カラーリング差し上げます ~500個がわずか2日で無くなった~
私が、
10年ほど前に
ひょんなことで入手した
たくさんの
「カラーリング」。
内径6cmほどの
継ぎ目のないそのリングは
カラフルで
余りにも綺麗だったので
何かに使えるかもしれないと
利用法を考え付くまで、
物入れの中に入れておいたのだが、
いつの間にか
その存在すら忘れていた。
先日
他の物を探していたときに
ひょっこりと出てきた。
このまま死蔵しておくのは
余りにももったいなくて、
私が綺麗だと思うのだから、
子供たちなら
もっと綺麗だと思って
欲しがるかもしれないと、
道路に面したフェンスに
「自由にどうぞ」と
出してみた。
たくさんのカラーリング。
500個ほどあります。
子供たちが
持って行きやすいように、
フェンスに棒を固定して
その棒に掛けておきました。
「これは何だろう?」と
不思議がらずに
見かけた人が遠慮なく取れるようにと、
告知用の案内も付けました。
「カラーリング差し上げます!」 の案内。
家に持ち帰って
親から
「これはどうしたの?」と聞かれた時のために、
提供者の名前も
右下に小さく入れてあります。
「カラーリング差し上げます!」
「好きなだけお持ち帰りください」
何せたくさんあるので、
遠慮しないように
1人当たりの制限を加えず、
数は個人の自由に任せました。
前の通りは
小学校・中学校の
生徒たちの通学路になっています。
綺麗な色だから、
いやでも目立ちます。
出した日の
その日のうちに
出してあったカラーリングの
ほとんどが
無くなりました。
今日この通りを
たまたま通らなかった子供もいるかもしれないし、
学校で
このことを聞いた他の子供が
回り道して
貰いに来るかもしれないと思い、
1日目は約半分を出しておいたので
残りの半分を
夕方に追加。
暗くなっってから、
まとめて持っていく人がいると、
万人に行きわたらないので、
夜はみんな撤収。
明け方早々に
全てのカラーリングを
改めて出したところ、
夕方には、
ほとんどが貰われて行きました。
最後に私が見た時には、
棒の根元に
1つだけが残っていました。
1つを残して持って行った人は、
みんな持っていくと
提供者に悪いと思ったのでしょうか、
それとも
1つでも他の人にあげたいと
思ったのでしょうか。
きっと心優しい人だったのでしょう。
こうして、
500個ほどのカラーリングは、
わずか2日で
みんな誰かに貰って頂きました。
1人1人が
10個ずつ持って帰っても、
50人もの人が
貰ってくれたことになる。
2、3個とか
5個くらいの人もいただろうから、
きっと
70~80人くらいの人が
喜んでくれたかも。
我が家で死蔵するよりも
喜んでくれる人のもとにあるのが、
どんなものでも価値がある。
今頃
あるいは子供たちの手首で
きらきらと
輝いているかもしれない。
10年ぶりに陽の目を見た、
カラーリングの話でした。
春ボケ「東洋錦」開花 ~ヒヨドリの穢れなき悪戯~
紅白咲き分けの
春ボケ
「東洋錦」が
咲き始めました。
その時を待っていたかのように
ヒヨドリの来訪が
賑やかになります。
ただ来るだけなら
いいのですが、
花が蜜でも含んでいるのか
あるいは、
花びらがおいしい味でもするものか、
花の咲くのを待ちきれず、
蕾のうちに
花びらを食いちぎります。
咲くときになっても
シベばかりしかありません。
特に
特別な手入れをしているわけではないけれど、
紅白咲き分けの
この花が大好きなので、
一年間、
筆者はこの時期を待ち続けます。
それなのに
この始末。
「花泥棒は泥棒ではない」。
花の綺麗さに惹かれて
花を持っていく泥棒の
心の底には
花を愛でる気持ちがあるのだから、と
善意の解釈をしている言葉だが、
しかし、
