大正6年7月 市村座 終わりの始まり | 栢莚の徒然なるままに

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今回は歌舞伎座と同じ月に行われた市村座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正6年7月 市村座

 

演目:

一、時今天下知皐哉

ニ、太刀盗人

三、指物師名人長治

四、歌徳恵雨乞

 

参考までに前回の市村座の公演の筋書


前回紹介した4月公演を成功させた市村座は珍しく5~6月を休場し、その間に役者たちは地方巡業に精を出していました。そして再び幕を開けたのが今回の公演となります。

 

主な出演者一覧

 

今回は座付きの役者たちに加えて7月が女優公演という事もあって帝国劇場から四代目尾上松助が加わるという8月の引越公演さながらの座組となりました。

 

時今天下知皐哉

 

 

一番目の時今天下知皐哉はこの前尾上菊之助が国立劇場で演じた時今也桔梗旗揚を改題した物です。

奇才、四代目鶴屋南北が書いた時代物の演目で二幕目を除いていつもの南北の特徴である奇抜な設定もなく、本能寺の変の首謀者である明智光秀(作中では武智光秀)の視線で横暴な君主信長(作中では小田春永)による打擲や馬盥での飲酒など数々の仕打ちに耐えかねて遂に怒りが爆発し謀反に至るまでを骨太なタッチで描いています。

今回はその中でも繰り返し上演される饗応、馬盥、愛宕山の場の三幕の見取りで上演し武智光秀を吉右衛門、土岐飛騨守を彦三郎、小田春永を勘彌、光秀の妻さつきを菊次郎、光秀の妹桔梗を国太郎、春永の妻園生を菊三郎、森蘭丸を時蔵、菊五郎が四方天但馬守をそれぞれ務めています。

吉右衛門は子供歌舞伎時代にこの演目を得意役とした明治時代の変人名優である七代目市川團蔵から直接手ほどきを受けて教わり、明治33年5月の浅草座で初演し明治44年12月に市村座でも演じていて今回が通算3回目と光秀となりました。彼はこの短期間で團蔵の型をベースに吉右衛門自身の近代的な肚芸を取り入れた自身の型を作り上げてすっかり自家薬籠中の物としました。

劇評でも彼の演技について

 

前の時に比べると、今度のは大夫派手な型で、さうして凄味も一層加はったと思ふ。それだけ芸に余裕ができたらのであらう。型は大体故團蔵をたどって、ちょいちょい團十郎の心持を加味していた。

 

と三河屋型をベースに團十郎の要素を入れて工夫した部分を評価していて具体的に各段について詳細に触れられていて

 

饗応

「(森蘭丸に眉間を割られた後)一人舞台になって、蘭丸に打たれた陣扇に眼を付け、片膝進めて右の手に取り上げ、血の附いた所をぢっと見入っている中、ハッと気がついて、ポンと左手の掌に当て、持ち添えて押開く、それを大きく戴く格好になっての幕切れは派手であった。

 

馬盥

團十郎好みの索紺の裃で花道に平伏する「光秀近う」と春永に声を掛けられて「はァ」といそいそ立上がり、足を割って前屈みになった形は好かったが、膝を叩くと同時に胸まで叩く手つきは歌六式である。それから馬盥の酒となり、中国出馬の命となり、己が領地を蘭丸へ、又豫て望みの日吉丸の太刀を長尾瀬太郎へ与えられ、重ね重ね辱しめを唯何処までも御無理御道理でお受けする。最後に妻の切髪を突き付けられる段になって、初めて非噴の極点に達する。しかしそれでもまだ叛逆とまでは光秀の心は決していないのだが、その科にはちょいちょい恐ろしい閃きがあらはれる。(中略)春永以下奥殿に去り、妹桔梗花道に引込みて、最後に一人残された光秀が、(妻さつきの髪が入った)箱の紐を結ぼうとしてふと轡に眼を付ける。それを手に取り馬盥の酒の無念の思ひ入れがあって、そのまま右の袂に仕舞ひ、箱の紐を結び、両刀を帯し、箱を左の小脇に抱へて立上がる。さうして、悄然と花道附際まで来た時、「御下向」の声が奥で聞こえる。立留まって口惜しき思ひ入れ、それからぢりぢりと奥の方を見返り、やがてポンと箱を叩き叛逆の決心を固むる気の変り目はきっぱりした。

 

愛宕山

大詰愛宕山の場は、初の出が織物の裃、切腹の座に直ってからそれを水裃に引抜くので、一層凄味を増した。長尾が差し出す」抜刀を、口に懐紙、右手に手燭をかざしてぢっと見下すあたりは、凄気が漲っていた。両人の上使を殺して、三宝を踏み潰した立身の見得も凄かった。

 

と劇評も絶賛の嵐になる程の出来栄えで大入り満員の市村座の見物を圧倒させたそうです。

 

吉右衛門の武智光秀

 

そして吉右衛門の脇を固める役者達も

 

時蔵の蘭丸、形も台詞もしっかりこなしてこれも好し

 

菊五郎の四王(方)天但馬守で一寸出るので場面を一層引き立てり

 

