『ブルーを笑えるその日まで』って映画が観たかった。でもその映画の存在を知ったのが遅過ぎて、都内での上映はもうとっくに終わってて、地方での上映に移ってた。

本編スチールとストーリーから察するに俺の中にある“爽やか系映画”好きな部分でヒットするものがあってぜひ観たいと思ったし、

主演の2人もなんだかとてもいい。

『ブルー~』は調べれば調べるほど武田かりん(監督/脚本)の想いが詰まった映画で、彼女の人となりに打たれた。

彼女のインタビューやツイッターでの発言… 特に俺がシンパシーを感じたのは以下の言葉だ。

「「大人になって もしタイムマシンが発明されたら、今の私を助けにいこう」 そんな空想にすがるしかなかった中学生時代から10年。私はあの頃夢見た“タイムマシン”として、この映画を作ります。」

「ひとりぼっちだったあの頃、大人になった未来の私がタイムマシーンに乗って いつか私を助けにきてくれるんだ って信じて待ってた。遅くなっちゃったけど、今、私は助けに行くよ」

「わたしには、この人がわたしのことを知ってくれているから大丈夫だと思える相手は、中学生時代も今もいなくて」

(以下の記事などでは学生時代から本作を作るまでを相当突っ込んだところまで語っている。

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2024 『【インタビュー】『ブルーを笑えるその日まで』武田かりん監督』

映画ナタリー 『渡邉心結×角心菜「ブルーを笑えるその日まで」RCサクセションの楽曲流れる予告公開』

不登校新聞 『「他人が怖い、でもつながりたい」不登校・自殺未遂から映画監督になることを決めた女性の思い【全文公開】』

あと本人ツイッターの23.12.12のツイート)

さらに

「あの頃大嫌いだった、わかってない大人に私はなりたくない。君に、君にだけは、嘘つきたくないんだ。」

「沢山の人に届かなくていい。私にとっての観客はたった1人。(※今ひとりぼっちで泣いてる)君だけだから」

「私は毎日劇場に立って、君を待っています。」

といった優しさと慈しみ溢れる発言。

さらに周囲(キャスト・スタッフら)の監督及びこの映画へのサポートぶりも温かさに満ちていて、まだ未観なのに俺の中で『ブルー~』に対する想いは相当募った。

 

ちょっと一旦俺の話。

小学2年に地方都市の ある学校に転校してから差別に遭うようになり、まぁ転居先が非常に村社会的というか閉鎖的なエリアで、どうも異物というか浮いたらしい。

まず言葉が全然違う。俺は父親の実家が池袋、母親が生まれ育ったのがどこか実は未だに知らないんだけど(苦笑) 関東なのかな? 少なくとも横浜に住んでたことがあるとは聞いたことがあるんだけど。なもんで、ウチの家庭は標準語。

でも転校先の土地はバリバリ方言。

さらにそこの連中はどうもフロは2日に一度が普通らしく、俺ん家は毎日入るのが普通だったし、服も毎日違う服着るのが当たり前だったが(というか普通そうだろう?) そのエリアの人間はそうではなく、なんか俺はカッコつけてる奴とか鼻持ちならない奴みたいにとられたらしい。(加えて俺ルックスもかわいかったんだよね。歳食った今はもう酷いけど・笑)

その土地は今でこそ市だけど、当時は郡だった。

俺が最初に入学した他県の小学校は1クラス50人以上で、1学年10クラスぐらいあったっけ? というマンモス校だったが、転校先は1クラス30人ぐらいで1学年3クラス。俺からすれば人がすごい少ないと感じる土地だった。(店もあまりない。だからウチは週末になると家族みんなで全然別の町に買い物に行ってた。)

クラス全員から無視されたこともあるが、俺はクンフー映画やプロレスなど戦う男を観てた少年だったので、そういうしみったれたことする連中は俺の目には“ダサい連中”であって。コイツら恥ずかしくねェのかなと神経疑った。てめェら勝手にやってろと孤立したまま構わず過ごして、学校行くのは嫌だったけど時代だったのか土地的なものだったか、登校拒否って選択肢はなかったし。で向こうの方が根負けしたのかいい加減謝れよとか言ってきて、俺はあっちが悪いんだから謝るわきゃない。

