二俣団地ブログ

二俣団地ブログ

昭和40年代~平成29年まで、千葉県・市川市に
存在した、防衛庁官舎(二俣団地)のブログです。
二俣団地の思い出など、コメントをお寄せ下さい。

※ブログ掲載の団地内や教室など一部の画像は、
博物館の常設展示を撮影したイメージ画像です。

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二俣団地が取り壊される?

 

私がそのニュースを知ったのは、 

ネットのSNS、

「ミクシィ」の書き込みからでした。 

 

 

二俣(ふたまた)団地とは・・・

 

 

昭和40年代、千葉県市川市に建設された

その団地は、 

26棟の防衛庁(自衛隊)官舎と

 

 

4棟の公務員宿舎の、合わせて全30棟

 

 

1282戸から構成される、

巨大なマンモス団地で

 

 

団地が建設された当初、

生後間もない頃から団地に住み、 

二俣幼稚園~二俣小学校~高谷中学校卒と、 

成人するまで二俣育ちの私は、

団地を取り壊すというネットの書き込みに、

その驚 きを隠せませんでした。

 

 

 

ちょっ・・・壊すって?

なんでまた? 

 

 

いや、そりゃま確かに

 

 

棟によっては都市ガスの設備が老朽化して、

外付けになっていたり  (画像は14号棟)

 

 

道路が陥没していたりもするけれど、

昭和40年代から50年の歴史ある、

古い団地にしては(画像は23号棟)

 

 

 

「きれいなのに、

   なんで壊すの?」

 

その外見だけ見れば、

誰もがそう感じると思います。

  

おそらく団地取り壊しの最大の理由が、

これ。

 

 

二俣小学校の裏庭で見た、耐震補強。 

最近は全国で、大きな地震が多いですからね。

 

これを見たら、

「団地の取り壊しも

         やむを得ない」

そう思った私でした。

 

 

団地が取り壊されるのも

寂しい事ですが、

私が本当に寂しいのは、

団地での思い出までが壊されてしまう事。

 

 

狭いながらも楽しかった、

6畳間での一家団らん

 

 

父と補助なし自転車を練習した、

13号棟わきの道路

 

 

母にマジンガーZの基地だと

嘘をつかれた、

団地のシンボル、給水塔まで

 

子供の頃の思い出、その全てが、

団地ごと取り壊されしまう訳ですから、

心穏やかではありません。

 

 

「団地の思い出・・・

  記録しておこうかな」

 

そう考えた私は、

Amazon8千円の安いデジカメを購入。

 

 

団地の住民が全て退去する、

平成27年9月を待って、 

団地内の思い出の場所を

デジカメで記録する事に。

(画像は20号棟)

 

 

そして団地内の画像、

数十枚を撮り終えたところで、

私にはふと、ある名案

浮かんだのでした。

 

 

思えばこの二俣団地は、

1282戸のマンモス団地。 

しかも50年の歴史がある訳ですから、 

住んでいた住民は数万、

いや十万人くらいは居るはず・・・

 

 

転勤の多い自衛官の子供は、とにかく

転校が多く、転入1年ほど再び転校

してしまう生徒なんてザラでしたからね。 

しかも転校先が北海道から九州まで幅広く、 

遠い地方に行ったまま暮らしている人も

多いと思うのです。

 

 

転校した自衛官の子が、やがて歳を重ね、

何十年ぶりに地方から上京して、

懐かしく二俣団地を訪れたとき・・・

(画像は現在の二俣団地の最寄り駅

 JR京葉線・二俣新町駅)

 


団地が取り壊され、跡形もなくなって

いたら・・・あるいはそこに、

マンションが立ち並んでいたら

どう思うのか・・・

 

 

その時の無念さ、

   落胆と言ったら。

 

そんな時、せめて私が撮った

二俣団地の最後の姿を、 

パソコンやスマホで見る事は出来ないか?

楽しかった団地の最期はどうなったのか、

皆知りたいのでは?そう考えたのですね。

 

 

こうして誕生したのが、二俣団地ブログだった

訳です。 撮影した画像を私1人で楽しむより、

むかし住んでいた人みんなで共有したほうが、

きっと団地も喜ぶでしょう。

 

 

・・・と言うワケで、団地の閉鎖から、

団地が取り壊されるまでの 

完全ドキュメントを、当時のエピソード

交えながらブログにしてみました。

 

寂しいと思いますが、どうか懐かしい 

二俣団地の最期、有終の美を、

ぜひご覧ください。。。。

二俣団地の入居者が全て退去した、

平成27年9月・・・ 

その9月最後の日曜日に現地を訪れた私は、 

団地での思い出の場所の撮影を、

開始したのでした。

 

 

当初はまだ、立ち入り禁止のフェンスはなく、 

団地内を巡回する警察官の姿はあるものの、 

団地の立ち入りには、特にお咎めもなく・・・

 

 

この日は日曜日という事もあり、

ネットで団地の取り壊しを知った、むかし

住民の方なのか、他県ナンバーの乗用車や、 

公園内で遊ぶ家族連れの姿もありました。

 

 

「しかし団地の間取りって、

    すごく狭かったよなぁ」

 

 
上の画像は防衛庁官舎とは造りの異なる、

公務員宿舎の 27号棟、29号棟。

確かこの2棟だけは部屋数がかなり多くて、 

1世帯あたり5部屋くらいの間取りだったと

思うのですが

 

 