と皆どれも好評で吉右衛門を支えた事もあり、大向うまで絶賛する出来栄えとなり無事大当たりとなりました。

 

しかし、この熱演の裏側ではある重大な事件が起こっていました。それは開演前の舞台稽古の時に起こりました。上述の様にかつて七代目團蔵に直接この演目について教わった経緯から三河屋型で演じようとする吉右衛門に対して九代目團十郎の薫陶を受けた六代目坂東彦三郎が

 

「(花道の引っ込みについて)まるで違うよねえ、成田屋のおじさんはそうじゃなかったよ。

 

と他人のいる前で罵り九代目の名前を持ち出して強引に成田屋型へ変える様と干渉させようとました。

彦三郎からすれば自身が師事した團十郎の方が正しいというプライドがある上に自身の襲名公演で苦情を言って襲名の晴れの場に相応しくない死ぬ役である意休を演じさせた吉右衛門に対する蟠りはありましたが、普段なら御法度である型についての苦情をよりによって皆がいる前で、しかも反論出来ない様に九代目團十郎の名前に傘に着て罵るという陰湿極まりないやり方は単なるイジメに他ありませんでした。

 

参考までに彦三郎襲名公演の市村座の筋書

 

そして吉右衛門は舞台の光秀さながらに辱しめを受けながらも反論出来ない嫌がらせに堪えかね遂には

 

私にはそうは出来ません。

 

と皆のいる前で土下座してまで型を変える事を拒絶し、三河屋型で演じる事を死守しました。

 

苛めた土岐飛騨守の彦三郎

 

この一件は双方に何も良い事はもたらさず、彦三郎は九代目の名前を持ち出して吉右衛門に意気がった所で菊五郎の出し物の脇役、あるいは菊五郎が嫌がる吉右衛門の出し物の相手役しか来ない現実は変わらず、その不満が1年後の脱退へと繋がり、対する吉右衛門も満座の前で辱しめられ土下座した屈辱に加えてその最中誰も彦三郎の理不尽な物言いを止めなかった菊五郎側や市村座の首脳部への怨み辛みを募らせ、更にはこういった衝突を避けて双方の不満をガス抜きさせる為に付けさせた幹部も菊五郎側に田村成義の実子の田村壽二郎を付けてしまった事によって余計にか菊五郎偏重が強めてしまい演目決め等で吉右衛門を無視して決めるという事態を巻き起こす結果に繋がり、そういった事の積み重ねが大正10年の脱退へと拍車を掛ける事になりました。

 

太刀盗人

中幕の太刀盗人は以前に国立劇場の観劇でも紹介した舞踊演目です。

 

国立劇場観劇の時の記事

 

演目詳細についてはリンク先を参照頂きたいのですが、この時は初演でスリ九郎兵衛を菊五郎、丁宇左衛門を彦三郎、万兵衛を三津五郎がそれぞれ務めています。

個人的な感想は観劇の時に書きましたが、100年前の初演の劇評でも同じだったらしく

 

三津五郎の田舎者の新市の賑ひに気を取られる工合や、菊五郎のスリが太刀の銘や焼刃の事を相舞にして三津五郎の舞ふ通りを少しいざらせて舞ふ皮肉な味は手に入ったもの

 

太刀盗人は岡村柿紅君が狂言の「長光」から脚色した面白い所作事である。三津五郎の田舎者万兵衛が、都の新市を群衆に押し返されながら見て廻る振りはよくその形と心持とをあらはしていた。菊五郎のスリ九郎兵衛が、三津五郎との相舞に、その真似をして見せるべく、一手づつ後れながらしっくりと拍子を合わせて行く皮肉な振は巧みであった。

 

と三津五郎と菊五郎の巧みな踊りの腕を称賛しています。

 

男女蔵の藤田、三津五郎の万兵衛、彦三郎の丁宇左衛門、菊五郎のスリ九郎兵衛

 
この好評もあって市村座の滅亡後も再演を続けた事で菊五郎劇団に受け継がれ棒しばりと共に現代にも伝わったのは二長町市村座の残した大きな財産と言えます。

 

指物師名人長治

 

二幕目の指物師名人長治は元々大圓朝こと初代三遊亭圓朝がフランスの小説家のモーパッサンが明治17年に書いた短編小説の「親殺し」を基に明治25年に作った落語「名人長治」を三代目河竹新七が明治28年11月の新富座で五代目尾上菊五郎の為に歌舞伎化した所謂、圓朝物の中の1つの演目です。(ややこしい)

 

参考までに同じ圓朝物の塩原多助

 

同じく牡丹灯篭


内容としては腕のいい指物師(家具職人)の長治が蔵前の坂倉屋助七の為に絶対に壊れない仏壇を作成しその腕前を見せる所から始まり湯治先の湯河原で温泉宿で働くおたよから自らの出自の話を聴き、実の両親と思われる亀甲屋幸兵衛に会うも拒絶されて騒動の末に亀甲屋夫婦を殺害してしまいます。日頃から熱心な人柄と生活態度、腕の良さを知られていた彼を助けようとする南町奉行は調査をする内に幸兵衛が医者の岩村玄石と結託して長治の実父である半右衛門を殺害していた事を突き止め、親殺しではなく親の仇討(当時は条件さえ満たしていれば仇討は無罪)という事にして無罪にするという名裁きでめでたく終わるという物です。