俺は退かないし、向こうも引っ込みがつかないから、肉弾戦のケンカになることも。

小・中学が隣り合ってたので、その土地のほとんどの子供は小学卒業するとそのまま隣りの中学に入学してた。俺もそうだったんで、ヤな時代はさらにもう3年続くことになる。

周りにロクな奴がいなかったので、いい映画を観たりいい音楽聴いたりいい本を読んだりして過ごしてた。結果これが己を研鑽することになった。アイツらに合わせてたら糞しょーもない大人になってたろう。

が、ますます周囲と合わなくなってくる。

日本人って集団性が強いよな。でも俺はそういう小中学時代だったんで、気がつけば集団性というものを嫌う人間に育っていた。人付き合いすんのは別にいいんだけど、グループとか派閥とか同調圧力とか大嫌いで。

集団性は言い換えればなれ合いだから、周囲のレベルと同化してく。そういう状況下というのは、アイデンティティや個性の形成を阻害する。やがて何につけても周りに左右されて自分とか魂なんて上等なモンは無い人形みたいな奴になる。

そんな人間になるんだったら孤独でいいよ別に、っていう。

ただ、加えて中学生からは家庭内でもうまくいってなかった。まぁそのぐらいの年頃からは親と子がうまくいかないというのはよくある話だけど、

学校でも家でも孤立してるというのは中学生程度の年齢にはさすがにしんどい状況だった。

いつぐらいの時期からかわかんないけど、後から思うに躁鬱を発症してた。もちろん原因は村社会的な土地柄だ。あと鬱と関連してだろう、肉体的に普通に出来てることが出来なくなった。(その話の一端は前にちょっとしたことあるけど)

しかし相談出来る人間はいない。

15~16歳の頃と25歳の時と2度自殺を真剣に検討したことがあるけど、結果的には生き延びた。何かに救われたわけでもなんでもなく、理性だけで凌いだ。あと経験や研鑽してきたもの、だろう。

躁鬱は自力で治した。(だから経験から言うと躁鬱は薬でなく自力で治せる。ただし「自分」が在ればだけど。) 身体機能問題も全快させたが、

しかしその後も劇的な転回はなく、生き続けてやがて中年になって。転校してから40年以上に渡る消耗戦の人生だった。

いやずーっと独りだったわけではないし、いいことがあった時もなくはないが、結局ねぇ、俺を理解出来る人などいないわけ。経験者でないと解からないからさ。でも経験者は出逢う前に大抵自殺してるか、病んでおかしくなっちゃったか、諦めて転向者になり果てる。

 

で話がやっと今に追いつくけど、だからそんな俺からすると、武田かりんの“未来の自分が助けに来てくれると空想してた”という話にシンパシーに近いものを感じるんだよ。

自分を救えるのは自分しかいない。それは俺自身が経験してきたもの。

だから助けに来てくれる人を誰か他人ではなく自分自身とした武田かりんという人にちょっと感銘というかね、へぇ、と思ったわけ。そういう人ってあまりいないんだよ。というか俺は出会ったためしがない。

 

でも観たいと思ったら都内での上映はもう終了してた、と。

けど再び都内で上映するだろうとなぜか思ってて、リバイバル上映の報を心待ちにしてた。

そうしてやはりアンコール上映キタ!

宣材も新たなものが作られてた。

 

アップリンク吉祥寺。8/9観に行った。上映後に武田かりんの舞台挨拶あり。

 

中学校で孤立してるアンが、商店やってるバアさんから万華鏡とおまじないの言葉(?)を受け取り、それを試すと学校の立ち入り禁止の屋上へのゲートが開く。そこには同じく万華鏡を覗いている女子・アイナがいて、2人は親友になる。

2人で過ごす楽しい夏の日々――

しかしこの学校には9月1日(夏休み明け)に屋上から自殺した女子生徒の幽霊の噂話がある。

アイナの正体は? アイナは9月1日になったら消えてしまうのか?

