「騒音」という解釈の非現実さ | 非二元|縁起的現象としての「私」

非二元|縁起的現象としての「私」

宇宙的自己に目覚める記事を配信。
「迷悟」「苦楽」「生死」の相対を超えた「身体・宇宙」一如の絶対的あり様とは?
迷い、悩み、苦しみのない、日々、生き活きとした生活の実践。

11月頃から年末にかけて、うちのマンションの真向かいで、建物の解体工事が続いた。

ドカーン!バターン!という音が、朝の8時くらいから鳴り響き、その音で、私は毎日、目を覚ました。

目が覚めた途端、私の心の中で、こんな罵りの声が、騒々しくわめきだしたことに気づいた。

「なんで、こんな朝っぱらから騒音を立てて、毎日、私を起こすんだよ。ぐっすり気持ちよく眠ってたのにさー」

この心の声は、明らかに、現実に起きている「音」に対して、「こんな音はあるべきじゃない」と抵抗し、騒ぎ立てていた。

「現実の音」とそれに反抗する「心の声」。

「現実の音」と「心の声」の二つが対立していることに気がつくと、非現実的な「心の声」はしばらくすると消えてなくなり、ドカーン!バターン!と鳴り響く現実の音だけが聞こえるようになった。

すると、もうそこには、現実に逆らう心の動きはなく、ドカーン!バターン!という音が聞こえていても、心は安らかになり、私は再び深い眠りの中に落ちていった。

そして、私は昨日、大阪の実家に戻り、父親が眠る部屋の隣の部屋で眠った。

眠っていると、隣の部屋から音が聞こえ、父親が寝苦しさを感じて目が覚め、タバコに火をつけるためにライターを発火させる音に気づいた。
そして、テレビをつけ、番組の音が私が眠っている部屋にまで聞こえてきた。

この瞬間、私の心の中で、こんな心の声が聞こえだした。

「なんでこんな夜中に、テレビを見るんだよ。隣の部屋で私が寝ているんだから、もう少し気を使ってくれよ。このままじゃ眠れそうにないから、テレビのボリュームをもう少し下げてくれと言いに行こうかな」

この心の声が聞こえると、私はまたもや、「現実の音」とそれに逆らう「心の声」とが対立しあっていることに気がついた。

すると、現実に逆らう心の声は消えてなくなり、テレビの音(現実の音)だけが聞こえるようになった。

もうそこには、現実に逆らう心の動きはなく、安らぎだけがあった。

すると、驚いたことに、テレビのスイッチは切られ、父親は再び、眠りに落ち、なんの音も聞こえなくなった。

工事現場の音が鳴っていた時は、私自身が眠りに落ちることで、静寂が訪れた。

テレビの音が鳴っていた時は、父親がテレビを切って眠りに落ちたことで静寂が訪れた。

いずれにしても、現実に逆らう心の動きがひとりでに消えていった時、安らぎだけが残るようになる。

工事現場のドカーン!バターン!の音も、深夜に鳴り響くテレビの音も、私(存在)の外側で鳴っている音ではない。

それはライフの音であり、それに逆らう心の声もまた、私(存在)の内側で鳴り響いている。

この内側で起こっている対立こそが、苦しみの原因であり、この対立にひとたび気づけるようになると、たちまち心のザワツキはおさまり、平和だけが残る。

そして、この平和は、どんな音が鳴っていようがいまいが、何にも影響されることなく、ここにある。

お知らせ
年末年始の非二元の対面セッションは、大阪の梅田でやっています。
また、年明けの1月13日(祝)は、京都の町家カフェ(今回は2階ではなく、1階のカフェ)で、人間関係の対立をテーマに非二元について語ります。