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自序

 

敗戦の日本、「国が有るのか?」と聞いた沖縄の日本兵捕虜の皆様や、戦争で悲惨な経験をした皆様方のご努力により、今日の経済大国「日本」があるのだと思います。

しかし、現在の日本が抱える問題は多く、「高齢化社会」「環境破壊や公害」「車の排気ガス、工場の排煙による大気汚染」「金持ち超大国の日本人によるリゾートマンション、ゴルフ場の乱開発」「自然破壊とごみの山」等、考えるだけでもやりきれない気持ちになります。

自然を取り戻し、公害の無い社会にし、お年寄りやこれから生まれて来る子供たちが安心して暮らせる日本の国にすることが、祖国のために戦った人たちに報いることではないでしょうか?若くして散った命を思うと私はそう考えるのです。

これで私の昭和の一部を終わらせていただきたいと思います。
素人ですので、読みにくい点や誤字、脱字等お許しください。
ご意見、ご感想、ご質問等ございましたら宜しくお願いします。
お忙しい中、お読みくださいまして誠にありがとうございました。


平成三年四月二十七日
安藤 福治


 

あとがき

 

戦後は戦災による民衆の傷痕はひどく、原爆の悲惨さは今でも大きく引きずっている。
食糧難は続き、多くの者が餓死した。
経済上は、インフレによる新円への切り換えで世の中がますます混乱していた。




その後、昭和二十一年二月、私はマッカーサーの命令により再び乗船を命ぜられる。そして今度は米国船に乗って、激戦地であった沖縄やサイパンに行き、日本人兵隊の海外引き上げに従事する。

私たちは内地人米船乗り組み船員としては初めて、激戦地、玉砕の島沖縄の那覇港に入港した。

港では大勢の日本軍捕虜PW達が港湾労働者として、船の荷役作業をしていた。
彼らは私たちを「中国人」と思っていたらしく、気にもせずに仕事をしていた。
しかし、私たちが話す「日本語」を聞くと、それは驚いたのなんの、目を真ん丸く見開いたまま、ただ呆然と私たちを見ていた。
するとそのうちの一人が大きな声で、

「日本人か?」と聞く。
「そうだ」と答えると
「日本はあるのか?」と再び聞く。
その内、あっちこっちの人から、
「俺の北海道はソ連か?」
「九州は中国か?イギリスか?」
「四国はどこの国か?」
「日本はどうなっているのか?」と矢継ぎ早の質問攻めにあい、こちらも困ってしまった。

「日本は日本の国だから心配ないから、安心しなよ」と言うと、
「そうか、そうか」と力の入った言葉が返る。
「どこから来たのか?横浜から来たのか?」と聞くので
「そうだ」と答えると、
涙を流し男泣きに泣く者、気が狂ったように万歳する者と、岸壁は感激と喜びと涙で沸きに沸いた。

他にも色々内地の事などを聞きたいらしく、
「東京は今どうなってる?」
「横浜は?」と次々に質問してきたが、小銃を持った黒人の監視の兵隊に、
「ハーバ、ハーバ」と追い立てられてしまい、それ以上は答えられなかった。

しかし、内地から日本船員が来た事、日本が無事に在る事の伝聞はすぐに次々と島内に伝わった。
そして、夢も希望も失った絶望的な病院の傷病兵から米国施設で働く日本軍捕虜PW達に至るまでにも、喜びと勇気を与えた。
私たちは彼らに多くの希望をもたらしたらしい。

後で聞いた話では、戦時中、沖縄は黒山の艦船に取り囲まれ、守備隊が一発の弾を撃つと千発の砲弾が撃ち込まれる程の激戦であったらしい。
山の形が変わるぐらいの悲惨極まりない状況だったらしい。
十万だった守備隊が一万しか残らない悲惨な戦争だったらしい。
民間人も混ぜたらもの凄い犠牲者らしい。
そのため、本土も空爆と艦砲、さらに原子爆弾でやられて日本の国は戦争に負け、各国に取られたと思っていたらしい。
今でも山奥で戦っている兵士が居るらしい。


仕事が済むと通訳とMPが来て、全員を集め、「無駄な話や、かくまったりしたら銃殺する」と言ってきた。
食糧の遅配などで、東京は餓死者が多数という状況下で私たちは米軍の余剰食糧を米兵の監視の中、四千トン積んで横浜に帰り、陸揚げした。


おわり

第12章 生きて故郷へ

 

台風が去って、ぬけるように真っ青な秋晴れの空となった。私物の荷物をお寺に運び、最後にボートを吊り上げ、ボート甲板において作業は終了である。
私たち甲板員と航海士以外は全員伝馬船に乗ってお寺に引き揚げる。残った私たちは、
「どうせアメリカの奴らの物になってしまうのだから」と、機雷でやられて修理した箇所の栓を抜くとか、ナットを緩めたりした。
すると勢いよく船に海水が入り出した。最後に各部屋を回ったが、人気がない船はとても不気味で幽霊船のようで気持ちが悪かった。早々に泳いで帰る。




次の日は、一等運転士と賄い長の立会いで、一人一人に公平に米三升と三食分の乾パンを分配された。
「今日の昼と夜までは船での食事が保証されているが、明日の朝からはもうない。後は自分でどうにかしてくれ。みんな、今までご苦労さん。それぞれ無事に故郷に帰るように」と一等航海士の川島さんが挨拶した。
それが終わると荷物を整理して、午後二時頃、農家に行って荷車を借り、それぞれの荷物を積んで大勢で敦賀に行き、切符を買ってチッキーで送る。混乱している世の中なので
「無事に届けば儲けもの」と言いながら送る。
私の行李の中には、軍の倉庫から盗んだ塩三升とヨレヨレの毛布、引き裂いたテントカバー、細いロープのような物が入っていた。
荷物を送り終わり、少しずつ日が短くなったと感じられる秋の暗い山道をガラガラと車を曳きながら急いで帰る。
荷車を返しにお寺に行くと、晩飯は久しぶりの里芋の葉と茎の味噌汁であった。飲み込むように夢中で食べた。
その後はお寺の本道でごろ寝した。みんな毛布など送ってしまったので寒さで眠れず夜中に起き出したりした。
何か無情に秋雨がシトシトと音をさせていた。
次の日、朝食を取った後、支度をしていると奄美大島に帰る機関員が、
「何処まで帰れるか?途中どうなるか?」など食べ物の心配をしていたので、
「俺は百姓だから米の心配がないから、乾パンと交換しよう」と言うと彼はすごく喜んだ。
交換したおかげでカバンが随分軽くなって助かった。
ヨレヨレの配給のペンキのついた作業服に地下足袋、そして羅針儀のカバーに入れた下着に古い海軍の服、くたびれたオーバーなどを入れた荷物を背負い、傘もなくボロ切れを被り七、八人でお寺を後に敦賀に向かった。
「また会おう」でもなければ「頑張れ」でもない。無言の別れである。
賄い長や士官たちは残務整理をするためにまだ残るそうである。汽車の時間に合わせて昼頃帰るらしい。
振り返って海を見ると家々の間から微かに、半分沈んだ哀れな相州丸が見えた。
「もう二度と船に乗ることもない。此処に来る事もない。未練もない。終わりである」


小雨が降る中、帰る連中の跡に続いてただ黙々と歩いた。話などする事もなく、荷物を背負ってうつむきかげんに歩き続けた。
敦賀の焼け跡に着た。誰かが、
「今日、敦賀に進駐軍が来るんだと」と騒いでいる。
「良かった。逃げられる。これで助かった。後はどうなろうと知らない」



駅に到着すると、すでに時間もなく、改札が始まっていた。どこかの母らしい人が子供に聞かれたらしく
「兵隊さん達が荷物を一杯持って、お家に帰るんだよ」と話す声が聞こえてきた。
ホームは人が一杯で,みんな乗るのに必死に場所を探して並んでいた。いつの間にか仲間ともはぐれてしまった。
汽車が来たので夢中で乗る。何とか乗れて,混みあう車内で荷物に腰をおろす。座りながら、ただボーと人の足を見ていた。
何も考えない。夢を見ているような気分であった。
ただ、一駅でも家に近づく事しか考えてなかった。この汽車は何処まで行くのかも解らなかった。
いつの間にか雨もやんで日が射していた。
汽車の中では、何部隊だとか、連帯だとか、食べ物は良かったとか悪かったとか軍人達が話していた。
元気な兵隊もいれば、ヨレヨレの栄養失調の痩せて倒れそうな兵隊もいた。何処から来たのか知らないが、みんな故郷に帰る兵隊たちであった。


三時頃、汽車もかなり空いてきた。楽になったので外を見ると、稲刈りも終わり、乾かすために田んぼの所々に稲が高く積まれていた。
見上げると、山も真っ赤に紅葉していた。なんだか戦争していたなど夢だったのではないかと思わせる北陸の静かな風景が見えた。
もらったどんぐり乾パンを食べながらのんびりと外を眺めていた。

夜十一時頃、長岡に到着する。汽車は長岡止まりなので終着駅である。
仕方なくホームに降り、待合室に行き、荷物を抱えながら一晩過ごす。
夜は寒くて寒くて大変だったが、家も随分近くなったという気持ちで震えながら我慢する。兵隊同士はすぐ話し相手になり、
「何処にいましたか?」から色々話し始める。
私などは子供の疎開帰りぐらいにしか思われないらしく、誰も近づいてきて話し掛ける人も居ない。ひたすら荷物が盗まれないように抱いているだけである。

次の朝六時ごろ、汽車が来たので乗る。何処に行くかも解らずただ汽車に乗る。結構混んでいた。
なんだか夢中だった。
十一時半頃、「新津駅」に着いたので急いで降りて乗り換える。会津・郡山方面の乗り換えホームに行くとすでに十二時半発の「郡山」行きの汽車が待っていた。
その汽車を見た時、やっと嬉しさが込み上げて来た。飛び上がりたい気持ちである。もう安心だ。
汽車に乗ると、田舎の言葉が飛び交っていた。みんな知り合いのような感じがした。汽車がすごく遅く感じる。
やっと会津が過ぎて、修学旅行で来た懐かしい猪苗代湖を見た時、喜びが頂点に達した。
「もうすぐ、もうすぐ」と胸がドキドキと高鳴る。
ついに郡山駅に到着。また乗り換える。嬉しくて嬉しくて少しでも懐かしい景色を見ていようと窓にしがみついていると、東京方面のホームに進駐軍が小銃を持ってガムを噛んでいた。「あー、これが進駐軍かあ」と思ってジーと見る。
背の高い、コックが被るような帽子を被ったカッコウの変わった進駐軍が日本の綺麗な女の人と「キス」というのだろう,口と口をつけていた。 感心するやら驚くやら、狐につままれた感じである。
「この連中と俺たちは戦っていたのかあ」
女も女である。随分変わってしまった。何がなんだか訳が解らなくなってきてしまった。
まもなく汽車は故郷に向けて動き出した。誰か知っている人は居ないか見回したが、誰も居なかった。
前にも増して汽車が遅く感じられる。
夕方四時も過ぎた頃、ついに生まれ故郷の駅のホームに足を下ろした。再び生きてこの土を踏めるとは思ってもみなかった。
此処に今、自分が立っているのだ。信じられない。夢をみているのではないかとほっぺたをちょっとつねってみる。
「痛い!」やはり現実である。
荷物を持って一目散に我が家に向かう。途中の畑で父が稲を掛けるハセ(垣根のような物)を作っていた。わざと無言で父の傍に荷物をドカッと投げ下ろす。
父の驚いた顔といったら・・・。それでもぶっきらぼうに
「来たか。ああー心配の種がなくなった。こんで安心して毎日が送れるべー。んに、いかった(本当に良かった)。
荷物は持っていくけに、早く家さ行ってみんなを安心させろ」と言った。
祖父も祖母も母も家族みんな喜んでくれて、神様と仏様にご飯を上げて無事を感謝する。
「疲れたろう。風呂に入って寝ろ」と床をとって勧めてくれる。
「死ぐ目に何回もあった」と言うと、
「そうけ。運がいかった」と答えて出て行った。
農家は仕事が忙しい。芋掘り、麦蒔き、稲刈り。誰も私の相手などしてくれなかった。

「田舎に誰が帰ってきただの、誰が一杯荷物をもらつて来ただの、誰が死んだだの」と色々な情報が入ってくる。
「思ったよりアメリカは紳士的でやさしいだの、悪い事もしないだの。日本人を奴隷にする事もなく心配ないだの」と話題は尽きる事がない。

次の日、母が親類に喋ったのか村の長老が来て、
「福治さんも無事に帰ってきたんだって。良かったねえ。明日十時から氏神様で帰還祭を催すので出席できたらお願いします」と言って帰る。

次の日、村の鎮守様に行くと、予科連の七つボタンの制服を着た者から、陸軍の将校や海軍の将校の軍服姿、階級章を着けていれば敬礼したいような新しい軍服姿の兵隊など大勢いた。




こんなにたくさん、村から兵隊に行った人がいたのかとビックリした。みんな自慢話をして賑やかであった。
私はといえば、地下足袋にヨレヨレの民間服姿である。恥ずかしくて逃げ出したかった。
神主が、
「ハライタマエ、キヨメタマエ。山あり、川あり、困難辛苦を乗り越え、無事帰還できました」とか何とかよくわからないが神に感謝の言葉を述べていた。
「何が神様だ!神風も吹かなかったくせに」と思いながら聞いていた。
祈り終わると神主が私たちの方に向き直り、「日本が滅びる寸前に、神様が皆さんを救い無事帰還させたのです。すべて、神様のおかげです。これからの日本再建に頑張って下さい」と話した。

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

11章 終戦

 

八月に入り暑さも厳しく、毎日裸になってポンプで水を汲み上げる作業をしていた。
それが終わると海で泳ぎ、川で体を洗った。石垣に潜っているウナギを竹の枝の先に餌をつけて取って食べたりした。
タバコも無いので吸いたい人は松の葉やいたどりの葉を雑誌の紙に巻いて吸っていた。
この頃では敵ももう焼きつぶす場所がなくなってきたのか空襲は少なくなる。本土決戦に備えているのだろうか?陸軍などは弾を撃たなかったので、敵機はたまに来ては悠々と飛んで正確に軍の施設や工場を爆撃していた。
鉄砲も銃剣も無い兵隊が一杯居ると聞き驚く。鉄砲も無いのによく「戦争しろ」などと軍部は言えるものだ。
これでも戦争に勝つのだろうか?日本はどうなのだろうか?それでもみんな「まだ、勝つ」と信じていた。