花泥棒ほど
罪作りな泥棒はいない。
花を育てている人は、
その花を見るために
一年間
手塩にかけて
その花を育てている。
心のうちで
他人にはわからない
その花を待つ気持ちが
大きく膨らんでいるのだが、
もうすぐ咲くという
その寸前に、
その花を折られると、
花と同時に
心が折れる。
遅ればせながらの
防鳥ネットを張る。
これで、
少なくとも
ヒヨドリの害は防げる。
このネット、
遠くから見ると
余り人目には付かない。
だけど
鳥たちには良く見えているらしく、
これに絡まってしまう
お粗末なヒヨドリは
まずいない。
メジロも
ボケの花には来るが
彼らは
この網を恐れることなく、
上手に潜り抜ける。
メジロは
花を食いちぎるわけではなく、
蜜を吸って帰るだけだから
まだ許せる。
だけどヒヨドリは
花を
蕾のうちから食いちぎるから、
どうにも見過ごせないため、
やむなく
防鳥ネットとなった。
藪椿が
満開になって来たので、
ますます
ヒヨドリの来訪が多くなる。
花数に限りのある
鉢植えのボケの花を守るための
やむをえない仕儀。
見た目はあまりよくないが、
ヒヨドリも筆者も
しばらくの我慢。
周りはすっかり
春ですね~~。
嘘の大罪 ~佐村河内守と小保方晴子を斬る~
久しぶりに
写真のないブログ。
私の
写真のないブログは
言いたい放題のブログになりますので、
読みたくない人は
どうぞスルーしてください。
前のブログで、
文学や芸術作品は
その完成と同時に
作品が独り歩きをすべきもので、
作品を作った人のイメージを
引きずった状態で判断すると、
判断を誤る危険性がある、と書いた。
ただし、
その作品に嘘が絡むと
これはもう
判断以前の問題であることを言っておきたい。
私は
このブログのプロフィールにある
「どうしてもこれだけは譲れないものは?」という問いに対して、
その回答が
妥当であるかどうかは別にして、
「嘘だけは許せない」と書いている。
1つの嘘をつく人は、
いつでもどこでも
平気でたくさんの嘘をつく人である、
といっても過言ではない。
1つの嘘で
その人のすべての人格を
信用できなくなる。
佐村河内 守。
詐欺師に
敬称など要らない。
18年間も
純粋な人々をだまし続けてきた
大嘘つき。
作品は
この人物の人格に関係なく
独り歩きするべきものだが、
作者のイメージを引きずると、
広島市のように
判断を誤る。
彼の作曲と言われた、
『交響曲第1番《HIROSHIMA》』が
広島市民表彰(市民賞)を受賞。
のちにゴーストライター問題発覚後
取り消された。
広島市は、
この作品が独り立ちしても
素晴らしい作品であったのなら、
ゴーストライター発覚後に
取り消す必要などないはずだし、
仮にお粗末な作品であったのなら、
広島市民表彰などする必要は
全くなかったはずなので、
いずれにしても
広島市のとった態度は
お粗末と言うにはあまりにも
お粗末な態度である。
体の不自由な
幼い少女までもだまし続けた罪のほかに、
許しがたい罪を
数え上げるときりがないが、
こんな詐欺師が
刑法では
何も罪をとがめられずに
野放しになっていることが信じられない。
謝罪会見の場でも、
お詫びするどころか、
脅迫とも取れる言を吐くに至っては
1つの嘘をつく人は、
たくさんの嘘を平気で付ける人であることを
図らずも証明して見せた。
大極悪人である。
小保方晴子。
早稲田大学に提出した
博士論文が
嘘で固められたものだったので、
博士号は詐欺で取得した偽物。
これも敬称など
付ける価値はない。
「外からの刺激で体細胞を初期化することにより、
全ての生体組織と胎盤組織に分化できる
多能性を持った細胞(STAP細胞)を作製する方法を
世界で初めて確立した」と発表。
この発表された論文に
嘘が多くて