夏の終わりが迫る――

 

ほのぼの&切ない映画とか、不器用ながら頑張って作られてると非常に感じられる映画とか、そういう感想を持つ映画だと思ってたが、予想と期待の斜め上いく作品だった。

まず主人公の毎日の日常シーンの中でドラマを丁寧に、大切に紡いでく。

冒頭から脚本がうまいなぁとか思った。金魚に関するとことか、青を嫌ってることに関してとか。

この人、監督作品としては学校の卒業制作作品があるだけらしいんだけど、商業映画初監督作とはちょっと思えないクオリティ。脚本だけでなく映像もいい。

テレビドラマは脚本と出演者で進めるしかないものだけど、劇場でデカいスクリーンで鑑賞する=体感・疑似体験する映画というものはそうはいかない。脚本と出演者だけでは成立しない、もたない。

テレビドラマのような話してる登場人物の顔のカットばっかとか、物語上必要な説明カットなんてのは劇場のデカいスクリーンの鑑賞には耐えない。本作はここをちゃんとクリアしている。青空、屋上、橋と川、夜の田園風景の中を走ってく光る電車と 2人並んで歩いてるアンとアイナ… 画的にいいカットが結構ある。

出演者もいい。映画はルックなので映ってるものが重要、だからプロダクションデザインも大事だが、キャラクターも脚本で説明ではなく出演者の見映え・存在からすでにキャラを表現し、映画を担ってないとならない

アンとアイナはかわいい。この「かわいい」はアイドル的な意味で言ってるのではなく、子どもや犬猫に対してかわいいと思う方の「かわいい」。これがねぇ、本作イジメや孤立のドラマなわけじゃん? このかわいさは観ていて思い入れを強くするんだよ。よく“守りたい、この笑顔”とかいうけどさ(笑)、この2人は見守ってあげたくなるというか? だからこの作品にすごい貢献している。キャスティング大事。

もちろんデカいスクリーンで観てるから彼女たちの距離感も近い

彼女たちのドラマを、臨場感を持って鑑賞する。この臨場感ってのはデカく映された映像(と効きのいい音響)でないと感じることはできず、テレビドラマでは不可能。

そしてイジメや孤立の話なのに、見ていて落ち着く映画。それは画の良さとキャスティングに加え、直接的なイジメのシーンがないからだろう。爽やかな青春映画・爽やかなファンタジー映画になってて、観てて気持ちのよい映画というか、観てる最中もだが観終えた後の後味も良いし。キレイで優しい映画であることをキープし続けているのが大変好ましい。

 

…というわけでこのまま進んでってクライマックスでダイナマイトの場面あって夏の終わりがきてアイナが消えてアンが“思い出だけでも生きていける”じゃないけど、独りだけど私は大丈夫ですってあたりに着地して静かに終わっても十分いい映画だったんだけど、

ラストシーンで神サマもビックリ、まさかの斜め上いく、映画の次元が突如ハネ上がる現象を発動するんである!

 

ここから超絶ネタバレありなんで、

先をまだ知りたくない人は5段下へ飛んでくれ

 

遂に夏の終わりを迎えた――アイナは消えた…。

しかしドラマはここで終わらない。ここからが本当のクライマックスというか、イジメが題材みたいな青春映画から、時空を超えた(?)奇蹟のドラマティックストーリーへ!

アンとアイナ、商店のバアさんとともに、実はもう1人、アンとアイナが夏休みの間に通う図書館の司書で愛菜という大人の女性が登場してるのだが、この人がキーになってくる。

愛菜が置いてった缶の中にアイナの思い出の品(愛菜の名が書かれた壊れてない万華鏡、アンとアイナ2人で撮ったプリクラ代わりの証明写真など)が入っている。

生前クラスの中で孤独だったアイナの場面になり、そこへアンが現れてアイナを連れ出す!

 

1回観た現時点の俺ではまだ解釈の整理が追いついてない。

中学生アイナと司書愛菜は同一人物で愛菜は大人になったかつてのアイナ…?

