『狂った一頁』への影響は如何に『最後の人』 | 徒然逍遥 ~電子版~

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こんにちは。行政書士もできる往年の映画ファンgonzalezです。

訪問ありがとうございます。

 

洋画の無声映画は基本的に字幕入りである。最低限の情報が鑑賞者に与えられ、内容の理解を助けるものとなる。我が邦と異なり弁士が存在しないからだろう。
だが、これは全編ほぼ字幕無しで公開されている。


『最後の人』 Der Letzte Mann (‘24独) 86分
梗概
ベルリンの格式高きホテル・アトランティック。そこに勤務する巨漢の老ドアマン(エミール・ヤニングス)は自分の職務そして何よりも荘厳な制服に大きな誇りを抱いていた。その制服を纏い徒歩で通勤すると皆が敬意を払って挨拶してくれる。振る舞いもおのずと鷹揚で親切になる。
だがある日、彼はトイレの世話係へと配置転換されて制服を回収されてしまう。ショックで茫然自失。おりしも当日は娘の結婚式。ハレの日に自慢の制服で出席すべくこっそり持ち出す。しかし、翌日彼の職務が変わったことが近所中に知れ渡る。悲嘆に暮れる彼はそっと制服を返却し、トイレで眠り込んでしまう・・・。

“ドイツ表現主義”の一角を占める『吸血鬼ノスフェラトゥ』(‘22)を放ったF・W・ムルナウ監督が世に問うた一本だ。しかし本作では“表現主義”的手法はやや影をひそめ、おどろおどろしい雰囲気は封じられている。

世界初の吸血鬼銀幕デビュー『吸血鬼ノスフェラトゥ』


“ドイツ表現主義”の最も先鋭的な『カリガリ博士』(‘20)では、登場人物の主観的世界を活写したゆへに現実世界が歪んで描写されていた。『狂った一頁』(‘26)も主人公や狂人の主観ショットがおかしな世界観を開示している。

狂った一頁-43

「ガリガリ博士」と誤読しがちな『カリガリ博士』

新感覚派時代の川端康成が原作・脚本参加『狂った一頁』(再掲・追記)


それらに比すれば本編中に主人公の主観的世界はほんのわずかしか挿入されていない。例へば、ホテルがのしかかってくる場面や、近所の主婦連中からの嘲笑場面など。

 *制服を盗み出し・・・*

 *猛ダッシュ*

 *振り返ると*

 *呵責に押しつぶされそうに*

 *疾しさを振り切って・・・*

 *ほ~ら、ご帰還だよ(笑)*

 *嘲笑の的・主観イメージ*

あとは夢見心地であるが、二日酔いの朝は部屋がぐるぐる回ったり隣人の顔が歪んだりしていた程度。

ここからは夢↓

 *結婚祝いの翌朝*

 *やや?*

 *6人がかりの大荷物*

 *あ~、どいたどいた*

 *片手で・・・*

 *ふんっ!*

 *どよめき*

 *回転扉を通過し*

 *ホテル内へ*

 *中空に放り投げ*

 *驚嘆する客に挨拶*

 *落下してくる荷物を*

 *軽~くキャッチ*

後年のフィルム・ノワール的な影の用い方などには明らかに“表現主義”の延長線上にはあるのだが。


しばしば『狂った一頁』への影響が指摘されてきたが、実際に観てみるとさほどとは思えない。衣笠貞之助監督もドイツ表現主義の手法を参考にはしただろうが、むしろ川端康成横光利一ら新感覚派とのコラボレーションと円谷英二の特殊効果などの実験的精神の表出だったのではなかろうか。

 


ところで、梗概では省いたが、実は本編にはエピローグともいふべき後日談がある。

トイレで急死した億万長者をドアマンが看取ったことから莫大な遺産を遺贈された。

といふものだ。皆がその新聞記事を読んで大笑いしている。

 *REIMS(ランス)産シャンパン*

 *今でも有名な本場産地です*

 *オッケー*

かつて自分に温かく接してくれた夜警に盛大にプレゼントを贈与し、ホテルで肉やらキャビアやらを大量に奢る。

 *肉さまざま*

 *キャビアごっそり大盛り♡*

トイレの係には大量のコインと上等な葉巻を与え、帰りの馬車にはホームレスを同乗させてやるなどすっかり貧者の味方の様相を呈している。

我々は、ああ。これは彼の夢なんだろうな。などと合点しそうになる。が、さにあらず。なんとこれは事実現実の聖林映画顔負けの超ラッキーな結末となる。決して夢オチなどではないのだ。これには自分も驚きのあまり絶句してしまった。


ムルナウ監督自身もさすがにマズい。と憂慮したのだろう。言い訳的な字幕を挿入せざるを得なかったようだ。これが劇中唯一ともいへる字幕である。すなはち“可哀想過ぎるので改良されたエピローグとした”みたいな感じ?


スタジオ側の言い分がまかり通ることこそが避け難い悲喜劇なのだ。


そんなことで蛇足的結末は誰が観ても明らかに全体のバランスを失しているのだが、それを差し引いても本作は中々の秀作である。

何しろ字幕を挿入しないサイレント映画でも観客は物語を理解できるように仕上げる工夫に満ちているのだから。


映画はカメラで語るのだ。


それを補足するのが俳優の演技である。


主演のエミール・↓人具す(ヤニングスを変換したらこうなってしまった)の芝居が我々の理解に訴えかける。
堂々たる偉丈夫なドアマンが制服を失うととたんに背中が曲がり歩みも遅々としおどおどしてすっかり老け込んだようになる。

 *辞令交付*

 *背中が曲がり*

 *たちまち老け込む*

 

表情も鷹揚で柔和な笑顔を浮かべていたのが一転、上目づかいで卑屈にすらなり下がる。
それを一切の字幕を排し、カメラと演技者のみで表現する。

 *立派な出で立ち*

 *泣く幼子にも親切に*

 *一転し・・・*

 *辺りを窺うような顔つきに*


当時は固定された巨大な撮影機材を操っていたので小回りが利かなかった。それが俳優と共にスムースに移動する造作を施したため本作はカメラワークが現今の作品と遜色ないほどだ。

 *手前の列車は恐らく模型*
そのヤニングスはその後渡米し第1回アカデミー賞主演男優賞を受賞したのは周知の通りである。


さて、エピローグを取り除けても成立する『最後の人』。『狂った一頁』と併せて観るのも興味深いかも知れない。


本日も最後までお読み下さりありがとうございました。

*ウーファ社製フィルム*

 

製作:エーリッヒ・ポマー

『カリガリ博士』(20)『メトロポリス』(27)『嘆きの天使』(30)『会議は踊る』(31)

監督:F・W・ムルナウ

『ジキル博士とハイド氏』(20)『吸血鬼ノスフェラトゥ』(22)『ファウスト』(26)

脚本:カール・マイヤー

『カリガリ博士』(20)『サンライズ』(27)

撮影:カール・フロイント

『巨人ゴーレム』(20)『メトロポリス』(27)『キー・ラーゴ』(48)

 

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