団地の大半を占める防衛庁官舎の間取りは、 

6畳、4畳半、3畳、台所、風呂、トイレの、

3Kが基本で

 


各家庭では子供の成長に合わせ、

家がどんどん狭くなり、 

第2次ベビーブームの影響もあって、

2段ベットが大流行。

 

 

それでも家財道具は増え続け、

テーブルやコタツを片付けないと、両親の寝る場所もなく。

 

 


 

「夏休みに

 ○○ちゃん家が引っ越す」 

 

なんてウワサは、 たちまち近所中に広まったもの。

親同士のライバル心・・・どの家庭も

広い家での生活に、憧れていた時代でした。

 

 

その当時の団地の狭さが理解できるのが、

上の画像、4号棟。 

団地を輪切りにしたような、

その構造ムキ出しの断面は、 

左からベランダ、6畳、4畳半と、

団地の間取りが丸見え・・・ 

団地30棟中、この4号棟だけが、

なぜかヘンテコな造りなのです。


当時からこのスケルトン、

4号棟の断面はとされ、 

二俣団地の都市伝説

・・・そう呼ばれていたのでした。

 

 

ではなぜ号棟だけが、 

こんな造りになったのか。

 

 

実はこの都市伝説には諸説があり、

4号棟の隣に、団地に水を供給するポンプ所を

建設するにあたり、 4号棟が短くなった・・・

という説が有力のようですが、 その一方で、

建設中の火災で焼失したという説もあり・・・

 

 

結局その真相は誰も知らぬまま、 

今回の団地取り壊しとなったワケです。

 


しかし私が思う4号棟の謎とは、

防衛庁官舎という特殊な事情が関係して

いると思われ、その謎を解くカギを握るのが、

4号棟の近くにある9号棟。

 

 

二俣団地1棟あたり30~60世帯が入居

する中、 唯一20世帯だけが入居する、

団地内で一番小さな9号棟ですが、

私が思うに4号棟は、この小さな9号棟と、

何か関係あるのでは?そう思うのですね。

 

 

実は、私がこの2つの棟に着目したのは、 

デジカメ片手に団地内を歩き回りながら、 

団地の案内図の前で休憩したとき・・・

 

 

あれっ?この案内図、

よーく見ると・・・

 

「!」

 

私は非常に単純な、

あることに気付いたのです。 

 

 

皆さんも、上の画像を拡大して、

4号棟9号棟を、

周囲の棟と比較してみて下さい。

 

何かに

気付きませんか?

 

もしやこれ、数字を敬遠した、

縁起担ぎではないかと・・・

 

 

そう。

自衛隊員は、災害派遣などの救援活動や、

有事には命がけで国を護る

大変な職業。いつ自分の身に危険が及ぶか、

隊員本人は勿論、隊員の家族も不安なはず。 

 

 

そこで当時の防衛庁は、

二俣団地の建設工事の途中で、

その計画に「待った」をかけ

 

 

当時、悪い数字と敬遠された の

数字 (号棟)を意図的に小さくする事で、

団地の構成で縁起担ぎを図ったのでは?

 

 

私は団地の案内図を前に、

こう推測してみたのでした。

 

 

つまり4号棟は、

当初は並んで建つ1~6号棟と同じ、 

大きな棟になる計画で建設が進め

ていたのに、この縁起担ぎのため

急きょ設計を変更。(画像は6号棟)

 

 

すでに完成した骨格はそのままに

半分の大きさに分断され、

こんな造りに。これこそが都市伝説、

4号棟の謎の真相では

なかろうかと。

9号棟が小さいのも、同じ理由でしょう。

 

 

もっとも4や9が悪い数字と言うのは、

何1つ根拠が無く、今の時代じゃ

誰も気にしない迷信に過ぎませんが

 

 

建設当時はまだ戦後20年の

昭和40年代でしたので、 

些細な数字選びでも気にする人が、

多かったのかも知れません。


4号棟と9号棟が小さく、

コンパクトに建てられたのは、 

全ての自衛隊員の身の安全と、

その家族への心遣い・・・

 

 

数字を小さく演出するという

防衛庁の縁起担ぎに、 

そんな願いが込められていたのでしょうか?

 

 

結局は誰も知らない、

4号棟の謎でした。。。。

二俣団地内の思い出の場所を、

デジカメで撮影しながら歩いていた私は、

あることに気付くのでした。

 


「友達の家・・・

  けっこう覚えてるなぁ」

 (画像は17号棟)

 

 

 

この棟には〇〇君が住んでいて、

この階段には、〇〇ちゃん?

となりの階段には・・・

ちょっと昇ってみるか。

 

 

う~ん・・・

階段も全然キレイだし、

廃墟になった団地とは、

とても思えないけど・・・

 

  

おおっ!

懐かしいねー、この感じ。

 

 

確か1号棟から6号棟だっけ?

ドアの真ん中に覗き窓があって

 

 

そそそ。

こういうの貼ってる家が多かった(笑)

社名は伏せるけど、布団のセールス

とか新聞のセールスが やたら多くて

 


 

ミルクボックス!!!

あったね!あったね!