八日過ぎた頃、農家からタイヤの無い荷車を借り、二、三人で配給の食糧を取りに敦賀に行く。
すると、至る所に立て看板があった。そこには
「敵は死に物狂いで新型爆弾を広島に落とした」と書かれていた。他にも
「触れると火傷をする」とか、
「白い物を着れ」とか、
「光を見たら注意しろ」とか書かれていた。
航海士が、
「何か話では凄い爆弾らしく、今までの何十倍の威力でかなりの犠牲者が出たらしいと聞いた」と言う。




食料を取り、ガラガラと車を引いて石ころ道を汗を流しながら船に帰った。
毎日、ジリジリ照りつける太陽が、空に我が物顔で居座っている。相変わらず、ふんどし一枚で排水作業に汗を流す。
ダレてくると海に飛び込み体を冷やし作業を続ける。
死んだ賄いの代わりに敦賀から臨時で日本海汽船のコックが乗船してきた。
話では敦賀の近くの福井県出身だそうだ。乗る船も無く待機していたらしい。
船が敵に沈められ、日本海汽船には乗る船が無く困っていたそうだ。
わずかな情報では、沖縄も完全に米国の手に落ち、機械化部隊が二、三日で飛行場を作り、本土を襲っているらしい。
「♪貴様と俺とは同期の桜、 同じ航空隊の庭に散る」と、反撃に各飛行場から
「神風特別攻撃隊」として志願兵の大学生たちが祖国のために、片道の燃料で、水杯を交わし沖縄の戦艦や航空母艦に体当たりして戦果をあげているらしい。
私は単純に、
「百機くらい飛ばして敵の奴らを叩き潰せば良いのに」と思った。
「本土決戦に備えて余り飛ばさないのかもな」と仲間同士で話したりした。

数日して、敵は九州にも新型爆弾を落としたらしいと言う情報が入る。
イタリアが降伏したことは前に聞いていたが、今度はドイツが連合軍に降伏したらしいと聞く。
頼みのドイツのヒトラーが自殺したとか、日本は世界を敵にまわしても最後まで戦うらしいとか色々なことを耳にする。
しかし、仲間のドイツの降伏はみんなかなりのショックを受けたらしく考え込んでしまう。
「日本は神の国だから日露戦争にも買ったんだ。必ず神風が吹くから大丈夫」と誰かが力づける。




今日は空襲も無く、のんびりと小川で体を洗う。夕方、晩飯を食べた後一息つき「ホッ」とした頃、
「大変だあ」と、誰かが陸から帰ってくるなり大声で叫ぶ。
「ソ連が宣戦布告し、戦車で満州に攻め込んで来るらしい」と言う。
「冗談言うな。ソ連とは戦争をしない条約を結んでいるじゃないか」
「本当だって。ラジオで聞いたんだから」と真剣に言う。
しかし、誰も信じない。まもなく別の人が帰ってきて同じ話をする。
「どうやら本当らしい」
みんな深刻になる。
「これからどうなるんだろう?」などいろいろ話す。
「ソ連の野郎、裏切りやがったな」
「畜生!」と歯ぎしりしたり、悔しがったり、地団駄踏んだりとみんなやるせないといった表情である。
「日本は駄目か?いやいや、田舎にはバリバリの在郷軍人が一杯居るから心配ない」
「奴ら、ただ殺してやるから安心していろ」など強気な会話をした後、眠りについた。
次の日も排水作業に何もかも忘れて打ち込んでいた。これからどうなるかなど考えてもどうにもならない。成り行きに任せるより仕方が無い。


この頃、何だか不思議なくらいに空襲警報が無く「変だなあ?」と思っていた。
今まで敵の飛行機が毎晩襲ってきていたのに、今では不気味なくらい空襲が無く静かである。敵は本土上陸に備え、着々と準備をしているのだろうと想像していた。いよいよ本土決戦が近いとみんなは予期していた。

「何か、明日、天皇陛下が十二時に放送するらしい」と聞く。
なんだろう?きっと
「最後の一兵まで戦え。上陸する敵を全滅させよ」という言葉であろうと思っていた。
よし、明日はラジオのある家に聞きに行こうと決めた。
ところが、賄い長と甲板長が話し合っていて、
「食料の配給を取りに行かないと、おかずに出すものが無い。安藤を借りて、敦賀駅の先の倉庫に配給の魚をとりに行ってもらいたい」と言われてしまう。
朝起きると、今日も一日暑くなりそうな日であった。ポロポロの黒い麦の飯に、塩汁だけは腹いっぱい食べられた。飯を食べ終わると、賄い長と一緒に農家に荷車を借りに行く。
賄い長が話をして、頭を下げて借りた後、
「これで頼む」と配給の切符を出し、
「ここで受け取ってきてくれ」と説明を受けて別れる。
それからトボトボと石と砂利の道を江戸時代の大八車の引き綱を肩から胸に掛けて、両手で支えながら敦賀に向けて歩き出す。山道は日陰で良いが、海岸になるとジリジリと照りつける太陽で汗だくだくであった。
曲がりくねる道を歩くだけでも大変なのに、カンカン照りと車引きの三重苦であった。時たま、軍のトラックが凄い埃を出して通過した。
トンネルには焼け出された連中が涼しそうにドラム缶の上にむしろを敷いて寝ていた。
トンネルを過ぎると焼け野原の敦賀の町が遠くまで見渡せた。坂を下ると、鳥居だけの気比神社の森があった。
焼け跡の町には犬小屋のような、焼けトタン板で作った家があちらこちらにあった。
水道の水だけは、焼け跡から吹き出ているので、不自由なく飲めて助かった。

駅に来ると、あっちこっちに出征するらしい大学生や民間の人たちが、仲間の寄せ書きしたペロペロの日の丸の旗を両肩から腰に掛け、勇ましく軍歌を歌い賑やかに見送られていた。


不思議に空襲の被害に遭わなかった駅の近くの倉庫で、配給の氷箱に詰まった魚の木箱を二つ受け取り車に積んで帰りを急ぐ。
天皇陛下からのお言葉は何なのかこの耳で直接聞きたいからである。
しかし、いくら急いでもとても間に合いそうにない。残念だが諦めるしかない。
車からは氷が溶けて、しずくが垂れて落ちていた。
一時半頃、やっと飯を食べたお寺の所に到着する。汗まみれの額を手で拭う。
すると、私の横を陸軍の兵隊たちが何か気の抜けたようにダラダラと歩いて行く。


「陛下のお言葉を聞いたのになんてだらしが無い。いよいよ決戦なのにこんなだらしの無い兵隊でどうするんだ」
と腹立たしい気持ちで睨んだ。

また、必死に歩き出す。何かあちらこちらから、
「戦争に負けた」とか、「終わった」とか聞こえてくる。
しばらく行った所で農家の子供たちに会った。
「戦争に日本は負けたんだって」と言う。
「デマだろう」と私は言った。今の兵隊は朝鮮の兵隊が多いからきっとデマを流しているんだろう。


気にせず、私は魚を伝馬船に積み、荷車を返して船に帰る。
船に乗ってすぐ先輩に聞いてみる。
ガーガー、何を言っているのか良くわからん。『忍び難きに忍び、絶え難きに耐え・・・』とか何とか良くわからないが、とにかく負けたようだ」
「何しろ戦争は終わったんだ」
「いや、これから戦うんだ」とかそれぞれ色々なことを言うので訳がわからなかった。
誰も仕事をしようとしない。皆、深刻に考え込んでいた。
「女はアメリカの遊びにされ、男は奴隷にされ、日本民族は滅ぼされアメリカの国になってしまう」など勝手に想像していた。
私にはこれからどうなるのかなど想像もつかなかった。
晩飯を食べてから、みんなで陸に上がり、ラジオのある家に聞きに行く。そして、みんな真剣にラジオを聞いた。
「内閣が辞職して、鈴木内務大臣になった」とか、
「誰が責任を取り、自殺した」とか余り良くわからなかった。結局、誰も何もわからなかった。

その夜は、深刻に日本の将来とか今後どうなるのかなど色々話をした。しかし、話し合ってもただ悲観的な考えだけで明るい話や前向きの希望のもてる話は無かった。
「無条件降伏」という言葉がよくラジオで聞かれたが、私は意味が良くわからなかったので先輩に聞いた。
「アメリカの言う通りになること。つまり、奴隷になることだよ」と教えられた。


ただ毎日、飯だけを食べ誰も仕事をせず、ボーとしているようにブラブラしていた。敦賀から来た人が、
「今まで捕虜だった奴が、監視だった兵隊に車を引かせて後ろをブラブラ歩いていたよ。まるで逆になった」と言った。士官が、
「戦争も終わったし、空襲も無いから、暑いので一番ハッチの上にオーニングカバーテントを張ることにする」と言い、作業を開始する。
終わると、泳いだりテントの下で涼しい風を受けて昼寝したりと自由気ままにしていた。

次の日、陸の農家の新聞を見てみんな驚いた。
「七十五年間、草木も生えぬ広島・長崎」とか、
「人も住めぬ町。瓦まで溶かす恐ろしい、かつて無い原子爆弾。悲惨。被害甚大。人々は水を求め、何十万の犠牲者」と書かれているではないか。
「ちくしょう。アメリカの野郎。悔しい」と思ったが、
「これじゃあ、戦争に勝つわけがない」と諦める。
「軍の指導者が責任を取り、拳銃自殺した」とか、
「武装解除」とか、何がなんだかわからないことだらけであった。世の中は完全に混乱していた。

夕方、朝鮮の方から来たのか、二、三艘の貨物船が入ってくる。その中に「御代丸」がいた。同じ会社の船である。
みんな懐かしさで手を振る。機雷にでもあたらなければ良いがと心配する。心配をよそに御代丸は無事に入港する。
海軍の兵隊は機関砲を取り外し、五、六人残して解散する。そして、それぞれの故郷に帰って行った。
「羨ましい。我々はどうなるのか?」
乗組員の朝鮮人もいつの間にか帰って居なかった。
次の日の昼頃、米軍の飛行機が低空で飛んで来て、敦賀の連合軍捕虜に食料や衣類、日用品らしいものを落下傘につけて一杯落としていった。
話では、その次の日は見違えるような軍服姿になり、専用列車で金沢の方に行ったそうだ。
新聞を見ると、「米軍司令官マッカーサーが厚木飛行場に到着」とか、
「連合軍どこそこに進駐」とか書かれていた。
みんなどこに逃げているのか心配であった。

一週間も過ぎた頃、海軍の掃海艇がドラム缶の筏を曳き、掃海を始める。
「アメリカが船で来て、自分で落とした機雷で沈めば良いのに」とみんなで話していた。
その日の夕方、御代丸が朝鮮に日本人を引き上げに行くと、五、六艘で出港した。
「キセンノ、ブジナ、コウカイヲ、イノル」と旗流信号をあげて見送っていた。
無事に港を出るかと思う間もなく、
「ドドーン」と機雷に触れて一瞬波を被った。
「大変だあ!」
見ていると、御代丸は陸に向かって海岸にのし上げるように進路を変えていた。
その内、改E型八百八十トンの戦標船なども機雷に触れて沈んで行く。すぐ、敦賀から曳き船などが向かっていた。私たちもすぐ支度をして、御代丸へと急いだ。
山道の曲がりくねる海岸道の北陸道を敦賀と反対の出口の方に向かった。だいたい四キロくらい歩いてやっと到着した。
海岸際にまで御代丸がのし上げられ、陸から船まではすぐであった。幸い、機雷爆発が遠かったらしく、被害が少なくてみんな無事であった。
「ああ、良かった」
今日はゆっくり話ができるような状態ではないので、
「また、後から来るから」と言って私たちは帰ることにする。

山道の帰りはとても疲れた。すると仲間の一人が、
「もし、トラックが来たら俺が止めて乗せてもらえるよう頼んでみるから」と言い出した。
そこへタイミングよく遠くからトラックが走ってきた。手を上げてトラックを止めた。
乗せてもらえるか話をしようと近づいて、ふと荷台を見ると、今、機雷でやられた戦標船の連中が血だらけでうめいていた。もうすでに死んでしまっているような人も居た。
「いいです。申し訳ありません。すぐ走ってください」と敬礼した。
トラックは再び煙をあげて敦賀に向かって走って行った。
「戦争が終わったのに可哀想。痛いだろうに。これからあの石ころのゴロゴロした砂利道を病院まで行ったら、傷口も大きくなって半数以上が死んでしまうのではないだろうか」
私たちは諦めて、トボトボと歩いて帰った。

次の日、ランチが艀(はしけ)を曳き、本船に来た。武装解除のため、機銃や機関砲を回収するそうである。本船の兵隊たちが舐めるように磨きに磨いていた大切な機銃などは、ごみを捨てるように艀に投げ込まれていた。兵隊たちは弾を海に捨てていた。
「機雷は後で処理班が来る」と言って解散した。
全部荷物をまとめてそれぞれの故郷に帰って行った。

汽車は復員軍人で一杯であり、連結の所や客車の屋根までと乗れる所はすべて人で埋まっていて、トンネルで窒息死するものや振り落とされて死ぬ者などが後を絶たなかったそうである。
みんな故郷に急いでいた。
しかし、急いで帰っても、空襲で親や兄弟を失って誰も迎えてくれない者もたくさん居た。帰る所のある者はまだ幸せであった。
新聞では、
「東京湾において、戦艦『ミズリー号』の艦上で日本国と軍や内閣の降伏調印式があった」とか、
「東條内閣はどうなったか?今どうしているか?」とか、
「責任とっていつ死ぬのか?命が惜しいのか?」とか、
「戦争犯罪人として連行される」とか色々書かれていた。
しかし、世の中は少しずつ落ち着きを取り戻しているように感じられた。


なんだかんだと九月になり、船では買い出しや排水作業をまた始めるようになった。農家にも明かりが灯り、まさに戦争が終わったんだと感じられた。
私たちはいったい今後はどうなるのだろうか?会社も先がわからない。まして軍はなくなってしまったので、軍関係はどうなるのか皆目検討がつかない。
解散できないまま、ただ暮らしていた。
船ではもう今までの上下関係は無く、腕力のある連中が上に立った。
夜は賭博をうったり、村の娘を冷やかしたり、また、どこから聞いてくるのかどこの倉庫に何が入っているという情報を得ては、軍の倉庫の手薄を狙い塩を盗んできた。
なぜなら、村では塩一升は米一升と交換してもらえるからである。それほど、塩が不足していたのである。

