こんな記事がありました。
「日本人は、他人を他人と割り切れず、互いに相手の行動を邪魔する傾向が強い」とのこと。
その通りかな、と思います。
尤も、これが必ずしも日本人だけだとは私は思わないですけどね。中国とか韓国とか、受験戦争が厳しい社会にも共通な現象だと思いますが、その話は別の機会にしたいと思います。
人がこのように互いに足を引っ張り合う元凶は、言うまでもなく「嫉妬」です。
そして、たまたま東大とかを卒業してしまうと、周囲からの嫉妬と一生戦い続ける人生を余儀なくされることになります。
相手が明らかに「東大卒」という学歴に嫉妬してイチャモンをつけてきた時に、それを指摘、あるいは示唆すると、ほぼ100%の確率で「自分の実力不足を棚に上げて人のせいにするな。謙虚さが足りない」という反論が返ってきます。
典型的なのは、「東大出てるからと言ってエラそうに」です。
学歴の話なんて全然していないのに、藪から棒にそういう話を持ち出し、説教し始めるパターン。
全然エラそうになんかしていない、と言ったところで、「お前が自分で気づいていないだけで、常日頃からエラそうにしている」と言われるのが関の山。そういうことを言う人に正論を返してその場は収まったように見えても、後日不意討ちの仕返しをされます。
相手に反論の余地を与えず、一方的に袋叩きにする姑息なやり方ですが、そんなのはしょっちゅうなので、いちいち気にしていたら生きていけません。
「東大出てるくせにそんなこともできないの?」も、典型的な攻撃手法です。東大卒の部下に低い評価をつけたとか、使えないから斬ったとか、まるで武勇伝のように酒席で繰り返す人もいます。私も自分がいないところで、そういうネタにされているのかもしれませんが、それもいちいち気にしていたら生きていけません。
人生において「東大逆差別」を最も痛感したのは、新卒で入った商社時代です。東大を出てるのに五大商社に入らないと、ここまでも酷い逆差別を社内で受けることになるとは予想だにしませんでした。
電車の中やホームで、大学とサークル名の入ったパーカーやスポーツバッグで闊歩する私立大学(その多くは早慶)の学生に出くわすことは多々ありますが、東大生がそれをやるのはかなりの勇気を伴います。社会に出てからも、自分の出身大学名を言うのに躊躇する場面は多々ありますし、躊躇していることを言葉や態度に出すだけで、傲慢だの自意識過剰だのと非難されることもあります。
ただ、かくいう私も東大に落ちていたら、東大卒の人を四六時中こき下ろす側の人間になっていたかもしれません。そうならなかっただけでもよしとすべきなのかもしれません。
東大卒というだけで周囲から一生色眼鏡で見られ続けることは避けられなくなるし、それなりのレッテルが貼られた人生を送ることになります。しかも、それがどんなに苦しくても、それを口にすることすらタブー視される場面も少なくありません。私は東大という場所が学生時代も今でも好きですが、ブラスマイナスで損得勘定した場合、ありとあらゆるものを犠牲にしてまで東大に入る価値なんて本当にあるのかな、とも思います。
なので、どこの高校から東大に何人入ったとか、前年比で増えたとか減ったとか針小棒大に騒ぎ立てているSNSとか見ると、何だか下らないな、と思ってしまうわけです。
今の首都圏の中学受験は、子どもたちに東大に行くことが正義であるかのような考えを植えつけるような部分がなきにしもあらずですし、大学受験においても、我々の時代には存在しなかったような「考えない詰め込み勉強」がデファクトになっている傾向にも違和感を覚えます。
とかく足の引っ張り合いをすることが多いと言われる日本社会においては、東大卒という肩書が、あらゆる場面で酒の肴、スケープゴート、嫉妬、逆差別、ひいては嘲笑の対象になることすら少なくありません。それに抗議をしたところで、多くの場合は多勢に無勢で、味方になってくれる人なんていません。それが嫌なのであれば、最初から東大なんて目指さない方が、日本社会においては悪目立ちしなくても済む人生を歩めるような気もします。