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Be Fully Human

「日本とフィリピン社会により広く大きな貢献をする」ことをミッションにした青年による、その実現までの道のりを綴ったブログです。このブログを通して、ひとりでも多くの方が「ごきげん」に人生を送っていただければ・・・、そんな願いを込めてお送りします~。

"Your personal legacy will not be remembered for your countless trophies, medals, awards, title or things you have acquired. Most likely, it will be the positive and personal impact you created in every person you meet and you work with." -Harnin Manalaysay, Filipino mentor.

“個人の遺産というものは、数え切れないトロフィー、メダル、賞や肩書き、今まで得てきたものによって覚えられるものではない。たいていの場合、あなたが直接会って、共に過ごした一人ひとりの人の中に残る、ポジティブで個別なインパクトによってである。” -ハーニン・マナライサイ
2月11日火曜日。

朝、川崎汽船マニラの社長と眼科医の先生達と医療機器搭載バス、ビジョンバンが停留しているマニラ港へと向かいました。

未だ通関手続きでリリースできずにマニラ港に停留中。

港に着くと、眼医者さんのかわいいキャラクターがついた白いバスを発見しました。



(ああ、これタクロバンの子どもきっと喜ぶやろうな~・・・。)

・・・

それから日本大使館に移動し、ご挨拶。

でか~い建物の中、厳かな玄関、大使館の中も「こりゃ美術館け?!」って感じでした。

周りの先生、大使館の人みんなスーツを着ている中、小生ひとり、ポロシャツ、ジーパン、ランニングシューズ・・・。

(フィリピンじゃこれがオフィシャルな場でも通るし・・・まっ、よかやろ!笑)

・・・

思えばここ数日間、日本人、フィリピン人の医者、財務省、厚労省、外務省、大使館、アジア開発銀行の“おえらい”方々、川崎汽船マニラの社長、日経新聞マニラ支局長などなど、普段の日常生活じゃお目にかからない人達に会ってきました。

今まで、マニラ郊外のゴミ山、被災地タクロバンで地元の人達と交流してきたため、このマニラにいるお金持ちの人達とのギャップがものすごくはっきり見え、なんだか複雑な気持ちになりました。

(ま~こんな豪華にしとかないかんのはわかるばってんくさ、こげな生活しよったらわからんやろうな~・・・末端の人達の気持ちっちゅ~やつが・・・。)

・・・

大学生の頃とか卒業して1,2年経った時は、日本で育ってきた分、階級とか社長とかお役人とかその人そのものじゃなくて、社会的地位や肩書きで自分の態度を変えていた自分が確かにいました。

もちろん礼儀として敬意を示す行為は大切で、今でもします。

でも、この数年で人を肩書きや社会的地位で判断せず、その人そのものを見ようっていう姿勢が出来てきた自分に気がつきました。

そんな自分の成長が、ちょっぴり嬉しいです。
今回の眼科プロジェクトは東北で使用されている眼科医療機器搭載のバスを輸出し、現地の眼科の先生たちが巡回医療を行い、先生達がレイテ島に戻れるきっかけにしよう、

被災地でメガネを無くしている被災者にメガネを提供しよう、

目の診断を受けられない人達を診断をしよう

という日本眼科医会のプロジェクトで、その現地駐在員として来ています。


ということはその医療機器搭載バス「ビジョンバン」があってなんぼ。


が、汚職政府をバックにするフィリピンの通関手続きにてこずり、僕が到着した6日には未だバスがフィリピン国内に入れない状況でした。

・・・

2014日2月10日月曜日。

朝から税関に行きました。


申請に必要な書類を渡して、お願い。

ちなみに通関を通してもらうためのお願いなんて、今回人生初めて。


どうしたらいいのかわかりません。


(とりあえず、説得たい!!説得!!)