アンとひと夏過ごす謎の少女アイナは幽霊だと思ってたが、愛菜が大人になったアイナであるなら、アイナは死んでない=幽霊ではなかったことになる。でもアイナは消えたり現れたりする。生霊? …ではないだろうなぁ(苦笑)

アイナが幽霊であるなら自殺は実際にあった事で、愛菜は存在しないだろう。愛菜が実在する人物なら、アイナの正体は一体なんなのか?

万華鏡と呪文で鍵のかかってたドアが開いてアンが屋上に出たらすでにアイナがいたことから、アイナは生身の人間ではないと思われるのだが。

アンは愛菜と知り合いになってくが平行してアイナとも過ごしている=アイナと愛菜が同時に存在してるのが悩ましい。

同時に存在するならアイナ=愛菜説は成立しない(エネルギー保存の法則から同一人物が同時に存在することは不可能と思われる)のだが、同一人物として扱われてるように見受けられるんだけど…。(どちらかが実体を有しない例えば霊体とかなら成立するかも?)

クラスで孤独なアイナの前にアンが現れて救い出すところは、1つの解釈としてはタイムトリップと受け取ることができる。アイナはアンが入学する前に在籍してた子だった?

ただ、アンが担任にアイナの話をしたら、本気で知らないようだった。→過去に居た生徒ではなかったことになる。誰も知らない子。でもアイナは制服とか校内を把握してるらしきことからも明らかに同じ学校の子だよな?

…パラレルワールドなんだろうか?

アイナがすでに自殺してて あの担任が赴任してきた時にはもうこの世にいなかった世界線もあれば、アイナが生き続けて図書館司書に就職した世界線もあったりするのか?

そして相手を想う・相手に想われることで、パラレルワールドを行き来できるのか?

でもそうすると愛菜はなんなのか???

愛菜は同僚との場面から実在する人物と思われる。

愛菜は生身の人物で、平行して現れてるアイナは過去あるいは別世界の、『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』で言うところの「ゴースト」、魂、精神といったもの?

異なる宇宙を意識だけが移動している?

大事なのは物語の最初と最後ではアンとアイナの立場が逆転することだ。最初はアンがアイナに救われるけど、ラストはアンがアイナを救う。

これはアンの空想の話で、最初は自分を救ってくれる子が現れるという空想をしてたが、やがて自分が彼女を救う空想に発展していった… 独りで心の中でアンは成長した→独りで解決したってことなのか?

でも愛菜が出てくるのはアイナと出会った後なので、愛菜をきっかけにアンが繰り広げた空想ではなさそうだ。

アイナと愛菜は同一人物で実在していて、実はアンこそがアイナ=愛菜の頭の中の空想の人物で存在しない?

…重要なのは武田かりんの“未来の自分が助けに来てくれると空想してた”発言だろう。

ラストでアンとアイナが逆転するのはグッとくるものがある。タイムトリップかパラレルワールドで自分を助けに来た自分?

アンとアイナは同一人物? 異次元を行き来できるのは同一人物で魂が共鳴するから?

でも愛菜が置いてった缶の中の万華鏡には「愛菜」と書かれてたことから、愛菜とアイナがやはり同一人物と解釈出来る。

でもそうなるとアンはなんなのか?

インタビューで武田かりんは「アンとアイナはどちらもあのころの自分だと思っていて。」と言っているし、“未来の自分が助けに来てくれると空想してた”が大前提だと思うので、アンとアイナは同一人物のはずなんだけど…。

最終的にやっぱりアンとアイナと愛菜の3者踏まえた解釈が難しい。よくわからなくなる。

(あ、ラスト、アンは愛菜の万華鏡を使ったのか。失念してた(笑)。でも想いとか魂云々で行き来する解釈は好きだなぁ。

それに愛菜の万華鏡を使ったとなると、これはこれでまた考える余地があるような…。)

 

…でさぁヘンな話、この“よくわからなさ”がハマる魅力ある。底知れないというか。シンプルな青春ファンタジーで済んでない。いきなり複雑な構造になる。一直線な物語ではなく、レイヤーが複層になる。非常に興味深い。

本作は青春映画からSFに転ずるように感じられる。SFと言わずにファンタジーと言ってもいいし、奇跡と言ってもいいし、心霊現象とも超常現象とも言ってもいいけど、言い方はなんであれ、概念が学校の中と外だけでなく、日常と非日常も超える。時空を超える。