夜は軍の監視の目をかわして泥棒し、昼は寝ていた。また、仲間を見舞いに病院へ行けば手当たり次第に革靴や、色々の物を盗むなどメチャクチャな生活を送っていた。


何日かして、機雷処理班の若い海軍の連中が海防艦でやって来た。何で帰らないのかと聞くと、
「家に帰ったが親も兄弟も誰も居ないので、また艦に戻って来た」と答えた。
「ここは飯の心配もなく天国だよ。これからは仕事もなく、失業者が溢れるばかり。ここは給料ももらえる上に特別配給もある。それでみんな戻って来た者ばかり」と言う。
そして、楽しそうに歌を歌いながら、板を敷いて機雷を倉庫から転がし海に捨てていた。

潜水艦に終われ、今にも船がやられるかという危ない時にも最小限に節約していた機雷が惜しげもなく
「ドブーン、ドブーン」と海に捨てられて行く。
節約したために逆にやられて死んだ者もあったかも知れない。命と引き換えにしてまで大切にしていた機雷が今はごみのように無残に海に沈んで行く。なんともやるせない。
捨て終わると、また次の船に向かって艦は動き出した。去って行く彼らの後姿を見ながら
「俺なんかは田舎があるから幸せなんだ」と思った。
自分の家が、そして家族が心配で夜も眠れない者の中では、大阪や近県などの近い人にだけ様子を見に行く許可が出た。

もう九月半ばである。少しなりとも落ち着き、村にも復員してきた若い者を見るようになる。

その頃、我々を大阪の会社から内海海員養成所まで迎えに来てくれた配乗の落田さんが、やせ細ったキリギリスのようになり、骸骨のように目だけギョロギョロさせて苦労して船にやって来た。
船長が喜んで迎えた。そして、士官たちと何かを話していた。後で聞いた話では、大阪はどこまで行っても瓦礫の山と焼け野原であるそうだ。
凄い空襲だったそうで話にならないらしい。被害とか惨禍とか犠牲とかいう言葉を通り越しているそうだ。
その上、食べ物もなく大勢の人が餓死しているらしい。配給なんていつ受けたかわからないぐらいないらしい。
まして、会社などなく、これから先どうするのかわからないそうでだ。政府船舶運営会に任せる以外ないとの事だ。
御代丸とも連絡を取って来てもらい話をしたらしい。帰るとき、米を土産に持って帰った。

その頃、新潟の連中が帰り始める。
「長岡なんか空襲で焼けないから、電気を煌々と付け、町はレコードをジャンジャン鳴らしていてすごいそうだ」
「遊ぶんなら長岡で遊んで帰れ。平和ってすごいぞ」
「これから世の中が良くなるぞ」などと明るく会話をしていた。
今までの暗い話から少し前向きの新しい話を聞き、救われた感じがした。
北陸にも秋の気配が感じられ、朝夕涼しくなって来た。時には寒さも感じられ波も荒くなる。稲も実り、農家は稲刈りで忙しいらしい。
日本海の海は一寸先も見えないほどの猛吹雪になるそうだ。
二、三日して敦賀から曳き船が艀を曳いて来て、本船に横付けにして帰って行った。何かと思ったら、冬は越せないので船の備品やロープ、ワイヤーなどの道具、そして備え付けの物で外せる物はすべて外して敦賀の倉庫に納めて解散するとの事である。
「解散」と聞いて、嬉しいのだがまだ実感が湧かなくて変な気分である。
ただ帰りたいと思うだけで家に帰ってあれがしたい、これがしたいという希望は何も無かった。よく考えてみると、一月に帰ったばかりなのである。
でも、何年も帰っていないと感じるほどに色々なことがあった。
長かったような短かったような何ともわからない日々であった。ただ、無我夢中に時を過ごしていたのだと、今、振り返って初めて感じる。
上役の士官が、
「今日からは機関部も甲板部もない。みんな一緒に片付けをしよう」と話す。
機関室には、石炭を焚いたスコップやスパナやモンキーなど以外は何もめぼしい物がない。
そして、めぼしい物はすぐに誰かが目を付ける。スコップなどは、
「俺の家は炭焼きをやるから俺が貰う」と新潟のやろうが一番に言い出した。
甲板には、ワイヤーや滑車ロープ、チェーンなどの他はやはりめぼしい物は見当たらない。
しかし、みんなそれぞれに目を付けてボートの帆などは、
「帰って漁師をやるから」と言って、海で育った連中が喧嘩腰で奪い合っていた。
帆などは着る物の無い時など何にでも使えたからであろう。
ハンマーやペンチなどみんないつの間にか無くなっていた。
自分は欲が無いのか、これといって欲しい物が無かった。
船橋に行ったら、航海しない時に羅針儀(コンパス)に被せるカバーがあったのでこれを貰うことに決めた。
大きい物を入れるための袋の代わりになるので、これに衣類を入れて帰ればよいと思ったからである。舵取りが、
「安藤に先を越された」とこぼしていた。
どうやらみんな目を付けていたらしい。片付けながら、あれもこれもと大変である。しかし、誰でも欲しがる時計などは、
「駄目」と一等航海士が言う。
いくら欲しがっても、倉庫に納める物は駄目と言ったら駄目なのである。
昔の船なので航海用のランプ類が多かった。ペンキも石油も無い。めぼしい物は本当に何も無いのである。
欲しい物があったとしても、重い物は駄目なのである。ただでさえしんどいのにこれ以上荷物が増えては山道を越えられない。
まして人だけで一杯の汽車に乗れるはずがない。欲を出すと結局あとで捨てることになってしまう。

午前中は第一倉庫(ストアー)、午後は船橋とかに分けて整理した。船橋は望遠鏡とか海図、信号機などみんなが欲しがる物が結構あったが全部、
「駄目」
時間を知らせた鐘なども
「学校に寄付するから」と目を付けた者が居たが、
「駄目」
駄目と言われた物などを艀に積む作業が終わると、みんなそれぞれハッチカバーを切り裂き、鞄を縫ったり、リュックサックを縫ったりと袋作りなど帰る準備でそれぞれが忙しかった。早く帰りたかったので、みんな夜遅くまで掛かって夢中で縫っていた。二日ぐらいで全部片付き、最後にオーニングテントカバーを外してみんなで縫い目から破き、分け合った。賄いはまたお寺に引っ越した。

ところがその晩、もの凄い台風が襲って来た。
次の朝、起こされて艀を見ると、本船とつないでおいたロープが風で飛ばされて切れたらしく、見る見る海岸際まで流されて行く。波に揺られている間は良かったのだが、浅瀬で泊まってしまい動けなくなると今度はもろに荒波を被ってしまう。艀は水と砂にまみれてメチャクチャになって少しずつ埋もれて行く。二日も苦労してやっと積んだワイヤー滑車、ランプや時計、ハッチカバーなどが全部海岸に沈んでしまう。
「こんな事になるんだったら、みんなにくれれば良かったのに・・勿体ない」とみんなからため息がもれる。

 

11章「生きて故郷へ」に続く

第10章 七つ役(ななつえき)の死

 

次の日、舞鶴から連絡があり、
「曳き船が近いうちに行き、本船を曳いて舞鶴のドックに入れる。準備に掛かれ」との話である。
お寺から賄い部が全部引き上げる。
引越しを済ませてまた船で食事をするようになる。
お世話になったお寺や近くの農家の人たちにお礼をして別れる。
舞鶴行きを喜び、曳き船を待った。



一日待って、曳き船が来た。曳き船の蒸気を使い、錨を上げ、準備が出来て曳き始める。
曳き船が右からと左からと曳くがビクともしない。いくら曳いても動かない。
必死になって曳くが力がないのか少しも動かない。ついに諦めて、曳き船は舞鶴に帰って行った。
次の日、大勢の海軍の兵隊が来て、ガチガチに固まったセメントを一俵、一表滑車で吊り上げ海に捨てて船を軽くするという。
ハッチを開け作業に掛かるが、人力で固まったセメントを上げて海に捨てるのは大変な仕事である。
「焼け石に水」で仕事は少しも進まず、結局効果があがらなかった。
一日で諦めたのか、兵隊は次の日から来なかった。
こんな調子で、舞鶴行きもお流れで、水の汲み出し、食料の野菜の買い出し、泳ぎの練習の日課が続いた。
そのうちかなり泳ぎに自身がつき、とおくまで泳ぎに行くようになる。
海草やウニなどを取りに出かけるようになり二、三日過ぎた晩、また空襲があり爆撃機がいっぱい来た。
しかし、敦賀を通り過ぎ、福井か長岡か、どこか知らないが飛んで行ってしまった。
暫くすると空が真っ赤な夕焼けのように明るくなる。
何処だかわからないが空襲で焼かれているのが見える。
敦賀と同じように、町が悲惨な焼け野原になるのかと思うと悔しさで一杯になった。そしてまた、
「日本はどうなるのか?」という不安で胸がかきむしられる思いであった。

梅雨もあがり、毎日カンカン照りの暑い日が続く。相変わらず水を汲み出すポンプ押し作業である。汗を拭き拭き交替で仕事をする。汗をかくと、海に飛び込み泳ぐ毎日である。
食べ物もかなり悪くなり衣類等の配給も乏しくなる。石鹸などの日用品もないので、部屋の寝台には南京虫、着るものにはシラミやノミで悩まされる。陸と離れているので蚊には刺されなかった。虫も居なかった。
今日は先輩が結核で田舎に帰るので、後輩と二人で荷物を駅まで運んで見送る。行李詰めの荷物を棒に通し、二人で肩に担ぐ。
最初は軽いと思ったが、山道、曲がりくねる海岸道などの長い道のりは、照りつける太陽の下、しんどいものだった。
日陰で休み休み行くが大変である。
敦賀の町の近くのトンネルの中は、軍の重油かガソリンかわからないが、空襲を避けて倉庫代わりに二列両方に並べられていた。その上に、焼け出された被災者が寝起きして乞食のような生活をしていた。
町に入ると、木もなくまともに太陽に照りつけられ暑く砂漠のようであった。あちらこちらに焼けトタン板やレンガを集めて生活している人が居た。大きな土管にわずかな世帯道具を持ち込み生活している人などもいて哀れであった。
ただ、焼け跡から吹き出ている水道の水が自由に飲めるのが唯一の救いであった。交通機関のバスもなく駅まで何もない焼け跡を歩き続けた。駅まで送って別れる。
彼は広島だが、途中空襲で線路が破壊されているのでいつ無事に帰れるかわからない。
朝出ても帰りは二時頃である。腹がぺこぺこでまずい飯も飲むように美味しく食べた。
帰ると、機関員の松井君に召集令状が来ていて、すぐ静岡連隊に入隊を命ぜられたらしい。


次の日、機関部は朝飯を食べた後、五、六人で敦賀駅まで見送りに出かけた。
十時頃、警戒警報が鳴り、
「若狭湾に敵艦載機数十機来襲。厳重注意せよ」と言う。
兵隊は直ぐ戦闘準備に入り空を見張る。



十一時半頃、敵グラマンが編隊で湾の方から来た。隊長の
「撃て!」の命令。
「ダダダダー、ダダダー」と機関砲が鳴り響き、敵を撃ちまくる。
船の前の通路に隠れる。鷹が獲物を襲うように敵は勇敢に襲ってくる。本船を狙い爆弾を二発落とした。
しかし、寸前のところで海に落ち大きな波が持ち上がり沈んだ。
敵は何回にも本船を狙い、機銃掃射を繰り返す。
そのうちに敦賀の艦船や鉄道、軍施設に向かって襲い始めた。

敵が去って外に出ると、
「誰かコックがやられた」と言う。
賄い部のコックが飯を炊き終わり炊事場から、
「来た、来た」と敵飛行機を覗いた時に敵の機関銃の弾にやられたらしい。
弾がボート甲板の鉄板を抜き、コックの右お尻に当たり吹き飛んだらしい。
行ってみると、甲板は血で真っ赤に染まり、お尻は白い骨のようなものが見えていた。コックは何か言おうとしている感じで苦しそうに唸り、
「ピクッ、ピクッ」と息をしていた。
残酷だがどうすることも出来ずにただ見ていた。早々に次の空襲に備える。

あっちこっちで兵隊が「弾がない。弾がない」と言うので弾を弾倉に詰めて、何回も船橋で戦闘している兵隊の側に運んだ。
船で敵の襲撃を受けると逃げ場がない。通路の奥や機関部の倉庫に逃げれば安心かと思うとそうでもない。なぜなら入り口が一箇所なので爆弾で入り口をふさがれると出られなくなってしまうからだ。
ふさがれたら周りは鉄板なので一巻の終わりである。ここが安全という場所がない。しいて言うならば、船の前の方が比較的狙われない安全な場所ということになる。

弾薬を運び船橋から帰ろうとした時、大きな声で、
「敵機来襲!」
「ダダダダッ」と撃ちまくる音。
逃げる場所がなく急いで士官食堂に逃げ込む。
そこには誰かと思ったら同期生の「七つ役」が居るではないか。昼の用意か何かしていたのだろう。その時、
「ピュー、ピュー」と凄い音と、節分の豆を撒くような
「パラ、パラッ」という音。
「ピュー、ピュー」「パラ、パラッ」
そのうちに前が見えないほどの煙に撒かれる。恐ろしさでテーブルの下から椅子の下に潜る。
ただ、夢中で逃げ惑う。だんだん煙が薄れて周りが見えてくる。
うずくまっていた顔を上げると目の前に七つ役のお尻があった。
いきなり、機関見習の吉岡が通路で「痛い!やられたー」の声。
「痛い、痛い」と唸っている。
その時、また、
「パラ、パラッ」と敵の襲撃する音がした。
すると「ウッ!」と目の前の七つ役が前につんのめるように倒れた。
「どうした?七つ役。」呼んでも返事がない。
暫くしてやっと静かになる。どうやら敵は去ったらしい。すぐ、七つ役の所に駆け寄るがすでに息は絶えていた。
愕然とした。自分の目の前で同胞が死んでしまうなんて・・・。
「馬鹿野郎ー、なんでやられちゃったんだよう。生き返れよ、七つ役!」
いくらゆすっても反応はなかった。

