今日5月3日はブログを開設してからお陰様で3年目となります。
毎月多くの方に見ていただいる皆様に感謝を込めて、今回は記念に新年一発目に紹介した京都祇園館に並ぶ團十郎にとって最初で最後の大阪公演となったこの番付を紹介したいと思います。
※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。
明治31年2月 初代大阪歌舞伎座
演目:
一、武勇誉出世景清
ニ、信州川中島
三、春興鏡獅子
四、滑稽二人袴
五、河内山宗俊
六、戻り駕
大阪歌舞伎座というと多くの人は千日ビル火災で悪名名高い大阪千日ビルの前身が脳裏に浮かぶと思いますが、こちらは千日土地興行の創始者である松尾國三が千日前に昭和7年に建設した建物であり、今回紹介する大阪歌舞伎座は明治31年に大阪は梅田に建設した同名の劇場になります。
こちらは皆さんがよく知る二代目の大阪歌舞伎座
こちらが今回の舞台となった初代大阪歌舞伎座
京都祇園館の筋書
本編に入る前にこの公演が実現した経緯について話したいと思います。以前紹介した京都祇園館公演の後、團十郎は道頓堀に出張した菊五郎や左團次とは異なり歌舞伎座を本拠地に定めて僅かに明治24年2月に横浜蔦座に出たのを例外として東京から一歩も外に出る事はありませんでした。
そんな團十郎に転機が訪れたのが明治30年の事でした。それは大阪の興行師である高橋藤右衛門から大阪に新たに出来る劇場である大阪歌舞伎座の杮落し公演に團十郎を招聘したいという物でした。京都祇園館の最後にも書きましたが九代目は長兄の八代目團十郎が中の芝居に出演予定だったものの、初日の朝に自殺を遂げるという悲劇が起きた地である大阪を殊の外嫌悪していました。そんな言下に跳ねのけるのが目に見えている筈なのにオファーが来たのには当然理由があり発起人の1人に元大阪府会議員の古屋宗作という人物がおり彼と懇意にしていたのが團十郎と旧知の仲である福地桜痴がいた為でした。桜痴は東京の歌舞伎座が軌道に乗った事で気が大きくなったのか大阪にも歌舞伎座を建設しようと明治29年から足掛け2年に渡り何度も大阪に赴き奔走して建てたのでした。当然桜痴はそのコネクションから團十郎を呼んでの杮落し公演を当初から想定して仲介の労を取ったのでした。
しかし、いくら馴染みの桜痴からの誘いとは言え、忌むべき地である大阪へは何としても足を踏み入れたくない團十郎との交渉は難航を極め中々首をタテには振りませんでした。仕方なく桜痴は團十郎が頭が上がらない井上馨に頼み込んで仲裁を依頼しようやく交渉のテーブルに付きましたがどうしても断りたい一心の為に
「給金を5万円(現代価格に換算して約2億2千万円)出してくれるなら行く」
という無茶苦茶な条件を出しました。当然には相手方も諦めるだろうと思っていたようですが、古屋は
「給金は滅法高いが、既に團十郎の来る事を世間へ発表した以上、今更給金が高いといって、他の俳優に変った日には、自分の面目ばかりでなく、忽ち芝居は潰れてしまふ。どうせ潰れてしまふのなら團十郎を五万円で買って潰した方が男らしいと考へ、宜しい、五万円でも十万円でも買ふから来て呉れろ」
と条件を呑んでしまいました。そうなると条件を言い出した手前、今更出ないという訳には行かなくなってしまった團十郎はとうとう覚悟を決めて出演を決意したのでした。