ここにスーパーボールや、

カー消し(スーパーカー消しゴム)

とか隠して(笑) 

 

 

団地から引っ越して20年以上も

経つのに、驚くほど変わっておらず、

その記憶を頼りに1棟1棟を訪ね歩き

 



当時は、同じ階段に同級生が

住んでいる事もザラで

 

「キムコ(木村君)遊ぼー」

 

団地の下から大声で名を呼ぶと、

すぐに降りて来たもの。

 

 

 

お正月の同級生への年賀状は、

郵便ポストに入れるより

家のポストに届けた方が早かったし

 

 

団地に救急車が来ると、

やじ馬が全員、同級生だったり

 

 

クラスの可愛い女の子

隣の家なんて うらやましい友達も、

結構いたよなぁ・・・

 

 

そんな事を思い出しながら、

団地内を歩いていると・・・

 

んっ?

 

 

 

 「・・・」

 

・・・しかし廃墟となった団地に、

野良ネコが多いこと(笑)

昔から団地には、多くのネコが

住みついていましたよね。

 

  

・・・思えば二俣団地は便利で、

楽しい団地でした。

幼稚園と小学校から、

遠い棟でも歩いて3~4分だし

 

 

 

 公園など、遊ぶ場所も充実。 

 

 

私が小さな頃は、子供ならではの

豊かな想像力で、公園のオブジェを

電車やバスに見立てて遊んだり、

砂場にダムを掘って、水を流したり

 

 

学校の校庭に行けば、誰か必ず友達がいて

 

 

ほとんどの父親が自衛隊員という

連帯感からか、知らない子でも

すぐに仲良くなれた団地でした。

 

 

そんな友達との遊びと言えば、

校庭でのドッジボール

色おに、缶蹴り。

ドロケイ ( ドロボーと警官 )

って覚えてます?

 

 

1~6号棟の隣にあった芝生の広場、

(自研センター)では、草野球や、

大きな目ん玉の描かれた ビニール凧、

ゲイラカイトが大流行。 

 

 

舗装のきれいな13号棟わきの道路では、

ローラースケート

流行りました。

 

 

公務員宿舎の裏は、

ちょっとした原っぱになっていて、

イナゴトノサマバッタ

シオカラトンボギンヤンマ

トカゲカナブンを獲って遊び

 


団地裏の家庭菜園では、

ヒマワリやチューリップを栽培したり、

ナスやブルーベリーを収穫したり

 


今は物流倉庫になった22号棟裏には

大きな池があり、魚屋の発泡スチロール

で組み立てたイカダや、ザリガニ釣り・・・

 

 

そして忘れてはならないのが、

団地近くの山公園。

現在は少年野球のグラウンドに

なっていますが、当時は中央に

大きな山の滑り台があって、

ダンボールをお尻に敷いて、

何度も滑り降りたもの。

父とよくキャッチボールをした、

思い出深い公園でもあります。

 


が降っても大丈夫。

雨の日は階段の踊り場で

雨宿りをしながら、その階段さえ、

立派なアトラクションに。

 

 

ジャンケンポン!

グーリーコーの、

おーまーけっ!

 ・・・こんなの覚えてます?(笑)

 

 

そうそう。国民の祝日には、

自衛隊の宿舎らしく、多くの家庭の窓に

日の丸国旗が掲げられましたよね。

 

 

あの輝かしい「昭和の時代」には

二度と戻れませんが、

せめて悔いの残らぬよう

思い出をしっかり記録しようと、

デジカメ片手に団地内を奥へと進む、

私でした。。。。

昭和40年代から、

二俣団地で20年を過ごした私には、

団地の中に、特別な場所

あったのでした。

 

 

1つ目が、8号棟の隣にあった、

バスの停留所。

のちに7号棟わきにあった汚水 処理場が

拡張され、当時のバスの停留所

団地の外へ移設されましたが

 


 

昭和40年代、バスは子供たちの憧れ。

車掌さんのいないワンマンバスが

走り始めたのも、この頃でした。

 

 

これが団地解体の頃の「バスの運賃表」※。

原木インター近くのバイキング 「肉のハナマサ」や、

原木中山駅の文悠 書店、吉田文房具・・・

本八幡 駅前のマック・・・懐かしいですよね。

※京成バス(本八幡~二俣線)は令和7年3月廃止。

 

 

さて団地の中の特別な場所、2つ目が、

中央公園のとなりにあった集会所。

ここは団地に住む児童向けに、

習字やエレクトーン、バレエ教室などが

日替わりで開催されていて

 


この窓からビールケースを踏み台に、

バレエ教室の女の子を冷やかして、

よくバレエの先生に怒られたもの。

当時バレエは子供たちの憧れでした。

 

・・・ちなみに習い事の場は、

集会所の他にもあって・・・

 


1号棟前にあったプレハブの教室では、

公文式

 


16号棟に送迎のマイクロバスが来ていた、

金田スイミング クラブ。

この公文式と金田は、通っていた児童が

かなり多かったと記憶しています。

いつの時代も親は苦しい家計を切り詰め、

子供の為に教育と愛情を注いでいたのですね。

 

 

・・・少し話がそれましたが、

団地の中の特別な場所、

その3つ目は、団地の中央に

南北に延びていた並木道。

 

ここは夏の夕刻にサワサワと涼しい風が

吹き抜ける、団地の癒しスポットであると

同時に、団地一番の「迷子スポット」。

実は私も、迷子になりました(笑)

 

 

何せ同じ造りの団地が延々と並んでいる

ワケですから、まだ幼かった私は、

西も東も わからなくなり・・・

 

でもそこは団地ですからね。

常に大人が目を光らせ、

「ボクどうしたの?」と、

声掛けしてくれるオバさんがいたり

 

 

公園で1人で遊んでいると・・・

 

 

○○くーん !!!

