明治37年3月 東京座 桐一葉初演 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は10月の歌舞伎座の筋書を前に予習を兼ねてこの筋書を紹介したいと思います。

 

※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。

 

明治37年3月 東京座

 

演目:

一、桐一葉

二、日本勝利歌

 

紹介する順番が前後してしまいましたが、明治37年3月の東京座の筋書となります。

 

1月の東京座の筋書はこちら

 

4月の東京座の筋書はこちら 

 

リンク先にもある様にこの時東京座は1月の顔ぶれから源之助が抜けた代わりに歌舞伎座から高麗蔵と女寅、小芝居から芝鶴、訥升、明治座組から壽美蔵がそれぞれ加わり

 

・芝翫

 

・猿之助

 

・訥升

 

・高麗蔵

 

・女寅

 

・壽美蔵

 

・芝鶴

 

・勘五郎

 

と人気者から若手、実力者に渋い脇なども充実し八百蔵1人相撲状態であった歌舞伎座とは層の厚さの違いを見せていました。

更に前年10月から東京に半年間上京していた片岡我當が1月の歌舞伎座での恋飛脚大和往来の演出を巡って田村成義と衝突してしまい歌舞伎座を脱退し帰阪する前の手土産代わりにこちらに出演するという豪華な座組となりました。因みに高麗蔵は歌舞伎座を脱退する理由を「師匠に喧嘩を売った我當を同座したくない為」としたのですが、移籍した先の東京座で運悪く我當にぶつかるというアクシデント(?)に見舞われてしまい、今回こそ桐一葉で大人しく共演したものの、この公演以降は互いが互いの顔を合わせるのも嫌がり、近々紹介する11月の帝国劇場で共演するまで大劇場では僅かに明治44年1月の明治座で共演したのみで長い間共演しなかったのは前に九代目の十五年祭追善公演で触れた通りです。

 

桐一葉

 

一番目の桐一葉は以前にも紹介しましたが坪内逍遥の歌舞伎作品の傑作であり、続編の沓手鳥孤城落月と共に今尚演じられる新歌舞伎を代表する演目の1つです。

 

明治43年に再演した時の筋書はこちら

 

今回は淀君を芝翫、片桐且元を我當、石川伊豆守と乙の奴実は太閤秀吉、秀次の亡霊を猿之助、木村長門守と甲の奴実は佐々成政を高麗蔵、渡辺銀之丞と大野治長を訥升、腰元蜻蛉を女寅、正栄尼を勘五郎がそれぞれ務めています。

 

さて、この記念すべき初演の評価はどうだったかと言うとまず淀君を演じた芝翫は

 

且元は完全なる「自己否定」即ち「没我」の人として我々の渇仰を惹きましたが、之に対する完全な「自己肯定」即ち「主我」の人として、我々は又淀君に充分なる同情を有しますと共に、よくこの性格を発揮した芝翫を多としなければなりませぬ。

 

と且元の対極にある人物として淀君を定義した上で

 

淀君は何時でも主権を占めなければ満足しない女性です。太閤にさえ見えたのを悔いて居る勝ち気な彼女は臣下の謀の為に自分が人質になって犠牲に供せらるのを忍ぶことが出来ぬことに何の不思議がありませう。淀君が且元に対して怒る所は実にこの人質一件です。之が原因となって(木村)重成も又逆鱗に触れました。蜻蛉も亦且元の子として多少不快に感ぜられて居るのに、又廟前究聞の際に淀君には白状せずして饗応局に答へたのは、自己に対する大侮辱と考へられる様になりました。(中略)かかる勢力のある主我的女性は芝翫を措いて他に扮し得る者はないでしやう。寝屋の場はこの意志の結末をあらわし、如何に我意にも限界があるかといふことを示したもの、(逍遙が作品のモデルとした)マクベス夫人の煩悶とは事が変わって居ますが、顛末を示す点に於いては同一です。しかしてその結末に艶がついて、要するに女性だと思はせた所は作として最面白いが、芝翫の芸には一々感服しました。

 

と後の沓手鳥孤城落月での淀君に見受けられる錯乱ぶりやヒステリックさよりもプライドが高く唯我独尊的で且つ気に召さない事があると当たり散らす傲慢さを併せ持つ女性像で淀君を解釈して全面に押し出して演じた事を高く評価されています。

因みにWikipediaの桐一葉のページに芝翫が役のリサーチをする為に精神病院に行って患者の様子を事細かに調べて観察したという誤って掲載されていますが、これは上記の通り続編の沓手鳥孤城落月の時の役作りの話であり誰か訂正をお願いしたいものです。

 

歌右衛門の淀君

 

また片桐且元を演じて以後亡くなるまで本公演で通算6度且元を務め自身最大の当たり役の1つとした我當はというと

 

