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専業トレーダーブログ

僕は、FX専業トレーダーという人生を選んだんだ。日々の生活から考え方・トレード検証まで。




大きな環境の変化のあとに初めて、必ずと言っていいほど一つ上の次元の成長が生まれる。逆に今の環境にい続ける限り、今の延長線上での進歩しか生まれないんだ。


目標に一歩一歩向かっていても、変化や成長を感じられなくなる時期が必ずやってくる。はじめは日々成長を感じていたはずなのに、全くそれが感じられない。スランプと呼ばれる時期だ。

多くの人はこの時期が長引いてしまうと、自己嫌悪に陥ってしまって、諦めてしまったり落ち込んだりしてしまう。



でもこれは、今の考え方・取り組み方・方法では、そろそろこれが限界ですよというサインでもあるんだ。

こうしたスランプを経験することで初めて、今の自分を見直したり考え方を改めてみようという意識が生まれる。この時期があるから、考えもしなかったことを考えてみたり新たなアイデアを思いついたりする。



だから、もし成長が止まっているように感じられたら、それは一つ上の次元の自分に成長するチャンスだと思って良い。今の考え方・取り組み方では、もうそこが限界に来ているんだ。

同じような思考・同じような行動をし続ける限り、同じような結果しか生まれない。毎日同じようなことをしているのに、ある日突然全く違う結果が現れることはないんだ。



常にひとつ上の変化や成長をつくっていくためには、常にひとつ上の環境にい続けなくてはいけない。現状で満足できるような環境にいる限りは、大きな変化は絶対に生まれないんだ。


何か新しいことを始めるときも、まずは準備をしっかりしてからと、知識や情報をたくさん蓄えることから始める人がいる。

そうではなく、先にその世界に飛び込んでしまって、今いる環境を飛び出すことが大切なんだ。そうすることで、自分に足りないもの・本当に必要なものがはっきり認識できるようになるから、一気に短時間で成長する。

英語なども、日本でちょこちょこ勉強するより、数ヶ月も英語圏で暮らしてみれば、勝手に英語の耳になって話すことができるようになる。



今の環境にい続ける限り、今の延長線上での人生しか生まれない。もし、もっと変化や成長したいのであれば、まずは思い切って先に環境を変えてしまうんだ。

はじめはすごく居心地が悪いけれども、いつの間にかその環境に合わせるように自分が成長して、ふと気付くとそこが自分の居場所になっているはずだ。



何かに頑張っている人を見ると、周囲の人たちはあの人は本当に努力していると感心する。そう、努力という言葉は頑張っている他の人に対して使うもので、自分自身に使うものではないんだ。


何かで成果をあげている人を外からみると、きっとこれまで凄い努力を重ねてきたに違いないと感じる。

でも本人にとっては、それは努力でも何でもなく、ただ自分がやりたいこと・自分が信じてきたことをやり続けてきたに過ぎないんだ。それを外から見ると、努力という言葉に置き換わる。



何事でも大きな結果を出している人は、自分が努力している・努力してきたとは思っていない。目の前のやりたいこと・信じていることを、ただ行動にしているだけなんだ。



逆に、あまり大きな成果を出せない人に限って、自分は努力している・努力しているのに結果に繋がらないと、自分で自分は努力しているという想いをもっている。

今取り組んでいることが、努力の対象と感じているということは、それは本当はやりたくないこと・やらなくてはいけないと思っていることなんだ。



自分が大好きな趣味やスポーツをするときに、努力という言葉は浮かんでこないだろう。ただやりたくてやっているから、時間も忘れて打ち込むことができる。

そうやって何の努力を感じることなく取り組んでいるだけで、上達したり覚えようとしなくても知識がどんどん勝手に増えていくんだ。

練習頑張っているねと友人に言われても、別に頑張っている感覚はないだろう。ただやりたいことを、やりたいようにやっているだけなんだ。



自分からやりたいと強く思っていることでなければ、大きな結果を出すことは難しい。努力・努力と自分に言い聞かせなければいけない状況では、それをただやりたくてやっている人には絶対に勝てないんだ。

今取り組んでいることが本当にやりたいことなのか、それともやりたいことだと思い込んでいることなのか。今自分は努力していると感じているなら、それは後者なんだ。




僕たちは、自分で自分の答えを見つけなければいけない時代・場所に生きている。すでに生命的な命の危機を感じる環境はなく、自分で生きる意味を見出す世界の中にいるんだ。


ほんの少し前の戦時中に生きていた先人の方たちは、子供の頃から国のために戦うことを教えられ、それが自分の生きる意味だという信念を持っていた。

今から見ると、それは間違った考え方・生き方に思えるかもしれないけれど、当時の方たちにとってはそれが誇るべき生き方だったんだ。勇敢に戦って亡くなった方々もきっと、国を守るという自分の使命を果たすことができたという誇りをもって逝かれたはずだ。