お母さんが探してたよー」


ご近所さんが心配して保護してくれたり・・・

自衛隊の官舎だけに、安全安心な二俣団地。

これこそが昭和、団地の良さだと思うのです。

 

 

大人になった今でも、

団地で迷子になった夢を見るほど、

この並木道がトラウマになっている私でした。

 

そして忘れてはならない特別な場所が

もう1つ・・・それは団地の各棟にあった

 

 

自転車置き場。

 

私が子供の頃の自衛隊は、

今の時代のような週休2日ではなく、

土曜日が半ドンと言って、

午前中だけ勤務があり

 

 

土曜の半ドンで帰宅した父が、

団地の自転車置き場で、当時

大ブームだった「5段変速付き」の

私の自転車を磨いて整備してくれた事

 

 

今も、その姿を思い出すのです。。。。

 


ピカピカになった自転車に乗っ

父と出掛ける場所言えば、

団地から20分の所にある、特別な場所。

 


その途中にある工場の煙突・・・

これ何処の煙突か わかります?

子供の頃、この煙突からモクモク出る

水蒸気が怖くてトラウマになっていた

私ですが、今見ても 結構な迫力・・・

 


そう。

最後は番外編の特別な場所、

船橋海浜公園。

もっとも私が子供の頃は公園はなく、

海だけが広がっていたような記憶・・・

 

のちに「潮干狩り」や「流れるプール」で

有名になったこの海浜公園で、

楽しい思い出のある方も

多いのではないでしょうか。

 


残念ながら、2011年に発生した

東日本大震災の被害で、「流れるプール」

閉鎖に追い込まれてしまいましたが

 


 
父と見た美しい浜の夕焼けは、

今もむかしと変わらず・・・

あの頃の自衛隊員のお父さんって、

自転車の修理やら

家の修繕など何でも出来て、

偉大な存在でしたよね。

 

 

・・・そんな私の父も、団地が閉鎖された

平成27年。楽しかった二俣団地の最後を

見届けるかのように、他界したのですが。。。。

二俣団地で皆さんが一番思い出に

残っているもの、 それは二俣幼稚園、

二俣小学校の事ではないでしょうか?

 

 

私が小さい頃は、二俣小の旧校舎(3階建て)

の正面に、7棟のプレハブで編成された

二俣幼稚園があり

 

 

当時は第2次ベビーブームの影響で、

子供がやたら多かったので、 

二俣幼稚園は年長組だけ・・・

 

 

年少組は船橋にある西船幼稚園まで、

スクールバスで通ったものでした。

 

 

画像手前が、現在の二俣幼稚園。※現在は廃園。

このように団地に住むほとんどの児童が、

二俣幼稚園の後ろにある二俣小へと、

同じ敷地内で進学して行ったわけですが、

その二俣小で驚いたのは、

新学期転入して来る、転校生の数。

 

 

私の記憶では、1年生の2学期が始まる

始業日のこと・・・私のクラスにナント!

一度に10人の転校生! 

1学年10人でもビックリなのに、

1クラスに10人です。

 

 

当時は1学年あたり6組~7組くらい

あって、クラスの人数も 45人以上。

 

 

遠足の日は、団地中央にバスが縦列し、

そのバスでは補助席を使うくらい、

とにかく子供ばかり多かったのですね。

 


 

これは団地名物、自衛隊の転勤の

影響なのですが、 せっかく仲良く

なっても再び転校してしまう児童も

多く、短いと1年ほどで、

また地方へ行ってしまう子も・・・。

逆に3年ほどで再び二俣団地へ

戻って来る児童も、結構いました。

 

 

そんな転校児童に1日も早く

クラスに馴染んでもらおうと、

二俣小では道徳の時間に

 

 

お楽しみ会と呼ばれる

親睦会?発表会かな?  

各班ごとに分かれて1つの出し物を

発表する会が、 しょっちゅう開催され

 

 

教室のイスを円状に並べて児童が座り、

果物の名前を叫んで、席を移動する、

フルーツ

   バスケット  

っていうゲーム覚えてます?

お楽しみ会の定番でしたよね(笑)

 

 

私が二俣小に入学した頃は、学校裏の

飼育小屋にモンキーってサルや、

ウサギニワトリがいて、

給食のバナナやキャベツを食べさせたり

 

 

その給食に出る「牛乳のキャップ」を集め、

友達同士でキャップに

「プハッ!」 っと息を吹きかけ、

ひっくり返す対戦ゲームをしたり

 

やがて、当時の社会問題にまで発展した、

妖怪「口裂け女」が大流行・・・

 


当時、二俣小の近くを流れる真間川に

コレラ菌が発生した事も重なり、

その恐怖から、真間川で「口裂け女」の

目撃情報、児童のデマが拡散しました。

 

 

・・・そう言えば子供の頃、

給食のメロンやスイカのタネを食べると

盲腸になるとか、

救急車を見たら親指を隠さないと

親が死ぬとか・・・児童同士で

様々なデマが流行ったような(笑)

 

 

春と秋に年2回あった運動会では、

徒競走で3位以内に入ると

「金色の入賞シール」が貰え、

自分の紅白帽に貼って、自慢しあったもの。

 

 

冬のマラソン大会では、真っ白い息を

はきながら、早朝の団地内を走り

 

 

マラソン大会のあとは、温かい

おしるこが振る舞われました。

 

 

体育館(当時は講堂と呼んでいた)では、

8ミリ映写機を使った映画鑑賞会や、

PTA主催のバザー、剣道教室など・・・

 