それは現実にあり得る。

俺、昔、見る度に映像が変わるビデオテープってのを見たことがあって、原理的にはそんなものは存在するわけがないんだよ、でもマジで見たからね、だからこの世に説明不能なことはあるんだと思うよ。なんせ実体験したからさ。あぁいう体験をしてると世間一般常識が絶対的なものではなくなる。

『魔法少女まどか☆マギカ』はパラレルワールドの世界観であることが判明してSFに転ずる。「SF」は「サイエンスフィクション」であり、フィクションだが科学を裏付けに据えてるので単なる「妄想」ではない。パラレルワールドはフィクションではなく、学者による論理的で科学的な説の1つである。つまり可能性としては「あり得る」。

…『2001年宇宙の旅』は映画史上最も難解な映画とか言われるけど、俺は難解とは思ってないけど。町山智浩に至ってはキューブリックがわざとわからなくしているだけと喝破している(YouTubeにアップされてる動画『町山智浩の映画塾!「2001年宇宙の旅」<予習編>【WOWOW】#193』 + 『町山智浩の映画塾!「2001年宇宙の旅」<復習編>【WOWOW】#193』)

でも『ブルー~』は、武田かりんはそんなことするわけないので、というか逆にこの人はむしろこの物語・テーマをきちんと伝えたいはずなので、合理的な説明がつけられるはず。

「ファンタジーだけど、現実の中に存在しえるファンタジーにしたかった。この映画を夢物語にはしたくなかった」とインタビューで話してもいるし。

“概念が学校の中と外だけでなく、日常と非日常も超える。時空を超える。”と先述したが、全てを超えるのは簡単な話、「空想」だ。けどこの発言から、夢オチならぬ全部が空想であったという見方はちょっと成り立たないだろう。

(でも引っかかるのは武田かりんが「制作ノート」の「1冊目の1番最初のページ」に「夢からさめない物語であるべきだ」と書いた、と言ってること。)

んー、やっぱりわからん。

 

…いやいや今一度冷静に考えてみよう。

アンは中学時代の孤独な武田かりん。彼女は本当の親友が欲しかったろう。そこで脚本にアイナという子を登場させて、あの頃手に入れられなかった青春を、友達と楽しく過ごすという“2度目の青春”を送る。

同時に小説とか歌の歌詞以外の作品で、一人称で物語を転がすのは難しい。この点もアン1人で進めずアイナというキャラを出した理由かもしれない。

アンが中学時代の陰キャ・武田かりんを基にしたキャラならアイナは誰かというと、ヤな奴の写真にはイタズラ描きのひとつもしてやりたい本音の武田かりん。あるいはイジメがなかったら本来はこうだったんじゃないかという陽キャというか よく笑い、ダイブもする、思いきりのいいサバサバした武田かりん。人の人格って一面だけしかないわけじゃない。武田かりんの中から2つ抽出して作り出したキャラ。ある意味1人2役というか、武田かりんを分離させて作ったキャラ。

だから一人称の物語だったらアンがアンを救いにタイムトリップするところだが、親友になってくれたアイナを救いに行く展開となる。

(あるいは、当時こういう子が現れててくれたならな… と想いながら作り出した人物なのか…。)

愛菜は何かというと、自殺に失敗してその後生き続けて大人になって映画監督になったリアル現実の現在の武田かりんだ。だから愛菜は大人になったアイナ。

“未来の自分が助けに来てくれる”発言から、クラスで孤独なアイナのもとに駆けつけるアンはタイムトリップになるはずだが、担任のリアクションからアイナは少なくとも担任が認知してない生徒であることがうかがえるから、タイムトリップではなくパラレルワールドなのではないか?