今回、長治と岩村玄石を菊五郎、亀甲屋幸兵衛と筒井和泉守を吉右衛門、兼松を三津五郎、坂倉屋助七とおたよを松助がそれぞれ務めています。

松助の坂倉屋助七は初演時にも演じた役であり、今回はそれに加えて三代目片岡市蔵が演じて好評だったというおたよも兼ねるなどかなり重要なポジションを占めています。

劇評ではまず菊五郎について

 

菊五郎の長次(治)は努めて粋に見えないやうにと工夫をしていた。親を慕ふ可憐らしい心根を、白にも科にも上手にあらはしていた。あの才気の迸るやうな眼の光は天稟(もちまえ)だから何んとも致し方はないが、押上土手の殺し場で、「泥棒なんかしねえやい」と拗ねて憤って突っかかるあたりなどは、稚気を見せることに十分成功した。湯河原の温泉場で、三津五郎の兼松と二人、雇婆の話に聞き入る處はわざとらしくなくって、その心持を上手にあらはしていた。唯坂倉屋との掛合が、余りにムカッ腹になり過ぎるのが瑕で、白洲の場を、外の場とは全く飛び離れた素で行くのは、勘彌の吟味与力と共に、考へ違いである。

 

菊五郎の二役針医玄石は、相手ばかりでなく看物までも馬鹿にしているやうな太々しさであった。

 

と岩村玄石は兎も角、長治の方は父親同様に親想いの素朴な家具職人に徹して演じて評価されています。

 

菊五郎の長治

 
それに対して吉右衛門の亀甲屋幸兵衛と筒井和泉守は
 
押上堤殺し場は吉右衛門の亀甲屋幸兵衛も菊次郎のお柳も心々に面白い立廻りがあっておもしろかったり
 
吉右衛門の奉行が祝辞朗読式のいひ渡しも感心しなかった。
 
祝辞を読み上げている吉右衛門の町奉行などでこの一幕滅茶苦茶
 
と一番目の熱演故疲れているのか亀甲屋幸兵衛は好評でしたが二役の筒井和泉守の台詞廻しが酷かったらしくかなり酷評されています。
 
吉右衛門の亀甲屋幸兵衛
 
この様に程度の差はあれ、菊吉双方で一長一短の出来でしたが、書き下ろしからの役に加えて加役で花車役を演じた松助はやはり別格だったらしく
 
松助のおたよ婆さんはさすがによかったが、話の語尾に江戸子が付いて「朴訥」といふ所を消して話好で人を喰ってる様な婆さんになって「又別なもんだェェ」だの「ごぜヱんやすよ」などチョイチョイ松助を聞かせたり
 
この二番目で老巧な味を見せたのは松助である。坂倉屋助七は、書おろし以降の持役ださうで、仏壇を中心とした坂倉屋の一場は、この優で面白く見せた。湯河原の雇婆も楽々とこなしていた。書おろしの片市ほどの朴訥な俤はないとしても、あの長物語を順序よく話して弛れさせぬ處に、確かりとした持味があった。
 
と持ち役の坂倉屋助七は無論の事、加役のおたよも初演の片岡市蔵の演じたイメージからかけ離れていたものの、江戸弁を使い物語の鍵を握る重要な話を見物に飽きさせずにこなす熟練の腕前を絶賛されています。
この様に一部の役者の演技にはミソが付きましたが、菊五郎、松助の好演もあり、こちらも見物からは好評でした。
 
松助のおたよ、三津五郎の兼松、菊五郎の長治

 

歌徳恵雨乞

 

そして大切の歌徳恵雨乞はいつもの舞踊演目で外題にもある雨乞に因んで演目で雨が関係する秦の始皇帝、足利光氏、朝貌、斧定九郎、曾我五郎、角兵衛獅子といった人物が踊るというかなり愉快な演目で斧定九郎に菊五郎、朝貌に吉右衛門、曾我五郎に三津五郎、始皇帝に彦三郎、足利光氏に勘彌と幹部連中総出演に加えて角兵衛獅子に米吉も加わり豪華な配役となっています。

劇評にも

 

幹部総出の振事、洒落気があって暑苦しくなくて面白い見物であった。

 

と好評でした。

 

 

この様にどの演目も工夫を凝らした役者の演技とそれを支える支持層に支えられてまたも大入りとなり、相変わらずの人気ぶりを示していました。しかし、上述の様に舞台裏では役者同士の衝突が表面化するなど人間関係の問題は深刻化していました。既に菊五郎と吉右衛門の仲には隙間風が吹き始めていた上に彦三郎、勘彌といった中堅の不満は最早抑えられない所にまで来ていました。

今となって考えるとこの頃から既に市村座の崩壊のカウントダウンは始まっていたと見て取れるなどタイトル通り「終わりの始まり」と言える市村座の命運を暗示する公演となりました。