今回紹介するのは久しぶりの襲名披露公演でもあり絶好調で波に乗る市村座の筋書です。
大正4年4月 市村座 六代目坂東彦三郎、三代目尾上菊次郎襲名披露
演目:
一、清正誠忠録
二、助六曲輪菊
三、百組出世鳶
四、上巳の節会
1月、2月の大入りで我が世の春を謳歌していた市村座。それに負けじと歌舞伎座は羽左衛門の助六と歌右衛門の揚巻で助六所縁江戸桜の上演を発表しました。それを聴いた田村成義はいつもの病気でこっちも助六だと言わんばかりに助六の上演を決めました。
この時三座の残る一つ帝国劇場もこの時昨年の二匹目のドジョウを狙っていたのか助六の上演を計画したそうですが、この時は諸事情があって実現せず結果的に歌舞伎座と市村座の二座での競演になりました。
主な配役一覧
しかし、三座競演ならいざ知らず専属俳優に加えて2月から続いて延二郎、芝雀がいる歌舞伎座と正面切っての戦いとなると昔取った杵柄から不利であることを察したのか田村成義はここで今まで温めていた秘策である襲名披露を持ち出しました。
この前紹介した田村の著書「芸界通信 無線電話」によれば大正3年10月頃から今回の襲名計画は既にあったようです。
しかし、本来であれば五代目尾上菊五郎の十三回忌に当たる大正4年2月にいつもであれば帝国劇場の休みに当たり空いているはずの梅幸を招いて音羽屋三兄弟での追善公演に合わせて襲名を行う予定だったそうですがご存知の様に歌舞伎座が斎入の引退公演を打ちだした為に、帝国劇場も普段なら休みのはずの梅幸を手放さず女優公演に客演させてしまった為に梅幸を欠いての追善公演では話にならないと流れてしまい、仕方なく2月は普通に公演を行い改めて今回の4月公演での襲名という形になりました。
因みに彦三郎本人が演芸画報に寄せた手記によると正式に襲名が決まったのは大正4年2月の菊五郎の法事の席だったようで言い出したのは案の定田村成義だったらしく、追善公演が中止になっても襲名だけは確定させて襲名を行えるように根回しとくという「転んでもただでは起きない」稀代の興行師の田村らしい逸話です。
さて、一応今回襲名した2人の内、尾上菊次郎については2月公演の時に書いたので今回は残る坂東彦三郎について紹介したいと思います。
五代目尾上菊五郎の三男に生まれた彼は当初尾上英造を名乗って兄菊五郎と共に初舞台を踏みましたが、17歳の時に父を失い以後兄に付いて市村座で出演をしていました。
坂東彦三郎と言えば先代の五代目はかの九代目團十郎をして
「忠臣蔵四段目の由良助は兄貴(彦三郎)に負けない自信があるが七段目の由良助だけは兄貴にかなわねえ」
と言わしめたほどの江戸末期から明治初期にかけての名優でした。
前にも紹介した実録先代萩で伊達義宗公を演じる五代目坂東彦三郎
彼の前夫人が五代目尾上菊五郎の姉に当たる事から五代目とは一時期義兄弟の関係にあり、彼の死後未亡人となった後添えの夫人に対し五代目の実弟五代目市村家橘が生活の援助をしていたそうです。しかし、未亡人が後継者を指名しないまま亡くなった事で坂東彦三郎の名跡は彦三郎の実姉から元義弟であった五代目尾上菊五郎が預かる事になり彼は実弟家橘に襲名させようと計画し家橘夫妻を姉の養子にしたそうです。
その証左に彼は名跡をそれまで名乗っていた五代目市村家橘から初代坂東家橘に改名したのもの彦三郎を襲名する為だったようです。
初代坂東家橘(右)
しかし、家橘は襲名の為の資金繰りをしている最中の明治26年に急逝してしまいその計画も一旦白紙となり家橘未亡人が坂東家の位牌養子になる事で相続させたようです。家橘には養子の竹松(十五代目市村羽左衛門)がいましたが、彼には市村家の宗家である市村羽左衛門を相続させる事が決まっていた為、代わりに彦三郎家を継ぐ人探す必要がありました。そこで白羽の矢がったのが英造であり、彼は明治42年6月にとみ未亡人に養子入りする形で名跡は尾上榮三郎のまま坂東家の養子に入り、今回の襲名に至ったそうです。