映画開始からクライマックスまではアイナがとっくに自殺して居ない世界線。

武田かりんは10代の自殺が多いことに心を痛めて本作を作り始めたと言っている。

自分は自殺に失敗して生き続けたけど、あの時死んでいたらこの自殺者数のデータの数字の1つに自分もなってたろうとも言っている。

死んだ子は還らない。死んだら取り返しはつかない。

だからタイムトリップではなくパラレルワールドなのだ。タイムトリップで救ったらアイナの自殺は無かったことになる。それはご都合主義。そうではなく、死は死。それは厳然としていて動かせない。

だからパラレルワールドの世界観にして、死んでしまった世界線についてはもうどうしようもない、とした。

そしてアイナが自殺してこの世を去った世界線もあれば、アイナが近々自殺しそうな世界線もあるし、アイナが生き続けて大人になって図書館で働いてる世界線もあるし、逆にアンが死んでたり死にかけてたり無事に大人になった世界線もある。

別の世界線でアンと同様に親友が欲しかったアイナが世界線を超えて孤独なアンと出会ってアンを救い出す世界線が本作の初めからダイナマイトまで。別の世界線のアイナだから現れたり消えたりする。

一方アンが9月1日のまさにアイナが自殺する日に駆けつけてギリギリでアイナを救い出す世界線もある。これが本作のラストシーン。

…みたいな見方はどうでしょうね?

俺 記憶力悪いから各場面・各カットを全部ちゃんと憶えてるわけでもないんで相当見当違いな解釈なんだろうけど。武田かりんからしても“あー、そうじゃないんだけどな…”と思うだろうけど。

(ちなみにアンにアイナが見えなくなるのはアンがアイナに疑念を持った時だみたいなこと指摘してた人がいたが、俺はそこんとこのタイミングは正確には思い出せない)

普通にストレートに解釈しようとすると整合性つかないんだよなぁ… 俺の見方が足りないのかな?

でも一筋縄でいかないからこそ本作は単純な青春ファンタジーだったら持ち得なかった奥深さや底知れなさを手にしている。

映画というものの面白いとこの1つは、時折いろいろな解釈が出来る作品があって、そういう作品はどう解釈するか考えるのがすごい面白かったりする。

本作は意外にコレ相当幅をもって考えられる作品かもよ!?

(ちなみにパンフレットを読むと、…本作を鑑賞した日から5日も経ってから初めてパンフ読んだんだけどさ(苦笑)、

スタッフから「結局アイナは夢なのか現実なのか」という話になって、武田かりんは「夢かもしれない。でも、私は夢じゃないと信じて撮ります」と話した、と言っている。

あとパンフ内で「別室登校のアイナ」って書かれてるな…。それとアイナがアンに私のこと見えるの?って言うセリフ、そういやあったなぁ…。

武田かりんと主演2人の座談会を読むと、アイナは武田かりんではないととれるんだよな…。それとアイナはどうも実在する生身の人間ではないっぽく夢か現実かハッキリさせておらず、でも3人の中では本当だと信じて撮った、という話をしている。

またパンフには映画ライターによる本作の個人的解釈が書かれていて、これは俺がここまで書き連ねてきた解釈とはほとんど違う。)

 

本作は『ランボー4(邦題『ランボー 最後の戦場』)』(シルベスター・スタローン監督・脚本・主演)とはまるで異なる映画。そりゃそうだろと言われそうだが、根本的な問題点は一緒といえば一緒なんだよ。辛い現実を生きてて、どうしたらいいか。

『ランボー4』はやられたらやり返せ、降りかかる火の粉は己で振り払えという姿勢・思想。もうハッキリしてる。ブレが一切ない。それはスタローンがフィジカルな人間だからだろう。
売れないアイドルから女子プロレスラーに転身した伊藤麻希もヘンなパワーストーンとかにハマってないで筋トレやれ筋トレと言ってたけど。(地方都市でいじめられっ子で孤独だった伊藤ちゃんが欧米人に知られるようになり、市長まで激励に来たり、SKE48のステージにも立つ(←9.4と9月25日の段)ことになったり、人生がブレイクしてゆく反骨と反撃の軌跡は

『ドラマティックオブザイヤー2021は伊藤ちゃんっしょ! ①』

『ドラマティックオブザイヤー2021は伊藤ちゃんっしょ! ②』

『ドラマティックオブザイヤー2021は伊藤ちゃんっしょ! ③』

で読んでくれ。武田かりん監督にもよかったら読んでもらいたい。

ちなみにこのエントリのさらに後、伊藤ちゃんは東京ドームの観客の前にも立つ(←リンク先後半記述)ことになる。)

