明治34年2月 中座 鴈治郎の高時と筆屋幸兵衛 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は色々な意味で非常に珍しい明治時代の中座の絵本番付を紹介したいと思います。

 

※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。

 

明治34年2月  中座

 

演目:

一、三鱗英花盞

二、敵討襤褸錦

三、水天宮利生深川

 

非常に珍しい明治30年代の中座の絵本番付となります。前に明治25年の中座、角座、浪花座の絵本番付は紹介しましたがその後絵本番付は20年代後半に入ると姿を消し明治38年に松竹が大阪に進出する前後辺りになって再び発行され始められたと見られていました。

 

前に紹介した中座、角座、浪花座の絵本番付 

 

 

 

 

 

 

今回の物はその説を大きく遡る明治34年の物に当たります。そしてこの筋書、以前にTwitterで軽く紹介しましたが歌舞伎図説の著者であり同時に膨大なコレクターとして知られた秋葉芳美氏が晩年に東京大学に寄贈した約16,800点からなる秋葉文庫から散逸した一品でもあります。

 

秋葉蔵書の印

 

そして本編に入る前にこの頃の上方道頓堀の状況について簡単に説明したいと思います。

 

リンク先にもある明治24年の菊五郎、左團次の来阪の後、明治29年に再び左團次が来阪した以外は東西役者の交流もひと段落し同時に同年を最後に我當(仁左衛門)と共演をしなくなった鴈治郎は賭博事件による処罰など苦汁を舐めつつも我當と共に道頓堀の二大看板として台頭し明治31年に九代目市川團十郎が最初で最後の大阪での公演を行った時も鴈治郎は共演する事無く、浪花座で公演を開き十分に集客を集められる程人気と実力はうなぎ上りの状態でした。

 

團十郎が梅田の初代大阪歌舞伎座で公演した時の番付 

 

そんな中で明治34年の道頓堀の役者たちは概ね以下の様な配置図になっていました。

 

中座…明治31年10月から丸2年以上鴈治郎一門と専属契約し、他に高砂屋福助、政治郎親子、嵐巌笑、尾上多見之助も専属で出演。11月のみ浪花座に客演。

 

角座…3~4月のみ四代目片岡我童襲名披露公演が行われたのと10~11月に中村霞仙、市川市蔵が公演した以外は新派が公演を行う

 

浪花座…こちらも明治31年10月から丸2年以上片岡我當一門と専属契約し(3~4月は新派の公演と甥の我童襲名もあり角座に客演)

 

弁天座…初代市川右團次、嵐徳三郎、嵐橘三郎が専属契約。

 

朝日座…歌舞伎公演無し

 

その為、今回の中座は鴈治郎一門、高砂屋親子及び巌笑、多見之助という座組での公演になりました。

 

三鱗英花盞

 

一番目の三鱗英花盞は聞き慣れない外題ですが元の外題を北条九代名家功といい、実は新歌舞伎十八番の1つ、高時です。

鴈治郎は前に紹介した明治23年の京都祇園館で團十郎が演じたのを目にしていますが演じるのは無論これが初でした。

 

團十郎が演じた京都祇園館の絵本番付 

 

一応最近では2019年に上演されたりはしますが、團十郎が明治17年11月に猿若座(中村座)で初演して以降は専ら上の巻の問前の場と奥殿の場のみですが鴈治郎は何を思ったか通しで演じました。

今回は高時を鴈治郎、大佛陸奥守を福助、秋田城の入道を傳五郎、大佛出羽守を多見之助、長崎次郎高重と衣笠を政治郎、村上妻小鶴を玉七、長崎高貞を琥珀郎、長崎三郎左衛門を荒五郎、長崎勘解由左衛門を霞仙、達部母はやしを正朝、天狗を玉七、成笑、成三郎、傳五郎など、五大院十郎を箱登羅、新田義貞と右小弁俊基を巌笑などがそれぞれ務めています。