・・・

「ボス、あなたの助けが必要なんです。」


「ボス、私は日本人ですが魂はフィリピンにあります。」


「ボス、私はフィリピンの国歌を歌えます。披露させてください!」


「ボス、私はカビテとタクロバンに友達がいっぱいいて、これがもうフィリピン5回目です。でもいつもボランティアとしてくるため私の知っているフィリピンはゴミ山と被災地だけなんです。ビーチに連れて行ってください!」


エトセトラ


とりあえず思いつくことを片っ端から言っていき、通関の許可をもらうために説得(?)しました。


ちょろっと笑ってくれました。


(よっしゃチャンス!!)


「Paki Tulongan ako!」 (助けて!) ×20回


ここでタガログ語を喋ったら喜んでくれるやろう!と思って、玄関の暇そうな警備のおっちゃんに教えてもらったタガログ語を喋りました。

"If you talk to a man in a language he understands, that goes to his head. If you talk to him in his language, that goes to his heart.” - Nelson Mandela
(もしあなたが、彼が理解する言葉で話したら、彼の頭には入っていくだろう。でももしあなたが彼の母語で話したら、それは彼の心に届くだろう -ネルソン・マンデラ)

結果・・・

OK!!!!
 
(よっしゃあ!!!!)


が、しかし!!!

提出書類の厚労省からもらうサインが抜けてる(><)!!


オーマイブッダ!!!


外に出てタクシーのおっちゃんを道のど真ん中で捕まえ、厚労省へ。

奇跡的にもサインをするお偉いさんがまだいて、サインをゲット!

再び通関の場所に戻ろうと外に出るも、ここ・・・タクシーがこない(><)!!


(あ~くそ!!!)


探せども通らないんです。

(あ~くそ!!さっきのタクシーに待ってもらっとけばよかった!!(><))



探すこと20分・・・。


「あっタクシー通った!!」


ほんの一瞬、白いタクシーが通っていくのを遠くの方で見かけました。


猛ダッシュ!!!!


まだ道の真ん中で動いている最中のそのタクシーのドアを勝手に開け、飛び乗りました。


「税関の場所まで、早く!!お願い!!(><)」


・・・

「アーユーベトナミーズ?」(タクのおっちゃん)

・・・


あとから聞くとタクシーをひろったその場所は、マニラでも有数の危険区域だったらしく、日本人はまずタクシーをそこで乗らないと後から伺いました。


Ignorance is bliss!!
(知らぬが仏!)


・・・

税関の場所に昼過ぎ到着。

外の駄菓子屋で腹を満たせ、いざ!

「ボス、只今帰ってきました!」(小生)

「お~よくやった!」(税関のお偉いおばはん)


やっとサインをくれ、通関手続き完了しました。

・・・

(ああ~よかった~ホント!!!)


・・・

しかし、そんな安心も一夜限り。


翌日、まだ他の手続きが残っていて通関を正式にしていないことが判明・・・。


オーマイブッダ!
2月9日、強行スケジュールの中、被災地タクロバンへ日帰りで行ってきました。

朝8時20分に無事タクロバン空港到着。

(あ~・・・帰ってきた・・・。)

空港のゲートのところには一緒に活動していたボランティアの青少年達の子が何人かお出迎えしてくれました。

シャエラという親も兄弟も家も全てを失った16歳の女の子も。

眼科医の先生とすぐに移動しないといけなかったため、日本からのお土産だけを渡し、タクシーで出発。

今回は一瞬だけの再会でしたが、やっぱり本当に嬉しかったです。

・・・

それからタクロバン視察ということで町を回りました。




掘立小屋は1月中旬時に比べて多くなってはいましたが、復興は全く進んでないなっていう印象を持ちました。

外に移るタクロバンの光景。

瓦礫と化した町なのですが、ものすごくこの町に情がはいってしまっているため、ここに帰ってこれ、なんだか嬉しくなってしまいました。

タクシーの窓越しから見るだけというのもあれなので、眼科医の先生に降りてもらい、自分がよくしてもらっていた村に歩いて入ってもらいました。

掘立小屋の瓦礫の中で生きる人達。

皆笑顔で迎えてくれ、この環境下でも逞しく生きる彼らの姿を先生達もしっかり心に刻んでいただけたようでした。

・・・

それから現地の眼科医の先生達とミーティング。


レイテ島にいた12人の眼科医が、1月の時点で1人だけになっていたそうなのですが、今回、日本の医療機器搭載バスがタクロバンに来るということで、1,2人ポツポツと眼科の先生達がタクロバンに帰ってきたそうなんです。

