ピェール・ブーレーズ
ベートーヴェン/交響曲第5番
交響曲第5番ハ短調作品67
ⅠAllegro con brio 09:14
ⅡAndante con molto 10:00
ⅢAllegro 19:13
カンタータ「海の静けさと幸ある航海」op.112 8:19*
指揮:ピエール・ブーレーズ
演奏:ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
ジョン・オールディス合唱団*
録音:1968年12月 アビーロード、EMIスタジオ
P:ポール・マイヤーズ
E;クリストファー・パーカー、ロイ・エマーソン、マイケル・ヘッツヘンリー
英CBS 72862
1968年録音、ピエール・ブーレーズ指揮したニューフィルハーモニア管弦楽団のレコードです。1972年2月、卒業旅行のイギリスの「W&W」という店で購入しています。価格は£1.70ということで約千円でした。前年の1971年の5月にレコード芸術にこのブーレーズの新譜広告が4ページにわたり掲載されました。
このブーレーズの「運命」の登場時は世界最長の「運命」ということで話題になりました。何となれば、この運命では第3楽章のトリオの終わった後(235小節と236小節の間)は、旧来のブライトコプフ版スコアではダブルバーになっていたのです。ベートーヴェンは、初演の時まではここに慣例通りにリピート記号をつけてスケルツォ冒頭にダカーポすることにしていたのですが、後に彼自身の手でこのリピート記号を削除した、とされているとしたのです。ですから形の上では5部形式で演奏されているんですなぁ。ただ、世界最長というのは誇大広告で、当時のオットー・クレンペラー指揮したフィルハーモニアのテンポに近いものがありますが、クレンペラーのワウがちょっと長いのです。同様なテンポは、フェレンツ・フリッチャイ指揮したベルリン・フィル1961年9月録音、ハンス・クナッパーツブッシュ指揮したヘッセン放送交響楽団フランクフルト1962年頃録音のものなどに共通するものです。
さて、結論的にはこの第3楽章のスケルツォのリピートは1977年にはペータース社からダ・カーポを採用したペーター・ギュルケ校訂の新版が刊行されています。そして、古楽器の世界では一般的になっていて、ベーラ・ドラホシュ、ノリントン、ホグウッド、アーノンクール、そしてデル・マー版使用と銘打ったジンマンなども採用しています。ということで、「運命」の常識が変わったターニングポイントの一枚としては記憶にとどめておくといいのかもしれません。テンポにも注目してみて下さい。
ところで、このディスクで注目するのは、第三楽章の反復ではなく、「運命」という土俵でのブーレーズとオケの対決です。第一楽章では実に「運命」らしくはない、ベートーヴェンらしくない音楽が繰り広げられます。現代ならさしずめコンピュータで作ったかのような響きです。一つ一つの音はフレーズとしてのつながりよりも個々の純度が強調されています。雄々しく推進するよりは、私はスコアに書かれた通りに鳴らしているのだ、という指揮者の自負を感じます。しかし、それは楽章が進むにつれて変貌します。オーケストラは暴れ馬のように指揮者の棒から離れて走り出すのです。ぎりぎりのところで指揮者の指示するテンポや響きには忠実になろうとしていますが、抗うように指揮者を振り落とさんばかりに、のたうち回っているのを感じます。
録音当時の1968年と言えば、クレンペラーは会長としてニューフィルハーモニア管に君臨していたでしょうから、その腰の据わった重厚感あるベートーヴェンの語法が染みついていたでしょう。鬼才と謳われていたブーレーズが、伝統的で「運命」ならではの響きを捨て去ろうとして、それにオーケストラが抗った結果が、このディスクに刻印されていると思います。ニュー・フィルハーモニア管弦楽団が異常テンポに慣れていたのも幸いでした。レコーディング当時は、演奏時間100分近いマーラーの7番や、やたらに遅いベートーヴェンの7番、シューマンのラインなどがクレンペラーによって録音されていた時期にあたり、多くの楽員が遅いテンポをこなす感覚を身につけていたはずだからです。
いずれにせよブーレーズがここで採用したテンポの遅さと、主情的なアゴーギクを否定したユニークなアプローチは、今聴いても実に新鮮なものであり、運命動機のミニマリズムとも目される作品の性格を徹底して抉りぬいていてまさに圧倒的です。
ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調 |
第1楽章 |
第2楽章 |
第3楽章 |
第4楽章 |
合計 |
