開創1150年記念 特別展「旧嵯峨御所 大覚寺」 | geezenstacの森

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東京遊山 1-2

 

 これは1日目の続きの記事です。1-1では東京国立博物館のほんの一部しか取り上げていません。今回の東京旅行は計画段階で、多分上野だけで終わってしまうなぁということでじっくりと回ることを計画しました。で、1日目は当初は国立博物館本館と、企画展を開催中の平成館、そして法隆寺宝物館、東洋館、黒田記念館と回る予定でしたが、敷地内に無いことで黒田記念館は回ることができませんでした。そして、東洋館もほとんど駆け足で回ったような状況でした。歴史や考古学に興味があるならこの東京国立博物館のみで2日間はまるっとかかるのでは無いでしょうか。

 

 

 今回東京行きを決めた最大の理由はこの『開創1150年記念 特別展「旧嵯峨御所 大覚寺」』を鑑賞するためでした。そして、この会期が3月16日までだということも東京行きを急がせた理由でもありました。で、これを鑑賞するためにチケットセンターに並んだものです。展覧会は平成館の2階で開催されています。大覚寺には何度も出かけていますが、いずれも菊の咲く時期です。なぜかといえば嵯峨菊も一緒に鑑賞したいためです。ただこの菊はまだ160年ほどの歴史しかなく、大覚寺開祖1150年とは大きな隔たりがあります。ものの本には嵯峨天皇がその気品ある姿と香りを好まれ、この独特の古代菊を、永年にわたり王朝の感覚を持って育成し、一つの型に仕立て上げられたとあり、さらに大覚寺「門外不出」の嵯峨菊は、殿上から鑑賞されるために高く育てているのですということなのですが、矛盾が大きすぎますわなぁ。

 

 

 

 

 

 この入り口のすぐ脇に五大明王像が並んでいます。ただし、1-3章までは写真撮影は禁止になっています。ただ、ネットには写真が上がっており、下かその五大明王像です。五大明王像は、不動明王を中央に置き、その周りに降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王を配した像です。護国や除災を目的とする仁王経法の本尊として、平安時代から盛んに造立されました。

 

 この明円作の五大 明王みょうおう 像(重要文化財)は、後白河上皇(1127~92)の御所で制作したという記録が残る天皇家ゆかりの仏像だ。明円作で唯一現存する作品とされ、5体そろって東京で展示されるのは初めて。皇室や貴族が愛した品格がある優美な姿を背面までじっくり観賞できます。

 

 

 この展覧会は次のような構成になっています。

第1章「嵯峨天皇と空海 ― 離宮嵯峨院から大覚寺へ」

第2章「中興の祖・後宇多法皇 ― 「嵯峨御所」のはじまり」

第3章「歴代天皇と宮廷文化」

第4章「女御御所の襖絵 ― 正寝殿と宸殿」

 

 ということでここからは写真撮影が可能でした。

 

《芭蕉図》

 

《鶴図》渡辺始興筆 板地着色 江戸時代 18世紀 京都・大覚寺

 

会場の様子

 

 

 上のブログ記事でも取り上げていますが、大覚寺の式台玄関で複製を見た伝狩野永徳の《松二山鳥図》がこの展覧会で展示されています。大覚寺のモノは金箔も鮮やかですが複製でしかありません。また、後宇多法皇の輿が邪魔で全体像がよく分かりませんが、ここではそれが無いためはっきり鑑賞できます。こちらの本物は見逃せませんよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 大覚寺は門跡寺院と呼ばれるカテゴリーの寺です。門跡って何かと言えば、皇族(または公家)の出身者が住職を務めた寺院です。特に大覚寺は嵯峨上皇や後宇多上皇が住んでいましたし、後宇多さん以降は皇族出身者が門主(もんす)…住職に就きました。つまりは…とても言いにくいのですが、ざっくりと言ってしまえば天下り先…といった感じです。大きな声では言えませんが、そんなわけないんです。後宇多法皇が生きたのは1267年 - 1324年(13-14世紀)。南北朝の合一は1392年(14世紀)。この書院造りの正寝殿が建立された推定時期は桃山時代(16世紀)。でも伝承って、そういうものですからね。

 

 

狩野山楽の水墨画

 

 さて、この大覚寺歴史的には南北朝時代に深く関わる寺でもあります。大覚寺は平安時代初期の876年に開創されたのち、鎌倉末期の1307年に、後宇多法皇が第23代門跡(もんぜき)に就任して、荒廃していた伽藍を再興しました。この後宇多さんは、南朝の始まりともいえる亀山天皇の息子です。後宇多さんは天皇位を、後に北朝となる持明院統の伏見さんに譲位し、自身は上皇(法皇)となって皇居から大覚寺に移り住みました。このことから大覚寺は、のちに(いわゆる南北朝時代の)南朝となる「大覚寺統」の本拠となります。

 

 

 後宇多さんが1324年に薨御された後、1336年に、大火により堂宇のほとんどを消失したそうです。1336年といえば、(後宇多さんの系統ではない)北朝を支持した足利尊氏が、正月に京へ進軍し、(後宇多さんの系統…つまり大覚寺統の)南朝の後醍醐天皇が比叡山へ退いた年です(この時に大覚寺統が南朝、持明院統が北朝となり、南北朝時代がスタートしています)。その後、南朝(大覚寺統)方の北畠顕家や楠木正成と新田義貞が、京から足利尊氏を追いやります。そこで足利尊氏は九州まで退いたあとに反転攻勢に出て、6月には京を再び制圧しました。

 

 

 

 

 大覚寺展では「後宇多法皇が院政を執った部屋」と伝わる、正寝殿の一室が原寸で再現されています。大覚寺の公式サイトには「執務の際は御冠を傍らに置いたことから、『御冠の間』と呼ばれている。南北朝講和会議が、ここで行われたと伝わる」としています。大きな声では言えませんが、そんなわけないんです。後宇多法皇が生きたのは1267年 - 1324年(13-14世紀)。南北朝の統一は1392年(14世紀)。この書院造りの正寝殿が建立された推定時期は桃山時代(16世紀)なんですから。でも伝承って、そういうものですからね。

 
 今回の目玉の一つは安土桃山~江戸時代に制作された約240面におよぶ襖絵や障子絵などの障壁画が伝来しており、これらは一括して重要文化財に指定されています(重文指定116面、附124面)。現在14か年にわたる大修理の途中ですが、本展では修理を終えたものを中心に、前後期併せて123面(前期100面、後期102面)が展示されていることです。
 
 これらの襖絵は主に狩野山楽が製作しています。この山楽、浅井長政の家臣木村永光の子・木村光頼として生まれました。秀吉の命により狩野永徳門下となります。『本朝画史』では秀吉の命で永徳と父子の義を結び狩野姓を許されます。また山楽はこの時、武士の身分を捨てています。
 

こんな感じで陳列されています。

 

 

 全18面…総延長22mにわたる狩野山楽さんが描いた《牡丹図》が展示されている部屋は、なんとも豪華な空間演出で感動しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回はこの宸殿の堂内の「牡丹の間」と「紅梅の間」を飾る襖絵、いずれも狩野山楽さんが描いた《牡丹図》と《紅白梅図》が展示されています。本来の大覚寺ではこんなに間近で鑑賞することができませんから、そういう意味でもこの展覧会は意義があります。

 

 3月16日までですが、巡回展はないようですのでぜひともお出かけください。