我當の且元はもとより主人公の事とて、見る方も見せる方も力を入れて居ましたし、又著しい印象を残しました。然し何分ヂミな役ですから、銀之丞のやうな語々とした直観的感情を生せぬのは無理もない事です。それで何しても最後の長良堤の場だけが、今だに眼に残って居ますが、殊に遠景を見廻す中、ほどなく天守閣を認めて、馬からヒラリ(?)と下りて鞭を持ち、遥に太閤の霊に謝する所は一幅の好書画です。(中略)実に今日の所、私の知っている限りでは、且元の役は我當の外にはなからうと思はれます。

 

と初演から豊臣家への忠義を貫きながらも逆臣の濡れ衣を着せられてしまう辛抱立役を忠実に演じきり、大詰めの長良堤の場の出来を含めて團十郎の清正物にも劣らない出来だと絶賛されています。

 

仁左衛門が絶賛された長良堤の場

 

この様に前年に東京に来てから初めてと言っても良い賛辞を受けた我當でしたがこの時はまだ若かった為か、あるいは只の新作としか思っていなかった為か主役でありながら番付の下絵では主君である淀君の方が上座にいて扱いが良く自分の役である且元が家臣であるから当然下座に坐っているのを見て淀君ばりに癇癪を炸裂させ

 

すっかり腹を立てて自分の宿の六方館へ太夫元の鈴木を読んで、「おれは出ない」とタンカを切ったさうです。」(歌右衛門自伝より抜粋)

 

とドタキャンしかけたという逸話を歌右衛門が暴露しています。

そんな我當でしたがこの演目が大当たりした途端に機嫌を直し(笑)、大阪に帰るや否や今度は自身が片桐且元と淀君を兼役して角座で上演し大当たりを取った後、翌38年には5月の角座で歌右衛門に先駆けて続編の沓手鳥孤城落月を初演した事に加えて12月には京都南座でも上演するなどして京都から白井松次郎を担いで大阪に進出してきた鴈治郎に対して反骨精神をモロに見せていました。

 

因みに我當の演じた淀君はこんな感じ

 

さて、話を戻すと主役2人は絶賛される程の熱演でしたが脇の役者はどうだったかというと石川伊豆守、乙の奴実は太閤秀吉、秀次の亡霊の都合三役を猿之助は石川伊豆守について言及されていて
 
猿之助の石川伊豆は恰も当てて書いたやうな役、言ふまでもない。私は実に芝居でかかる人物を見る度に気が晴々する。「どんぐり殿進上」などと言ふ所、如何にも勇ましくてよい。短慮な正直者といふ所、易しさうだが、芸に何となくふっくりした所がこの優ならではと思はれるのです。
 
と4月では老人呼ばわりされていた彼ですがまだ当時48歳と働き盛りな年齢とあって猪突猛進な石川伊豆守を車輪で演じれたらしく、新作物が不向きと言うのに定評がある彼も今回は評価されています。
そんな意外に好評だった猿之助に対して木村長門守と甲の奴実は佐々成政を演じた高麗蔵も
 
高麗蔵の木村長門守も亦適り役との評は外れすまい。これも亦さっぱりとした役ですし、私は元来この優の芸風のさっぱりした所を何となく好むのですがそれに拘らず、割合に眼に残って居る所のないのは、一つに始終ツレの位置にあるのと、芸にまだふっくりした所が出来ない為でありませう。

 

と芸風的に新作との相性が合うと好意的に評価されていますが、その一方で猿之助とは正反対に経験から来る余裕が無い故に印象に残りにくい点は指摘されています。因みに高麗蔵はこの後帝国劇場での上演は且元を演じた事が契機になり木村長門守の役を演じる事は無くなり、代わりに仁左衛門没後に老いた歌右衛門の為にこの演目を掛ける際にはほぼ且元を務める事になります。

 

芝翫の淀君、我當の片桐且元、高麗蔵の木村長門守、猿之助の石川伊豆守、訥升の渡辺銀之丞、女寅の腰元蜻蛉

 
そして本来なら且元と淀君と対になる主人公と言える蜻蛉と渡辺銀之丞を演じた女寅と訥升は
 
女寅の蜻蛉も芸に於てはことに特筆すべきものでありませう。ただ原作の死が多少無理若しくは書き足らぬので何となく物足りぬ。しかし芸中に重成を思ふ情は充分に品好く顕れていました。
 
訥升の渡辺銀の丞。常の馬鹿殿の様に、酷く衣紋を抜いたり、肩を下げたりしないのは好う御座いました。
 
と上記の役者たちに比べるとどこか演技に十全ではなかった様です。この事に関して筋書を読んでいると実に興味深い事が幾つか散見されます。
それは初演と現在の再演に至るまでの変遷の経緯です。作者である坪内逍遥は続編の沓手鳥孤城落月に関しても大正5年の上演の際に大幅に改作を施したりするなど自身の作品を再演に際して手を加える事をよく行っていました。その為、初演時と再演時では大幅に作品が変わっていたりする事もしばしばでこの桐一葉もまた然りで現在上演されるのは基本的には大正6年4月に帝国劇場で上演された時の脚本を底本としつつ一部は次に紹介する大正8年10月の歌舞伎座で上演された時の脚本を準拠して使用されています。
(なので帝国劇場上演時の脚本が使用されているとされるWikipediaの記述はこれも誤りとなります)
それによると
 
