その膨大な仕事量や緻密な仕事ぶりについては、前に少しふれた。


彼の小説を読んでいて感じることは、その飾りっ気のない性格とあけっぴろげな正直さである。


小説の中で、


「この小説をこの先どう書き進めようか悩んでいる」とか、「この小説がどこまで進んでいくのかわからない」とか、そんな筆者のつぶやきがそのまま活字になっている。


『坂の上の雲』や『世に棲む日日』、『国盗り物語』など長編小説にはそんなくだりが多くある。


はたまた、『空海の風景』の中では、大阪の定食屋で自分が食べたものについての描写が出てきたり、『竜馬が行く』や『坂の上の雲』では、取材旅行の様子や取材したときに出会った人の印象なども書かれている。


読者としては、小説という舞台―幕末であったり、日露戦争であったり、平安時代からいきなり現実世界へ引き戻されることになるのだ。


お芝居に例えると、盛り上がってきたときに、舞台袖から脚本家と演出家が出てきて、「この先どう進めようか悩んでいます。」とか、「このお芝居はこんな作られ方をしたんですよ」言うようなものだ。




ふつうの小説では、作者のつぶやきや思いなどは、登場人物の台詞や行動に託されるはずなのだが、司馬文学では勝手が違うらしい。


また新たな登場人物が出てくるたびに、いつどこで生まれて、どういう生い立ちで、いつ死んで、幕末や明治の話であればどういう爵位をもらったかまで紹介されるので、歴史の史料を読んでいるのか、小説を読んでいるのか、時としてわからなくなることがある。


司馬遼太郎が自分の小説について書いているものを抜粋してみよう。


「小説とはようするに人間と人生につき、印刷するに足るだけの何事かを描くというだけのもので、それ以外の文学理論は私にはない。


以前から私はそういう簡単明瞭な考え方だけを頼りにしてやってきた。いまひとつ言えば自分が最初の読者になるというだけを考え、自分以外の読者を考えないようにして今までやってきた(むろん自分に似た人が世の中には何人かいてきっと読んでくるという期待感はあるが)。


私以外の読者の存在というのは、実感としてわかっているのは家内だけだったし、今もまあそういうものだろうと思ってこの作品を書いてきた。」 ~『坂の上の雲』あとがきより


読者に迎合するという意識は露ほどもないし、だからこそ小説の体裁や作者の実感とストーリーの交錯にも無頓着なのであろう。


いつもクライアントのことを考えているマーケティング的発想から見ると、気持ちのいい態度でもある。


ちなみに同じ作家でも遠藤周作は、妻となる人に「自分の作品を絶対に読まない」という約束をさせてから、結婚したという。