レコード芸術1974年1月号 4 | geezenstacの森

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レコード芸術

1974年1月号

4

 

 この号のグラビアのトップは「ウィーン弦楽四重奏団」でした。ウィーン・アカデミー出身者で結成され、その後全員がウィーン・フィルのメンバーになっています。この当時は全員30代でした。録音時はウェルナー・ヒンク(第1ヴァイオリン)、クラウス・パイシュタイナー(第2ヴァイオリン)、クラウス・パイシュタイナー(ヴィオラ)、ラインハルト・レップ(チェロ)というメンバーで日本のRCAが製作しています。当初は全部で15枚の録音計画のもとに企画が進行し、現地ウィーンの郊外にあるシェーンブルグ城で行われています。ディレクターは現在カメラータを運営する井阪紘氏で、1973年9月17−21日の日程で行われています。この時録音されたのはシューベルトの「死と乙女」、「弦楽四重奏のための断章」、そしてハイドンの「日の出」と「皇帝」の2枚分のアルバムが録音されています。

録音スタッフとの打ち合わせとテラスでのスナップ

 

 

 このウィーン弦楽四重奏団はのちにウィーン八重奏団とも合流して行きます。73年に来日した時は、ご覧のようにメンバーがガタガタでした。これの立て直しに寄与していきます。

 

 

 ジャン・マルティノンがシカゴを離れ、母国のフランス国立管弦楽団のシェフになり活動を活発化していきます。ミュンシュを失ったEMIはこのジャン・マルティ飲んで新たに録音計画をスタートさせています。第1弾はベルリオーズの「幻想交響曲」を録音しています。ここでは本物の金を使っていることがPRされています。

 

 

 マリアメカラスについで、この73年にはレナータ・テバルディとフランコ・コレルリのコンビも2匹目の土壌を狙って来日しています。

 

 

 ほぼ毎年のように来日していた「イ・ムジチ」でしたが、この時はもうミケルッチからアッカルドにコンサート・マスターが変わっていました。そして、唯一アッカルドのソロでの「四季」はレコーディングされませんでした。何しろ、アーヨが売れ、ミケルッチ盤も売れていましたから録音の必要性がなかったんでしょうなぁ。そのミケルッチ盤は、日本のクラシック史上唯一ミリオンセラーを記録していると言います。上の写真時点でも70万枚売れていることがわかります。

 

 

 この年の4月にポリーニが来日していますが、それもあり1が都合に彼のポートレートが掲載されています。ポリーニの記事はこちら

 

 

 不覚にも無記憶がありませんが、ホアキン・ロドリーゴが1973年に来日していたんですなぁ。で、てっきりギターを弾くと思っていたのですが本人は奥さんと一緒にピアノを弾いていたというのもこの記事を見るまで知りませんでした。そして、彼の代表曲は来日していたクリストファー・パーニングの独創、手塚幸紀指揮新日本フィルがコンサートを開いていました。手塚幸紀氏、懐かしい名前です。一度だけ長野で第九の演奏を聞いたことがあったのを思い出しました。

 

 

 2世演奏家も続々来日しています。マルセル・モイーズの息子のルイ・モイーズはあまり記憶がありません。マールボロ音楽祭での録音が少々あったのではないでしょうか。日本のクラウンに録音があったとは知りませんでした。ただ、ネットで検索しても全く引っかかりません。

 

 

 下はダヴィッド・オイストラフの息子、イーゴリ・オイストラフです。2021年に亡くなっています。旧ソ連・ウクライナ共和国の首都オデッサ生まれ。父親からヴァイオリンの手ほどきを受け、その後、父親を指導したピョートル・ストリャルスキーの指導を受けて、12歳でモスクワの中央音楽学校に入学し、1949年にブダペストで開催された国際ヴァイオリン・コンクールで優勝しています。1959年に父親と一緒にバッハのヴァイオリン協奏曲第1番、第2番、2つのヴァイオリンのための協奏曲を録音したものは名盤の誉れ高いですな。でも、やはり二世のレッテルはついて回りました。

 

 

 トップでウィーン弦楽四重奏団を取り上げていますが、こちらは「ベルリン弦楽四重奏団」です。ベルリンと名乗っても当時の東ドイツの楽団で、カール・スズケをリーダーにベルリン国立歌劇場管弦楽団のメンバーで構成されています。こちらも当時30代のメンバーで構成されており、初来日時にビクターに録音を残しています。この時はシューベルト:「ロザムンデ」、ハイドン:「セレナード」を録音しています。いろいろなレーベルに録音を残していますが、小生なんかシャルプラッテンに録音したベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集が一番記憶に残っています。

 

 

続きます。