1月までマニラに避難し、もうタクロバンをあきらめていた先生が、タクロバンに戻ってきて、今回一番ミーティングで真剣に聴き、意見を述べていました。

その先生。(水色)


なんか、そういうストーリーというのでしょうか、この先生の想いとか考えると、どうしても胸の中が熱くなってしまいます。

なんか、この先生のために絶対今回の眼科医プロジェクト、成功させたい!!(><)って自然と思ってきて、今、ものすごくこの機会を与えてくれたことに感謝しています。


エニウェイ、

午後にはマニラにまた戻り、日本の財務省から出向されてきている人に会ったりなんやりで、もう気がついたら夜中の1時・・・。

身体は疲れてます。

でも、言葉では表せることができない「何か」が胸の中で大きくなってきました。

・・・

人間が転んだところから立ち上ろうとする姿は、国や性別、年齢なんかに関係なく、美しいです。
午前4時起床。

現在4時30分。

これから被災地タクロバンへ眼科医の先生方と向かいます。

午後からマニラで外務省関係の会議があるため、タクロバン滞在時間は実質3時間・・・。

(ああ、ボランティアの子らに会えるといいなあ・・・)

タクロバンを去ってあれから約3週間、どうなっているのか楽しみです。

行ってきます~!
今日は午前中、穴田久美子さんというフィリピン在住歴20年以上になるお方とお会いしました。

フィリピンでNHKやTBS、共同通信等のメディアを中心とした通訳やコーディネーター等をやられている40歳から50歳くらい(?)の元気でパワフルな女性の方で、フィリピンに関する色んなことを教えてもらいました。

元々、北海道の地方新聞の記者で、フィリピン大学の社会福祉学で学ばれ、そのままフィリピンで日本企業やメディア等のサポートを中心にお仕事されている方なんですが、「へ~色んな生き方があるんだなあ!!」と久美子さんの生きざまに感銘を受けました。

名刺を頂きましたが、個人で色々やられているため肩書がないんです。

でもお金も稼いで、フィリピンのNGO等の取材を通して世界に発信し、日本人とフィリピン社会を繋げる役目を果たされている・・・。

目立とうとか、自分の人気を得るためとかじゃなくて、なんかこういう影の存在でありながら、型にはまらず強く生きていく人、大好きです。

・・・

ちょっとフィリピンの復興支援の話とは関係ないのですが、面白いお話を伺ったので1つ。

よく巷では「グローバル人材の育成」が急務といわれていますが、ある日本の大手企業の重機メーカーが、「グローバル人材育成戦略」を行ったそうです。

新卒社員に英語を勉強させたり、研修したりして3年後、日本の若手社員をアフリカやチリ等の世界各国に派遣し、機械のメンテナンス等をする駐在員に育て上げようとしたそうです。

3年間経ちましたが、誰ひとりとして駐在員に行きたがらず、任命された男の子の親が来て、一緒に行かないように説得しにきたり、辞職願いを出す人もいたらしいんです。

その重機メーカーの人事の方は困りました。

そんな時、世界各国の現場に行って、気づいたようです。

なんとフィリピン人の多いことか!

