど芸の修業を積んでいました。
長十郎を襲名した時の帝国劇場の筋書
おさすりお兼を演じた時の筋書
同じく染模様妹背門松で評価された時の筋書
そんな彼もこの時丁度31歳を迎えてこの年に準幹部に昇進しようやく若手の域から脱して中堅に差し掛かり始めた時期でした。
それだけに初の出し物となったこの演目も張り切って務めたらしく
「威勢がいいのがなにしろ目出たし」
と若手4人共々その若さぶりが良いと評価されています。
因みにこの後長十郎はと言うとこの後も帝国劇場で粛々と役を務めこれからいよいよと誰もが思った矢先の大正11年11月公演を最後に何を思ったのか帝国劇場を脱退し根岸興行部が持っていた浅草の劇場の1つである常盤座の座頭として引き抜かれました。しかし、その直後に関東大震災が起きて常盤座は焼失してしまい、止む無く大国座、観音劇場、公園劇場、神田劇場といった小芝居の劇場を転々としていました。これだけだとごまんといる小芝居役者と同じですが、彼の異なる点は父親の訥子が小芝居の人気者であったという点で大正15年に訥子が亡くなると本来であれば訥子の名跡を継いでもおかしくなかったのですが、訥子の名跡は女婿の傅次郎に奪われて昭和2年に襲名されてしまい、しかもその新訥子は襲名と同時に小芝居から足を洗って大芝居へと移ってしまい、訥子の芸を懐かしむ観客の思いは必然的に実子の長十郎に寄せられる事になり昭和に入ると小芝居のパイそのものが狭まっていった事もあり市川新之助、松本高麗之助、松本錦吾、市川市十郎などと並んで小芝居界隈では大物役者扱いされる様になり訥子の得意役を務める傍ら紅葉狩や阿古屋など持ち役として末期の宮戸座で大暴れしていました。
彼については大正末期に小芝居に出ていた頃の筋書を何冊か持っていますのでまた時期が来たら紹介したいと思います。
そしてもう1つ面白いのが松本錦吾と市川小太夫の出会いです。上記の通り錦吾もまた長十郎と同じく大正11年11月公演を以て脱退し小芝居へと移りました。
しかし、彼は宮戸座にちょろっと出た位でその後は本郷座や松竹買収後の市村座などに出演し、左團次一座の引き合いもあって昭和3年12月には歌舞伎座に出る等少し毛色の異なる活動をしていました。そして昭和6年に猿之助に同調して第二次春秋座に参加した後、分裂に際して前進座にも行かずかといって松竹にも戻らず、今回一緒となった小太夫と共に新興座を立ち上げて現代劇などに挑戦するなど独自の道を歩み、一座で各地を巡業する過程で上方歌舞伎の面々とコネを持った事から新興座解散後には小太夫と共に上方歌舞伎に入り中村扇雀の一座で渋い脇役を演じる等抜け目ない活動振りで昭和期を過ごす事になります。
皮肉にもこの演目で帝国劇場に残った御曹司たちは急逝したり不遇を託ったりとあまりいい役者人生を送れたとはお世辞にも言えない人ばかりでありそれに比べると小芝居に打って出た門閥外の3名(小太夫含む)は道は異なれどそれぞれ逞しく戦後まで生き延びているのを見ると人生一事が万事塞翁が馬とはいえ、どう転ぶか分からない物があります。
勤王遺聞
そんな若手主体の序幕を終えて始まるのが一番目の勤王遺聞で河竹薪水が幕末の文久の政変を舞台に変の前後の長州藩の様子を七卿落も含めて描いた新歌舞伎の演目になります。
約1年前に高杉を主人公にした奇兵隊を上演したばかりなのにまたも勤王物かよと思う方もいるでしょうがこれには裏がありこの大正9年11月1日は明治天皇を祀った明治神宮が竣工したばかりであり、戦後恐慌を物ともせず地方から東京に多くの参拝客が訪れて来ており、今回の演目は端からその参拝客を目当てに書かれた物でした。
今回は高杉晋作を幸四郎、久坂玄瑞は宗之助、平野國臣を宗十郎、島田良助を勘彌、品川彌次郎を長十郎、舞子富勇を梅三郎、目明又助を錦吾、壬生基修を小太夫、錦小路頼徳を榮三郎、澤宣嘉を田之助、東久世通禧を高助、四条隆謌を幸蔵、三条季知を松助、芸子君香と三条実美を梅幸がそれぞれ務めています。
さてこの余りに地方客目当て丸出しの芝居に関して劇評はどうだったかと言うと
「「七卿落」は何れも紛争が物々しく、某台詞にある南北朝の昔を見るやうで、余り大時代になり過ぎた。」
「由来劇としては勤王物に面白い物なしで唯ださらさらと気の利いた處がよし」
と衣装がチグハグだったり時の政府が長州閥であるだけに下手に悪く書く事も出来ず悪しき賛美物に陥りがちな勤王物のジンクスがここでもハマり案の定面白くはなかったものの、かと言って胃もたれする程の重さでもなかったのかそのまま流し見できる程の纏まり方であったのだけは評価されています。