スタローンも伊藤ちゃんも俺も肉体で生きてる感覚が強い人であり、あと押井守監督も年齢で絶不調になって生き直そうと思って体鍛え直そうと空手始めたらすこぶる調子よくなったって言ってたけど。やっぱ人間って生身で生きてんだから肉体に手応えもって生きてないとダメ。それはマッチョになれっつってんじゃなくて、アクティブに肉体を実感して生きるというようなことなんだけど。

『ブルー~』はそういうフィジカルな人とは違うタイプの人の葛藤や向き合い方が静かに優しく描かれてる映画であり、そういう人の穏やかさや優しさなどに満ちた作品であり、観てて心地の良い映画である。

大人しいタイプの人には大人しいタイプなりの心の解決法というのがあろう。武田かりんは映画作りがかなりリハビリになったのではないだろうか?

ただ、一方でクライマックスでは「ダイナマイト」の場面があり、中盤にはダイブもあったし、落書きシーンもあったし… 武田かりんの中にも「やってやりたい」という鬱屈というか不満というかカマしてやりたい気持ちがあることがうかがえる。

(また、ネットの書き込みか何かでどうも見当違いな文句つけられたらしく、それに対して「わかってほしいという気持ちと、おまえなんかにわかられてたまるか、という気持ちがあります」などの発言もあり、心に激しさも持ち合わせている人であることが察せられる。)

 

引きこもって生きてる人は潜在的に結構いるのではないかと思うが、とりあえず外には出よう。体は動かそう。別にマラソン始めろとかジム行って鍛えろとは言わない。ちゃんとご飯食べて、あと近所を100メートル歩いて、100メートル走って、その繰り返しで3~4km行って帰ってくるのを1日置きにやるだけでも体は結構変わる。体が整ってくるとメンタルも割と健全になってくる。何かを始めるにしても最低限の体力がちゃんとある&身体に自信があると結構行動できるようになる。

それとコミュ障をどう治すかは話が別だと言われそうだけど、別に独りで生きて構わない。というかむしろ他人を意識し過ぎると不健全になる。社会という場で生きてて他人と共生してるのだから他者とそこそこ合わせるのは当然ではあるのだが、それと自分を押し殺すのは話が全然違う。

また話し相手がまったくいないよりは少しはいた方がいい。他者とまるで没交渉というのは自室に引きこもってるのとある意味変わらないともいえるから。でもそれと集団性に迎合しまくるのも話がまた違う。

…結局のところ、自分の身を守るのは自分。自分の魂は自分で責任持たないと。

厳しい言い方でもなんでもなく、やらなきゃ生きてく資格はない。

スタローンが力強いのはフィジカルな人間であることと共に、貧困層出身ということもある。草食系ではとても生きてけないスラム街で生き抜いてきた人間だから、精神的にもタフなのだろう。

「お前は人にバカにされても平気な人間になり下がった。

…世の中バラ色じゃない。厳しくて、辛い所だ。油断したら、どん底から抜け出せなくなる。

人生ほど重いパンチはない。だが大切なのは、どんなに強く打ちのめされても、こらえて前に進み続けることだ。そうすれば勝てる!

自分の価値を信じるなら、パンチを恐れるな! 他人を指差して、自分の弱さをそいつのせいにするな! それは卑怯者のする事だ! お前は違う!