STAP細胞自体が存在しないのではないかと
物議をかもしている。
本人が出てきて、
論文に間違いはあるが、
実際にSTAP細胞を私は作成した、と
はっきりと言えば済むことなのに、
その本人が雲隠れして、
いまだに姿を見せないのは、
佐村河内よりたちが悪い。
個人的な見解を述べると、
彼女も大嘘つき。
全世界に対して、
すぐにばれる嘘をついたのだから、
その知能のほどは
プロの詐欺師よりも劣っていると思われるが、
詐欺師であることは間違いなかろう。
虫も殺さないような
あのかわいい顔で
平気でうそをつかれると、
マスコミも国民も
コロッとだまされる。
作者のイメージを引きずって
作品を判断してはいけないという
良い例。
どのような作品でも
それが完成して
作者もしくは作家の手を離れた時から
独り立ちしなければいけないと思うが、
嘘で固めた作品は
作家のイメージを引きずったまま
独り歩きさせてはいけない。
作品は
基本、作家のイメージを引きずらず、
その作品だけで価値が決まるものだと思うが、
判断には
充分気を付けなければいけないと
思わされる出来事ではあった。
最後に
私は
絵画が好きで
ミレーも
ルノアールも
ゴッホも
美術館に行って良く鑑賞はするが、
ゴッホの ピカソの (谺 拓山さんからの指摘で勘違いに気付き
ました。お詫びして訂正します)
何を描いているのか分からないような
あの抽象画に
何十億円もの価値があるなどとは
絶対に認めない。
あの金銭的な価値は、
投資家が
投機的な作品として見ているだけで、
実際の価値とは
遠くかけ離れていることを
知らなければいけない。
価格が高いから
素晴らしい作品なのだ、という見方は
当たらない。
棟方志功の版画もしかり。
あの程度の版画は
私でも彫れると思うが、
そのレベルで、
何億円もの価値が付くのは、
あくまでも
売り手がいて、
買い手が付けばこその値段であって、
投機的価値以外の何物でもない。
作品の価値は
作者もしくは作家のイメージを払しょくして
判断しなければ、
本当の価値を見いだせないという
これもよい例ではないかと思う。
永遠の0からスタートした
作品と作家についての考察も
ここらあたりで終わりたいと思います。
長い独り言にお付き合いいただき
ありがとうございました。
小説「永遠の0」続き ~作品と作家の関係について~
前のブログで、
百田尚樹氏の書いた小説、
「永遠の0(ゼロ)」を紹介するにあたり、
「作家の人格」と
「作品の良さ」は
「全く関係のないこと」であることを、
ここで断言する。
彼が何を話しして、
誰に批判されようと、
この作品の良さは
揺らぎはしない。
と書いた。
作家の人格と
作品の良さが
全く関係のないことは、
いまさら私が
ことさら述べるほどのことではないが、
都知事選での
百田尚樹氏の応援演説の内容を見聞きして、
作品に対する己の判断を
曇らせている人がいるのを知ると、
老婆心ながら、
一言書きたい。
百田尚樹氏は
永遠の0という作品の前に
ある程度作家としての地位を
確立されていた方ではあるが、
それでも、
日本国民の多くは
彼のことをほとんど知らなかった、といっていい。
その人にとって、
自分の知らない作家は
まだ未知の作家であって、
新人に等しい。
だから、
その人の作品が
素晴らしいかどうかは
作品を読んで己が判断するまでは、
全くの白紙である。
ところが
人は実に勝手なもので、
作品を読む前に
その人の悪い評判を目の当たりにすると、
あっという間に
自分の判断基準を
完全に曇らせてしまう人が多い。
客観的に
物事を判断できなくなってしまうのは、
感情論が先に立ってしまう人の
最も恐れなくてはならないことである。
著名な作家の例をとろう。
例えば
芥川龍之介。 (以後人名に対する敬称は略)