悲しんでばかりは居られない。すぐ気を取り直して外に出て甲板長に報告する。
「何!、やられた?」
誰もがショックを隠しきれない。
やられた機関員を誰かが船に乗せて陸地に向かっていた。どれくらいの怪我かわからない。
「誰かが、腹が減っては戦が出来ない。飯食うべ」と言った。
死んだ者は仕方がない。どうしようもない。いくら嘆いても帰って来ないのだから。
飯を取りに賄いに行くと、コックは舌を半分出し、白い顔で人形のように無残な姿で死んでいた。
時間は三時頃である。コックが最後に炊いた飯をみんなで食べる。
「もう、炊いてもらえないんだなあ。可哀想に」と誰かが一言喋るとみんな無言になる。
その頃、見送りに行っていた機関員たちが無事に帰って来た。
「駅でグラマンに狙われ、タジタジだったよ。焼け跡で逃げ場を失い危なかった。危機一髪で助かったよ。
奴ら、鉄道や汽車を狙い、めちゃくちゃに爆弾を落としやがった。鉄道と駅がやられたよ。いつ汽車が動くかわからないらしく兵隊に行く松井を仕方ないから置いて帰ってきたんだ」と言う。
結構損害が出たらしく死んだ人も出たらしい。怖かったそうだ。
しかし、本船が襲撃されて犠牲者が二人も出たことを聞いてもっと驚いていた。
兵隊が
「これを見ろ」と敵の弾でボロボロに穴があき破けちぎれているズボンを見せてくれた。
「凄いなー」
運が良い人は本当に運が良いんだなあ」と感心してしまう。
飯を食べてから、私と大工二人で古い板を集めて間に合わせの棺箱作りを始める。ありあわせの板で簡単に作る。
出来上がると、コックからそっと毛布に包み、血が流れないように油紙を敷き棺に納める。
花も何も無い。誰かが「水を」と言い唇を濡らしてあげる。それから蓋をした。

爆撃の時は、爆風で鼓膜が破れるのでみんな人差し指で耳を塞ぎながら隠れる。
七つ役もそのようにして隠れていたところに耳から耳に弾が抜けてしまったらしい。両方の指が第一関節から吹き飛んでいた。弾の抜けた方の耳は大きく穴があき、どす黒い血が流れていた。とても哀れな死に方である。
「まだ若いのに」と賄い長が涙を流しながら水をあげていた。

 



私と同じまだ十四歳である。
人生の三分の一も生きていないではないか。何も楽しいことも無く、何も贅沢することも無く、美味しい物も食べられず、笑うことも許されず、ただ毎日苦しみと恐怖だけだったのではないだろうか?
いったい何のために生まれてきたのだろう。いったい私たちは誰のために生きているのか?日本のためなのか?天皇陛下のためなのか?
私たちの青春を返してほしい。

「七つ役よ、もう何も苦しむことは無いんだ。もう何も怖がらなくて良いんだよ。ゆっくり眠るんだぞ。」

七つ役は東北民謡が上手で、よく内海での演芸会でも歌っていた。上手いと評判で、名前もみんなに知られていた。よく船でも軍隊輸送の時、頼まれて歌っていた。
私とは内海時代では班も違うし、船では部が違うのでそれほど親しく付き合っていたわけではなかった。しかし、棺に血のついたまま入れられた姿を見るととても悲しい。
物が無いので何も一緒に入れてあげられないし飾ってもあげられない。そのまま蓋をして船に乗せ櫓を漕いで陸のお寺に安置した。
海岸ではよく、戦争で死んだ人を薪で積んで一晩がかりで焼いていた。
七つ役は何処で焼かれたのだろうか?その後はどうしたのだろうか?私には一切わからなかった。また、聞きもしなかった。
賄いのコックにも広島に妻と子供が居るそうである。どんなにか奥さんが悲しむことであろうか?
事務長が荷物を整理し、舞鶴に事務手続きに行くらしい。休む暇も無く、甲板部は飛び散ったコックの血や肉の破片の掃除をする。肉片は天井板にもこびりつき、ブラシでは落ちないので薄い鉄板で掻き落とす。
気持ちが悪いが、嫌とも言えずに渋々みんなで後片づけをする。海から海水を汲み、何回も洗い流した。
夜は賄い部の近くに行くのが嫌であった。何だか亡霊が出そうな気がするのである。


戦争とは悲惨なものである。明日は我が身である。人が毎日死ぬのを見ていると、だんだん悲しいとか感じなくなってくるのである。涙も出なくなり、無表情になってしまう。何も感じなくなってしまうのである。何と恐ろしいことであろうか。
陸の牛乳屋のおじさんが畑に隠れて昨日の戦闘を見ていたそうだ。敵のやつらは暑いからか裸で操縦し、マストより低く飛び本船に衝き込む形で何回も襲っていたそうだ。機関銃を撃ちまくり、必死に操縦していて凄かったそうだ。顔も見えたらしい。
「あれじゃあ、犠牲もでるだろう」と話していた。
七月も最後の日の戦闘であった。悲惨と恐怖に満ちている一日が終わった。

 

11章 「終戦」に続く

第9章 機雷爆発

 

次の日朝早く錨を上げて、港と言ってもほとんど川であるが、そこを静かに下り沖に出た。
危険と言っても日本海である。見張りも人数が少なく、緊張感のないものであった。
昼間走り続け、若狭湾に進路を取り、今日は早いが四時ごろ福井県の敦賀港に入港した。
湾の周りは山々に囲まれていた。
直ぐボートを下ろして港の倉庫に魚や鯨肉などの食糧を取りに出かけた。
ちょうど倉庫に係りの者がいなかったので、これ幸いと町をぶらぶら歩いた。思ったより大きな港町であった。
やはり昼間から行く所は遊郭である。冷やかして歩いて行くと、
「兵隊さん。遊んで行って」とか、
「今晩待っているからね」などと女が騒いでいた。
さすが大陸との貿易港である。大きい女郎屋がたくさんあった。
北陸の大きな町といった所である。船や漁船が結構入っていた。
倉庫に戻り、マグロや野菜など色々の配給を受け取ってからボートを漕いで船に帰って行った。


その晩、B29爆撃機が来襲、北陸にとっては初めて機雷をばらまかれた。再び完全に港を封鎖されてしまった。
掃海艇は舞鶴軍港から来て掃海するので、港を出るのは、かなり時間がかかりそうだ。
次の日から二、三艘の掃海艇が行ったり来たりと忙しそうに掃海していた。
「ボーンボーン」と爆発を繰り返していた。
近い所で機雷が爆発すると、潮の流れに流されて船の周りに鯛やひらめなど色々の大きな魚が口をパクパクさせ浮かんできた。
腹綿が飛び出ている魚が流れてきたりと、死の一歩手前である。
これチャンスとばかりボートを漕ぎ出した。航海士が双眼鏡で魚を見つけて合図をすると、それに向かって漕ぐ人、ザルですくう人とそれぞれ必死になって魚を一杯取った。
「わあ、わあ。きゃあ、きゃあ」と子供に返ったようにはしゃぎまわった。
「アメリカからのお土産だ」など冗談を言って、刺身や吸い物にして腹いっぱい食べた。
入梅なのでぐずついた不安定な天気が続く。
小雨の日が多い。雨の日は空襲も無いので町は静かであった。
海は水が綺麗で透き通るような青々としていた。
港の岸壁には大勢の連合軍捕虜達が積み下ろしの荷役作業をしていた。
舞鶴から来た二艘の掃海艇は相変わらず、鉄の浮きやタンクを長く曳き、時々凄い音を立てて機雷を爆発させていた。
何も知らない朝鮮の方からの船は、掃海の終わらないうちに次々と入港して来る。危険である。


もう、一週間も待っている。
六月二十九日。思い返すとちょうど昨年の今日電報が来たのである。
「生きて帰れるか、死んで靖国神社に祭られるか」と寂しく故郷を離れてきたのである。

家族に見送られ、別れて一年経った。
何とか幸運に恵まれ生き延びている。
今日は新潟に向け出港するらしい。何しろ出ないことには、何時また今晩にも大型爆撃機で機雷をばらまかれるかもしれない。
二時ごろ、次々と錨を巻き上げ出港した。錨も上げ終わり、船は速力を出し何事も無く走り続ける。
「もう、大丈夫」と仕事も済んだので、安心して風呂にでも入ろうと裸になりかけた。
すると甲板長が、
「まだ港を出たわけでわない。風呂は早い」と注意された。
「何を言うか。仕事は終わったんだ。死のうが生きようが俺の勝手だろう」と思った瞬間、
「ドドーン!」と凄いショックを受け、持ち上げられる感じがした。
「やられた!」と裸で外に飛び出した。
船橋で船長が何か怒鳴るというか、大きな声で、
「焦るな!落ち着けー。船は沈まない」とか言っているようであった。
直ぐ部屋に帰り、夢中で、上陸する時の一張羅を着て荷物を持ち甲板に出ようとした時、
「何しているー。船は沈まない。錨を下ろすから船首に来い」と言われる。
「ほらボートを下ろせ」
そのうち錨をガタガタ下りる。
海軍の兵隊を乗せた曳き船が横付けにされ、海軍の泊地応急隊が乗り込んできた。
船を陸に上げるとの事である。直ぐ錨のチエーンを切る道具をだす。
夢中で錨の継ぎ目から鎖を切り、浮きをつけて海に捨てる。
本船は曳き船に曳かれて陸に向かっていく。
何が何だか夢中で解らない。どんどん陸に近づいて行く。
気が付くと海岸で小学校の生徒達が見ており、
「ガンバレーガンバレー」と声を掛けているのが聞こえた。
間もなく船は、
「ドドドドー」と砂浜に乗り上げられた。
ホッとして後ろを見ると、船は後ろ甲板まで沈み哀れな姿になっていた。
船室は寝台まで海水に浸かっている。
吃驚するやら、ショックを受けるやらである。
「まあ、不幸中の幸いである。どうにか沈むのは免れたのだから犠牲者は少なくて済んだ事だろう」と思いながら、上甲板に出て顔が引きつってしまった。考えが甘かった。
煤だらけの機関員達が、苦しそうに唸る者、顔から血を流しわめく者、うずくまり泣く者と悲惨な状態であった。
一緒に見習いで入った小さい藤村も傷を負っていた。なんとも,やりきれない気持ちである。
曳き船は仕事が済むと、怪我人を乗せ敦賀の港に急いで帰る。
ボート二艘には本船が沈むと思ったらしく十三ミリ機関砲をばらし、必死に積んだらしい機銃がたくさんあった。

運の良い相州丸。困難を乗り越えてここまで無事に航海してきた相州丸。危険を紙一重にかわし、魚雷など受け付けなかった幸運の相州丸。
何もかも信じ切っていた私の船、相州丸。
まさか機雷なんかで沈むなんて信じられない。
しかし目の前には哀れになった相州丸があるのである。
不幸中の幸いで、機雷が離れて爆発したので普通より被害が少なくて済んだ。
まともに受けて爆発していたら船は沈み、おそらく半数以上の死人が出たであろう。
犠牲者が少くなかったのは本当に有り難いことである。どうにか助かったのだ。
安心して食堂に帰った。
食堂は食器や棚から落ちたもので滅茶苦茶である。足の踏み場も無いほど散乱している。
部屋もゴミ箱のような有様であったが、何とか寝れるようにだけは簡単に片付けた。乾パン食べて寝た。
電気も付かない。蒸気もないから風呂も沸かす事も出来ない。不自由な暮らしになる。

次の日から一時、陸のお寺を借りる事になる。鍋や釜、食器類を移し、賄い部は全員陸に移る事になる。そして食事はお寺の本堂ですることになる。
朝、昼、晩、伝馬船を漕いて陸に上がり、飯を食べに通うわけである。
朝起き、村の道を通ると田んぼには田植えされた稲の苗が青々と茂っていた。懐かしい感じである。
お寺も田舎のお寺と同じ位の広さで、故郷を思い出し恋しくなる。
いつもの狭い船の食堂から、久しぶりの大きな本堂での食事は何か変わった感じで美味しく感じた。
飯を食べ終わると船に帰り、片付けをしたり、点検をしたりと作業をする。

驚く事が沢山合った。太くて新しいロープが機雷のショックで何本も切れていたり、リベット鋲やボルトやナットまでが見事に折れてしまっていた。
船尾後ろの方はかなりのショックを受けていたらしい。
片づけが済むと後は仕事もないのでブララブらしている。機関の連中は船が沈んでいるので仕事はなかった。
本も無いしラジオも無いのでごろごろするだけの生活が続く。
風呂も無いので、農家に行って入らせてもらう。
その家に娘がいようものなら、直ぐ情報が飛びかい、噂が広まり風呂もらいが楽しみになるようだ。 
この頃から食糧も悪くなり。米も配給が無くなり毎日麦だけである。味噌も少なく塩汁が多くなる。
買出しに行く有様で賄い長も大変である。 

雨が降り続け、空襲もなく静かであった。
時々、牛を飼っているおじさんの家に行って牛乳を分けてもらって飲んだ。
しかし、何時の間にか皆んなに広まってしまい行く度に値が上がり、後のしまいには「米と交換だ」と、まで言いだした。
海岸では漁師が地引き網を大勢集まって引いていた。よく手伝いに行って、小さいアジや鯛の小魚や雑魚を分けてもらい、薄い味噌汁で食べた。
今日は遭難した位置測定のためボートを漕いで行った。海図を出し六分儀で測り、捨てた錨の位置などを確認して帰る。
海は青々としており、周りの山々も美しく、気持ちが良くボートを漕いで腹を減らし帰る。

二、三日過ぎた頃、海軍の一等兵の八代さんが見つかったとの連絡があり、兵隊達が敦賀に行くとでかけて行った。
午後から、
「おまえが行け」と言われ、一度帰った兵隊と敦賀に向かった。
北は長岡から南は舞鶴の方まで続いているらしい北陸道の、曲がりくねる海岸道やトンネルを潜り、峠を越えて歩き続ける。何と遠いこと遠いこと。
行き帰りに半日も掛かる。海岸の曲がりくねる道が直線だと案外近いのだが、湾岸を通るので大変である。