…自分を信じなきゃ、自分の人生じゃないぞ」(by 『ロッキー ザ ファイナル』

これは衣食住と同じで生きてくうえで最低限クリアしてないとならない問題。

便利なシステムでまわってる社会だから大抵の人が自分の手で動物を殺める場面はないけど、本来は食べ物を確保するには動物がかわいそうだからベジタリアンになりましょうなんて寝惚けたことは言ってられない。現実は本来弱肉強食なんだから。今の便利な社会システムがなかったら自分の身を守って他の動物を狩らなきゃ肉も魚も食えないし、こっちが食われて終わってる。

 

…って『ブルー~』とは話のテイストがすげぇかけ離れてきたけど(苦笑)。

でも武田かりんだって引きこもって独りきりのままではなく、外に出て、行動して、人と向き合って、そうして映画撮って今がある。部屋に居るだけでは、待ってるだけでは、やられっぱなしでは、何も変わらなかった。

動かなかったら何も変わらない。動けば、たとえ目的地にまるで届かなくても、少なくとも最初いた所には最早いない。動けば、何かは変わる。昨日の自分とは違う、新しい今日の自分がいる。

武田かりんを支えたのは未来の自分が助けに来てくれる空想だったが、しかし、空想はやがて行き詰まる。現実は違うから。

高校生の時、

「それがただの空想だったことにも、この頃にはもう気づいていた」(本人談)

そして絶望して、17歳の冬に自殺を敢行した。

でも一命をとりとめ、生き続けて大人になった現在の武田かりんは、かつて行き詰まったその先へ踏み込む。

あの頃 空想だった大人の自分からの、アンサー。

『ブルーを笑えるその日まで』

これが私の答え。いまだタイムマシンはないけれど、映画というものを使って、私があの頃の私に証明する、生きる意味。私が存在する意味。生き続けたからこそ成し得たこと。貴方が未来で成し得ること。

 

上映後の武田かりん監督舞台挨拶。10分15分ぐらいだったろうか?

司会進行の男が質問して武田かりんが答える形で進む。

(記憶力よくないので細かくレポートできないけれど。)

 

まず作った経緯みたいな話。10代の自殺が多いこと、自分もかつて自殺しようとしたこと、…要はこれまでメディアの取材で語ってきたことであり、また舞台挨拶もたくさん積極的にやってきてるので、同じことを話してはいるのだが、俺的には目の前で本人が話してるのを直接聞いてること自体が貴重。

 

最初上映した時は都合あって冬になってしまったけど、本作は夏の映画なのでやはり夏に観てもらいたかった、それが今回叶ってよかったと。

 

小中高生100名無料招待上映をやったが、応募は50人程度に留まり、さらに実際に来たのはその半分程度で、でも小学生のコと親子で来た人は泣いてくれた、人数的には広がらなかったけど伝わってる人がいるという点では広がってく兆しのようなものは感じた的な話。

(試み自体は非常に良かったと思う。この映画の制作動機を非常に踏まえていて、やって正解だった企画だったと思うよ。

ただ来た人の数が少なかったのは残念…。告知が足りなかった!? このイベントの開催自体を知らなかったのなら行きようがない。Yahooニュースにあがったのはたぶんこの記事だけなんだよな…。SNSでも告知はしたんだろうけど…。)

 

本作は生々しいイジメの描写はない。そういうシーンも撮ったのだけど、実際今そういう状況に置かれてる子がそういうシーンあったらしんどいだろうみたいなところでそういうのはやめにしたと。

 

新作について。考えてはいるのだが具体的にはまだ動いてないらしく、予定としては未定状態らしい。別れの物語らしい。

 

発売中のグッズについて。パンフとTシャツとポスターを販売してると。Tシャツは武田かりん本人が書いたイラスト。その実物を着て登壇していた(イラストはバックプリントに。この人はイラストレーターでもあり、かわいらしいイラストを描いている)。

あとこの後ロビーで監督本人が居て、サイン書いたりしてくれるとのこと。

 

ロビーに出るとテーブルに着いて監督が座ってた。パンフにサインを書いてもらった。

あとポスターも買いましたよ。

人が生まれてくる確率は何億分の1とか何十兆分の1という天文学的な確率だそうだけど、

その後、命を落とすことなく育って、誰かと誰かが、何かと何かが出逢うのは、さらに確率が狭まる。

彼女が生き延びたからこそ、そして本作を作ろうと実際動いたからこそ この映画は存在するし、

こちらも生き続けてるからこそ、そして本作を知り、観ようと足を運んだから、この映画に出逢えた。

そうした数々が重なって、それは実は奇蹟のような出来事なのだろう。

この出逢いに祝福を!

 

本作の解釈はまだ続く(苦笑)