因みにこの給金の記録は125年以上経過した今もそして今後歌舞伎の歴史上でも塗り替えられる事の無い記録であるのは疑いようもなく、しかも彼以外の役者についてもかなりの高額の給金(唯一判明している八百蔵は5,000円)を支払っているのが確認されており、総額としては桁外れの出費になった模様です。
その高額な給金を賄う為に観劇料も当然の如く爆上がりし、
左右桟敷 13円80銭 (約60,913円)
正面桟敷 11円60銭 (約51,202円)
中桟敷 8円30銭 (約36,636円)
三階桟敷 6円90銭 (約30,456円)
出孫 6円 (約24,277円)
上場 5円50銭 (約26,484円)
前場 3円95銭 (約17,435円)
後場 3円5銭 (約13,462円)
となりました。因みに同月に道頓堀で当時上方歌舞伎のトップであった鴈治郎が出演し行われていた浪花座の観劇料は
桟敷席 6円48銭 (約28,602円)
出孫 2円18銭 (約9,622円)
上場 1円88銭 (約8,298円)
東場 1円68銭 (約7,415円)
であり、大阪歌舞伎座の観劇料はこの時道頓堀で最も高額であった浪花座の2倍以上にも及び、如何にプレミアチケットであったのかが分かります。
話を元に戻すと場所が場所だけに大阪の歌舞伎役者も出演する事になりましたが本来なら上方歌舞伎のトップである鴈治郎を呼びたかった様ですが團十郎の給金額が額なだけに割と高額な鴈治郎の要求を呑める余裕はなく、また福地桜痴も我儘な鴈治郎を呼ぶのに乗り気ではなかった事から代わりに片岡我當、高砂屋中村福助、嵐巌笑、尾上多見之助、片岡土之助が出演する事となりました。
しかし、高橋藤右衛門らは大金を払った手前、團十郎には働いてもらわなくては困ると出し物を團十郎を中心に組んだ事や宣伝の為に5万円の給金を團十郎に支払った事を吹聴した事ですぐに役者達の耳にも入り、團十郎とは5年に渡り共演し彼の覚えもめでたい福助も温厚な性格と見かけによらず内心ではかなり憤慨していて同じく給金の件で憤っていた我當をけしかけた事で大事件が勃発する事になります。
後に八百蔵が追善公演で演じた歌舞伎座の筋書
追善公演の際には大詰の頼朝旅館の場のみの見取演目でしたが、今回も大詰に序幕の熱田明神鳥居前の場を加えたのみでその序幕も言わばだんまり代わりに使用していており実質的には大詰のみの上演となりました。
今回は悪七兵衛景清と上総忠光を團十郎、畠山重忠と僧禅師坊を猿蔵、長尾定景と右幕下頼朝を八百蔵、梶原景時を宗三郎、美保谷国俊を染五郎、人丸と本田妻賎機を女寅、樺沢妻磯葉を富十郎、悪七兵衛景清(序幕のみ)と梶原景高を團七、結城友光を我當、千葉常胤を福助、横山妻衣手を多見之助、和田常盛を珊瑚郎、伊庭十三を巌笑、長田娘深谷を政次郎がそれぞれ務めています。
追善の時は原作についてはボロックソに批判されていますが團十郎の演技については
「九代目が声涙共に下る妙は到底独特なもの」
と一定の評価を受けていました。大阪の見物や劇評家にはどう映ったのかというとまず序幕のだんまりについては
「道具幕切って落せば福助、我當、八百蔵等十三人の名題俳優思ひ思ひの扮装にて暗闘(だんまり)になり最後に團十郎の上総五郎兵衛忠光例の大百姓姿にて正面の祠より現はれ柱巻の見得をするこの時見物大喝采にて「成田屋!!!」と絶叫する声場内に満れど惜いかな前に居並ぶ多くの俳優に遮られて狼狽たる見物はこの柱巻見損ふもありとか」
と13名の役者による豪華なだんまりに高い金を払った見物も溜飲を下げる程受けは上々でした。