どれも懐かしい思い出ばかりです。。。。

 

 

当時の二俣小には、名物先生

たくさんいて、 男子児童が悪い事をすると、

長い大きな定規で尻をひっぱたく先生や、

児童の頬にキスマーク付ける女の先生。

 

今の時代じゃ考えられないけれど、

当時は悪い事をしたら受けるのが

当たり前の時代だったので

 

  母親に

「学校で、

  廊下に立たされたぁ

 と訴えても

 


    

母  「お前が悪い」

私 「・・・・」 

 

これで終わりですから(笑)

実にシンプルな時代です。

 

 

当時の先生は、絶対的な信頼と、

子供への愛ありました。

悪い事は悪いと、ちゃんと𠮟ってくれて、

イジメだって今ほど無かった時代です。

 

それに比べ、今の時代はどうなんだろう? 

最近の先生は、ごく一部のPTAは・・・ 

ブログ記事を作りながら、そんな事を

少し考えさせられた私でした。。。。 

 

二俣小での1学期 が終わると、

楽しい夏休み。

教室で育てた「アサガオ」や

「ヘチマ」を自宅に持ち帰り

 

 

団地ベランダの格子にツル

巻いて育てた、懐かしい思い出。

皆さんも記憶にある事でしょう。

 

 

学校で配布される「夏休みのしおり」には、

「朝の涼しいうちに勉強しましょう」とか、

「花火は大人の人と一緒にやりましょう」みたいな、

注意事項が書かれていました。

 

 

昼は二俣小のプールで泳ぎ、週末の夜は暴走族の騒音に悩まされ

※マンガ「750ライダー」のモデルとなった、CB750FOUR

 

 

そうそう。団地横の白い壁には、ジリジリと

アブラゼミが鳴いていましたよね。

 

むかし二俣団地では、夏休みを中心に、

団地内で開催されたイベントが

幾つかあって・・・

 


古い時代には、あの中央公園に、

当時の子供たちに大人気だった

ゴレンジャーがやって来る

という、超サプライズなヒーロー

イベントまであったのですが

 

その後、地方の防衛庁官舎で事件が

あったり、児童の数が減少したりで、

団地のイベントは縮小傾向に・・・

そんな寂しいウワサを聞いていた私でした。

 

 

そんな懐かしい昭和、

二俣団地の夏休み。

皆さんの夏休みの思い出と言えば・・・

 

 

二俣小の校庭で開催された、

朝のラジオ体操。

各棟ごとに1列に並んで行なう

ラジオ体操は、体操が終わると、

児童が持つ「スタンプカード」に、

6年生から出席の印鑑をもらって

ったもの・・・

 

 

8月末の体操の最終日には、

地元「こやしき商店」さんから、

参加賞の文房具が配られました。

 

 

そして同じく校庭で開催された、

盆踊り大会。

お盆休み後の週末の夜に開催され、

特に初日は自衛隊の音楽隊が来るなど、

大掛かりなイベントで

 


ショッピングセンター(軽食コーナー)

わきには、 焼きそばや水ヨーヨーなど・・・

 

 

多くの露店が立ち並び、「アラレちゃん音頭」や、

夜店で出会う浴衣姿のクラスの”女子軍団”に大興奮(笑)

 

 

コカコーラの露店で、

ファンタやドクターペッパーを買うと、

景品として昆虫のホタル

もらえましたよね。 

 

 

・・・それと団地とは少し話がそれますが、

夏休みの7月下旬に開催された、

習志野 駐屯地キャンプ。

これも参加した児童は多かったのでは

ないでしょうか。

 

 

キャンプではスイカ割りや、

麦ご飯の自衛隊食・・・

中でもキャンプ最大のお楽しみは、

夜中に開催される自衛隊員主催の

肝だめし大会。

いや、これが本当に怖くて

 

 

何せ習志野駐屯地には、

戦時中の遺品を集めた空挺館を始め

幽霊の出るウワサも多く、

当時、肝だめしのスタート地点には、

本物の零式戦闘機まで

展示されていましたから(怖)

 

 

その恐怖、遊園地のお化け屋敷とは、

比べものになりません。

※現在は展示されていません。 

 


 

ちなみに習志野駐屯地では、

毎年8月第一土曜日の13時より、

誰でも入場できる夏祭りを開催。

お化け屋敷(有料)は、毎年行列が

出来るほど人気のようです。

(上の画像は平成30年の夏祭りの様子)

 

※自衛隊員による模擬(飲食)店多数。

※花火大会も同時開催。

※空挺館は18時頃まで見学可。

※2輪の駐輪所あり。車の駐車場なし。

※社会情勢などにより開催中止もあり。

 

 

話を戻しますが、実は二俣団地には、 

夏休みの毎週末に開催されていた、

超ビックなイベントがありまして

 

 

それがこれ。  

当時は国鉄コンテナが主流だった、

団地名物引っ越し大会。

 

 

全国転勤の多い自衛隊は、

特に海上、航空自衛隊の転勤が多く、

 団地裏の駐車場には、

北は北海道から南は九州まで、 

他県ナンバーの自家用車が勢揃い。

 

 

また団地での引っ越し作業は

エレベーターがなく、全て階段のため、

同じ階段に住む住民が引っ越しする際は、

階段のお父さん総出で、

その手伝いをする習慣があったのでした。

 


体力自慢の自衛隊員の引っ越し作業は、

とにかく早く、家財道具を軽く担いでは、

ホイホイ次の人に渡す人海戦術。

 

 
引っ越しが完了すると、

玄関ドアが新しく塗り替えられ、 

早ければ翌日には、

次の入居者が越して来ることも。 

どんな児童が引っ越して来るか、

みんなワクワク(笑)

 


・・・そう言えば、当時はまだクーラー

(エアコン)が普及し始めたばかりで、

夏は玄関を開放して過ごす家庭も多く、

各家庭ごとに、独特な匂いがしたもの。

 


また遊び疲れて家に帰ると、

どの家の夕飯でしょうか、

カレーのいい匂い

したものでした。

 


家庭ごとに具材の異なる、

お母さんのスペシャルカレー。

皆さんのお家のカレーライスは、

どんなお味でしたか?

