こんにちは。行政書士もできる往年の映画ファンgonzalezです。
訪問ありがとうございます。
芸術の世界では、過去さまざまなニューウエーブが花開いてきた。音楽然り。絵画然り。舞踏然り。文学然り。第七芸術として広く認知されるに至った映画も然り。
その映画で言へば名高いところでは、米国の“アメリカン・ニューシネマ”が該当しよう。英国なら“フリーシネマ運動”。戦後イタリアの“ネオリアリスモ”。フランスでは“ヌーヴェルヴァーグ”。などが有名だろう。
ドイツでは1920年代に盛り上がった芸術運動“ドイツ表現主義”が大きな潮流となり、その後にまで大きな影響を及ぼした。
その代表作が、これ。
『カリガリ博士』 Das Cabinet des Doktor Caligari (‘20独) 71分
梗概
カリガリ博士と名乗る興行師が、眠り男=夢遊病者チェザーレを操り殺人を繰り返していた。主人公フランシスの友人アランも犠牲になった。彼はジェーンとその父親と共に密かに調査に乗り出す。恐れを抱いたカリガリはチェザーレにジェーン殺害を命ずるが、彼は彼女の美貌に感じ入り殺さずに連れ去った。ところが、途中で彼女を手放し斃れてしまう。
一方、逃げ出したカリガリは精神病院に駆け込む。何と興行師カリガリは精神病院の院長であった。彼は、夢遊病者を操って殺人を犯すことが記された本の内容を再現することに腐心していたのだ。が、実は・・・。
これもまた無声映画。自分が観たVerは何故か英語版の字幕が出てきたのだが。
“表現主義”。それは一体なんなのか。
何であれ映画は何かしらを表現するんじゃねえのかよ。あ?などと因縁つけたくなる主義である。何故か知らねどexpression。
浅学菲才の我が身だが、理解した気になっているのは、人間の内面的な部分(感情面、精神面)のように目に見えないものを表現するスタイル。だろう、といふことである。
よって、心の不安感などを視覚化すると、極端にデフォルメされた背景の書割となってしまうんだろうな。
ここが印象派=目に見える世界を描くスタイルとの相違であろう。
そうなると、時代も国も違えども、E・ムンクなどは表現主義的スタイルに先鞭を付けた人に思えてくる。
本作は、世界大戦終結後間もない時期のドイツで製作されたこともあり、庶民一般はまだまだ生きていくことに不安がつきまとっていたんじゃないかと想像する。
そんな雰囲気を表現しているので一種のムーヴメントとなったのではないだろうか。
だってドイツの超インフレは、珈琲一杯何兆マルクとかいふくらいの物凄さだったと習った。紙幣がはみ出すトランクに座る人の写真などを見た覚えがあるし。
戦後ヴェルサイユ条約でがんじがらめになったドイツの苦労が偲ばれる。
閑話休題
で、本編中の街並みや部屋の中など、建物が傾いでいたり、歪んだりしていて至極不自然。遠近法を改ざんし、空間を伸縮させている。ペイントされた柄もおおよそ不自然極まりない。全てが室内セットと書割である。薄気味悪く妙な気分になってくる。
美術担当に起用された3人は表現派の芸術家だった。本作における見どころは彼らの手腕である。堪能されたし。
役者の白塗りメイクも相俟ってオーバーアクトのハンパ無さも迫力ある。
*見るからに怪しいDr.カリガリ*
*主人公フランシスとジェーン*
このあたりからも“表現主義”がアヴァンギャルドなジャンルの中に原初的な影響を与えていることが感じ取れる。衣笠貞之助監督『狂った一頁』(‘26)も、その系譜に連なる一本だ。
→新感覚派時代の川端康成が原作・脚本参加『狂った一頁』
影響と言へば、後年のホラー映画やフィルム・ノワールにもその遺伝子が受け継がれているように思えたりもする。
チェザーレは『シザーハンズ』(’90)の原型とも言へるだろう。
ところで、何よりも眠り男=夢遊病者を使っての犯罪。といふ設定自体が何だか退廃的なトーンを帯びている。何故か?
夢遊病といふ病。そこには夢がある。が、当時の国際的・国内的趨勢はドイツにとっては悪夢以外の何物でもなかったろう。ゆへにそんな病から二律背反的な構造が浮かび上がる。
睡眠中なのに歩き回る。深夜徘徊しているが睡眠中。この矛盾。眠っているのに犯罪。
世間が不安感を抱くのは当然。して、その不安はそのままドイツの状況へと回収される。
狂乱の20年代を謳歌した米国とは何と対照的なのであろうか。
本作の編集の特徴として場面転換の際に、旧い作品ではお馴染みのアイリスでのイン・アウトが見られる。
先般ご紹介した『花筐』(’17)ではワイプが多用されていたが、双方ともに古典的手法であり、最近ではほぼ使われない。
→「第33回高崎映画祭」雑感~大林宣彦監督渾身の『花筐/HANAGATAMI』
さて、梗概ではネタバレしなかったが、何だか夢オチみたいな話である。100年前の映画と古典落語との関連性はほぼゼロだろうが、当時としてはかなりショッキングな物語だったのではないだろうか。
『狂った一頁』の夢オチ的結末も、なるほど似ていると納得できる。
ただし、『カリガリ』は何故あんなに歪んだいかれたような世界観が提示されたのかが腑に落ちるエンディングだ。誰の心象風景かが判明するのである。
*フランシスとジェーンの父親*
*フランシス、ジェーンと父親*
温故知新。まだ観ぬ人は是非とも鑑賞して欲しい。
本日も最後までお読み下さりありがとうございました。
監督:ロベルト・ヴィーネ
脚本:ハンス・ヤノヴィッツ、カール・マイヤー
撮影:ウィリー・ハマイスター
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