しかし、この面子のまま大詰に行くのかと思いますが実は上方勢の出番はこのだんまりのみであり、この後の彼らの出番は
我當は次の信州川中島のみ
河内山の序幕に福助親子と珊瑚郎
大切の戻り駕に政次郎、土之助
が出る以外全く出番がない有り様でした。後世には癇癪持ちの我當が團十郎の給金に憤慨して一方的に挑発したという一部分のみが誇張されて伝わっていますが実際には上方役者を刺身のツマみたいな扱いの配役にキレた一因にあるのが九代目信仰も廃れて来ている今きちんと伝えた方が良いのでは無いかと思います。
そんな上方役者の不満を他所に東京勢はそのまま本編に入るのですがそちらの方はというとまず團十郎は
「團十郎の悪七兵衛景清縄附にて頼朝の旅館に引出され八百蔵の頼朝が道理を説いて屈服せしめんとすると「御掟誠に忝なく存じ候武士たる者の弓矢の冥加御受申し上ぐべき筈なれど」と快活なる得意の音調にて脱論する處いつもながらこの優一手捌にて他優の真似し難き處なり(中略)「今こそ目指す大将を討取り入水をなすべきと、判官殿の乗られたる船へ飛び乗りまつこの如く」と突然刀抜き放し頼朝目掛けて飛び掛る處の意気込鋭く殆ど迫真の妙ありて真にその人を見るが如しこの時はお蔵の頼朝が飛び退く機会景清の掴みたる狩衣の片袖引切れて手に残りしを掴みウハハハハハの哄笑滅法よし両眼を抉り抜きて盲にとなり切裂きたる片袖にて眼を蔽ひ杖に縋りての幕切れに盲景清の面影を見せ娘人丸をかせに子別れの愁嘆動作思入とも充分に届き殊に「おさらば」の一句に千両無量の意を籠めるは感服の外なし」
と八百蔵とは大違いに水を得た魚の如く喋る、立廻る、泣くの大車輪ぶりで演じ劇評もその迫真の演技に押惜しみない賞賛を送っています。そしてこの評価を見ると後年彼の活歴芸と演目を受け継いだ歌右衛門に躍動感や豪快さ、幸四郎には台詞廻しの巧みさがそれぞれ欠けており、これら全てを兼ね備えていた團十郎が演じる時のみ活歴物はある種のリアルさと面白味があった事を裏付けてくれます。
そして次に今回は頼朝役を演じていた八百蔵はどうだったかと言うと
「八百蔵の右大将頼朝東京にて演じたる時もこの優この役を勤めその節も近来になき上出来との好評を博したる当り役にて品格もあり貫目も備りて申し分なく例の流暢たる口跡にて景清を諭し「そも日の本は神の御末主君と仰ぐは恐れ多くも一天萬乗の君ばかり」と長白(ながせりふ)の間抑揚調ひて例の八百蔵とは思はれぬほどによし」
と以前に重盛諫言の際に清盛を演じて絶賛されていましたが自身が主役であった景清の時とは異なり、誰かの脇に廻って演じると活歴物でも段違いに良かったらしくこちらも高評価でした。因みに以前に中車芸話でも触れましたが彼が初舞台を踏んだのはまだ幕末の動乱の最中であった大阪であり 、彼からすれば約30年ぶりの大阪の舞台で演じた上に團十郎に次ぐ高評価を得るなど無事故郷に錦を飾る事が出来ました。
更に福助がいない事もあり当時の彼としては大役の部類に入る娘人丸を演じた女寅もまた
「女寅の大宮司娘人丸も八百蔵と同じく東京にて勤め二度目なれば動作手に入りて申分なく且つ容貌もよく品もありて本郷の春木座に出て居た頃とは見違へるほどによくなりてこの役不思議によく演て居り盲になりし父景清に縋り附ての愁嘆から幕切の別れ菅原(伝授手習鑑)の八声場(丞相名残の場?)といふ気味ありて親子哀別の情充分に現はれて得心なりき。」