そこでその日本企業はフィリピンに駐在員になるためのトレーニングセンターをつくり、同じように3年間訓練をして、世界各国に派遣しようとしました。

20人の訓練生の中、19人、飛び立っていったようです。

もう今年で6年目、その重機メーカーは日本ではなくフィリピン人の青年にグローバル化を託しています。

フィリピン人にとって、日系企業で海外派遣となると、普段の給料とは比べ物にならないほどの額を頂けるからというのが一番の理由らしいのですが、この逞しさ、これなんですね、僕のフィリピンに対する畏敬の念。

「グローバル人材育成」が今の教育や企業間ではキーワードのように使われており、論理的思考力だのなんだの小難しいお話が多いようですが、なんかもっと本質は単純で、人間の根幹部分とつながっているような気がします。

もちろん海外に出ればいいというわけではありませんし、日本の中でも多くのことができます。

「どこで」よりも「なに」を「なぜ」するかの方が大事だと思います。

でも、この「生命力」「逞しさ」「勇敢さ」・・・僕は個人的に見習いたいです。
昨日フィリピンに到着しました。


(うあ~暑ちいなあやっぱり!!)

冬脱出、成功。笑

冬の格好でフィリピンに降り立ったため、じめじめして正直、気持ち悪かったです・・・。

空港を出ると見慣れたジプニー、売店、スナック菓子に町の様子・・・。

(うわあ~帰ってきた・・・。)

宿泊先のホテルに向かい、スタッフの方と夜打ち合わせをして一日目は終わりました。

そして今日2日目。

8時半に財務省に到着しないといけないので、何時にここを出た方がいいか、ロビーのスタッフに昨晩伺っていました

そしたらなんと2時間前の6時半というんです。

朝のマニラは尋常じゃないほど渋滞になるらしいんです。

(マジかよ!?チョー早いやんか!!)

そして今日、6時に起きて急いで準備して、6時半に外へ。

タクシーをひろうのに必死になり、やっと6時45分、タクシーのおっちゃんをひろいました。

(ああ~やべえ!!15分遅れた!!)

タクシーの運ちゃんの家族の話で盛り上がりながら、経つこと20分。

・・・

「はい、ここだよ。」(運ちゃん)

「えっ?!」(小生)

・・・

・・・

午前7時5分到着。

集合時間まであと約1時間半・・・。

なんと20分で着いてしまったのです。


Welcome to the Philippines!!


(あ~なんであのスタッフ2時間前とか言ったとやくそ!!まだ寝れたやんか!!あ~くそ!!)

この時間感覚に慣れることが異文化理解の第一歩なんでしょう・・・

結局8時45分に集合、財務省の方と打ち合わせを行いました。

・・・

財務省・・・。

なんかおかた~いイメージ・・・。

でもここフィリピン、僕がフィリピンが好きな理由の一つなのですが、チョーフランク。

服装ポロシャツ、ガム噛みながら上司と話している人もいれば、笑顔でジョークを言い合いながら仕事をしている人も・・・。もちろん時間感覚もかなりお~ざっぱ。

その後に厚労省にも行きましたが、そこも一緒。

(ああ、なんかホント人間みたいやなあ・・・)

表情がものすごいいんです。

失礼な話、日本の大学生がサークルの会議をやっているみたいに。笑

・・・

長年、日本で暮らすフィリピン人の女性から言われました。


「フィリピン人は気にしないからね~でも日本でビジネスする人はホント表情ないよね~」

・・・

一体、なにが良いのか悪いのか、わからなくなってきました。
フィリピンの慈善団体と共にタクロバン復興支援を始めて約1ヶ月半が過ぎた2014年1月17日、僕は日本に帰国しました。

現地で日本人の自分が一人活動するよりも、日本で支援金を募って、現地のボランティアの子達を資金援助という形で支える方が、大きな絵を描いたときに役に立つと思ったからです。

4月から不登校生を対象にした通信制高校の常勤講師になることも決めていたため、それまでのこの期間に全国で支援金を集めようと思い、知り合いの方々にご協力のお願いをしていました。

高校、大学の仲間と先輩、教授にボランティアコーナーのスタッフの方。

大学のラグビーの同期は今、カフェをひらく夢に向かって修行のバイトの身であるにもかかわらず支援金を手渡してくれました。

石巻で一緒に汗を流した佐賀、大阪、神奈川、富山、千葉、東京、全国のボランティア仲間。

大阪の小中さん、表さんという素敵な方々は、家にも泊めさせてくれ、「これはタクロバンの子ではなく、自分のために使ってくれ」と自分のケアをするための支援金も送って頂きました。