この六代目坂東彦三郎は兄菊五郎と共に九代目の元で修行していた際にも厳しい修行に音を上げてしまい真面目に通った兄とは違い仮病を使って度々ずる休みをするなどしていた事も影響したのか名優と言われた六代目梅幸と六代目菊五郎と比べると演技面では劣っていた部分もあり、襲名後も兄の脇役というポジションに甘んじていてそれが不満だったのか大正7年12月の公演を以て市村座を脱退して一座を作り小芝居の劇場である浅草の公園劇場に出演して気を吐いていた時期もありました。
しかし、世間の評価はいずれも「六代目のコピー」という論調で芳しくなく、兄菊五郎が次々と看板役者に脱退されて窮地に陥っていた市村座で孤軍奮闘して苦しんでいた事から大正11年に和解して復帰し以後亡くなるまで兄の脇を務めました。
因みにこの人は役者としては兎も角、性格面においては当時の大看板である鴈治郎や歌右衛門に対してもちっとも気にしない天然で豪放磊落な一面と「時計」絡みの逸話に象徴される異常なまでの神経質な一面を併せ持つ奇天烈極まりない性格の持ち主でかなり面白いエピソードを持つ兄菊五郎に負けない程の様々なエピソードをたくさん持っている人なのでいつか紹介したいと思います。
余談ですが、この様な複雑怪奇な係累関係と六代目の事を良く知っていた十五代目市村羽左衛門は六代目の実子で死後に跡を継いだ坂東薪水(十七代目市村羽左衛門)に対して
「俺に彦三郎(の名跡)をよこさないか?」
と言ったそうです。これには縁者である自分が彦三郎を襲名した後に薪水に襲名させる事で名跡の格を大きくさせて渡すという羽左衛門なりの配慮だったそうですが、肝心の薪水が名乗る名跡が無く羽左衛門からは後年に五代目富十郎が襲名した事で口上の席で他ならぬ十七代目羽左衛門が罵倒して物議を醸した市村竹之丞の名跡を勧められたそうですが固辞した事でこの話は無くなったようです。薪水が後々羽左衛門を名乗る事や竹之丞に関してあれだけ拘った背景にはこういう事情がありました。
大分脱線しましたが話を戻したいと思います。
今回の襲名は元々追善公演とセットで行う予定が流れた経緯もあり、通常の口上はおろか劇中口上の類いもなく行われた異色の襲名公演でした。
しかしながら、この異例の行為が却って劇評には「謙虚な態度、奥ゆかしい」と評価されているのが不思議です。
清正誠忠録
さて、一番目の清正誠忠録は言うまでもなく清正物を得意とした吉右衛門が主演しています。
この演目はかつて九代目市川團十郎が得意役とし六代目菊五郎と六代目榮三郎襲名披露の際に演じた演目で、今回吉右衛門は初役で務めました。
菊五郎と榮三郎襲名時の筋書
前に少し書きましたが、吉右衛門は後世で言われている様に團十郎の得意芸だけを継いだのではなく他にも初代左團次や七代目團蔵など様々な役者の得意役に挑戦していましたが、これはまごうことなく團十郎の得意役の挑戦でした。
上述の團十郎が演じた際には正桂の局役で出演して團十郎の演技を目の当たりにしていただけに周囲の期待も大きかったようですが吉右衛門も見事にそれに応え
「吉右衛門の初役なれど『地震加藤』始め種々の清正に成功している事とて益々鰭が付いていよいよ立派な清正となりたり。殊に三幕目大阪城中広間の場の別れがよし、幼少の秀頼を膝に乗せて髭を弄れながらの懐旧に剛勇武隻の清正が両眼に涙を湛えての御暇乞は見物の涙をも絞らせたり」
「二役の家康は老猾の様子、大いに良し」
と得意の役にのめり込む演技も相まって二役共に手放しで称賛されています。
他の役者も勘彌は
「老人役よくうつり毒を試みて忠義に死する苦心の腹もよく見えたり」
とそれぞれ好評でした。
更には八十助の秀頼が
「台詞も立ち品位懐かしいといふ情も見えて大いによし」
と子役ながら出来栄えを誉められています。
吉右衛門の加藤清正