と離れ離れとなった父親との束の間の再会と別れに翻弄される娘役を情緒一杯に演じきり評価されました。
團十郎亡き後の彼は前に紹介した東京座では雪姫を演じていたりしていたものの、歌舞伎座では専ら花車役や女房役が多い印象でしたが團十郎存命時は専ら娘役が本役であり、品位ばかりが先行した福助と異なり情緒的な演技力で彼との差別化を図っていたのが分かります。とここまでは良かったのですが、美保谷国俊を演じた染五郎は
「染五郎の美保谷国俊序幕の代役になりし上に土牢の場を預りしたためこの優の見せ場なくここはただ景清を召連れて出たる後猿蔵の重忠に尋ねられて人丸とその身の関係を語るまでに左したる事なし。」
と彼の活躍する場面をカットした影響もあってか可もなく不可もなくといった中途半端な役柄になってしまった事もあり、評価されず、梶原景時を演じた宗三郎や畠山重忠を演じた猿蔵に至っては
「宗三郎の梶原景時悪くはないが貫目なく睨みのきかぬ気味あり。」
「猿蔵の畠山重忠これまた品格貫目乏しく重忠という畠でなければ取立ていふ山も見えず。」
とまるでニンでない役だと不評でした。この様に何人かは今一つだったものの、團十郎の景清、八百蔵の頼朝という二大看板は好評だった事もありだんまりも含めて大阪初御披露目の演目としては評判はまずまずという形でした。
一番目の信州川中島は近松門左衛門が書き下ろし享保6年8月に大阪竹本座で初演された時代物の演目となります。
歌舞伎では専ら三段目の通称輝虎配膳の場のみが見取演目で上演されるのが常であり、昨年の3月に歌舞伎座で上演された事でも記憶に新しいですが上述の通り今公演では実質的に初めて上方の役者が出演する演目でありました。
内容としては武田方の軍師山本勘助を味方に引き入れたい輝虎(上杉謙信)は勘助の妻お勝と母越路を呼び寝返る様に説得するも越路が激怒して用意された膳をひっくり返し、怒った輝虎は激昂して思わず刀を抜くもお勝の命を懸けた懇願を聞き入れ刀を収め2人は館を後にするという物で輝虎役の役者の技量もさることながらそんな輝虎に女性乍ら一歩も引かない越路は覚寿、微妙と並んで花車役の最難関の難役である三婆の1つでもあります。
今回は長尾輝虎を我當、直江山城守を多見之助、直江妻唐衣を珊瑚郎、お勝を巌笑、越路を福助がそれぞれ務めています。
ここで珊瑚郎という見慣れない役者が出てきたと思うので少し脱線して解説していきたいと思います。
嵐巌笑についてはこちらをご覧ください
同じく多見之助についてはこちらをご覧ください
彼の名は中村珊瑚郎といい、一見すると福助か鴈治郎門下の様に見えますが実はどちらでもなく明治初期に初代延若、初代齊入と共に道頓堀で覇を競った中村宗十郎の弟子に当たります。
中村珊瑚郎
余談ですが宗十郎は住んでいた宗右衛門町の紋が七宝であった事から家紋を七宝にしたばかりでなく弟子の名跡にまで七宝に因んだ名跡を付けており、一門の弟子は他に琥珀郎がいました。また彼の弟子である中村珊之助は後に歌舞伎役者を廃業して仁輪加に転じて後に戦前を代表する喜劇である曾我廼家劇を作り上げた創始者である曾我廼家五郎に当たります。
それはさておき彼は実悪役者で定評であった琥珀郎と異なり師である宗十郎の幅広い芸風や芸術家気質を強く受け継ぎ今回の様な女形役や老け役、脇役など脇の役者として重宝されるバイプレイヤーとなり、師匠の没後は朝日座を拠点に出演を重ねる一方で今回の様に腕を買われて他座に出る等活発に活動していました。しかし、上方劇界が徐々に鴈治郎を擁する松竹の傘下に入ると同じ宗十郎の薫陶を受けた鴈治郎とは何故か反りが合わずそんな彼の天下の下での役者稼業に嫌気がさし始めたらしく、徐々にフェードアウトして行き65歳を迎えた大正5年1月に正式に廃業しました。