「羅生門」とか
「鼻」
「藪の中」など
比較的短編の多い作家だが、
彼は
30代で神経衰弱などを病み、
秘書と帝国ホテルで
心中未遂事件を起こしており、
結局
1927年
睡眠薬自殺をしてしまった。(服毒自殺との説もある)
しかし
多くの人は
彼の作品の素晴らしさを、
自分が読む前から教育を受けて知ったために、
後から知った彼の性格などは
作品の判断には
何の影響も及ぼしていないのが普通である。
川端康成。
「伊豆の踊子」や
「雪国」などの名作が多い。
この人も、
1972年、
逗子の自宅で
ガス自殺をしているのが
発見された。
小説家などと言うのは、
登場人物が多い小説であればあるほど、
作家が
それぞれの登場人物に
きっちりとなりきらなければ
小説の流れがスムーズに行かないのは、
お分かりだと思う。
それほど作家とは
神経が繊細なので、
いろいろと悩むことは多いのである。
夏目漱石。
「吾輩はネコである」は
余りにも有名。
他に
「虞美人草」
「三四郎」
「彼岸過ぎまで」
「それから」など
素晴らしい作品が多い。
しかし、
みんなに知られた作品であっても、
意外と読んでいない人が多いのも事実。
私は
20代に漱石の本に触れ
大ファンとなり、
出版されている彼の本は
全て読みつくした。
そのため、
自分の書く文章にも、
彼の文体の影響が
良かれ悪しかれ大いに出ている。
それはさておき、
彼は
神経衰弱と胃潰瘍に
生涯悩まされ続け、
1916年
大内出血を起こして
「明暗」の執筆途中に死去している。
胃潰瘍は病気なので、
性格とはあまり関係がなさそうだが、
胃潰瘍を知る人は、
性格と胃潰瘍が
いかに関係深いものであるかを
ご理解いただけると思う。
太宰治。
「走れメロス」
「人間失格」など
名著が多い。
作品は素晴らしいし、
作家としての知名度も、
前述の作家に
決して劣らない彼なのだが、
そんな彼も、
1948年、
玉川上水で
愛人と入水自殺をしている。
38歳の若さである。
三島由紀夫。
「金閣寺」
「豊饒の海」など
作品の多さは群を抜いており、
2010年現在での
累計発行部数が
2,400万部以上と言うから
驚きである。
そんな彼が
1970年11月25日、
楯の会隊員4名と共に
自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ、
バルコニーから
クーデターを促したが聞き入れられず、
その数分後に
割腹自殺をしたことは
余りにも衝撃的な事件だったので、
ご記憶の方も多かろう。
皇室との関係が
いろいろと取りざたされているが、
ここでは詳細は省く。
本題に戻ろう。
作家は
自分の性格を背景にして、
素晴らしい作品を書いていることは
まぎれもない事実である。
しかし、
作品の良さと
作家の性格とは
何の関係もないことも
また事実。
そんな神経質な性格を
たとえば自分が嫌いだからと言って、
その人の作品の価値はない、と
判断することが
誤りであることは、
お分かりいただけると思う。
百田尚樹の
「永遠の0」も
そういう意味で
彼の選挙応援の演説内容と
作品の良さは
全く関係がないことを
改めてここで述べたい。
好き嫌いだけで、
作品を判断する心の目を
曇らせたらいけない。
そんな人は、
これからも
感情論が先走って、
判断を誤る恐れがあることを
充分用心しなければ、
大事なところで、
道を間違う危険がある。
いつも通りに
くどくて長い説明になりましたが、
百田尚樹の
「永遠の0」は
一読の価値がある作品であることを述べて
終わりにしたい。
ご理解いただけたでしょうか。
(作家の写真はネットで公開されている写真をお借りしています。)
小説「永遠の0(ゼロ)」 ~戦争を知らない世代に読ませたい本~