クレンペラー/フィルハーモニアO |
0:08:51 |
0:11:09 |
0:06:14 |
0:13:18 |
0:39:32 |
フリッチャィ/ベルリンフィルハーモニーO |
0:09:08 |
0:13:15 |
0:06:24 |
0:10:07 |
0:38:54 |
クナッパーツブッシュ/ヘッセン放送O |
0:08:51 |
0:12:27 |
0:06:31 |
0:11:32 |
0:39:21 |
ブーレーズ/ニュー・フィルハーモニアO |
0:09:14 |
0:10:00 |
0:19:13 |
|
0:38:27 |
バーンスタイン/ウィーンフィルO |
0:08:38 |
0:10:19 |
0:05:23 |
0:11:17 |
0:35:37 |
ブロムシュテット/ドレスデン・シュターツカペレ |
0:08:05 |
0:11:21 |
0:08:53 |
0:08:52 |
0:37:11 |
スウイトナー/ベルリン国立O |
0:08:13 |
0:11:35 |
0:05:30 |
0:11:34 |
0:36:52 |
この録音の13年後、オトマール・スウィトナー指揮するアルバムで用いられた、ギュルケ版やブラウン版(その後、マズア、ヒコックス、アーノンクール、ガーディナーらも採用)と同じ反復パターンを持つこの演奏、変更目的は、バランスの古典化ということに尽きるのでしょうが、ブーレーズの場合、どういうわけか第4楽章での呈示部反復はおこなわれていないので、問題は少々ややこしくなります。
ちなみに、反復パターンは以下のようになっています。
通常版:第1部(主部)第2部(トリオ)第3部(主部再現部)第4部(終結部)
反復版:第1部(主部)第2部(トリオ)第1部(主部)第2部(トリオ)第3部(主部再現部)第4部(終結部)
つまり A-B-A''-C が A-B-A-B-A''-C という、より安定感の強い構造に変化しているということですが、通常のスケルツォ楽章と異なり、主部再現部は弱音主体に大幅に変容されたものなので、反復したとはいえ、きっぱりとした終止感を持たないことは言うまでもありません。もちろんそうでなければ、コーダのブリッジ・パッセージも効果半減してしまうわけですから、これはこれでけっこうなことなのでしょうが…
また、ブーレーズ独自の反復とテンポの設定がもたらした、4つの楽章それぞれの近似した演奏時間も大いに注目に値します。何しろ、通常各楽章のタイムがグチャグチャなことで知られるこの作品が、9分40秒±30秒以内に収まっているのです。偶然なのでしょうが、それにしても奇妙な偶然です。図式化すると以下のようになります(もちろん、ここでいう通常とか遅いといった言葉はあくまでも当時の感覚基準に基づいたものです)。
第1楽章:
遅いテンポを採用し、反復も実施
第2楽章:
通常テンポを採用
第3楽章:
遅いテンポを採用し、反復を導入
第4楽章:
通常テンポを採用し、反復は省略
また、再現部の例の箇所では、ホルンに改変することなくファゴットが用いられており、あるいはクレンペラーの楽譜が使われているのかとも思わせますが、クレンペラーの特徴である展開部でのデュナーミク操作は行われていないので、その可能性は否定されて然るべきでしょう。
とはいえ、この録音の前年にはクレンペラーがバイロイトのブーレーズを訪問し、相互に多大な関心を抱き合って交流があったことを考えれば、少なからぬ影響があったのは疑いの無いところです。
そういえば、クレンペラーの追悼TV番組に出演したブーレーズ(早口!)が、フルトヴェングラーらに批判めいた発言を向けた後、クレンペラーのことを絶賛していたのも興味深いできごとでした。
このアルバムがリリースされたとき、反復のほかに大きく話題を呼んだのが第1楽章のあまりの遅さだったと言います。何しろ9分14秒(呈示部反復)もかけているのですから、ただごとではありません。遅いので有名なフリッチャイ&ベルリン・フィル、クレンペラー&フィルハーモニアを抜き去り、当時は第1楽章のスピード記録保持者となったわけで、その後かなり経ってクレンペラーのライヴ盤があらわれるまでは、テンポの面でも異常演奏の代表格的存在でした。
『海の静けさと幸福な航海』
異常な《運命》と組み合わされているのが、ベートヴェン晩年の合唱作品で、ゲーテに献呈された、タイトル通りの美しい作品です。あまり取り上げられることはありませんがこの曲がカップリングされていたこともブーレーズ版の大きな特徴です。のちに、アバドがこの曲を田園のカップリング曲として録音しています。こちらは第5番の興奮をクールダウンさせるのにいい選曲です。