アメリカの大学院時代にお世話になった方々。

そのつながりから見ず知らずの方から支援金を頂きました。

不登校生関係でお世話になっているNPOの代表の阿部さん。

不登校生とフィリピンの子どもを繋げようと、手紙プロジェクトを提案していただきました。

東北で知り合った東京のビジネスマンの方々・・・。

自分の日常には何の関係もないフィリピン、レイテ島の復興支援のために、多くのご協力を頂きました。

「生かされている」という意味が少しずつわかってきました・・・。

・・・

そんな中、東北の復興支援の時にお世話になったNPO法人ロシナンテスの川原尚行さんから、スーダンからご連絡を頂きました。

日本眼科医会が今回、僕が活動していたレイテ島で巡回医療支援プロジェクトをこれから3月中旬まで行うので調整員として同行しないか?というお話でした。

支援金を日本で募っていると申したところ、川原さんが医会の方に交渉してくれ、活動費以外に相当な額を頂けることになりました。

そして川原さんご本人からもドンッと「寸志」をスーダンから贈っていただきました。

ロシナンテス東北事業部からも被災した閖上の方々、スタッフの方々が寄付金を送って頂きました。
...
ロシナンテスの皆さんの「心意気」がものすごく嬉しく、「感謝」という言葉では表せない何かを胸の中に感じています。

本当に、ありがとうございます。

これから再びレイテ島に戻ります。

今回は日本眼科医会のプロジェクトに調整員としてレイテ島タクロバンで活動しますが、休みの日に現地の団体の活動に参加して、眼科医会のプロジェクトで頂く謝礼金を、そっちに寄付したいと思っています。

出稼ぎです。笑

明日からフィリピン。

しっかり任務を全うしてきたいと思います。

また、もしこのブログを読まれている方で現地の慈善団体の活動に資金援助という形でご協力したい方がいらっしゃいましたら、メッセージを頂けると幸いです。

(次帰国するときはもう春の兆しが見えてくるころなのかなあ・・・。)

それではTindog Tacloban! (立ち上がれタクロバン!)

頑張ってきます!!

子どもや青少年の「心の復興」ということをミッションに支援活動が始まりました。

被災したタクロバンの青少年をボランティアメンバーとして勧誘し、被災者、特に子どもへのボランティア活動を通して、お互いがつながり、お互いが心の復興を成し遂げていくという内容です。

ボランティアメンバーも親や兄弟、親戚、家を失った被災者・・・、「被災者が被災者を助ける」という形をつくり、その交流を通して心のケアをしていこうというもので、フィリピン人の現地団体だからこそ出来るミッションです。

 

毎日、ある会社から寄付して頂いた日本製の中古自転車(ママチャリ)に被災したボランティアメンバーとまたがり、壊滅した地域の村へと出向いて行きます。

 
日本製のママチャリはフィリピンでは珍しいようで、毎回飽きもせず自転車に乗ること自体を楽しんでいる被災した10代の子達の笑顔が今でも鮮明に残っています。


村に着くと、ボランティアメンバーが中心となって60人から130人程の子ども達をまとめます。


 


ある日は物語を読み聞かせ、またある日には子ども達と様々なアクティビティをしたり、ゲームをしたり、絵を描いたり・・・。


 
元々、日本のように何でもある環境ではないフィリピンの子ども達にとって、このような何気ないちょっとした楽しみが、被災した彼らにとってどれほど尊いものなのかを現場でまじまじと見せつけられる形となりました。

 

また、被災した子ども達のニーズを探るのも被災したボランティアメンバーです。

 

 
紙とメモを片手に子ども達一人ひとりに耳を傾け、繋がっていきます。ニーズを把握したら拠点のマニラ郊外の教会へ報告、本部は寄付を募り、そのニーズを満たしていきます。

 

キリスト教徒が多いフィリピンの一大行事であるクリスマスの日には大雨にも関わらず、サンタハットをかぶり、自転車にまたがり数百個のクリスマスギフトを数日間にわけ、タクロバン市の被災した子ども達へ届けました。