私は
本を読むのが大好きで、
時間を見つけて
電車の中でも
喫茶店でも、
病院の待ち時間でも、
レストランで食事をしながらでも
いつでも本を読む癖があるが、
東京都知事選のずいぶん前に読んだ
一冊の本を
どうしても皆さんに紹介したくて
今日掲載しました。
その本の題は
標題に書きましたが、
百田尚樹著
「永遠の0(ゼロ)」。
本書は
2006年8月
単行本として出版され
映画化までされているもののようですが、
私との出会いは、
遅ればせながら
今年になってからであった。
何よりも
「永遠の0」という題がいい。
それが
ゼロ戦乗りの本であろうとは考えもせず
書店で題につられて手に取ったのだが、
簡単な内容紹介の文を見て
大いに興味がわいた。
そして、
一気に読み終わった。
ゼロ戦の
戦闘員の物語なのだが、
底流に流れるのは、
何とももの悲しい家族への愛。
決して戦争を美化もしていないし、
戦闘員を英雄視もしていない、
愛情あふれる物語である。
物語が
佳境に入ったあたりからは、
もうどこで読んでいても
涙がじわっとあふれてくる。
何度
中央線の電車の中で、
あふれる涙を隠すために
天井を仰いだことか。
そして
そんな自分を他の人に悟られないために、
くしゃみなどして
何度ハンカチで涙を拭いたことか。
戦争に関する本は、
過去に数えきれないほど読んでいる。
例を挙げると、
「ドキュメント太平洋戦争への道」 (半藤一利)
「戦争の世界史」 (A.L.サッチャー)
「大空のサムライ(かえらざる零戦隊)」 (坂井三郎)
「ミッドウエー戦記(さきもりの歌)」 (亀井宏)
「秘録陸軍中野学校」 (畠山清行)
「戦艦大和ノ最後」 (吉田満)
「世界戦史(歴史を動かした7つの戦い)」 (有坂純)
「散るぞ悲しき(硫黄島総司令官・栗林忠道)」 (梯久美子)
「戦艦武蔵」 (吉村昭)
等々 数えればきりがない。
これらの本に共通することは、
およそ史実にのっとって書かれている戦記で、
登場人物が
ヒーローになったり、
戦闘員が
いかにも勇猛果敢に描かれていて、
ややもすると
戦争を正当化しかねない
非常に危険な面をはらんだ本になっているのだが、
「永遠の0」は
あくまでも小説であり、
そして、
戦争を知らない人が
自然にその中に入っていけて、
誰もが涙することのできる本である。
私は、
自分が今までに読んだ戦記本を
他の人にも読んでほしいと思ったことは
過去に一度もないが、
「永遠の0」だけは
どうしても皆さんに読んでほしくて、
あえてブログで紹介しています。
特に
戦争を知らない世代(私もです)が
ごく自然に読めて、
戦争とはどのようなものかを知ることができる
傑作であると思う。
作家の百田氏は
都知事選で誰かの応援をした時に
敵対する誰かに対して、
良からぬ発言をしたことで、
猛烈に批判されたので、
早く紹介したかったのだが、
ほとぼりがさめるのを待っていたら、
紹介が遅れてしまった。
作家の人格と
作品の良さは
全く関係のないことであることを、
ここで断言する。
彼が何を話しして、
誰に批判されようと、
この作品の良さは
揺らぎはしない。
その判断基準が
どういうところにあるかは、
長くなるので次回に記す。
興味のある人は
是非読んでほしい。
次回のブログを読むと、
必ず読んでみたくなるはずである。
もし、
読者をその気にさせることができなかったとしたら、
よくよく私は
他人様を説得する力に欠けることを
大いに反省しなければいけないが
ガリレオガリレイのように
牢獄に入れられても、
「それでも地球は回っている」と言うセリフと同じように、
「でもやはり自信をもってお勧めする。」と言いたい。
よろしかったら
是非次回のブログも
読んでください。
















