今回は7月の歌舞伎座の筋書で児雷也豪傑譚話を紹介した事もあり、関連してこの筋書を紹介したいと思います。
※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。
明治37年1月 東京座
演目:
一、児来也後日物語
二、和田合戦女舞鶴
三、碁太平洋白石噺
四、神明恵和合取組
前に一度紹介した事がある東京座の筋書となります。
大正時代の東京座の筋書
上記の大正時代はすっかり零落して小芝居と化していた東京座ですが、今回は全盛期の時で歌舞伎座と肩を並べていた時期となります。
本編に入る前にこの時期の東京座の立ち位置と出演している役者について説明したいと思います。
明治30年に開業した東京座は金主でもあった初代市川猿之助を座頭に八代目市川高麗蔵、七代目市川八百蔵といった團門四天王や家橘時代の十五代目市村羽左衛門、榮三郎時代の六代目尾上梅幸、七代目市川團蔵が出演する等始めから大歌舞伎の劇場としてスタートしました。しかし、面子を見れば何となく分かる様に激しい性格故に歌舞伎座には出なかった團蔵を除けば何れも次世代の花形ばかりと座格は「当時零落していた新富座や市村座よりかは上なものの歌舞伎座よりかは下」という感じは否めない物でした。
そんな東京座の風向きが変わったのが明治36年の事で以前に書いた様に明治座の金銭トラブルに端を発した裁判が原因で團菊左と呼ばれ明治時代を代表する役者の1人である初代市川左團次率いる明治座の役者達が出演する様になった事でした。
明治座の裁判についてはこちらをご覧下さい
その結果、座格はぐーんと跳ね上がり一躍歌舞伎座と肩を並べるまでになり、更に歌舞伎座が團菊の相次ぐ死により弱体化した事が更に拍車をかけました。そして36年いっぱいで左團次一門こそ明治座の裁判が終結した事により抜けたものの、その代わりに当時の歌舞伎座の社長であった井上竹次郎との確執から売れっ子で今まで何度か出演していた五代目中村芝翫が11月から東京座に専属で出演する事になった事で東京座の顔触れはかつてない程にまで充実した物となりました。今回の公演はまさにそんな時でした。
今回は芝翫に加えて、元からいる猿之助、更には左團次一門に付いてきて出演し、左團次が去った後も残った源之助、更には猛優澤村訥子が加わるなど大芝居、小芝居の大物が集う異色の面子となりました。(因みに芝翫、源之助、女寅は明治座との掛け持ち出演となっています)
かつて岡鬼太郎が加賀見山再岩藤を酷評し「続編に名作なし」とまで言いましたが、今回も同様だったらしく劇評には
「「児雷也後日」に就いては、芝翫の平生の気焔と反することの甚だしきを責める人もあったが、当人は團十郎が演たからというの楯に取るだろうから何の役にも立たぬ。」
と一度慈善公演では児雷也を演じた事はあるものの、写実主義にどっぷり染まった芝翫がケレンあり妖術ありの児雷也を演じるのには難があったらしく批判する人もいたと触れる程度となっています。
二番目の神明恵和合取組はこれまで何回か紹介しため組の喧嘩です。
市村座で上演した時の筋書
歌舞伎座で上演した時の筋書
今回は辰五郎を猿之助、九龍山浪右衛門と喜三郎を勘五郎、四つ車大八を訥子、辰五郎女房お仲を源之助がそれぞれ務めています。勘五郎というのは以前に紹介した十二代目中村勘五郎です。
勘五郎について紹介した筋書はこちら
さて、芝翫の児雷也と板額、女寅の宮城野とここまでニンに無い役を演じて尽く失敗しているだけに時代物を得意とする猿之助が世話物の辰五郎というこれまたニンにない役を演じるというだけで地雷臭が既に漂いますが案の定
「猿之助の辰五郎は体に無い役なので大工の如く、だんまりに棒切れを持ち出したり、喧嘩に行く時、赤い画の画いた刺し子を着るなど気がなさ過ぎる。」
と大失敗に終わりました。
そして脇の役者もまた神明恵和合取組を演じた事のない役者ばかりであり、
「勘五郎の喜三郎も角力の行司という見立てが適評。」
「訥子の四ツ車は相撲と言えば何でも(関取千両幟の)鉄ヶ獄でよいつもりは困ったもの、時代と世話の区別ぐらいは考えて貰いたい。」
ともはや全滅状態に近い酷評を受けています。
そんな総崩れの中、唯一人劇評から大絶賛を受けたのが辰五郎女房お仲を演じた源之助で
「源之助の辰五郎女房お仲は危なげない。(中略)子供の手を引いて「聞分のねえ、来なといふに」といひながら後向で立身の形は粋で、門口まで出かけて夫に呼ばれ「何か用かい」といって元へ戻って、夫の傍に寄添ふ處は情があって好い。辰五郎の詞をじっと聞いている間の気の入れ方かたから、後の事を承知して襦袢の袖をそっと涙を拭う所、豆絞りの手拭を食い裂いて渡す所、出かける夫を呼び止めて切火を掛ける所など、五分も透かぬものだった。」
と火消しの女房として寸分の隙も無い演技と高評価されています。
しかし、いくら源之助が奮闘したとて大勢を覆すまでには至らずこちらも演目としては不評でした。
さて、意欲作から意外な演目まで色々揃えた今回でしだが今までの評価から何となく察せられると思いますが入りの方は不入りでした。
ですがこの結果は何も全部が全部役者や劇場側の責任ばかりではなく、時期的な問題もありました。いくら初春公演とはいえ、この明治37年1月は團菊が亡くなった直後で劇界全体が沈みがちだった事に加えて日露戦争の開戦直前(開戦は2月6日)だった事もあり、とても呑気に芝居見物という風潮ではなかったのが大きく影響を及ぼしたそうです。
因みに立役、女形双方で酷評されてしまった芝翫ですが掛け持ちで出演した明治座の後藤又兵衛という演目が当たった事でみんな不入りの中で唯一明治座だけが大入りになった事から溜飲を下げたそうです。
東京座の筋書についてはこれ以外にも何冊かありますのでまた折を見て紹介したいと思います。