そこに自分で答えを見つける環境はなく、その時代に用意された答えを全うすることが全てだった。

もちろん、その答えの良し悪しはあるとしても、用意されていることで他の選択肢を自分で考える必要はなくなる。これが自分の使命だという信念が自然に生まれるんだ。



僕たちは今、これだけの自由を与えられた世界に生きているけれども、その反面自分で自分の答えを見つけていくことが求められている。

こう生きなければいけないという制限らしい制限は、ほとんどの方が持ち合わせていない。でもそれは、自分で答えを探すことに慣れていない人にとっては辛い環境とも言える。

そうした人は、自分で見出した答えにも確信をもつことができず、結局は周囲の流れに乗ることが楽で安心できると感じて落ち着いていくんだ。

でも、心の深いところで、この方向は自分が本当に欲している道ではないと分かっているから、常に迷いを抱えてそれが大きなストレスとなっていく。



正解がない答えに、自分で仮説を立ててそれを実証していくという過程に慣れていない人が多いんだ。子供の頃からの学校教育でも、既に答えがある問題について考えたり、ただ物事を覚えるだけの場合がほとんどだ。

僕は工学系の大学院で、かなり研究に没頭していた時期もあったので、そうした自分なりに仮説を立てて、未だ答えのない答えを探す楽しさを幸運にも知ることができた。



こういう生き方が良い生き方だというロールモデルは、今の・これからのこの国にはもう存在しない。何が正しくて悪いかという判断・価値観も、周囲ではなく自分で育てていかなくてはいけない。

自分が信じた答えが、本当に正しいかどうかも分からない。ただ自分だけはそれを信じて、実証していくしかないんだ。そこで何かを見つけることができれば、それは他の人にもきっと役に立つ何かに違いないと思っている。



この世界に生きていて最も辛いことは、自分が生きている意味を見出せないことだ。今日一日を過ごす意味を考えたとき、何も思い浮かばないことが、全ての辛いと感じる根本的な原因になっている。


人は、自分が進みたい方向・実現したい目標がなくなると、一気に生きる力を失ってしまう。ただ生きるために生きるという状態になると、物理的な身体にも大きな影響が出て、一気に老け込んでしまうんだ。



目標というのは、少しキザな言い方をすると希望とも言える。視線の遠い先にその光がはっきりと見えているから、目の前のちょっとした躓きや痛みになどに動じない強さが生まれる。

視線の先に何も見えていないから、日々の小さな出来事や環境の変化にいちいち反応して落ち込んだりしてしまう。


その先の光が見えていれば、目の前に現れるひとつひとつの現象が、全て次の一歩を進むために必要な過程であることが、はっきり認識できるようになるんだ。

無駄なことは何もないというのは、全くもってその通りだと心の底から思えるようになる。



今回の日本女子サッカーの選手の方たちを見ていても、本当に生き生きとしているのを感じる。

女性であれば、将来のことを考えると、きっと選手として頑張り続けることに不安があったはずだ。決して良い待遇の環境とは言えず、活躍できるかも分からない世界だ。

それでも、自分がこれだと信じる光のただ一点に向かって走っている。その光があるから、目の前の辛い練習や待遇・環境でさえ充実したものに変わっている。


これが、本当に幸せな充実した生き方なんだ。経済的なものがどうとか環境がどうとか、そんなものはおまけに過ぎない。自分が信じる光を追いかけている過程にいるときが、一番幸せを感じるんだ。



自分の生きる意味や本当の目標を見出せたとき、今ある悩みや不安などは全て解決する。見える世界・感じる世界が、全く違うものにガラッと変化するからだ。

それがない限り、目の前のことにまた一喜一憂して、ひとつ解決してはまた新たに悩むという日々を繰り返してしまうはずだ。



これで良い・このままで良いんだと、自分に納得した瞬間に全ての変化は止まってしまう。いつでも変化を生んでくれるのは、現状に対する強烈な不満なんだ。


もちろん、今自分に与えられているものを忘れず、この時代のこの国に、こうして生きていられる現状には感謝しなければいけない。それを考えれば考えるほど、もうこれで十分だとも感じられる。

そうして、足るを知り大きな欲を持たないことが良いことだという空気もある。

でも、そうした恵まれた現状であるからこそ更なる向上心が求められるのだし、他の恵まれない人々を大きく包み込めるような器が必要とされているんだ。



健全な不満があるから、向上しよう・変わろうという意欲が生まれる。健全な不満があるから、もっと学ぼう・成長しようというエネルギーが生まれる。

今のままの自分で良い・今に幸せを感じようと、優しく声をかけてくれる人もいるだろう。全ては捉え方次第だから、そうした言葉でそのときは安心感を得ることができる。


でも、そうした考え・捉え方でい続けていては、現実世界そのものの変化や自分自身の成長は絶対にないんだ。頭の中のバーチャルな感情世界では、安心できるとしても。



その不満も、自分に対する健全なものでなければいけない。方向の違った不満は、自分以外の他人や環境に向けられてしまう。

自分が向上することによってではなく、他人を引きずり落とすことによって相対的な自分のポジションを上げようとしてしまうんだ。

出る杭を押さえ込んだり、愚痴や悪口で他人のポジションを下げようとして、相対的に上がったように感じられる自分に安心感を覚えるんだ。



僕自身は、これで良いと思えるときは生涯来ないと思っている。向上しようという想いが常にあるから、そのプロセスである毎日が充実するのだし、ちょっとした躓きに動揺することもなくなる。

今に満足してしまった瞬間に、本当の意味での充実や幸福感というのは感じられなくなってしまうんだ。