今回は絶賛公演中の鳳凰祭四月大歌舞伎に関連して久しぶりに東京座の筋書を紹介したいと思います。
※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。
明治34年9月 東京座
演目:
一、巷説白縫譚
二、後面露賤機
三、櫛浮名三筋漆絵
(与話情浮名横櫛)
私が持っている東京座の筋書の中で一番古い筋書となります。
参考までにこの年の12月に行われた東京座の筋書
明治30年に開場した東京座は左團次や芝翫がやって来る前は大芝居と小芝居の出演に関する規制が緩和された事もあり金主の猿之助を座頭として活躍する傍ら市川一門の若手等が修行の場として頻繁に出演する中堅の劇場としての役割を果たしていた事は以前にも述べました。
今回もその例に漏れず團門四天王の1人である四代目市川染五郎が「二枚目枠」として出演しています。
明治29年頃の染五郎
一番目の巷説白縫譚はもしかしたら国立劇場での復活公演を見られた方は覚えているかも知れませんが河竹黙阿弥が柳水亭種清等が書いた長編小説の白縫譚の前半部分を元に舞台化して嘉永6年2月に河原崎座で初演された時代物の演目です。黙阿弥はこの演目を書く前年に歌舞伎座でも紹介した児雷也豪傑譚を書いて当てており、言わば二匹目のドジョウ目当てでの舞台化という側面もありました。
児雷也豪傑譚を上演した歌舞伎座の筋書はこちら
大雑把な内容としては浪花座や帝国劇場の筋書でも紹介した所謂黒田騒動を題材に話を戦国時代の九州に移し守護家の菊池家の家臣犬千代が自身の放蕩を諫める為に乳母秋篠が自死した受けて心を改め成長する話と菊池家に父親を殺された春吉改め青柳春之助の復讐とそれに協力し菊池家を滅ぼし大友家の再興を誓う若菜姫と弟の大友刑部の物語を絡めて七幕に渡って描かれています。
こちらも児雷也豪傑譚と同じく今でこそ幻の演目扱いになっていますがこの時は原作が完結してからまだ50年ほどしか経っておらず盛んに読まれていた事もありかなりの頻度で上演されていて若き日の九代目市川團十郎もこの役を務めた事があります。
黒田騒動についてはこちらをご覧ください
今回は烏山秋作と若菜姫を染五郎、烏山豊後之助と漁師鰭九郎を壽美蔵、大友岩太郎と漁師鮫蔵を翫助、浪六女房小磯を莚女、龍川小文次を團子、青柳春之助を團吉、大友刑部を勘五郎、漁師浪六実は村岡玄平と乳母秋篠を猿之助がそれぞれ務めています。
いくら修行とは言え二枚目と女形役を兼ねるという後年の姿からは想像も出来ない様な役を務めている染五郎ですが、劇評には
「秋作は犬千代(乳母が諌死する場)が見せ場でありますが幕明小舞の間謡は鷺流が顕れまして阿呆の性根がなくなりますのは悪いものを稽古なされた故でがなありませう」
となまじ稽古熱心が故に地の舞踊の腕が見えてしまい、却って阿呆の性根が薄くなってしまったという若いが故の失敗を指摘されています。しかし、秋作になってからは
「阿呆の白廻しも今一と秋作になってからは先づ無難少しばかり褒めませう御殿試合の場の動作は大勢より一際テキパキと勇壮なる處築地学校のお陰であらうこの人屈むのと眼を眠る癖が大分薄らぎましたがまだ取れませんこの癖は何役にも障りますから注意し玉へ」
「正気附いて二人の迎えを投退け「ハアテ心得ぬ」とノリになる處の白廻し間が伸びオマケに大袈裟で聞苦いそれから秋篠の死を悼む白廻し師匠擬ひの分別臭い調子だから若衆の性根がなくなって困る」
と團十郎の教えもあって御殿試合の場については概ね評価されている一方で後年声色で物真似される程特徴的だった台詞廻しについて注意されている他、屈んだり瞼が下がるという当時の悪癖についても指摘されており、若き日の染五郎の意外な一面が伺えます。また二役の若菜姫についても
「(変装した)細川采女之助で居る間は女で見出しになって(正体を現して)からは男になるのはマダマダ修行が肝心です。」