 

 

カレーこそが夏休みの、

最高の思い出かも

知れません。。。。

二俣団地で生活する上で欠かせなかったもの、

それは団地の中心部にあった、

ショッピングセンターでは

ないでしょうか?

 

 

地上2階建てで、

1階が食品スーパーとお寿司屋さん、

2階が日用品、文具、おもちゃ、薬局、

クリーニングなど・・・ 狭いながらも

団地生活に必要な物は何でも揃った、

便利なお店でした。

 

 

残念ながら当時のショッピングセンターは

潰れてしまい、上の画像は「その跡地」の

様子ですが、何故かSNS「ミクシィ」にも、

このセンター画像だけは見当たらず、

いつ店が潰れたのかものまま・・・

 

 

やはりこの二俣団地ブログ同様、

記録に残しておくって、

すごく大事な事だと思うのです。

建物の画像はもちろん、

楽しかった、当時の思い出も・・・

※昭和に流行った、6輪タイレル

 

 

そのショッピングセンターの思い出・・・

確か、2階の売り場に入るガラス扉を、

横に引いて開けると、

キュルキュルキュルって

油の切れた音のする扉で、

手前が おもちゃ売り場、

その奥が文房具売り場と続き

 

 

おもちゃ売り場では、当時大人気だった

ガンダム・プラモデル

予約ノートが、常にビッシリ埋まっていて

 

 

発泡スチロール製の組立て飛行機 「ソフトグライダー」や、

コカコーラのヨーヨー、女子に流行ったプラスチック製の

小さな輪っか「チェーリング」ほか、編み物の「リリアン」

 

 

店の廊下にあった、10円ゲームで遊んだり

 


文房具売り場では、新学期の前日、

両側にフタのある「両面マチック筆箱」や、

24色のクーピー色鉛筆、

文字を書くと花の匂いのする、

謎のボールペンを買い揃えたり

 

 

同じ2階にある床屋さんで「散髪」をすると、

帰り際に店長さんがフーセンガム

くれたり・・・と、今でも当時の事は、

昨日の事のように覚えているのですね。

 

 

1階の食品売り場・菓子コーナーでは、

クラスメイト同士ワイワイ騒ぎながら、

遠足のおやつ選び。

学校で定められた「おやつ300円の枠」

の中、いかにたくさんの おやつを買うか、

みんな真剣勝負(笑)

 

  

そして同じく1階にあった、

お寿司屋さんの「益子寿司」。

この店にお寿司を食べに行った記憶は

ないのですが多くの家庭が この店に

出前で寿司を頼み

 

 

食べ終えた お寿司の桶が玄関前に。

団地暮らしの ささやかな贅沢・・・

そんな昭和の光景が見られました。


思い出がたくさん詰まった、

このショッピングセンターですが、

皆さんの中で一番の思い出と言えば、

やはりこれでしょう。

 

 

フナショクのパン。

お世辞にも、あまり美味しいパンでは

ありませんでしたが、コロネやメロンパン等、

菓子パンでお世話になった方も多いかと。

パン売り場の隣にあった「ナダシン」では、

いなり寿司もよく買いましたね。

 


残念ながら、このフナショク(パン)。

大手スーパーによる安い食パンの登場で、

平成17年にパン事業から撤退。

これも時代の流れでしょうか、フナショク

パンの販売終了は、寂しい限りです。。。。

さて前回の記事では、

団地内にあったショッピングセンターの

思い出をご紹介しましたが、団地には、

このショッピングセンター以外にも、

2つのお店があったのでした。

 


1つは、上の画像の一番奥の突き当たり、

1号棟から少し外れた場所にあった、

こやしき商店※現在はアパート。

日曜定休のショッピングセンターに対し、

こやしき商店は日曜祝日も営業していた

個人商店で

 

当時、この店で飼われていた雑種犬

タロウは、多くの児童に可愛い

がられていました

 

そして2つ目のお店は、

ショッピングセンターのすぐとなりで、

ラーメンやカレーなどを提供していた、

「軽食コーナー」。

  

 

SNSの「ミクシィ」では、

なぜか「ミルクスタンド」

の名で呼ばれている、このお店・・・

時代によりその呼び方が違うのでしょうか、

私が子供の頃は「軽食コーナー」を略して、

「軽食(けいしょく)

・・・そう呼んでいました。

 

 

この軽食コーナー、レジ前に10円菓子が

充実していて、その店頭には1回20円の

スーパーボール等のガチャガチャがあり、

100円あれば1日遊べるお店でしたね。

 

 

そうそう。

お世話になったと言えば、団地の中央通り

日替わりで来ていた、露店商も。

 

 

中でも皆さんが印象に残っているのは、

おそらくべっこう飴屋さん

ではないでしょうか?