一見すると無茶な試みの様に見えますが実はこの内、福助と傳五郎は明治17年の初演の際に東京に居た関係で役は違えど出演しており、團十郎の天狗舞をじっくり見ていた鴈治郎も含め全く無謀とは言えない部分もあった様です。

さて、鴈治郎が珍役高時をどう演じたのか気になると思いますが、劇評には途中から観劇したという事情もあり思った以上に言及がなく

 

團洲直伝の天狗舞を鴈洲が大車輪で勤め

 

と僅かながら触れられていて、天狗舞の部分は得意の大車輪で演じてそれなりの出来にはなった模様です。

 

因みにどう見てもミスマッチ感が否めない演目でしたが鴈治郎は気に入っていたらしくこの年の6月には南座でも再演するほどでした。

 

敵討襤褸錦

 

中幕の敵討襤褸錦は玩辞楼十二曲の一つである時代物の演目です。

 

以前紹介した浪花座の筋書 

 

今回は春藤次郎左衛門を鴈治郎、春藤新七を玉七、春藤治兵衛を霞仙、高市武右右衛門を福助、彦坂甚六を箱登羅、寒念仏西念を琥珀郎がそれぞれ務めています。因みにこの演目を鴈治郎は第二の師と敬う中村宗十郎から教わって自分の持ち役にしており、劇評には

 

宗十郎物の襤褸の錦と菊五郎の当りを取りたる筆屋幸兵衛を勤めて團菊宗と並び称されたる名優を一人で仕分る

 

と触れられており、どうやら鴈治郎の当たり役としてよりも宗十郎の当たり役として捉えた上で左團次を抜いて宗十郎を加えた團菊宗の当たり役に挑むというのが今回の公演の狙いだったそうです。

そして自身も得意役とした春藤次郎左衛門を演じた鴈治郎について

 

鴈治郎の春藤次郎左衛門は優が若かりしとき故宗十郎がこの役を勤め自分は治兵衛を勤めて末広屋の型をよく呑込みその後また故(嵐)雛助が治(次)郎左衛門を勤めしときの型をも心得て今度演ずる由なるが

 

と中村宗十郎に加えて宗十郎より一世代上の七代目嵐雛助が演じた型も覚えて自身の役作りに活かしたらしく

 

扇若(じぶん=鴈治郎)は顔もニクにして髭をも延し衣装も継々にせしはよき考えなり併し型は崩さず唯青江下阪を抜て見せるとき誰でも立掛りし下僕をポンと投げ膝下に敷て刀を抜きキット見えになる處なれどそれも仰々しきに過ぎるとの意か唯投げ附けしだけで刀を抜きしは却って渋味ありてよしまづ当代のこの役はこの優のものなるべし

 

と衣装や化粧はあくまで写実に徹し、型も概ねそのまま継承しつつも部分部分で写実寄りに変えて演じた事でリアリティを増して渋くなったと工夫を評価されました。

そしてこの頃は鴈治郎と唯一対抗でき得る二枚目役者として評価が高かった初代中村霞仙と福助の前に女房役者を長年務めた二代目中村玉七がそれぞれ治兵衛、新七を演じこちらも

 

霞仙の春藤治兵衛は一寸出るだけなれど兄の手負に縋りての愁嘆は兄弟の情を呈はし玉七の春藤新七も兄を思ふてまめまめしく立働く處演劇の様には思はれぬ程なり

 

とどちらも好評でその内玉七は野心もなく黙って言われた指示通り演じる福助とはタイプが異なり、きちんと鴈治郎が演じやすい様に自分で考えて甲斐甲斐しく動くタイプの女形役者であった事を伺わせてくれます。彼は以前紹介した様に成駒屋の先祖筋である加賀屋の祭祀を継いだという特殊な立場から他の役者とは一線を画す位置にいた人物ではありましたが、それだけでなく演技の面においても鴈治郎に取って無くてはならない存在であった様です。