「上使の着附拵へは申し分ありません女になってからの形がいかにも寂しく派手な色が少しもなかった是が後半の女らしくなかった一つの原因でせう」
とこちらも女形役には無理が見え隠れしたらしく一番目の役々は染五郎にとっては修行とは言え厳しい評価となりました。
一方、後年花車役は何度か加役で演じたものの、この頃は女形役も演じていて前半の主役とも言える乳母秋篠を演じた猿之助は
「かやうな加役は如何と思ひましたが幕明舞の手振旨いものなり豊後之助が犬千代を殺さうとするを止める間の科から胸先を突きての科まで申分なしこれは謡も踊も年来の熟練殊に当時俳優中義太夫をよく語るゆゑこの長丁場に少しも穴を明かせぬ座頭の値打は慥に見えました」
「流石体のこなれた人ですからその人らしく見えました舞の内の足踏みにケタタマシイと思った處もあり升が懐剣を突込んでからの息組は行届いて結構でした。」
と染五郎とは対照的に加役であっても場数を踏んでいる事もあり台詞廻し、所作、踊りどれを取っても加役とは思えない程の申し分ない出来ぶりと賞賛されていて二役の漁師浪六は彼の父親である市川三太郎が手に取って教えた役と言う思い出深い役とあって大車輪に演じたらしく
「子を見ると親に如かずと浪六の役は三太郎が手に取って猿之助に教へたのださうがいか様この人には切って嵌めた様な役で今の處これ程の浪六役者は外にありません先づ太い髷に大縞の着附で出た男前好く旧(もと)は武家の若党で今は漁師といふ心持が充分見えた親父に対しては匿った照葉を自分のいひ交した女だとサラサラといひほどき又女房に向っては汝の外に心を移す筈がないと宥める工合サックリして好い親父が詞を番へて出て行くのを聞流しては居られぬといふ思入れも手軽く女房が酒買ひに行くのを止めても止まらず出て行く故さのみ諄くも留めぬ辺はその人に成済まして居た浜辺で麻酔薬を飲ませられて体の利かぬ辛抱狂言も手一杯にして好かった」
「例の難風の場は翫助の鮫蔵相手に車輪の如き働き大向ふの喝采を受け」
とこちらも大絶賛されているのが分かります。
猿之助はこの時47歳と正に脂の乗り切った時期でありしかも師匠の元から離れ金主兼座頭として役も演目も自由気儘に決められる立場にあった事もあり後年の芝翫や高麗蔵加入後の脇に廻った演技や歌舞伎座での舞踊枠や老け役に収まっていた頃からは想像もつかない様な芸達者ぶりが分かります。
また劇評にはこの2人に加えて女房小磯を演じた市川莚女についても触れられていて
「嫉妬より外に見せる處なし鮫蔵に教唆されてから花道の傘の間が三度とはクド過ぎる(中略)然し当人は磯端まで大車輪」
「しかし今度の一番目ではこの優など最も上出来の部でせう」
と少々品位に欠けるきらいは見受けられたものの、彼にしては望外の出来であったらしく評価されています。
莚女についてはこちらをご覧ください。
彼もまた源之助、米蔵、左喜松(松蔦)のいた事もあり女形不足と言われた明治座でも中々役が付かず、こうした他所の劇場では修行に励んでいました。大正、昭和を通じて花車役としての活躍しか知られていない彼も若手時代には明治座では到底演じられないであろう役を演じて日頃の鬱憤を晴らすかのように大車輪に演じていたのが分かります。
この様に主役の染五郎こそ不首尾に終わりましたが猿之助、莚女などの気合の入った熱演もあってか何とか観れる代物にはなっていた模様です。
中幕の後面露賤機はあまり聴き慣れない演目名ですが浄瑠璃の一中節にある雲賤機帯を長唄にした舞踊の演目となります。
これだけ言うと分かりにくいですが少し前に歌舞伎座で上演したすみだ川の原作に当たる演目となります。
すみだ川を上演した歌舞伎座の筋書はこちら
内容としてはすみだ川と差異はなく、我が子を探す狂女と船頭とのやり取りを描いた物です。
今回は狂女賤機を染五郎、船頭を勘五郎、粂仙人を猿之助、布晒しの男女を染五郎、勘五郎、團子、銀之助、團次郎がそれぞれ務めています。