 
おもちゃやぬいぐるみを失った子ども達にとって、たった1つのぬいぐるみでも、それは希望の象徴のように映ったようです。


 

プレゼントを渡し終えた後の帰り道、不思議な光景を見ました。同じく被災したボランティアメンバーの顔に、モノでは埋められない充実した「何か」が溢れていたのです。

本来、彼らも「被災者」であり、もらう立場の人間です。

彼らにとってもクリスマスは大切な日。それにも関わらず、彼らはもらうどころか、与え続けました。

何ももらってない一日が終わった帰り道、彼らの顔にはあたかも何か素敵なプレゼントをもらったかのような温かい表情が浮かびあがっていました。

その他にも、ツナ缶を配るだけに留まる食糧配給にとって代わり、朝5時から準備して温かい食べ物を被災者に配ったり、災害によって交通手段を失ってしまった学校の先生へ自転車を提供したり、現在、幅広い活動を展開し始めています。

その過程で被災したボランティアの子達の表情も変わっていく様子をそばで見守ってきました。

 

僕が支援活動を行ったレイテ島タクロバン市は風害、高潮により、多大なる被害を被った地域です。


元々レイテ島の最大都市であり、人口も市内だけで約
20万人もの人が居住し、繁華街やビジネスで栄えていた町だと現地の方から伺っています。

僕がタクロバンに到着したのは台風災害から約1ヶ月経った頃でした。

外壁や屋根が崩れ落ち、何とか人手のみで空港の機能を保っているタクロバン空港を出て、目にしたものは傾いた椰子の木に、壊滅された家々、へしゃげたトラックに、折れて倒れた電信柱、そして多くの国連難民高等弁務官事務所
(UNHCR)が提供した避難テント・・・。

目の前に広がる光景は、東日本大震災当時、壊滅した石巻市の光景と同じものでした・・・。




台風災害から約1ヶ月経過していましたが、電気、水は勿論なく、瓦礫は台風災害当時のまま、死体が並べられた道沿いの横で人々の生活が営まれていました。

貧困、政治腐敗の上に重なった今回の災害。政府は死者の数さえ誤魔化しているという話を現地で伺いました。

また元々タクロバン市長と現フィリピン大統領の関係が悪く、政府からの支援も著しく遅れていました。


国連機関をはじめ、多くの国際援助機関がタクロバン市内のホテルを貸切り、支援活動を行っていました。(多くと言っても東日本大震災で見た支援団体の数と比べたら微々たるものですが。)台湾からの援助機関は一般市民に直接お金を渡し、国連開発計画(UNDP)は瓦礫撤去の仕事を提供し、国際移住機関(IOM)は家をつくるために必要な椰子の木材、トタンを配布し、UNHCRは被災者にテントを提供していました。

台風災害から3
ヶ月経った今、繁華街には電気が通りはじめ、人で盛り上がり、瓦礫の中に立つ掘立小屋の数も増え始め、ペースは以前遅いままですが、少しずつ復旧活動が目に見える形となって現れてきています。

しかし、それはあくまでハード面だけでの話にしかすぎません。貧困の上の災害であるがために、ソフト面のケアが置き去りにされているのが現状です。

僕が今回一緒に活動した現地の慈善団体は、その隙間に目を向けました。

つまり、被災者、とくに子どもを対象にした「心の復興」です。

元々フィリピン人だけで構成される現地の慈善団体。

教会が母体となっていますが、ボランティアメンバーは皆
10代から20代前半。そして元々ゴミ山で生活をしていたり、児童労働を強いられていたという背景をもった青少年達・・・。

そのような過酷な状況を生き抜いてきたからこそ見える、目には見えない部分の復興に、彼らは気づいていました。

国連や国際援助機関のような資金もありません。ほとんどの支援団体がホテルを貸切り生活する中、僕らは野犬を退けテントを張り、外の蛇口で身体を洗い、段ボールに包まり、支援活動を続けました。