そして役者に関しても史実の人物に関してはどうする事も出来ないものの、架空の人物なら大丈夫であろうと梅幸の演じた君香に
「幕吏に万丈の気を吐く處も大受けである」
とお上批判をさせたのが良かったらしく一番目の見物受けは上々だったそうです。
勘彌の島田良助、梅幸の君香、幸四郎の高杉晋作
この様に作としては稚拙ではあるものの、新幹線や飛行機がありその気になれば何時でも地方から来れる現代と異なり地方の客がこぞって観劇に来れる様な時代では無かった事を踏まえるといつぞやの東京博覧会の様に大規模集客イベントに集まる見物を目当てにするのは制作サイドとしては間違った判断はしておらず、そういう意味ではシビアに客寄せパンダに徹したこの演目の価値は十分に果たせたと言えます。
中幕の国姓爺合戦は以前歌舞伎座の筋書でも紹介した時代物の演目となります。
歌舞伎座の筋書
今回は和藤内を幸四郎、甘輝を段四郎、錦祥女を宗十郎、こやのを幸蔵がそれぞれ務めています。見物受けする一番目の後に持ってきたのがお馴染み国姓爺合戦ですが長年に渡り七代目市川海老蔵の項目に明治43年3月の明治座での和藤内の画像が間違って貼り付けられていた事で妙に知名度がある幸四郎の和藤内はというと
「幸四郎の和藤内当代随一である、甘輝館を引いて水門となり、せりで上った橋の上の「南無三」で極った形、大荒れになって投げ人形から飛び六法の引込み、続づいての荒れ込み元禄見得など、殆ど形一つで見せる芝居で、幸四郎は柄、意気、形の三つの条件を完全に具備してゐるだけ、延平王になるまで当代随一の和藤内であった。」
と普段なら酷評される事が多い彼もその豊かな体躯で魅せられるこの役では向かう所敵なしの出来栄えであったらしく、東京で見せた羽左衛門、大阪で見せた鴈治郎と比べても比較にならない出来栄えと珍しく絶賛されました。
幸四郎の和藤内
尤も舞台の姿勢だけではなく得意とする芸域もかなり被っていた事から時には栄えある場で得意役を奪われたりする等時には対立する事もありましたが互いに根に持つ性格でも無かった事から互いに場所を歌舞伎座に移してからも共演を重ね幸四郎が歌舞伎座を脱退するまでその関係は続きました。
弁慶役を段四郎が奪った歌舞伎座の筋書
その弁慶役を1日替りで演じた歌舞伎座の筋書
鏡獅子を2人で仲良く演じた歌舞伎座の筋書
さて、そろそろ話を本題に戻すと他の出演者である宗十郎と幸蔵も行儀良く脇に徹した事もあり
「近来の大出来である」
と折り紙付きの当たり演目となりました。
宗之助が半七を演じた帝国劇場の筋書
珍しく上段が上演された時の帝国劇場の筋書
今回は前回と同じく酒屋の見取上演で半七女房おそのを梅幸、茜屋半兵衛を松助が務めた他、茜屋半七を宗十郎、美濃屋三勝を宗之助、宗岸を段四郎がそれぞれ務めています。
前回の帝国劇場で演じた時は「要領を得ぬという事の見本の如し」とこっ酷く酷評された宗十郎ですが今回は得意の若旦那役とあって宗之助共々
「宗十郎の半七、宗之助の三勝といふ役揃ひ」
と適役であると評価されて無事汚名返上を果たしました。
宗十郎の茜屋半七と宗之助の美濃屋三勝
梅幸の半七女房おその、段四郎の宗岸
そして中幕の紹介でも書いた様に幸四郎こそ翌年5月に再び共演したものの、梅幸や宗十郎、松助や宗之助と段四郎はこの公演が文字通り最後の共演となり中幕の甘輝とは180度異なる役ながらもニンにピタリと嵌めて演じきった段四郎の好演や梅幸、宗十郎のニンの良さも相まってこちらも文句のつけようの無い当たり演目となりました。
さて、気になる入りですがご覧の様に演目内容は役者の演技も好評で且つ明治神宮目当ての地方客もいるという好条件に恵まれ、しかも11月の東京の劇界は
余談ですが段四郎はこの公演から僅か1年2ヶ月後に死去しており、1年後の大正10年下半期は体調が優れない為か休演する月も多かった事から今回の公演は本当の意味でギリギリのタイミングでの出演となりました。
こうして大正5年から始まった歌舞伎座と帝国劇場の相互出演協定は以後歌舞伎座から仁左衛門、羽左衛門、左團次が定期出演する一方帝国劇場も梅幸、幸四郎が松竹の劇場に時たま出演するだけの関係に留まり震災後もその関係は変わりませんでした。
そういう意味では今回の段四郎と言う最後の大物の出演を終えた事でその役目を果たしたと言えると同時にこれまで相互出演と言う絶妙なバランスで保っていた三座の関係にいよいよ変化が訪れるターニングポイントであった公演だったと言えます。
そして本公演を終えて師走シーズンを迎えて専属役者はそれぞれ四散し帝国劇場は恒例の左團次一座を迎えて次の12月公演を打つ事になります。その筋書も持っているので演芸画報の後に紹介したいと思います。