敦賀のお寺の隅のほうで身内も無く、兵隊五、六人の寂しいお通夜であった。物不足なので仏壇に上げる物も無い、形だけのものであった。
知らなかったが兵隊の話では、八代さんは機雷を受けた時、ボート甲板からボーイ見習と二人で海に飛ばされたらしい。
不運にも八代さんは金づちだった。ぜんぜん泳げなくてもがいていたらしい。
もう1人のボーイ見習は漁師の息子らしく泳ぎは得意だったそうだ。
助ける暇も無く八代さんは沈んでしまったらしい。
子供もいるのに気の毒である。
そう心の中で思いながらも、毎日機雷や空襲で人が死んでいるので何とも無関心になっているのは事実である。
人の死も平気になって、涙が出るほど悲しいと感じなくなってしまった。
八代さんは手のつけられないほどひどい状態だったらしい。
水を飲んでブヨブヨに膨れ上がり、棺桶に入れるのに大変苦労したそうだ。
形式だけのお通夜は簡単に終り、再び山道を帰って行く。

次の朝、食事に行くと内海の同期生の七つ役がお寺の新聞を振りかざし、
「甲板長、大変だ、大変だー。釜石が艦砲射撃を受けました。製鉄所に被害甚大らしいですよ」と騒いでいる。
甲板長と七つ役は岩手県生まれである。
「俺の方は、山奥で大丈夫だが、甲板長の方は全滅。大変な事になりました」
「諦めた方が良いみたいですよ」と深刻に言う。
日立もやられているらしい。 じわじわと敵は本土に近づいてきているようだ。
東京や大阪も空襲で焼けたらしいが、どうなっているのか解らない。

一週間も過ぎた頃、敦賀から通い船が来て色々の荷物やポンプを積んできた。だるま船が横付けされ、何か不思議に思っていたら、
「明日から船を引き揚げる作業をする」との話しである。
甲板員は、潜水夫のためのポンプ押し作業の手伝いに掛かるとの事である。係りの大尉が指導にあたるそうだ。

次の日から大工さん二人と潜水夫二人と大尉、そして潜水夫の命綱を操ったりホースを誘導したりする助手の二人が来て作業に掛かる。
だるま船に梯子を架け潜水夫が上がり下がり出来るようにしたりと準備に掛かる。
いよいよ仕事開始である。潜水夫は寒くないように純毛の下着を着てからゴムの大きな服を着て、鉄の靴を履く。
次にホースが付きの外が見えるようなガラス張りになっている鉄と真鍮で出来たロボットの頭のような物を被り、首から胸のあたりの所でネジを閉める。
急いでポンプを押し空気を送る。
空気が漏れないように再度ネジを完全に閉めるべくする。
おもりとして鉛の塊を背負う。
梯子から海にゴム風船のように膨らんだ潜水夫が泡を出して沈んで行く。
潜りの助手はホースを送ったり引っ張ったりする。
私達は交代でポンプを押し続ける。
潜水夫は点検しては、木型や木栓など色々の物を大工さんに注文して作らせる。そして次々と取りに来ては沈み、二時間ぐらいで交替する。長く海に潜っていると、身体が冷え切ってしまうからである。
鉄板の継ぎ目には接着剤を詰めたり、大きな穴には毛布のような物を接着剤と混ぜて詰め込むらしい。
空気の調整で浮いたり、沈んだりの作業は大変らしい。
もちろんポンプ押しも、命が掛かっているから、休んだり人を当てにして怠けるわけには行かない。神経をつかう。
このような作業が続けられ一週間で終わる。
今度は二、三日過ぎた頃、ポンプを積んだ船が来て大きなホースをハッチから船倉に入れる。
大きなディーゼルェンジンが凄い音を出し動き出し排水を始める。
排水が進むにつれ船が持ち上がるように、少しずつ浮き上がってきた。
浮き上がり始めると、どんどんと見る見るうちに、二時間ぐらいで完全に元通りになった。 
沈んでいた半分は青海苔や海草でぬるぬるしていた。

次の日から機関部の連中は機関室の掃除や片付けで忙しくなる。
甲板部は潜水夫の応急処置で塞いだ修理箇所からじわじわ入る海水の排水汲み上げ作業が仕事となる。
消防士が火事の時火を消すように、手押しポンプを、
「ガチャコン、ガチャコン」と押して浸透してくる海水を汲み上げて海に捨てるのである。
やっと船が浮いた晩十時頃、空襲警報が鳴りB29の爆音が聞こえたと思ったら、敦賀の方に火が上がり夕焼けのように真っ赤になった。
半鐘とサイレンが鳴り響き、そのうち全体が昼間のように眩しいぐらいに明るくなる。 不気味で恐ろしく震いあがる。
敵の大型飛行機は次から次と町の外から中心に向かって焼夷弾や爆弾をばら撒く、町全体が火の海と化し、手のうちようも無い。ただ燃えるに任せるだけである。
逃げる暇も無かったのではないだろうか?
大砲の音もしない。こちらから攻撃も何もしないので悔しい。
敦賀は凄い被害だろう。
きっと大勢の人が焼け死んでいるだろう。
私達には何も出来ない。ただ被害が少ない事を祈るだけである。
するとその時、船の周りが急に明るくなった。
思う間もなく、バラバラと雨のように何かが落ちて来て海に沈む音がする。
「学校が燃えている」と、誰かが陸を指さす。
学校ばかり出なく、あちらこちらから火が吹きだしはじめた。
海岸の漁師の小屋や畑が火の海になっている。
船の周りの海からも、火が上がりだした。危ない。
どこに逃げたら良いのか迷ってしまう。
「海で良かった」と思う。

二時頃か、三時頃になってようやく敵機の爆音が聞こえなくなった。
とうやら敵は去ったようだ。
まだ敦賀の町全体が真っ赤に燃えていた。
船に落ちなかったのは不幸中の幸いである。
焼ける町をいつまでも眺めていても仕方が無いので寝ることにする。
可哀想だが戦争なのだから仕方が無い。いちいち気にしていたら大変である。 何も気にしないのが一番良いのかも。
これが戦争と言う者だから。普通の神経では考えられない事なのだから。

朝起きると、学校は燃え尽き煙が出ていた。
何時ものように飯を食べに伝馬船を漕ぎ、陸に上がりお寺まで歩いて行く。いつもと町の様子が違っていた。
途中の畑や道には不発の、潰れた茶壷のような小型焼夷弾や爆弾の形をした焼夷弾が一杯落ちていた。
みんな破けて中からゼリーのような物が流れ出ていた。
「この中のどろどろした物が揮発性で燃えるんだと」兵隊が話ていた。





お寺で麦だけの飯と塩汁を食べ、船に戻ろうと道に出ると、兵隊が信管を取り除く作業をしているらしく道の横に集まっていた。
どこもかしこも大変な状況である。
たった一晩で敦賀市は全滅である。
「いつになったら反撃に出るのかやられっぱなしで悔しくないのか? 軍は何を考えているのか?」私達には疑問だらけである。
「機関部の方から、敦賀に行って見ようと」と声が掛かり、帆を張ったボートに大勢で乗り込み出かけた。
遊びに行く感じで、青々とした海の中を風任せでのんびり漂う。
途中、海にキラキラする変な物をたくさん見かけた。落下傘の部品か、電波除けか、解らないが危ないから避けてとおった。
岬をすぎ、二時間ぐらいで到着する。
町に近づくにしたがって、燃えた後のきな臭い匂いがしてきた。
海から見ると波止場あたりと倉庫がそのまま残っていたが、上陸して見て吃驚する。
なんと見渡す限り瓦礫の山である。
有名な神社は鳥居だけが残っただけで、森の杉や松の木まで燃えて無残な姿である。御利益もなく神も仏も哀れである。
怪我をしている人たち、火傷している子供達と次から次に担架に乗せられて兵隊に運ばれていた。
可哀想で見ていられない。余りにも無残すぎる。私達は何も出来ない。何もして上げられない。
気の毒すぎていたたまれず、
「直ぐ帰ろう」と言うことになる。
遠くまで見渡しても、辺り一面道だけが残っていると言う悲惨な状態である。
「悔しい,悔しい」と、心の中で何度も叫ぶ。
岸壁では捕虜達が仕事をしていた。
「きっと、奴らは笑っているだろう」 と思うと腹が立ってくる。
「殺してやりたい」と思う。


「誰かもし、女郎を買っていて、女郎と一緒に死んでいたら恥ずかしいだろうな」
「笑い者になるんじゃないか。一生のはじだなあ」
「死んでも浮かばれ無いぞ」
「でも可哀想に。彼女達も死んでしまったのか」
「東京も大阪も空襲でやられているのだろうな。家も焼けてしまっているのかなあ。心配だなあ」とか話ながらまた船に帰って来た。

次の日から天候が悪化した。小さい台風が来たらしい。
波が荒くて百メートルしか離れていないのに陸に行けない。危険なので伝馬船もボートも出せないので飯を食べにいけない。腹が減っているので、みんな寝たり起きたり、ゴロゴロしている。
元気なく海を眺め,早く凪になるのを待つ。
三時頃少し波が静かになったような感じである。
腹が減って腹が減って、次の朝まで何も食べずに我慢するなんてとても出来そうに無い。
機関部が食べに行ったらしいと聞いて、甲板部でも船を出す事にする。
物凄い波で、横波を受けないように必死で漕ぐなんとか波に乗り、追い風に押され海岸近くまで運んでもらう。
陸に近づいた時、船が木の葉のように丸められ、ひっくり返りそうになる。
「危ない!」一瞬冷汗が出たが何とかもちこたえた。
無事陸にたどり着き、お寺で飯を食べる。腹ぺこぺこだったので麦飯でも美味しく感じた。
「あー。腹いっぱいと」とやっと空腹を満たされて、ニコニコ顔で腹をさすっている。
この時ばかりは誰の顔も、戦争を忘れて幸せそうである。

帰りは機関部の連中と一緒になった。
大勢なのだから二回に分けて船を出せばよいのに、
「大丈夫。大丈夫。我は海の子、漁師の子。さあさ、乗れ乗れ、ドンと乗れ」と大勢が一つの船に乗る。
竿指して、波をまともに受けながら帰ろうとする。
陸と本船とのちょうど中間辺りに来た時、
「動くなー」
「横にするなー」と叫んでいたかと思う間もなく、大きな波を受ける。
「危ない!」
船がコロリトひっくり返る。全員が海に投げ出される。
「わーあー」とか
「アー」とか、あっちこっちから叫び声があがる。
私もあっという間に海の中に沈んだ。直ぐ、上にあがろうと必死にもがく。しかし、いくらもがいても上に人がつっかえていて上がれないのである。
息が苦しいのでジタバタ、ジタバタ、滅茶苦茶に暴れまくり、ようやく海から顔を出し空気を吸おうとした瞬間、再び渦巻く大きな波に巻き込まれる。
「ガッボーン!」
海水を思いっ切り飲む。
「アップ、アップ」
必死に犬掻きをする。
大波が来るたびに、水を飲む。
「助けてー!」声になっているんだか、いないんだか解らないが、必死に叫ぶ。
神頼みで、近くにいた機関員にしがみつこうとする。
しかし彼も、溺れかけている者に必死になって抱き掴まれては身動きがとれなくなってしまい、下手をすると道連れになってしまう危険性がある。
それが恐ろしいのであろう、これに掴まるようにと手拭を出してきた。
だが焦っている私は思うように、それを掴まえる事が出来ない。
あと一歩の所で手拭いを掴まえる事が出来ず、
「あっ、もう駄目」
水をさんざん飲んで、ふらふらになって沈んで行く。
すると足が付くではないか。 
大きな波に押され、押され、歩いて行くとやっと波間に顔が出て口から息が出来た。
「あー、助かったあ」
フラフラで海岸に上がり着いて,倒れ込む。
「あと一メートル陸が遠かったら完全にお陀仏だった。」

何とか、助かり、海の本当の恐ろしさを初めて知る。
泳ぐ自身の無い者はひっくり返った船に掴まっていればよいのだが、つい陸が近いので泳いでしまう。
私の場合は気が動転してしまい、掴まるとか泳ぐとか以前の問題であったが・・・・。

陸では、
「あっ、安藤が危ない」
「沈んだー、、浮いたー」と大騒ぎして見ていたらしい。
本船の方でもボートを出し,ひっくり返った船に掴まって泳いでいる連中を助けたらしい。
「水飲んだろうから寝ろ。腹を押してやるから」と言われ横になる。
押してみたが水は出なく、ただ震えていた。
再び、荒れる海の中ボートに乗って本船に返って行った。

船でもまた皆大騒ぎ。
「誰々も危なかった」とか、
「誰が俺の体に掴まり、俺もあぶなかった」とか、
「必死に助けてーと騒いでいた」とか、笑いながら、まねをする始末である。
「故郷の海はこんなもんじないよ」
「冬の海は吹雪で命がいくらあっても足りないぐらいだ」など戦争の話ばかりだった毎日から新しい話題に変わり、今日はとてもにぎやかである。
故郷の話にまで広がって、なかなか話が尽きない。

しかし私はと言えば、一歩間違えば溺れ死んでいたのである。
戦争で死んで靖国神社に祭られるなら本望であるが、溺れ死んだとあっては笑い者である。みんなの笑い話を聞いていても心が沈んできて、複雑な心境である。
半分くらい聞いて、先に寝た。
次の朝は風も収まり、静かで大きなうねりの海であった。
昨日が夢のような良い天気である
午前中は、日課のポンプ押しである。浸透してくる海水を外に汲み上げる作業である。
午後からは暑くなったので、皆んな喜んで泳いでいた。私も泳ぎの練習をする。今日は平泳ぎを習う。
毎日暑いので暇さえあればみんなで泳いだ。私も夢中で練習した。
練習が終わると陸まで泳いで行き、川で身体を洗ってから、お寺で食事をする。
そして帰りもまた泳いで船に帰る。

 





 

第8章 対空決戦

 

