先日、ある研修の中で3つのテーマでワールドカフェを実施してみた。


「自分たちに求められる役割」、「職場における悩み・問題」、「部下育成についての悩み・問題」という3つのテーマを取り上げた。


非常にうまくいった。


1時間で、相当深い話が共有でき、大変盛り上がった。


ワールドカフェは、通常1つのテーマでやることが多い。


しかし、今回のやり方だと1時間で3つのテーマの意見が共有できるので、非常に効率的である。まともにディスカッションやワールドカフェをやっていたら、3時間以上かかっていたところだ。


今回は、ワールドカフェについての説明は一切しなかった。テキストには、ワールドカフェとは何かを書いておいたが、必要なかった。

研修後、受講生がワールドカフェを主催することがないのであれば、説明する必要はないだろう。

研修業界では、「研修で習ったことを職場で実践しているか」という永遠の課題がある。


しかし、たいていの研修会社では研修後の実施率を測定していない。これまで研修実施後に「研修で習ったことを職場で実践しない」のは、受講生に問題があるとして片付けられていた。


何の工夫もせずに研修を実施すると、研修後の実施率はだいたい20%前後である。


以前、研修会社に勤めていた時もそこが気になって上司に相談すると、

「やらない受講生が悪い!」と一言で片づけられた。


しかし、80%の受講生が実施できないような研修では、やはり問題だろう。


それではいけないと、それからいろいろ勉強し、5年間の試行錯誤を経て、ようやく「パフォーマンス型研修」というソリューションを作り上げ、「受講生の職場での実践」と「それに伴う実務上の成果」を出せるようになった。


弊社の研修では、必ず研修の最後に行動計画書を書いてもらい、時間があれば講師が添削をし、一定期間の職場での実践ののち、成果と学びを記入して、報告してもらう。


さらに、それに講師がコメントをし、さらなる実施を促す。


そういう観点からすると、研修の最後に決意表明や行動宣言をさせることは、全く意味がない。


記録を取るのであればいいが、口頭で発表させるだけなら、単なる儀式である。時間の無駄である。


予算と時間がある会社の場合は、少なくとも半年間は1ヶ月1回講師がフォローに行く。そこまでやって、初めて実務で成果が出るのである。


たいていの研修会社や講師は、面倒臭がって、フォローをしない。


また、半年間もフォローをするということは、コンサル的な関わりも求められるので、生半可な想いやスキルでは到底成果を出すことができない。言い方は悪いが、口先だけの講師では見透かされて長続きしない。


先日、ある会社でのチームビルディング研修から3ヶ月後に、全参加者46名の行動計画書にコメントを入れた。


実施率は、95.7%だった。


素晴らしい。いろんな取り組みが社内でなされ、成果が上がっている。46名分のコメントを書くのは大変だが、受講生の行動と成果と学びが書かれた行動計画書を読むことが非常に楽しい。


だから、クライアントから研修の費用対効果を問われても、研修後の受講生の実施率という指標がひとつの回答になるのである。

その膨大な仕事量や緻密な仕事ぶりについては、前に少しふれた。


彼の小説を読んでいて感じることは、その飾りっ気のない性格とあけっぴろげな正直さである。


小説の中で、


「この小説をこの先どう書き進めようか悩んでいる」とか、「この小説がどこまで進んでいくのかわからない」とか、そんな筆者のつぶやきがそのまま活字になっている。


『坂の上の雲』や『世に棲む日日』、『国盗り物語』など長編小説にはそんなくだりが多くある。


はたまた、『空海の風景』の中では、大阪の定食屋で自分が食べたものについての描写が出てきたり、『竜馬が行く』や『坂の上の雲』では、取材旅行の様子や取材したときに出会った人の印象なども書かれている。


読者としては、小説という舞台―幕末であったり、日露戦争であったり、平安時代からいきなり現実世界へ引き戻されることになるのだ。


お芝居に例えると、盛り上がってきたときに、舞台袖から脚本家と演出家が出てきて、「この先どう進めようか悩んでいます。」とか、「このお芝居はこんな作られ方をしたんですよ」言うようなものだ。




ふつうの小説では、作者のつぶやきや思いなどは、登場人物の台詞や行動に託されるはずなのだが、司馬文学では勝手が違うらしい。


また新たな登場人物が出てくるたびに、いつどこで生まれて、どういう生い立ちで、いつ死んで、幕末や明治の話であればどういう爵位をもらったかまで紹介されるので、歴史の史料を読んでいるのか、小説を読んでいるのか、時としてわからなくなることがある。


司馬遼太郎が自分の小説について書いているものを抜粋してみよう。


「小説とはようするに人間と人生につき、印刷するに足るだけの何事かを描くというだけのもので、それ以外の文学理論は私にはない。


以前から私はそういう簡単明瞭な考え方だけを頼りにしてやってきた。いまひとつ言えば自分が最初の読者になるというだけを考え、自分以外の読者を考えないようにして今までやってきた(むろん自分に似た人が世の中には何人かいてきっと読んでくるという期待感はあるが)。


私以外の読者の存在というのは、実感としてわかっているのは家内だけだったし、今もまあそういうものだろうと思ってこの作品を書いてきた。」 ~『坂の上の雲』あとがきより


読者に迎合するという意識は露ほどもないし、だからこそ小説の体裁や作者の実感とストーリーの交錯にも無頓着なのであろう。


いつもクライアントのことを考えているマーケティング的発想から見ると、気持ちのいい態度でもある。


ちなみに同じ作家でも遠藤周作は、妻となる人に「自分の作品を絶対に読まない」という約束をさせてから、結婚したという。