オーケストラから時代が聴こえる | geezenstacの森

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オーケストラから時代が聴こえる

 
著者:西崎専一
出版:風媒社
 
 
 高まるクラシック音楽ブームの陰で、市民とオーケストラの関係は、今、どうなっているのか。地域のオケ=名古屋フィルハーモニーに長年関わってきた著者が、クラシック音楽のより深い親しみ方、そして新たな時代の聴衆とオケとの関係を探ったエッセイ集。---データベース---
 
 タイトルに惹かれて手に取った一冊です。出版社が風媒社ということでこれは中部地方のマイナーな本かなという気はしました。案の定、後半は名フィルに関する記事が大半を占めています。出版は2006年とすでに20年余り前になりますが、このブログを書き始めた時と同じということで興味深く読みました。
 
 取り上げているテーマは著者の関わってきた時代背景である1990年代以降の出来事を扱っています。東西ドイツの統一と、東欧社会の民主化という流れの中でのオーケストラとそれにまつわる指揮者の動向についての考察が前半を占めています。ただ、この本は論点が少々ぶれる部分があり、何が言いたいのかわからない部分があります。一例を挙げるとTVコマーシャルに引っ掛けてクーベリック/チェコフィルの演奏する「わが祖国」を本場ものということで褒め称えていますが、この演奏は実は大したことはありません。巷は賛成票を投ずる人と、反対票を投ずる人が拮抗しています。ですが、そのうちに本命はノイマン/ゲヴァントハウス管弦楽団の「わが祖国」だよ、と論点がすり替わっていきます。つまり、落語で例えると、マクラばっかり集めていて肝心の大ネタに入っていないという感じなんですな。こんな論考が続きます。とりあえず、この本の内容です。
 
目次

街にとってオーケストラとは何か
東欧の民主化と音楽家たち
「わが祖国」をめぐる本物はすごい考
戦争の世紀に生きた二人の作曲家、リヒャルト・シュトラウスとドミトリー・ショスタコーヴィチ
ロシア的ということ
二十世紀を駆け抜けた音楽家、ゲオルグ・ショルティのみごとな「さよなら」
オーケストラレパートリーに現れた流行現象―日本におけるマーラーブームとブルックナーブームについて考える
日本人のマーラー受容の内奥
バブル経済時代のアンチ・ヒーローとしてのブルックナーと朝比奈隆
「レコード芸術」の時代のオーケストラ
名古屋フィルハーモニーの変容
幻の名古屋=ウィーン・フィルハーモニー
名古屋フィルハーモニーと二人の音楽監督

音楽と風土―渡辺暁雄氏の思い出とともに
「終末」は二度必要か―モーツァルトの交響曲におけるリピートの処理をめぐって
演奏に「かくあるべし」はあるのか
ひとつのパンとしての音楽―「歌舞音曲自粛」の時代のオーケストラ 阪神大震災の記録として

 

 まあ、読んで面白かったのは河川を引いたエッセイでしょうか。ショルティの「みごとなさよなら」はなかなかの考察です。日本では大物指揮者の割にそれほど人気はありませんでした。しかし、彼の地、アメリカではシカゴ響と組んだレコードが売れに売れグラミー賞を31個も受賞しています。ポップスのアーティストでもこれほどグラミー賞を受賞しているアーティストはいません。ショルティは本拠をヨーロッパに置いていて、決してシカゴに住居を構えることはしませんてした。それはオーケストラを率いていても彼の心の中には常にオペラがあったからでしょう。最後の録音が母国ハンガリーでのバルトークノ「カンタータ・プロファーナ」でした。

 
   レコード芸術についてはカラヤンとチェリビダッケを取り上げてそれぞれの考え方の違いがあれど、残された録音は記録された芸術として後世に残されました。チェリビダッケは、一回生のライブを重視しましたが、残されたものは必ずしもそうでなく編集されているという点ではカラヤンと変わらないんでしょう。
 
   渡邉暁雄氏のエピソードは先に引用して紹介しています。ぜひともそちらを呼んでいただきたいと思います。
 
   名古屋フィルハーモニー交響楽団の話は、コンサートのプログラムに掲載されたものをピックアップして取り上げています。歴代のシェフだった外山雄三、飯守泰次郎、小林研一郎などが取り上げられています。小生の記憶がありますが、90年代の名、フィルは外山雄三時代が1番充実していたような気がします。その後の小林健一郎が常人時代はちょっとレベルが低下した記憶があります。小林氏はオーケストラビルダーとしては失敗だったような気がします。と言うのもパフォーマンスは大きいのですが、アンサンブルの充実と言う点ではちょっと心もとない部分がありました。ここでも、筆者はその点を指摘しています。客演としては今でもカリスマ的な人気はありますが、常任として腰はを落ち着けるには適さないんでしょう。
 
 また、毎年ウィーン・フィルとの合同演奏がありますが、開始した当初はレベル差が激しくかなり苦労したものです。オーケストラとしては、レベルを上げる絶好の機会なんでしょうか、地方オケど、世界のトップクラスのオケの違いはどうしようもありませんでした。まぁこれも地元のトヨタのバックアップのおかげで続いているようなもんでしょう。
 
 もう一つ、曲のリピートについての考察があります。1960年代は第一楽章の提示部の反復さえまともに演奏される事は稀でした。それが今ではほとんどの楽章がリピートを取り入れています。それの可否についての論考ですが、必ずしもリピートが良しと言うものでもなさそうです。曲全体の構成のバランスが重要と言うことで、最終楽章のリピートはあまりhey良いとは言えないのだそうです。1時、古楽の演奏では、リピートを全て取り入れると言う演奏が流行したようですが、ホグウッドにしても、最終楽章のリピートは省略しているといいます。全体のバランスの方が優先されるんでしょうなぁ
 
 つらつらと読むと、なかなか興味深いテーマがあります。暇つぶしに読んでみるのも良いでしょう。