お昼過ぎ、汽笛を鳴らしてついに船は静かに動き出す。
兵隊は二列に前後に並ぶ。隊長が、
「宮城に向かって、最敬礼」と号令を掛ける。その後、
「故国の見納めだ」と、大きな声で言う。
「良く見て置け」
兵隊にはこれが最後になるかも知れない。
私達みんなも複雑な気持ちでじっと見つめていた。
ある者は陸地を・・・ またある者は兵隊を・・・・
周りの艦や艇、貨物船などは、軍港から出る武装した輸送船は南方に行くものと察して、
「無事に帰って来いよー」と、手を振り見送ってくれた。
「本当にもう最後かもしれない」覚悟を決めると、恐ろしくなくなる。
何処を見ても火薬だらけである。
まるでダイナマイトを身体に巻きつけているようなものである。
「成るように成れ」といった気持ちである。
港を出ると甲板には、便乗兵隊が二メーター置きぐらいに見張りに付いた。
大勢いるので水不足が心配である。ポンプには鍵が掛けられ、飲み水以外は一日に洗面器一杯の配給である。風呂は海水である。
兵隊の食事は麦の一杯入った飯に、沢庵、魚のぶつ切りの味噌汁である。漬物が変わるぐらいで毎日同じである。
見張りを続け、また鹿児島港に入港する。


もう三月小春日和、桜島は相変わらず、黙々と黒い煙を吐き出していた。あちらこちらに桜が咲き始めていた。
船内は朝から、
「体操だ、飯だ、水の配給だ」と忙しい。
同じように慌ただしく毎日が過ぎる。

三日ほど船団待ちして、二、三艘の護衛艦と一緒に五、六艘で鹿児島港を後に出港した。目立たないように船団は五、六艘で出るらしい。
今度は台湾の手前で、沖縄の先あたりへ行くらしい。万が一無事に着いても、帰りは生きて帰れる保証は無い。
錦江湾を過ぎ、佐多岬が見える。いよいよ危険海域に入る。身体に緊張が走る、その時、
シリンダークランク故障。航海不能」と機関部より連絡が入る。
直ぐ、護衛艦に、
「キカンコショウ、ゾッコウフノウ、ヒキカエス」と手旗信号を出す。
「リョウカイシタ。ヤマカワノ、ミナトニ、ヒナン、シュウリセヨ」と返事が返る。
速力を落とし、指宿温泉のある山川港に錨を下ろす。
山川は木船を作る船台があり、船大工が木造船作りの作業をしていた。
小さい漁港である。修理期間中は機関部の連中は真っ黒油だらけになって大変らしいが、こちらは退屈でしょうがない。
賄いや兵隊達は金はあるが金の使い道が無かっただけに喜んで配給の酒を持って、伝馬船の櫓を漕いで上陸して行った。
お膳を前にして、女中相手にご機嫌であったようだ。
夕方迎えに行ったら、すっかり酔っていて、
「アー、良い所に来た」と言って女中に膳を運ばせ一緒に料理をご馳走になる。
「まあー、可愛い兵隊さん」と女中に冷やかされて顔を真っ赤にして帰る。
つかの間の命の洗濯である。
二日ぐらいでクランクをばらし、一つのシリンダーをフリーにして、無理をしないようにのろのろと鹿児島に引き返して行った。
直ぐ修理に部品が出されたが、大きい部品なので急いでも修理するのに十日以上掛かってしまうらしい。
そのまま修理を待ち待機していると、一週間した頃、武装した貨物船が、次々と入港して来た。
東洋汽船の戦時標準D型の「扇洋丸」が本船と一緒に行く予定らしい。
扇洋丸には、戦艦や空母に体当たりする、ベニヤ板で出来た人間魚雷艇、通称「青蛙」が甲板に山積みに積まれていた。

沖縄には敵の機動部隊が近づいているらしく、士官が武官府で聞えた話では、
「この前一緒に行こうとしていた船団は沖縄どころか途中で全滅した」との事だ。
「故障して命拾いした」と深刻にひそひそと話しているのを盗み聞きした。
敵はサイパンを撃滅させ硫黄島を占領し、そこに飛行場を作り本土を空襲している。軍事工場を爆撃し生産不能にしている。敵はじわじわと本土に接近している。沖縄を目指しているらしい。
我が軍は沖縄を取られたら終わりである。本土決戦になってしまう。何が何でも沖縄を守らねばならない。続々と、決戦のための沖縄行きの命がけの輸送船が終結した。

 



もう少しで出港できる体制の時、武官府の司令部より、
「敵機動部隊が航空母艦を引き連れて鹿児島方面に接近せり。敵機来襲の恐れあり。艦船は急いで桜島に避難し戦闘攻撃の体制に備えよ。
爆撃に対し消火準備せよ」と連絡入る。
不気味にサイレンがけたたましく鳴る。
艦船は皆桜島に避難の移動を始めた。
港には機関故障の本船だけが取り残された。爆弾でも落とされたら終わりである。兵隊は足にキャハンを巻き鉄兜を被り滞空戦闘の用意をする。「戦闘準備用意良し」の声。
敵機来襲を待ち、空を警戒していた。
便乗兵隊も、隙間がない位に三脚を立て機関銃を装備し、待機していた。
私達は消火器を全部だし、バケツで薬剤を研ぎ、詰め替える。木栓やホースなど消化準備で大忙しである。
担架も出し救護体制も整う。
「本当に来るのか?」
静かで、不気味である。足がガタガタ震いているような感じである。 
飯を食べたが胸がつかえて入らない。
鹿屋の航空隊から、飛行機が爆撃に行ってくれるのかと思って、
「今か、今か」と飛び立つのを待っていたが一機も飛ぶ気配がない。
「いったい何をしているのか」腹が立った。
どうやら司令部の考えは、
「桜島の裏側から敵機は来ない。万が一、市内の方角から来たとしても、敵が艦船を爆撃すればその反動で操縦を誤り櫻島に衝突するだろう。だから安心である」と言う甘い考えであった。
「来ないだろう」と思ったその瞬間、錦江湾の方から海面すれすれに編隊を組んで敵機が飛んでくるのが見えた。
まるで鷹が餌物を襲うように、艦船の上を目掛け、羽を平らに返したと思うと突っ込んで爆弾を落とす。
「撃てー」の大声。
「ダダダダダダー、ダンダン」機関砲や機銃の音。
もう何が何だか夢中で、ボオーと突っ立って眺めていた。
先輩が、
「馬鹿!体を小さくして隠れろ」と言ってくれたので、
「ハッ」と我に返り急いで,しゃがみ込む。
敵は容赦なく、次から次と艦船を狙い爆弾を落として行く。
すると、人間魚雷の信用艇青蛙を積んだ賢洋丸が火を吹き、凄い音と爆発を起こし沈んで行く。
そこの場所は浅いので前の方と船橋は海面から出たままの無残な姿で残る。
また、他の船も二、三隻火災を起こし犠牲になる。
本船は攻撃してくる敵機を撃ちまくる。
その中、敵機が火を吹いて櫻島の裾の方に落ちていった。
「やったあー」声を上げてみんなで喜ぶ。
喜んでいる暇も無く、
「水だ。雑巾だ」と叫ぶ声がする。
急いで持って行くと、機関銃が焼けて赤くなっている。
雑巾を当てると、
「ぢゅっ」と音がした。
どうやら敵の飛行機は去ったようである。
急いで弾倉に弾を詰め、次の来襲に備えた。
初めて経験する空との戦かえである。
敵は艦船に損害与え、満足して悠々と引き上げたようである。
敵は想像以上に勇敢で技術に優れていた。
それでも本船から撃った弾が当たり、一機撃墜二機大破したらしい。





空襲警報は不気味に鳴り続けていた。
各船からは怪我人や戦闘で死んだ人などが鹿児島の町に向かって必死に運ばれていた。
本船にも二、三機向かって来たが、機関銃に驚いたのか、桜島の艦船のほうに方向を変えたので助かった。
代わりに桜島の艦船に突っ込んだようだ。
冷やりとさせられる危ない場面もあったが、どうにか助かった。ホッと胸をなでおろす。
引き続き交替で昼食を取り警戒していた。
三時頃、桜島の裾伝いに影のほうから再び編隊で次から次と飛んできた。
どうやら航空隊鹿屋飛行場を狙っているらしく、次々と爆弾を落としては去って行く。
また夢中で、敵の飛行機を撃ちまくる。
あまり夢中になり過ぎて隣の機関銃隊の顎をかすめて撃ってしまい重症を負わせるという事故までもおきてしまった。
みんな、生きるか死ぬか無我夢中なのである。
直ぐ救助隊が船に乗せ病院へ運んだ。
航空隊の方は油に火がついたのか,黒い煙が黙々と吹き上げていた。
火災サイレンが鳴り響き大騒ぎである。
敵は航空隊に損害を与え、目的を遂行したのでさっさと帰っていった。
航空隊は夜になっても暫くは燃え続け、かなりの損害を被ったようだ。
飛び立てるようになるまでかなりの時間が掛かるらしい。
次の日、駆逐艦が来た。何かと思ったら、司令部からの命令で、この船が敵の攻撃を受け、もし爆発でもしたら鹿児島の町が吹き飛び危ないから遠くに曳いて行く」との事である。
直ぐ準備して駆逐艦に曳かれて桜島の島影遠くに錨をおろした。
四、五日いたけれども幸いにして空襲は無かった。
その間に修理に出していた部品が届けられ、機関の故障個所の修理が終了する。
いつでも出港できる体制になり司令を待った。
待機していると、司令部から、
「沖縄は黒山の艦船や機動部隊に取り巻かれ、艦砲射撃や爆弾の雨らしい。行っても無駄である。
それに、人間魚雷艇を積んだ賢洋丸が桜島で沈んでしまったために、いくら火薬があっても其れを乗せる物が無い。作戦が駄目になってしまった。従って一旦佐世保に帰れ」という命令が来た。


船は桜満開の鹿児島を後に敵機や潜水艦攻撃を警戒し、見張りを続け軍港佐世保に帰った。
軍の将校らしいのが来て、兵隊士官を集め、鹿児島の戦闘で敵機一機撃墜、二機大破させ敵に損害を与え、船を護った。と感謝状が渡された。
これを貰うと、外から良く見える船橋の所にペンキでトンボの絵を書き、その下に一を書きそのまた下にバツを書く。
この船は飛行機一機撃ち落としたという戦果マークである。
これがあると鼻が高く、威張れる。
潜水艦を沈めると、卵に箸を立てたように書き、その下にバツとか半丸とかを書くバツは相手を大破させたという意味である。それで敵に与えた損害や戦果が分かる。他の駆逐艦の艦橋を見ればその艦の戦果がわかった。 
宮古島行き便乗兵隊は直ぐ引き揚げ下船していく。
その後、作業員が静かにそして慎重に爆薬を下ろしに掛かる。
一つ減るごとに胸のつかえが取れて行くような感じでホッとする。
こうして宮古・石垣島行きの積まれていた食糧や弾薬は全部荷揚げされて、船は元のように空になった。
毎日ダイナマイトを体に巻いているような恐怖の日々と身の縮む思いの生活は、エンジン故障で命が救われた。
また艦載機の攻撃を逃れて、宮古・石垣島行きは中止になり人間魚雷の爆薬は陸揚げされて、ほんとうに幸運の一言である。
恐ろしい日々が終わった事は、どんなに嬉しい事か、あんな物があっては夜も安心して眠れない。
爆薬という肩の荷が下りて、何はともあれ乗組員は全員ホッと喜んだ。
その頃沖縄の決戦は死にもの狂いの壮烈な戦いであった。沖縄を取られたら日本は終りである。
日本が危ない!
今沖縄は本土の防波堤となり、日夜戦う兵士達が、
「食糧、弾薬の補給はまだ来ないか」と待ちつづけている。
何が何でも食べ物と弾薬を補給せねばならない。

本船が急に司令部の命令により特攻輸送船として行くことになる。
「食糧を積み、沖縄の海岸に船ごと乗り上げて日本軍守備隊に補給せよ」の命令が出た。
「一刻でも早く届けろ」との事。
それから直ぐに夜通し荷役が続けられ、食糧などが積まれた。
話によると、隣に停泊している海軍上陸用舟艇と一緒に行くらしい。
本船には俵詰めの米、鍋、釜、醤油味噌など戦用の食糧を積んでいた。
隣の上陸舟艇には、取り急ぎ地雷や弾薬砲弾を積み込んでいた。
明日出港する予定なので積み荷の作業を急がせる。
「早く、早く」と追い立てる。
あまりに焦らせたためか、作業員が肩に担いだ弾薬箱か何かをちょっと落としてしまったらしく、爆発してしまった。
直ぐ他のにも引火して、入れ口の前から花火のように次から次と炸裂。火の玉が飛び出る。
「ピーポー。第一消化隊配置に着け」
「第二消化隊配置用意良し」
さすが訓練が出来ている海軍である。ほんの何秒かで水が出て消化に当たる。
本船も周りの船も驚いて、どうしたものか迷っていると軍港消化艇がすぐ来て周囲から消してくれる。
本当にさすがである。来るのが早い。
黒い煙を出しながら、消化を続けた状態で曳き船が沖のほうに上陸用周艇を曳いて進んで行く。
かなり鉄板が焼けたが、前の方だけで損害はすんだらしい。
しかし、沖縄に行くどころの騒ぎではない。さあ、困った。代わりの上陸用周艇が無いらしい。
荷役は終わったが、本船だけでは駄目である。出港は無理である。

二、三日指令を待った。
しかし、一日、一日、と待つ間にも沖縄は戦況が不利になる。敵は艦砲射撃で日本軍を撃滅し、上陸したらしい。
途中で敵の艦載機の襲撃にあってしまうので日本の艦艇が近づけなくどうしょうも無いらしい。
司令部も諦めたらしく、積んだ食糧をまた陸揚げする。再び船は空っぽになった。
一方で、魚雷艇が佐世保を出て沖縄に出撃するのを見る。魚雷艇に左右一本づつ積み、船室も無いような小さい魚雷艇である。
「あんな小さい艇が無事沖縄にたどり着き、敵戦艦に発射できるのだろうか? その前にしけにでもあったら転覆するのではないだろうか?」と、特攻隊として出撃する兵隊がとても哀れに感じる。
駆戦艇など白鉢巻き姿で勇ましく特別攻撃艇として手を振りながら出撃していく。
もう二度と帰る事は無いのではないだろうか?これもお国のため。しかた無いのである。
すでに沖縄は玉砕らしく、いよいよ本土決戦である。最後の一兵まで駆りだして戦わねばならない状況である。