役者時代の最晩年に延若の脇を務めた時の中座の番付
これに関してコトバンクの項目では引退後に曾我廼家珊之助を名乗って喜劇役者に転じたと書かれていますがこれは真っ赤な嘘で彼は役者時代から日本画家の田能村直入に弟子入りしこちらでもその達者な腕前を見せて高弟にまで上り詰めており、何と彼の書いた絵が上野博覧会に出品され宮内庁が買い上げた程の実績を持っており、引退後は真田柏園を名乗って画家として好きな絵を書いて気楽に余生を過ごたのが健康に良かったのか当時現役最高齢の役者であった二代目中村梅玉の亡くなった翌年の大正11年12月5日に71歳の天寿を全うし亡くなりました。
さて話を元に戻すと普段出ている道頓堀の劇場ならそれぞれが1つの出し物を出してもおかしくない面子ですが今回は出し物が制限された事もあり順当に福助の出し物であるこの演目が選ばれましたが、この演目の選定に関して劇評は
「この度福助我當等がこの狂言を選びしは役割の都合よく晴の舞台に銘々の技量を示すに足るべしと思惟せし故か否かそは兎に角その人に適りて恰好の出し物なり」
と災い転じて福となすではないですが
立役:我當
脇役:多見之助
立女形:巌笑
女形:珊瑚郎
花車:福助
と各々の本役が綺麗に配分された結果、演目としては理想の配役になったと肯定的に評価されています。
しかし今回の團十郎の出演に少なからず反感を持っていた我當でしたがそれが短気でプッツンするというまんま本人にそっくりな輝虎の演技にも影響したのか
「我当の輝虎最初の出はさしたる仕草もなく無事なりしが彼の配膳に金の烏帽子直垂にて出で勘助の母越路が膳部を蹴返したるを怒り憤怒の相を現す處腹の乏しき故か越後一国を領する大将といふ威厳なくだだっ子が次團太踏んで無理をいふ様な気味ありて感服せず」
とまんま地が出た貫禄と威厳溢れる團十郎の景清と見比べてしまうと色々粗が見えたそうです。ただ、そんな彼も後半になると
「刀を抜いて越路に切て掛るを直江山城に留められて琴の立になってからは無難に出来にて申し分なかりき。」
と持ち直したらしくその点は評価されています。
ただ、2月公演はまだ自分が主役の出し物があったり一応はだんまりで團十郎と顔を合わせる機会があり噴火寸前の状態であった彼も3月の二の替りで出し物や共演がなくなると好き放題やり放題となり後述する様に舞台上で團十郎を挑発するなど後に禍根を残す暴挙に出る事になります。
次に直江山城守を演じた多見之助についてですが、こちらも
「多見之助の直江山城守巧者にこなして申し分なく輝虎の短慮を諫め越路を撫護(かば)ふ仕草思入も届きて上評なり。」
とこちらも多見之助の地味ながらも実直な性格がそのまま役に現れていて評価されました。
しかし、何と言っても我當の輝虎を差し置いて絶賛されたのが難役越路を演じた福助で
「福助の勘助母越路は品位ありてよく適り輝虎の与へし小袖を見て「一両度も着給ふとあるからは輝虎の古着この婆はこの年まで人の古着を貰うて着た事がない」と膠もなくいい斥けて輝虎の据ゑたる膳部をも足にて蹴散す處一種侵すべからざる威厳ありて頗るよく演て居たり但しこの場にて全部を足蹴にするは「義もなき勇もなきこの膳何にせんとずんと立てかけばんがらりと蹴散らせば」とある本文に適へど女の仕草としては無作法に過ぎませぬか」