お次は染五郎お得意の舞踊でしたがこちらはどうだったかと言うと前回この演目が上演された明治25年10月の鳥越座の時に演じた五代目市川新蔵と比較した上で
「今度の染五郎は振も新蔵ほど荒くはなし(決して柔くはないが)唄も伊十郎ゆえ品の好い中幕と見受けられました然し着附がジミ過ぎた狂女だからモット派手で好い全体置舞台で出囃子の時は夫よりも目を射る派手な物を着て貰いたい夫でないと所作事の本分に背く」
「新蔵は病中の為もあったでせうが何となく陰気でしたこの人はソッポも好し手振も派手でしたから見倦はしませんでしたが実は陰気なのが本体でそこが能で見ては面白味の深い處だと思ひます夫を所作事に直して派手にしては芝居丈の見人の眼から見たらば面白いかも知らぬが子を失った狂女の心得といふ方から見ると本体を失って了ひます」
と何れも新蔵よりかは舞踊の心得がある分、ただ舞台で暴れていた彼よりかは上手いと評価されていますが、師匠團十郎と比べるとまだ改善の余地がある事やそもそも浄瑠璃を歌舞伎に仕立て直した演目自体についての難もありそこの点は相変わらず指摘は受けています。
対して師匠である十三代目中村勘三郎から舞踊の手解きを受けていた船頭演じる中村勘五郎は
「習った踊ではないが中々味にやられていました」
「脇師といふ心持だけは充分にありました」
とレパートリーに無い役にも関わらずワキとして支えられる懐の深い芸を評価されています。
勘五郎と言えば以前に新富座の筋書で紹介しましたが性格や演技に独特の癖こそ見受けられる所はあるものの、舞踊に蝙蝠安と幅広い役柄に対応出来る技量のある役者だけに今回もまたその腕前を遺憾なく発揮しています。
勘五郎について紹介した新富座の筋書はこちら
戦前の歌舞伎の歴史関係の書籍でも脇役の役者については殆ど触れられる事はなく、触れても大抵は四代目松助が取り上げられる位ですが実は個性的な脇役は今回の勘五郎や莚女の他にも数多く存在し前に紹介した幸蔵、菊四郎、箱登羅、市蔵達や小芝居に目を向ければ三代目多賀之丞の伯父である四代目浅尾工左衛門を始め中村竹三郎、中村嘉七などがひしめいていました。
幸蔵について紹介した歌舞伎座の筋書
菊四郎について紹介した帝国劇場の筋書
箱登羅について紹介した浪花座の筋書
中村嘉七について紹介した新富座の筋書
今後このブログでもこういった個性豊かな脇役の役者について定期的に触れていきたいと思っています。
勘五郎の話はここまでにしておいて劇評では粂仙人を演じた猿之助についても書かれています。猿之助と言えば團門の弟子の中では染五郎と並ぶ舞踊の名手でしたが、藤間流に身を置ききちんとした楷書体の踊りを基本とする師匠團十郎の教えを色濃く受けた染五郎に対し猿之助はあくまで我流の道を歩んだ為か正反対に動的でダイナミックな踊りを得意としていましたが今回は演目的にそれが賛否を分けたらしく
「二つ面は先年覚えたる腕前ゆゑ当人も安心見物も受けました晒しに搦んで大詰めまでお勉強の事なり」
「何と言っても見物は二つ面でせう」
と好意的な評価が寄せられる一方で
「器用には相違ないが個様な踊は寄席で遣る足芸の類で所作事としては極て趣味の低いものだと存じます」
「勿論本当の芸ではありません。ケレンに属すべきものです」
とまるで約70年後に曾孫に浴びせられた誹謗中傷と瓜二つな否定的な評価も寄せられています。
この様に一番目では厳しい評価が並んだ染五郎は舞踊ではやや持ち直し、反対に絶賛を受けていた猿之助は舞踊では賛否両論と真反対の評価に終わりました。因みに猿之助はリンクにも上げた後年の歌舞伎座で布晒しで出ていた團子が今度は狂女を演じた際に自身は脇に廻って出演しておりほぼ同じ演目での親子の踊りの評価が比べられるので非常に面白いものがあります。