・序幕 大阪城奥殿、奥庭茶室の場
 
・二幕目 吉野山桜狩り、畜生塚怨霊、淀君居間密訴の場(現在では三幕目)
 
・三幕目 城内溜りの間、黒書院内評議、片桐邸上使の場(現在では二幕目)
 
・四幕目 豊国神社鳥居前、仁王門前の場
 
・五幕目 渡邊内蔵邸、饗応局部屋、長廊下乳母自害の場
 
・六幕目 片桐邸奥書院の場
 
・大詰 長良堤訣別の場
 
となっていてこの内、二幕目と三幕目の順番が大正8年10月の歌舞伎座で再度入れ替わり、以後この順番で概ね上演されています。
これに対して初演のこの時は
 
・序幕 大阪城奥殿、奥庭茶室、廣書院密訴の場
 
・二幕目 城内溜りの間、黒書院内評議、片桐邸上使の場
 
・三幕目 豊国神社鳥居前、霊廟前詮議の場
 
・四幕目 渡邊内蔵邸、饗応局部屋、長廊下乳母自害の場
 
・五幕目 吉野山桜狩り、畜生塚怨霊、淀君居間密訴の場
 
・大詰 片桐邸奥書院、長良堤訣別の場
 
と今では連続して上演される二幕目と三幕目の間に渡辺銀之丞と蜻蛉の件が入りバラバラになって上演されているのが伺えます。
 
現在は四幕目と五幕目になっている豊国神社鳥居前と饗応局部屋の場
初演時は三幕目と四幕目でした
 
この変遷の経緯について歌右衛門は大正8年の筋書のコメントで
 
全体として一種引しまった淋しみの趣味をねらったもの
 
却て、もう云ふまでもなく今度の方が一筋道に、よく纏まってゐて結構
 
と述べていて現在の四幕目、五幕目を抜いて二幕目と三幕目を入れ替える事で見せ場が
 
淀君→且元→淀君→且元
 
と綺麗なパート分けが出来ていると述べています。また坪内自身もこの時の劇を見て
 
「(坪内)博士は上場の結果を見られて御自分の脚本に失望をされたらしい。」(小山内薫)
 
と少なからず今回の脚本に不満を持ったらしく、特に渡辺銀之丞と蜻蛉の件が再演を重ねるにつれて冗調に感じていったらしく、帝国劇場での上演以降この2人の場面が削られる様になっていたのも且元と淀君の部分に比べてこの場面の内容がアンバランスであった事が伺えます。
 
初演では五幕目だった畜生塚怨霊の場
 

この様に中盤の蜻蛉と渡辺銀之丞の部分に問題は見受けられたものの、淀君と且元の2人のメインの話は初演でも絶賛されており、この大成功により当時歩合制で給金を貰っていた芝翫は養父の残した借金に苦しんでいた家の財政面に於いても大きな収益を得て完済の目途が立ち、また一人の役者の面でおいても誰かの相手役では無く自身が主役の演目で当たり役を作る等公私両面に於て大きな収穫となりました。

 

日本勝利歌

 
大切の日本勝利歌は見てのまんまの通り日露戦争開戦に当て込んだ現代物の新作となります。
しかもこの演目は紳士という役名で役者が本人役でそのまま出るという御馳走状態で山本栄次郎で芝翫、片岡秀太郎で我當、喜熨斗亀次郎で猿之助、藤間金太郎で高麗蔵とそれぞれ本名で出ている他、翫助、團吉、團子も出演しています。
こちらの結果がですが、歌舞伎座でも触れた通り既に戦争劇なるジャンル自体が新聞などの発達で過去の遺物と化しておりいくら上演しようとも一向に受けず
 
筋はもとより大したものではありませんし、玩具軍艦の合戦には少々閉口した
 
と厳しい評価となりました。尤も当時隆盛の新派に押され気味だった歌舞伎役者達が新派の得意と思われていた戦争物に果敢に挑戦した事については
 
旧俳優(歌舞伎役者)が明治の時代を写す技量があることを示したのは注意すべき現象でしやう。重な役々はもとより歩哨、兵卒、区書記など実に皆巧くして居ました。
 
と評価される部分もありました。
とは言え、桐一葉の出来に比べるとやはりその場限りの一興にしかならなかったらしく、殆どの劇評には無視される結果となりました。
 
この様に結果的にほぼ桐一葉のみの公演となりましたが、芝翫と我當を始めとする役者達の好演で大当たりとなり集客に苦しむライバルの歌舞伎座を尻目に連日満員大入りとなり、大きな差をつける事となりました。この後芝翫は勢いに乗って戦争物だけでは飽き足らず新派物の演目である乳姉妹などにも挑戦する事になります。その時の筋書も持っているのでまた改めて紹介したいと思います。