と動画を見て頂ければお分かりいただけますが膳をひっくり返す場面は今では刀で二重の上から落としますが今回は平舞台とあって膝で蹴飛ばす形を取ったのは女のやる事にしては荒っぽすぎると指摘していますがそれ以外は品格、演技共々素晴らしかったと褒めており最後にも
「この幕中役第一等の出来なり」
と惜しみない賛辞を送っています。
この様に福助までは劇評も褒めちぎっていますが残りの巌笑と珊瑚郎については
「珊瑚郎の直江妻唐衣山城でも唐衣でも何方でもいける重責俳優その代り何をしても大味にて充分の甘味なきは是非なしされどこの役無事の出来にて申し分なし。」
「巌笑の勘助妻お勝なかなかの難役にてこの優には荷が勝ち過ぎて腰が切れまいとび評判なりしがさすがに多年舞台で飯を喰って居るほどありて何やらかうやらこなしてのけしが琴の立になりて「免し給へや老いの身の」と謡い出しをりをり爪の外れる處など臆病なる評者の胸を冷つかせたり併すべての仕草簡短にあっさりと埒を明けしは大出来なり。」
と珊瑚郎は面白味こそはないがかと言って欠点もなく、巌笑は吃音の台詞廻し等も含め明らかに無理だとしつつも長年の舞台勘だけで演じて途中の琴を演奏する場面で付けてた爪が思いっきり飛ぶなどいつぞやの盛綱陣屋の鬘を吹っ飛ばして舞台を滅茶苦茶にした事件を彷彿させるアクシデントで見てる側を悪い意味で緊張させたりもするも何とか演じきっているのを賛否両論を交えながら評しています。
とは言え、今回の演目の中では唯一の純上方狂言とあって上方贔屓の見物の支持は圧倒的だったらしく、これはこれで見物の留飲を下げたそうです。
滑稽二人袴
直弟子の染五郎と猿之助が春興鏡獅子を1日替わりで演じた歌舞伎座の筋書
まず春興鏡獅子の方は小姓弥生を團十郎、奥女中を團七、團八、升六、升代、八百枝がそれぞれ務めています。
配役を見れば分かりますが現行の鏡獅子とは異なり胡蝶がいません。これは團十郎に言わせると
「踊にて近年一番苦しかりしは鏡獅子なり(中略)鏡獅子は前は女にて体をしめられ直にがらりと変りて獅子舞になる事ゆゑその苦しさいい方なし」
と團十郎からしてみれば手慣れた道成寺よりも苦しかったらしく、何と後半の獅子の場面をカットして前半のみ演じた為でした。
つまり今回の二人袴は鏡獅子の後半部分の代わりに上演されたのが分かります。裏を返せば明治座での負傷や当時の役者の宿命である鉛毒の悪影響はあったとは言え、当時61歳の團十郎にしてみれば鏡獅子の後半部分すら踊るのに困難を極める程に体力が衰えていた事を示しています。
そんな衰え著しい團十郎でしたが、激しい獅子の踊りは厳しくても前半の小姓弥生の踊りだけならまだ何とかなったのか
「團十郎の小姓弥生高髷の鬘古代紫地の縮緬に秋草虫籠の金糸縫模様の衣装に古代模様赤地蜀江錦の帯を竪矢の字に結びたる着附の小姓姿にて音頭の振り事を舞ふその手振の優美さ島やかさ何ともいへずこれが六十一の老翁の踊とは何しても見えず実に甘いものなり」
と決して悪い出来ではなかった様です。
後に染五郎が二人袴を演じた帝国劇場の筋書
今回は高砂尉兵衛を團十郎、高砂右馬之助を染五郎、住吉左衛門を猿蔵、住吉妻老松を富十郎、住吉娘雛鶴を女寅がそれぞれ務めています。
「東京では四幕ばかり働いて一万円は取れますから出かけるだけ算盤では損の方です」(早稲田文学に掲載された関係者談)