こんにちは。行政書士もできる往年の映画ファンgonzalezです。
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北欧映画と言へば条件反射的にイングマール・ベルイマンの名が挙がるだろう。あるひは世代的にはアキ・カウリスマキを思い浮かべる人もいよう。
個人的にはベルイマンとカール・テオドア・ドライヤーを北欧監督二大巨頭とするのだが、後者は本邦では映画史にのみその名を見掛ける程度の扱いかも知れない。
1979年、彼の『奇跡』が岩波ホールで公開されて以来、ずっと気になり続けていたのだが、10年くらい前に「シネマテーク高崎」でドライヤー特集が組まれた。これを好機として彼の5作品を鑑賞できたのはまさしく僥倖。『奇跡』も二回観た。
ドライヤー監督のフィルモグラフィーの最初期の作品に相当するのがこれ。ジャンヌ・ダルク物語である。
『裁かるるジャンヌ』 La Passion de Jeanne d'Arc (‘28 仏) 96分
梗概
深慮に導かれたはずのジャンヌは異端審問官の前に連行され尋問を受ける。僧職者は彼女が英雄視されることに危機感を抱き悪魔に従う者として弾劾。異端放棄の宣誓書に署名を迫る。死への恐怖から一旦は署名したものの後悔し撤回。彼女の訴えも虚しく生きたまま火刑に処せられる。
70年代半ば。洋画体験を本格化させた頃は「スクリーン」「ロードショー」「キネマ旬報」「映画芸術」などの雑誌類や新書などを古本市や古書店にも通って手当たり次第に購入し、数多のまだ見ぬ映画に想いを馳せたものだ。
本作はその中の一本である。特に、研究書の中でジャンヌの超クロースアップや斜めに傾いた画面の構図が撮影技法の見本として取り上げられているのが印象的だった。
物語自体は既知の通りゆえ、個人的にはそれまでに知り得た情報を後追いで確認する作業が中心となった。
スクリーンで実際に対面してみると、ジャンヌの裁判から処刑に至るまでの合間に挟まれる登場人物の画面一杯のクロースアップ群は確かに異様な迫力に満ちていた。TVのような小さな画面(最近は巨大サイズ化しているが)ならそうでもないが、劇場のスクリーンではスタンダードサイズと言へども圧迫感が凄い。
シドニー・ルメット監督作『十二人の怒れる男』(‘57)でもTV界出身の監督らしく超クロースアップが多用されていた。これもあえて狙ったんだろう。
→大雪だったから引き籠り計画発動~その1『十二人の怒れる男』
だが、本作では絶後のどアップの連打である。クロースアップの効果は観る者の感情に強烈に働きかける。丸刈りのジャンヌが涙ながらに訴えるショットは悲壮感ハンパ無い。
そして傾いた画面。これも不安定な構図で不安感や緊張感をもたらしている。今ではごくフツーに見られる手法だが。
サイレント映画だけあって映像で語るしか手はないので、演者たちの演技を引き出すのは演技指導はもとより撮影と照明、編集が重責を担う。本作はそれらの技術を最大限に活用し、当時も誰もが知っている物語を大きく改変することなく、感情を激しく揺さぶる迫力を産んだ見事な実例だろう。
ところで、『エイリアン3』(‘92)はどことなく厳かな宗教的色合いの濃い作品である。リプリーが最後に自己犠牲的最期を遂げることでその印象を決定づけよう。
そしてまた周知の通り、彼女は坊主頭になってエイリアンが象徴する強権的家父長制度と対峙する。彼女を見て『裁かるるジャンヌ』を連想した人も多いことだろう。
二人の主人公に共通するのはビジュアル面だけではない。前述通り対する相手が頑迷な強権的制度といふことにもある。さらに言ふなら両者ともに女性蔑視やミソジニーとの闘いが通低していると指摘できよう。何世紀またいでも女性を取り巻く状況はさして変わらぬと言ふことか。
ところで、本作はジャンヌ・ダルクの武勇伝は除かれており、現存する当時の裁判調書をなぞりつつ再現した物語で構成。彼女と審問官らのやり取りがサスペンスフルに描かれる。
ドライヤー監督がジャンヌの祖国フランスで制作。
こんな田舎町でも岩波ホールでしか観られなかった映画を体験できる機会が増したこの時代。シネフィルたちにとって黄金時代と言えようか。
*こういう活劇は一切ありません。あしからず*
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