今度は、壱岐、対馬が無防備なので防備するとの命令。また、砲身砲台や軍の物資を積み始める。
二、三日で荷役も終わり、海軍設営隊三百人位を乗せて朝出港する。
近いので夕方頃までには楽に壱岐の郷の浦港に到着し、兵隊を降ろす。
島は麦畑が多く静かである。ここは平和そのものである。戦争などどこか遠い国ででも、している感じである。
海は青々としていて、白い小魚が海の色を変えてしまうほどたくさん泳いでおり、大きな魚に追いかけられて、
「ピシャピシャ」と元気よく跳ねていた。別世界のようである。
次の日から荷役が始まったが、設備が無いため漁師の舟を借り集めて少しずつ陸揚げする始末である。
櫓を漕ぎながらの作業で大変である。さらに重量物の砲台をどうやって下ろすか、こまる有様である。
兵隊が上陸して豆と、するめを手に入れて来て、一枚焼いてくれたので皆んなで分け合ってたべた。美味しかった。
苦労した荷下しも何とか終わり、半分残して船は対馬に向け出港した。
やはり近いので三時間位で厳原の港に到着した。 崖や山が大きい島だと感じた。
朝鮮に近いせいか、港には待機しているらしい近海航路専用の戦時標準型船が結構入っていた。
ここも設備が悪く、苦労して残りの荷物を下ろした。
隣に停泊している民間の無防備の戦標船が、何処かで敵の襲撃にあったらしく機銃掃射で穴だらけで蜂の巣のようになっていた。
多分敵はどこかの攻撃の帰りに、無防備をよいことに、少し遊んだのだろうか、犠牲者も出ただろう。怖かっただろう。
無抵抗なものに対してひどい事をしやがった。ムラムラと怒りが込み上げてくる。
先輩が、
「周艇用のアルコールを手に入れた」とニコニコしていた。
たぶん上陸して皆んなで飲むのであろう。瓶のふたを取り匂いを嗅がしてくれた。油くさく、よくこんな物が飲めるものだと驚く。
まるで毒を飲むような者だと思った。

次の日、対馬で戦士した飛行兵などの遺骨を士官食堂に安置して佐世保に戻る。
港に到着すると直ぐ、遺骨を取りにきて一体ずつ胸に抱かれ下船して行く、みんな仕事をやめ、敬礼して見送る。
こんなにもたくさんの遺骨。自分が生きている事が不思議である。

「直ぐ朝鮮の鎮海に行け」との命令で出港する。
私は初めて朝鮮という変わった所に行けるのが嬉しかった。
もう沖縄は敵の手に渡ってしまったらしい。敵は沖縄に飛行場を作り、本土を空襲し、徹底的に叩くらしい。
話でわは、日本が半年掛かって作る所を、敵は機械を使って一ヶ月位で作ってしまうらしい。
護衛する船も無いのか、こんなぼろ船に海防艦が護衛についてくれた。
「もったいない優秀な海防艦も今、戦争に行けばどうせ沈められるから行っても無駄なだけかも知れない。 それとも本土決戦に備えているのか」などと思いながら、護衛してもらった。
いつしか五月も過ぎ、近海の山々は青葉若葉に染まる季節になっていた。見張りをしていると、とても気持ちが良く眠くなっしまうような陽気である。
朝鮮に近ずくと、話に聞いた通り山々は剥げ山が多かった。
無事軍港鎮海に錨を下ろした。港には軍艦も貨物船もあまり入っていなかった。
朝鮮は日本の国だけれども、服装や言葉が違っていた。
消耗品や食糧を取りに港の倉庫に行くと子供を腰のあたりで、うぶっている女の人や頭に荷物を載せて平気で歩いている人がいた。
「日本と違うな」と思った。
荷物は何を積むのかと思ったら、木箱に詰めた牛の缶詰めであった。
食糧もかなり落ち、おかずも不味い毎日なので、牛の缶詰めを食べたかった。
荷役の終わった後箱の崩れた中から仲間と一緒に盗んで、一缶開けて食べた。
「美味しい。こんな美味しい物。生まれて初めて食べた。世の中には美味しい物があるんだなあ」と思った。
他にもハムやベーコンなど色々積んだ。
賄いから水夫に変わった先輩に、ハムってどんな物と聞いてみる。
「ハムもベーコンも田舎っぺには解らんだろう。べろが抜けるぐらい美味しい物だ」と馬鹿にされる。
いくら説明されても、見たことも、まして食べたこともないのだから考えても解らない。
廃油で作ったどろどろの石鹸などが空き缶に詰められてから、積まれていた。
こんな石鹸でも油だらけの作業服を洗うに大助かりである。内緒でちょっと頂いてしまう。
人夫には日本語が通じないのがいて、悪口でも言われているようで嫌な感じである。荷役も終り、海防艦の護衛で佐世保に帰る。
軍港には優秀な艦も船もいない。何か心細く感じる。
情報が少しも入らないので、誰もが、
「そのうち硫黄島や沖縄をいっぺんに取り返す時が来るだらう」と信じていた。

日に日に空襲も激しくなっていた。
朝鮮から積んできた牛缶や雑貨品も荷下ろしされ待機していた。
鹿児島当たりは毎日艦載機の襲撃が激しく物資運び込めない。
佐世保管轄ではもう、船も行く所が無いらしい。

今度は舞鶴管轄になるらしく出港する。
北九州若松で石炭を補給するらしい。関門海峡に近づくと、敵B29が落とした機雷で海上は封鎖され動けない状態である。陸軍暁部隊が、漁船から丸い鉄の大きな缶やドラム缶の筏を長いワイヤーロープで曳き、機雷を爆発させて掃海し、航路を必死に開いていた。
ドトーン。と凄い泥波の山しぶきを立てて爆発している。
何時爆発するか分からない、沈んで見えない機雷は恐ろしいやら驚きやらである。
あちらこちらに、無残に頭を残して沈んでいる船が見える。
機雷には、磁気を帯びた機雷と振動や圧力それに音響、つまりスクリュウの音を察知して爆発する物とがある。
この中でも音響機雷が掃海しても取り除く事が出来ないらしく大変困る。海軍も懸命に航路を開いて行く。ブイに赤旗を立てて、ここは危険区域とか、ここは掃海済み区域とかに分けていた。
瀬戸内海も封鎖され船は通れないらしい。なすすべも無く掃海した後を恐る恐る静かに通り、何とか若松港に錨を下ろした。
その晩、夜中にB29の空襲をうけ、港に機雷をバラバラと落とされた。
「ズブッ、ズブッ」と機雷の沈む嫌な音が聞こえる。



何処に落ちるのか解らないので恐ろしい。
震えが全身に来る。敵は攻撃されないので悠々と正確に機雷を落として立ち去る。
暫くすると、磁気機雷の磁気が作動して、あちらこちらで爆発する。危なくて夜も、うかうか寝ていられない。
「一体どうなっているのか?これで戦争に勝てるのか?」全く命がいくらあっても足りない。
空襲は益々激しくなり、一日に三回や四回は、ざらになる。気にしていると仕事もろくろく出来ない。
夜はゆっくり眠る暇もない。港の中であっちで「ボーン」こっちで「ボーン」と爆発するので、おちおちしていられない。
我々は死ねば軍属として靖国神社に祭られるが、石炭人夫たちは何の補償も無いので全くの犬死にである。
石炭を積みながら、びくびく恐ろしがっていて可哀想であった。
恐ろしいのはみんな同じで、連合国の捕虜達も、せっかくここまで辛抱してきて味方の機雷で死にたくは無いらしく、怖がり怖がり荷役をしていた。大きな体を石炭の粉で真っ黒にしながら働いていた。
辰馬汽船の船が完璧に移動しようと動きだしたら、
「ボボーン」と煙突位まで水しぶききと波を立て、凄い爆発をした。
見る見る沈んで行く。
掃海艇が懸命掃海しているが、音響機雷は船の水進機の音を察知するので取り除くのが難しいらしい。

燃料の石炭を補給し恐る恐る若松港を出た。沖の方には海軍の警備艇などが鉄の筏のような物を曳き、時々爆発をさせながら必死に掃海していた。
陸軍も浮き袋を着けた兵隊達が漁船に乗り掃海をしていた。
本船は掃海した赤旗の内側を走り、関門海峡門司港にどうにか到着し、岸壁に係留した。
岸壁には掃海艇や駆逐艦、それに小さい艦艇が横付けされ待機していた。
関門海峡も瀬戸内海も封鎖され、船は動けない状態であった。
その晩も敵のB29の爆撃機の空襲があり、機雷をばらまかれた。
若松の方から来た敵機を海峡入口の山の上から、下関の方に探照燈機で敵機を捕らえ照らし続け、今度下関の方に照らし続けて行く。
次に連係良く門司の山の上で照らしながら敵機を送って行く。タイミングが合って凄く気持ちが良い。
そのうち下関の山上から、
「ポン、ポン」と撃つ音がする。
火の玉がスウーと飛ぶのが見える。
「何だ、鉄砲の弾ってこんなに遅いのか」とつくづく思う。
すると今度は駆逐艦が、次々に来る敵機に対して艦砲を物凄い音を立て撃ち始めた。
しかし、驚かしに撃つぐらいである。
敵は悠々と機雷を落として飛びさって行く。
悔しいやら、腹がたつやらであるがどうしょうもない。
本土決戦に備えているのか、ほとんど撃ち返さない。
「いったい軍は何を考えているのだろうか」あきれて物も言えない。
「一体戦争はこの先どうなるのか。今、戦争はどうなっているのか?」
情報がまったく入って来ないので、私達は、
「そのうちきっと軍が反撃に出て一度に敵を叩くと物」と信じて疑わなかった。
次の日、支那の天津から連れられて来たと言う人夫が大勢きてセメントの荷役が始まった。
彼らは捕虜と違い、一、二年すると帰れるらしく若い連中で、監視もないのに良く働いた。
岸壁で荷役作業を見たり、油をくれたりしていると、五、六人の人が本船を懐かしそうに眺めながら何か話をしていた。
そのうち近寄ってきて、
「同じ会社の者です」と言う。
「いったいどうしたんですか」と聞いてみると、
「鹿島丸に乗っていたのですが、門司の入口当たりで機雷に当り轟沈してしまったのです。皆んな死んでしまい五人だけどうにか生き残ったのです。助かった私達は今、この近くの寮にいるのです」と言う。
余りにも毎日人が死ぬので、気の毒とか悲しいとか感じなくなってしまっている。第一明日は我が身に降りかかるのだから、人のことに同情していられないのだ。
毎日、毎晩、空襲は益々激しさを増していった。
最初は恐ろしかった空襲も回が重なるにつれて次第に慣れっこになり、
「またか」ぐらいにしか思わなくなってしまった。
昼間は支那人の人夫がセメントの粉を頭から被りながら積み荷役をしていた。

 

下関のドックには同じ会社の「稲荷丸」がおり、乗組員が本船に遊びに来ていた。
話では、ドックに入りドックの水を引いたら不発の機雷が出てきて吃驚、大騒ぎになったとの事である。
「不発でなかったら今ごろ、お陀仏だったと」肩を震わせながら言っていた。
直ぐ泊地(はくち)応救隊が来て、頭に白の鉢巻を結び、水杯を上官と交わして敬礼し、信管を抜きにかかったそうだ。
一歩間違いたら一巻の終わりという命がけの隊である。
命を陛下に預けた「泊地応救隊」という新しく編成された隊だそうだ。
爆薬の信管を抜いたり、沈む船に乗り込み大切な物を取り出したりすると言う命がけの仕事をする隊だそうだ。
この隊に入ったら命は無いと思ったほうが良いだろう。
毎日が不安で、先の見えない闇の中にいるような嫌な感じの日々である。 そんな毎日でも、いや、そんな毎日だからこそ空襲の合間に映画を見に行ったりもした。
「牧場の朝」という題名のような映画を見た。場所は浅間高原で自然が一杯である。平和で明るく、皆んな伸び伸びと草刈をしたり、羊の世話をしたりしていた。
ある日、一匹の子羊が牧場から逃げ出し迷子になる。
その子羊がなんと筏に乗り川にどんどん流されてしまう。
急を知った子供たちや村人達が「メぇーメぇー」と泣いている子羊を、危機一発で助け出すと言う感動的なものである。
とても良かった。
「平和っていいなあー」とつくづく思う。
戦争が終わり平和が来るのは、いったい何時の日なのだろうか?
今日は今日、明日は、明日。いつ死ぬか解らない毎日である。そんなことも気にせず仕事をしていた。

敵は二、三日置きぐらいに飛行機で来て機雷をばらまき、完全に海上を封鎖していた。
やっと、荷役も終了し後片付けをする。何時機雷を受けても飛ばされないようにワイヤーロープで甲板のものを締め付ける。
動けば、いつ機雷に触れ爆発するかわからないので。落下物で怪我などしないように厳重留める。
二時頃、錨を巻き上げ恐る恐る港を出る。機関部の連中など機雷に当たれば一巻の終わりである。ビクビク恐れながら当直に入る。言葉に言い尽くせない程哀れ可哀想であり、気の毒であった。
全員非常警戒態勢を取りながら、海軍や陸軍の船舶兵の掃海した、白、赤の目印に船は走る。
海峡をぬけ、町も遠ざかり日本海に進路を取ろうとした時、朝鮮方面で大豆を甲板に山積みに積んで戻って来た戦標船改E型が、前の方から本船の目の前に迫ってきた。
「危ない!」本船は右に舵を取り、相手を左にと船をかわした。と、その途端、
「ドドーン」と凄い音と共に、船橋まで真っ黒い物凄い波を被る。
相手の船が機雷に触れたのだ。
本船もかなりの振動を受けた。機関の連中は、
「やられたー」と思い、煤だらけの顔で機関室から飛び出してきた。
見る見る相手の船はグラリと傾き、大豆が入っている、かますや、米の入っている俵が崩れ海に落ちる。
飛ばされて怪我をして動けない者がいる。浮きを持ってても海に飛び込めないでうろうろしている者もいる。
「飛び込めー!」と大きな声で呼びかけても、ただ焦って右に左にうろつくばかりである。
海に飛び込むことが出来ないために、沈む船にただ必死でしがみついて、ついに船もろとも巻き込まれてしまう。
何が何だかパニック状態でどうしようもない。
「助けてー!」と、四、五人が本船に向かって泳いで来る。必死に泳いで来るその後ろから、そのうちの一人を目がけてマストが倒れてくる。
「危ない。危ないぞー」と、大きな声を掛けるが間に合わない。
マストと一緒に沈んでしまった。
船は横に傾き、あっという間に後ろから沈んで行く。見る見る間に船は前を残し、何もなくなってしまった。
蟻地獄を見るようである。後から木箱や板や縄や軽いゴミ屑などが浮かんできた。
目の前で地獄を見ているようだった。何もかも一瞬の出来事である。何人助かったのだろうか?
多分機関の連中は絶望的であろう。
誰一人助からないであろう。気の毒である。
このような生き地獄を目の前にして、無情にも本船は走リ続ける。
救助しようととして、うっかり航路でもはずれようものなら大変な事になるからである。
機雷にでも触れたら、今度は自分の船が二の舞いになる恐れがある。
幸いにして、木帆船も走っているし、遠くで釣りをしていた伝馬船が目撃して必死に櫓を漕ぎ救助に向かってくれていた。
「早く頼む。一刻も早く」と祈る気持ちで一杯であった。
本船はどんどんと遠ざかって行く。
掃海艇は相変わらず、
「ボーン、ボーン」と機雷を爆発させていた。
あちらこちらにマストだけを出した船が沈んでいた。なんと無残な姿であろう。
こんな状況でも、神風が吹くとか、特攻隊が反撃に出るとか信じ続けていたのである。
何とか無事に脱し、沖に出て一安心する。
しかし日本海にも、うようよ潜水艦が入り込み獲物を狙っているとの事である。
空も海も敵の思うままである。情けない。
軍部は何をしているのだろうか?、これからどうなるのか?
全く解らない。もっと情報がほしい。
「駆逐艦の護衛も着けられないから、夜は危険だから走るな」との命令である。