 

玉七についてはこちらをご覧下さい 

 

 

鴈治郎一門と言えばどうしても後年の福助、魁車という2大巨頭あるいは記録を残した箱登羅を始め市蔵、莚女といった大正時代から合流した人の活躍ばかりが目に付きますが、逆に鴈治郎の役者人生の内、明治時代を支えた玉七や實川正朝、三代目中村傳五郎といった役者たちはあまり知られておらずそういう意味では今回の公演は丁度鴈治郎一門の明治時代を支えた役者と大正時代を支えた役者達が同居していた過渡期に当たる時期でもあります。

因みに数少ない明治、大正を通じて鴈治郎と深い繋がりがあった福助は高市武右右衛門を演じ

 

福助の高市武右右衛門は情ある武士とはその一挙一動に現れ例の「御刀拝見、御道具拝見」の台詞で治(次)郎左衛門が抜て見せる青江下阪の劔を荒五郎の宇田右衛門と鴈治郎の治(次)郎左衛門と三人の顔を並べ中央になって一刀に目を注ぐ形何ともいはれず

 

とその人柄が役に滲み出る様な立派な武士になりきっていたと評価されました。

この様に鴈治郎の闊達な演技とそれを支える初期からのベテラン勢の手厚い助演もあり、3つの中では一番出来が優れていた演目だったそうです。

 

水天宮利生深川

 

大切の水天宮利生深川はこちらも市村座の筋書で紹介した散切り物の演目になります。

 

六代目が演じた市村座の筋書 

 

今回は筆屋幸兵衛を鴈治郎、萩原巡査を多見之助、萩原良作と車夫三五郎を巌笑、萩原妻おむらを玉七、金貸し金兵衛を琥珀郎、お雪を政治郎、下女おせんを正朝、お霜を鴈童、茨木伝次を箱登羅、小天狗要次を霞仙がそれぞれ務めています。
こちらは何故演じたのか一番目以上に演目選定の理由が分かりませんがもしかしたら一番目の活歴に対して二番目は散切り物と敢えて團菊がかつて拘っていた演劇改良の遺物を敢えて持ってきた所を見ると60代に入って古典に回帰して既に團菊が諦めていた演劇改良運動の後継者であるのを暗にアピールしたかったのかも知れません。
そんな気になる鴈治郎の幸兵衛ですがこちらは劇評には
 
切は水天宮利生深川とて散髪ものにてあっさりしたとした世界なり
 
切は都合にて上の巻だけ見て帰りたれば
 
とこちらも演目の前半しか観劇しておらず僅かな供述のみとなっておりどんな出来であったのかは全く以て不明です。
 
この様に團菊宗の当たり役を全て演じるという企画あり気な公演でしたが、当時全盛期であった鴈治郎の人気とその演目の物珍しさから初日から多くの見物が押し寄せたらしく入りとしては大入りとなりました。
因みにこの年の鴈治郎は上述の通り6月の南座では高時を再演したり、10月の浪花座での封印切では忠兵衛を霞仙に回して初めて孫右衛門を演じたりと1年を通して役者としてかなり突飛な行動が見受けられており、42歳という不惑を超えてからの意味不明な行動はこれまで若さと人気先行で売れてきた彼に取って自分の向かう方向性に迷いが生じていた初めてのスランプだったのかも知れません。
この後も頼まれたとはいえ、座元を兼ねてみたり(明治36年)、助六を上演して市川宗家から訴えられたり(明治37年)と鴈治郎の奇行は続きますが明治35年に初めて出会った白井松次郎と大谷竹次郎のバックアップによって明治39年以降ようやくこうしたスランプを脱して一座の世代交代も成功して第2の黄金時代を迎える事になります。
そういう意味では人気面では兎も角、内面でスランプであった鴈治郎がもがく様子が窺える非常にユニークな筋書だと言えます。