舌を使って目ん玉をクリ抜くと、

もう1本もらえたアレです(笑)

 

 

それと、水飴たっぷり

あんず飴屋さん・・・

 

 

正しくは「あんず」じゃなく

「すもも」でしたが、

これも最高に美味しかったなぁ。

 

飴と言えば、1個 20円の

大粒の飴屋さんも。

イチゴ味やコーヒー味・・・

小さな籐カゴに小分けされた

たくさんの種類の飴の中から、

好きな味を選びましたよね。

 

今思えば、当時は「飴屋の露店」

ばかり多かったように思います。

 

 

 

ペット屋さんの露店もよく来ました。

おたまじゃくし、ミドリガメ、ハムスター、

カブ トムシの幼虫など・・・

 

また当時は、

ペットの飼えない団地の事情から、

インコを飼っていた家庭も多く

 

団地内の電信柱には、年がら年中、

(逃げた)インコを

  探してます!」みたいな、

手配チラシが貼られていた記憶も(笑)

 

 

ほかにも鹿児島産の白い蜂蜜を売る お爺ちゃんや

大判(今川 )焼屋さん。

 

 

 

1等 ファミコンが当たる?くじ引き屋、

コピー品?のルービック・キューブや、

ゲームウォッチを売る おもちゃ屋さん。

 

 

中央公園わきの広場に来る紙芝居

いましたね。皆さんもお気に入りの露店が、

幾つかあったかと思います。

 

 

中でも、私が印象に残っている露店は、

家から「お米」と「砂糖」を持参して、

グルグル回る「鉄の釜」を爆発させる、

ポン菓子屋さん。

 

ハンマーで叩くと、ボン!!!

          って、すごい爆発音!

 

店のおじさんが子供たちに

試食のポン菓子を分けてくれたのを、

今でも覚えているのです。

これも甘くて美味しかったなぁ・・・

 

参考までに、ポン菓子をよく知らない

世代の方は、動画サイト YouTubeで、

「ポン菓子 爆発」と検索して

ご覧ください。便利な時代ですよね。

 

■YouTube https://www.youtube.com/

前回の記事では、

日替わりで団地に売りに来る

露店商の話を紹介しましたが、

実は団地内には露天商と並び、

大繁盛していた移動販売店が、

2つあったのでした。

そのお店とは・・・

 

 

14号棟わきの並木道に来ていた、

八百屋さん。

 

 

店の名前は忘れましたが、

いつも店のオジサンが、

透明のビニール袋をかぶっていたような?

 

 

団地内のショッピングセンターにも、

青果コーナーはありましたが、

鮮度が悪く、値段も高かったようで、

14号棟わきの「このお店」が

繁盛していたようです。

 


 

そしてもう1つの繁盛店が、毎週日曜に

中央公園わきの広場に来ていた、

自転車修理の、クドー輪業。

 


 

当時はまだ、のちの団地の最寄り駅

なるJR京葉線・二俣新町駅が無く、

多くの団地住民が、遠い西船橋駅まで

自転車で通っていた為、この自転車

繁盛していたと記憶しています。

 

 

 

このように団地では、多くの移動販売車や

修理屋さんがトラック等でやって来ては、

住民の生活を支えてくれた訳ですが、

中でも私が一番印象に残っているのが

 

 

昔ながらの「ご用聞き」のお米屋さん、

中島米店。

 

 

電話1本で米を配達してくれる中島米店は、

配達先に到着するなり、ビーッ !!!

玄関のブザーを押し

 


 

「ちわー!

  中島米屋ですけどー」

  

いつも勝手に玄関扉を開けて、

お米だけを置いて帰る・・・

昭和の「勝手口」の文化でしょうか、

小柄でメガネの中島米店の店主は、

団地の超有名人でした。

 

 

そうそう。中島米店と言えば大晦日の夜・・・

板状に伸ばした温かい「つきたてのお餅」を

配達してくれましたよね。このお餅が届くと、

いよいよ「お正月」って感じがしたものです。

 

   

ほかにも子供が買いに行くと、ご褒美に

マリービスケットをくれる豆腐屋さん、

夜に来るチャルメラのラーメン屋さん、

軽快なテーマ音楽が耳に残る、

ロバのパン屋さん、

ホットドッグの大学堂さんなど・・・

 

ネットのSNS 「ミクシィ」でも、

二俣団地にやって来る移動販売の事が、

一時話題になっていたようで・・・

 

 

その話題の中心となっていたのが、

毎週2トントラックで売りに来ていた、

牛乳の移動販売車、

その名は近藤乳業。

 

その近藤乳業が団地に売りに来るとき、

大音量で流れていた店のテーマ音楽が、

誰の、何という曲名だったか?