いよいよ大切の櫛浮名三筋漆絵ですがこちらは言わずと知れた与話情浮名横櫛となります。外題が変わっているのは源之助が三代目田之助の数々の芸を教わった市川三筋(みすじ)に由来する物と推察出来ます。ただこれについては劇評に
「余計な事」
と外題を変えるべきではないと批判されていました。
参考までに宗十郎が与三郎を務めた帝国劇場の筋書
今回は与三郎を染五郎、お富を源之助、蝙蝠安を勘五郎、和泉屋多左衛門を猿之助がそれぞれ務めています。
劇評では奇しくも約120年後に曾孫が演じた与三郎を演じた染五郎について
「与三郎には御約束の腹巻もなし胸の明き過ぎたのは一層形が悪く見え折々ドスな声を出すは若旦那の果てといふ性根を知らぬと見えました」
「第一色気皆無で白などもクヒ放題「手前は己を見忘れたか」で手拭を取り「与三郎だ」で裾を捲って足を遣違はすなどメチャメチャでその荒ッポサ加減書生上りかと思はれた」
とのっけから姿かたちも性根も台詞廻しもまるでなってないと酷評されています。ただ続けて
「とても師匠は教えても呉れますまいから新十郎にでも聞けば好いのに」
「然し柄は与三郎と受取れました」
と慣れない世話物に挑んだ事については若干同情されている他、
「(初演の)八代目(團十郎)や権十郎(九代目團十郎)の昔は知らず今の若手では兎に角この人の者でせう宮戸座で家橘のを見ましたが与三郎といふ人は染五郎の方にあると見ました」
と意外にも後年に与三郎を得意役とした羽左衛門よりかは向いているいう評価もされていたりします。因みにどうでもいい余談ですが劇評でも触れられていますが兄である八代目團十郎が当たり役にした事から九代目團十郎も与三郎を演じた事があり私も写真を持っています。
團十郎の与三郎。隣の蝙蝠安は八代目の初演した時の最後の生き残りであった三代目中村仲蔵
「此源氏店としてはお富が第一でせう」
「与三が出てからは神妙にして居て殊に好し湯帰りで堀の内へ入る處は切られお富になりさうでした。」
「源之助のお富ハ適った役でわるからう筈ハなし(中略)この一場丈でハ当人も嘸ムヅムヅして居るのであらうと察しられる優にお富をさせるので買ったのならせめて次幕の質店のゆすりでも出して遣れバよかったらうに俳優を殺して遣って居るハ惜しい事なり」
と切られお富になりそうな部分はあったものの、実に堂に入ったお富を演じて逆に源氏店だけでは勿体ないと言わしめる程の高評価を受けています。
しかし、当の源之助本人はこちらのお富について
「兎に角源氏店のお富といへば、名題は立派に聞こえますが、骨が折れるのみで損な役です。」(青岳夜話より)
と高砂屋ばりの辛辣な評価をしておりあまり演じたくない役だと述べています。事実、梅幸という絶品のお富役者がいた事もあり、源之助はこの後お富を大劇場では演じる事はありませんでした。
またこちらも約120年後に玄孫が演じた和泉屋多左衛門を演じた猿之助についても
「藤八をといった人もあったそうですが余り骨が折れるといふので見合せたさうです兎に角座頭だけの貫目があって結構」
「お富を嫌味っ気なしで囲って置く旦那と見えました」
と玄孫同様に懐の大きい演技が如何にも商家の番頭らしさを出したらしく賛否両論だった中幕とは打って変わって高評価でした。
この様に一番目こそ微妙だったものの、中幕の予想外に好評や二番目の当たりもあり入りとしては悪くなかった様です。
染五郎は前に紹介した様にこの後も東京座へは何度も出演し劇評家から厳しい批判を受けつつも若手から次世代を担う後継者への道を進んで行く事になりますが、本人の自伝にもこの時期の修業の話は一切書かれておらずまた研究においてもあまり顧みられない事もあり我々が抱く彼のイメージからは想像も出来ない様な役柄にも挑戦していたなど知られざる一面があった事やそれ以外にもあまり注目されない明治30年代前半の東京座の立ち位置や猿之助の東京座時代を知る上でとても興味深い物である筋書と言えます。
東京座の筋書はまだまだありますのでまたいつか紹介したいと思います。