ミクシィ上でちょっとした、

議論になっていたのですね。

 

 

まぁ、人の記憶とは いい加減なものです。

近藤乳業は毎週欠かさず売りに来ては、

買っていた住民も多かったはずなのに、

その曲名は誰一人として、

思い出すことが出来ず・・・

 

ミクシィでは議論の末、

 

げんこつ山のタヌキさん

   / オリーブの首飾り
 

この2曲で話が落ち着いたようですが、

残念ながらこの2曲は、冬の夕方に

売りに来る、灯油屋さんの音楽かと。

 


その一方で、

灯油屋さんが売りに来る時の音楽が、

皆川おさむさんの、

「黒ネコのタンゴ」

との説もありましたが、残念・・・

微妙に惜しいけれど、これもハズレです。

 

ちなみに「黒ネコのタンゴ」は、

水色のワゴン車で毎週来ていた、

アポロクリーニング。

団地にはたくさんの移動販売車が来ては、

それぞれテーマ音楽を流していたので、

混乱するのも無理ありません。

 

 

では近藤乳業のテーマ音楽は、

誰の、何という曲名だったか・・・

当時のことを知る住民の皆さんは、

曲名を思い出してみて下さい。

 

 

思い出せましたか・・・ 

 

 

 

 

では正解を発表します。

近藤乳業のテーマ曲

正解は、

 

 

(あずさ) みちよさんの

 

 

「こんにちわ赤ちゃん」 

              でした。

これ見事正解した方、歳がバレます(笑)

 

YouTubeで検索し、ぜひご視聴ください。

■YouTube https://www.youtube.com/

楽しかった二俣団地での生活も、

小学校の中・高学年にもなると、

団地を離れ、近くにある原木周辺

出掛けるようになっていました。

 

 

この付近にはキャピタルやイトーピア

など多くのマンションが立ち並び、

そのマンションに住んでいる友達と

遊ぶようになったのですね。

 

 

原木には、

団地住民の誰もがお世話になった

秋枝外科※現在は駐車場

があり、その近くにあったのが

 

 

これ。

通称グルグル階段の歩道橋。

通学路の三叉路をまたぐ、歩道橋です。

 

そしてその先には、歩道橋がもう1つ・・・

 

 

それがこれ。

通称 ピンクの歩道橋。

 


最近は歩道橋の老朽化や

人口の高齢化により、

昭和の歩道橋が次々姿を消している

ようですが、当時はこの歩道橋により、

多くの児童が交通事故から身を守ら

れていた・・・そう思うのです。
 

子供の頃、外出する時に、

よく母親に言われましたよね?

 

 

「ちゃんと歩道橋を

 渡りなさい」って。

 


そんな母親の心配をよそに、やがて

船橋市に超大型のショッピングモール、

ららぽーとが誕生すると、

多くの児童が自転車で

この海老川を渡って、

ららぽーとで遊んだもの。

 

 

あまりに自転車で遊びに行く児童が

多く、交通事故の危険がある事から、

学校から子供同士で船橋市へ行く、

禁止令が発令された程でした。

 

 

画像は、現在の ららぽーとの様子。

オープン当時は、

そごう屋上の 回転レストランや

地震体験館、スケートリンクや、

車に乗ったまま映画鑑賞が出来る

ドライブイン・シアターなど、

多くの話題を呼びましたよね。

 

 

 

それまでは団地のショッピングセンターや、

電車やバスで買い物に行く事が多かった

団地住民ですが、ららぽーとの誕生により、

自家用車で出掛けるライフスタイルが定着。

生活に大きな変化をもたらせました。

 

 

 

実はこの「ららぽーと」だけではなく、

二俣団地の周辺では、劇的な変化、

進化を遂げた施設が2つあり・・・

(画像は駅~団地へと続く地下道

   これも大きな進化でしたが・・・)

 

 

 

1つは、団地となりの巨大なトラック

ターミナル、通称タクト(TACT)※

※東京 エアカーゴシティ ターミナル

 

 

その後タクト(上の画像)は、

超大型ホームセンターを核とした

商業モールに生まれ変わりましたが、

当時はホームセンターと言えば、

地元のサンオー(笑)

また当時タクトに、三菱銀行の支店が

あった事を、覚えている方も多いかと。

 

 

この商業モールには、高額当選を連発

する「大黒天の宝くじ売場があり、

広い一軒家での生活に憧れる団地住民が、

夢を求めて列を作りました。

 

※コーナンと商業モールは令和6~7年に閉館。

 

 

・・・そして2つ目の進化が、ここ。

JR西船橋駅。

駅の長い階段がエスカレーターに変わった以外、

特に大きな変化の感じられない、現在の西船・・・

ところが、駅の改札を入ると

 

ビックリ!!!

 

 

ナント!あの西船が、吹き抜けのある

エキナカに!!!

 


昔は「ミルクスタンド」や「立ち喰いそば」

くらいしかなく、お世辞にもキレイとは

言えなかった、昭和の頃の西船橋駅・・・

それが今じゃ、エキナカ ですよ!

当時の西船をご存じの方は、

その進化に目を疑うことでしょう。

 

 

ただ、西船橋駅の周辺はと言うと、

さほど目立った変化はなく、

分譲マンションこそ増えたものの、

二俣名物たいこ橋は、

今も むかしと変わらず・・・

 

 

昭和の団地住民は、自転車でこの橋を下り、

西船橋駅まで通ったもの。

 

 

家に帰る時は、この橋を今度は駆け上がり

 

 

橋の真上に到達した、次の瞬間・・・

遠くの方に二俣団地が見え、

ホッ としたものでした。

 

 

そう。団地住民にとって、

このたいこ橋から望む

二俣団地の眺めこそが

 

1日の疲れが吹き飛ぶ、

ホッと癒された景色

だったのではないでしょうか。。。。

 

 

さて。

思い出がたくさん詰まった二俣団地。

懐かしい思い出を、10個のブログ

記事にしてお送りして参りましたが・・・

 

 

その団地では、いよいよ・・・

 

 

団地解体に向けたXデーの準備が

 

 

静かに音を立てながら、着々と・・・

 

 

進んでいたのでした。。。。