その晩は島根県の漁港、境港に避難し一泊した。
山は青葉である。梅雨に入ったのか、雨はシトシトと降り続いていた。
空襲も無く静かで、戦争など夢だったのではないだろうかと思わせる感じである。

 

第9章 「機雷爆発」に続く

第7章 ドッグに入る

 

 

大阪港に入港したのは、空っ風の吹き、あられ混じりの寒い日であった。
「会社からボーナスを持ってくるぞ」とか、
「また国債や債券でくれるだろう」
「ありがたくないなあ」などこぼしてみたり、喜んでみたりと誰もが口軽くなっていた。
そのうちに船は港に入り錨を下ろした。
母港大阪に着き、みんな喜びで一杯である。
機関関係の連中は荷役の準備が無いので、もう上陸の支度をしてそわそわしていた。
間もなく、通船で会社の社長や乗り組み員の家族がどやどや入ってきた。家族が肩を抱き合い、喜びの再会をしていた。言葉も無く、涙、涙であった。
同じその時、俺達は明日の荷役の準備で忙しかった。仕事が終わった頃、「サロン士官食堂に来るように」と言われる。
急いで行き、甲板部の人たちが整列する。一人、一人順番に食堂に入り、賞与を貰う。
「次、安藤」と呼ばれ中に入ると、社長、一等運転士、パーサーがおり、「よく頑張ってくれた」などねぎらいの言葉を掛けられた。
「債券と国債を買って田舎に送っておいたから、君の小遣いは五円である。間に合うだろう?悪い遊びをしてはいかんよ」と言われ五十円の明細書を貰った。たとえいくらでも嬉しかった。

 



夜はみんな上陸してしまって船の中は静かであった。
次の朝若い徴用工なのか何だか訳のわからない、のそっとした人夫が来た。変だと思って見ていたらウインチから出るドレン(蒸気の冷めてお湯になったもの)を缶詰めの缶で飲んでいた。
「油くさい蒸気のお湯を飲むより水を飲めばいいのに」と思った。
点呼を取り、荷役に掛かる。彼らは中国の捕虜らしく、監督にどやされないすれすれのところでゆっくり荷役をしていた。火夫が、「たあたあゆう」とか何とか「冷水」の事を中国語で言うと、
「冷水腹壊すから駄目」と、手振りで示した。
監督が会津の人で、「彼らは誇り高くて、日本は中国の属国位にしか考えていないらしく、甘やかすと働かないし、どやしても駄目で扱いにくい」とこぼしていた。
食糧のない時なので麦飯のお昼を食べていた。
五、六日して石炭の荷下し作業も終わり、木津川ドックに船は入った。二、三日は忙しかったが、その後はかなり暇であった。
船はボイラーの火も落とし、風呂も沸かす事も出来ないので、ドックの大きな真水の風呂に入るのが一番の楽しみであったが石炭の配給で一日置きらしく、毎日は入れない。
油で汚れてしょうがないので町の風呂屋に行ったら、ここも二日に一回しか入れないらしく満員であった。湯はぬるく、石炭が無いから湯の量も半分以下で、子供達が裸で震いていた。
造船所も「ペンキが無い。あれが無い。これが無いと」ないないずくしで仕事も思うように出来ないらしい。工員も食べ物が無く、その日を生きるのが大変らしい。
「これで戦争に勝てるのか」と、ひそひそと話しているのをあっちこっちで聞く。
そうとう陸の人たちは苦しい生活をしているらしい。今まで情報がまったく無かったので、どういう状況かわからなかったが、少しずつ解った感じである。

職人達は仕事をする事から、ブローカーに早変わりしていた。先輩達は航海中に積みにから、盗んだものを彼らに売り、金回りが良かった。
しかし、革の靴を闇で買ったら二百円したと聞いて吃驚した。
田舎でさんざん苦労して育てた馬を軍馬として、売った金額と同じぐらいなのである。
村で大騒ぎして、隣組や親類を呼んでお祝の酒を飲んだことを思い出し、ほとほと驚いてしまった。
何時の間にか、こんなに物が不足してしまったんだろう。
余りの不足に配給も思う通りに行かないため、闇で横から取引されるそうだ。一般の人たちは苦しい生活を送っている事であろう。戦争に勝つまでは、我慢、我慢である。

 






造船所の隣には、空襲を受けてやられたのか、戦時標準型の船の後ろ甲板が無残な姿をさらしていた、聞く所によると出港まぎわに爆雷を積み込んでいる最中、誤って爆発したらしい。工員や職員が大勢死んだらしい。さらに、遠くの民家のガラスまでが爆風で゛割れたらしい。

時々空襲警報が鳴る。しかし工員達は慣れっこになっているらしく少しも驚かない。空を見るとB29が白雲を吐いて飛んでゆくのが見えた。
「何処の軍事工場が爆撃を受けた」とか、
「零戦が敵機を打ち落とし、アメリカの飛行士が落下傘で下りて捕虜になり、縛られ殴られ蹴られ、その上ペロペロの夏服で寒さに震いていた」などいろいろの話を聞いた。

道でポスターを見かける。
「だせ、一億の底力。勝利の日まで一心一対勝ち抜くまで戦地に送ろう、一粒の米と弾を。敵も必死の死に物狂い。負けるな、勝つまでは」と言うポスターである。
隣組は強制疎開させられ、爆撃の際燃焼を少なくするために間引き的に家を壊していた。作業には主婦達が動員させられていた。
夜映画に行く。空襲警報が鳴ると直ぐ中止され、追い出されてしまう。
喜劇役者エノケンの「勝利の日まで」と言う映画を期待して見ていたら、只歌ばかりで意味も無くぜんぜんつまらなかった。
しょうがないから千日前に行く。娯楽も暗く、何か食べ物を求めてうろうろしている人ばかりである。遊びは射的屋とか玉突きとかである。
先輩が松島遊郭に冷やかしに行くと言うのでついて行く。ここだけは兵隊や船乗りなど色々の人たちが、
「キャーキャー」と笑ったり、引っ張ったり賑やかで、暗い戦争を忘れさせてくれる唯一の場所だった。豆電球の暗い所でいちゃついているようであった。

暗い世の中である。ここまで戦争が切羽詰まっていようとは思わなかった。今度ドックを出たときは恐らくもう駄目であろう事は誰の目にも明らかであった。
「ここで家族に会っておかないと、きっと二度と会うことが出来ない。この機会を逃したら恐らくだめだろう」と、船長と一等運転士が相談し、交代で遠方から最低の日数で帰すことにきまる。それを聞いて、
「良し少しでも多く金儲けをして田舎に帰ろう」と決心する。
「潜水艦に追われた時、どうせ命がないのなら食べてしまおう」と思ったが、もし休暇でも出たときに妹達へのお土産にしようと我慢して食べずに取っておいた菓子がある。それを、内緒で職工のおじさんを呼んで売る事にする。
「子供がどんなに喜ぶだろう」と、おじさんは喜んで、
「全部売ってくれ」と金を出す。
「田舎のお土産だから全部は駄目」と言うと、
「他に何かあ売ってくれ」としつこく言う。
「誰かに見られたら困るから」部屋をおいだした。
それでも少し売っただけなのだが給料ぐらいの金で売れて大分儲けたように感じられた。
配給になった羊羹とかお菓子とか、よだれが出そうに成るくらい食べたくとも妹達の土産にとぐっと我慢した。妹達の喜ぶ顔が浮かんでくる。
いよいよ、休暇が出た。
釜石の菊池操舵士と見習の黒磯の伊部と私が一緒に行く事になる。事務長が、
「佐世保海軍の命令により、塩釜港にて乗船する者であることを証明する」という証明を貰い、私達は出発の準備をした。
当時は,公用とか理由がないと切符は買えなかった。みんな役所や軍の証明がないと買うことが出来なかった。
それに,外に出るときは、食べ物は持参せねばならなかった。食べさせてくれる所がないのだからしょうがない。
二日分の、甘くない乾パンを賄いから貰い、風呂敷に包み、少しの菓子の土産を持ち、出発しようとした。すると先輩達が、
「おふくろの乳を一杯飲んで来い」と冷やかす。
その声を後に出ようとすると、士官の年寄りが、
「東北は寒い。それじゃあ駄目だ。途中何があるかわからん」と言って、見張り用のオーバーを持ってきてくれた。
有りがたい。寒い所であるから、本当に助かる。

大阪駅で切符を買い、朝の汽車に乗る。何も解らず、ただ夢中で乗っていた。
汽車の中は軍人や疎開者など荷物を一杯持った人達で身動きが出来なかった。
押されて友達の伊部とどんどん離されてしまった。ただ顔を見合わせて目で合図していた。
故郷に帰れるのはとても嬉しいが、命がけの旅である。



軍人は威張り、一般の人は小さくなり、押されて通路に座るのがやっとである。
こうして、どうにか東京に着く。上野駅が懐かしく、ここで東北べん聞いた時にやっと、初めて我が家に帰る実感が湧いてきた。また無事で帰れるという思っても見ない幸運に嬉しさがこみ上げてきた。
上野で汽車に乗ると、また凄く込んでいた。女の人が、
「用を足しに行くから降ろして」と、大きな声で言うと、
「そこで、やれ」とか、
「穴に木栓を詰め、出ないようにしておけ」とか、ずーずー弁で冗談を言って笑っていた。
八時ごろの汽車は動く灯火管制で、中は薄暗く、暖房もない。混雑しようか゛関係なく、ただ人を運ぶだけである。何事もただじっと我慢の連続である。
本もラジオも無いし、伊部と遊ぶものも無いので自然と田舎の思い出話になる。暫くするとうとうとし始める。

朝方伊部は嬉しそうに黒磯駅で降りた、そして五時半頃、菊池さんと別れ、それから郡山で下りた。
寒いので駅の待合室で待った。
駅は朝早くから切符を求める者で一杯であった。リュックサックを背負った疎開者、子供や主婦でごった返していた。
私も並んで磐城常葉(いわきときわ)までの切符を買った。すると隣の子供連れの主婦が、
「平(たいら)の方に行くのでしたら、荷物が一杯のうえに子供が居るのでお願いします」と頼まれた。そこで重い荷物を持ってあげる。
荷物を送っても、疎開荷物で駅は溢れる程なので思うように届かないらしい。仕方ないので鍋、釜持参の疎開だそうだ。



朝一番、薄暗い六時過ぎ、やっと、何度も夢にまで見た懐かしい故郷の駅に着く。後は転がるように雪の山道を走りに走った。夢中で走った。息を切らしながら、重い玄関の戸を思い切りあける。
兄嫁さんが飯を大釜で炊いていた。吃驚する。驚きながらも、「よく来たない。うん、うん、」と声を弾ませながら話す。
すると、声を聞きつけて母が飛び起きてきた。
「良く、来た。良く、来た」と直ぐ隠居の祖父祖母に知らせに行く。
「 何時までいられるか?」
「 何処から来たか?」
「 夜寝ないで疲れたろう」 家族皆んなで心から気をつかってくれる。そんな温かさに、胸が熱くなり、涙が出る。
母は無事を喜び、神棚に飯を上げて感謝のお祈りをする。そして鍋の中の麦をかき分けて、白いところだけをわたくしによそってくれた。卵と白菜を出しながら、「晩げ、ご馳走するから」と言った。 
お金やお土産などは有り難そうに、一旦お金は神棚に、お土産は仏様にあげる。それからお土産は子供達に分けた。
妹達はとても喜び、甘いものを大事そうに少しずつ味わって食べていた。我慢して食べないで良かったと思った。
田舎はタバコ仕事で忙しい。私の家も歩く踏み場もないほど家中に煙草が山積みにされていた。ちょうど専売局に納める前で凄く忙しい。
息子の相手していられないほど忙しい。一枚、一枚広げたり、束ねたり葉分け作業したりと、子供まで手伝っている.私も手伝おうとすると、母達は
「夜寝ないで来て、疲れているんだから寝ろ、寝ろ」としきりに進めてくれる。
お言葉に甘えて、隠居で少し寝た。
田舎に帰っても軍関係の話は秘密だから話せないし、かといってほかに面白い話があるわけでもないので特に家族と話すわけでもない。どうという事もなく、山や畑を眺めているだけだ。しかしそれが落ち着く。とても安らぐのである。何を見ても何となく懐かしく胸が熱くなる。何もない山里だが口に出せない良さがある。ただボーとしているだけで満足である。
二時間位寝てから起き、
「いいから。いいから」と、皆が言うにもかかわらず、何もする事もないので煙草仕事を手伝う。 
「おめえが通った隣の町の学校の近くに、東京の中野と言う所から、学童疎開で一杯わらしっこが来ているんだ。爆弾が落ちるとかで、わらしっこ、旅館で勉強しているんだ」
「わんげ、生まれた家が恋しくて汽車の線路歩いている所捕まり泣いていた」とか、
「こんな狐の居る田舎なんて嫌だ。死んでも良いと東京に帰った」とか
「どこそこの家に来た人は、木で飯が焚けない」とか、
「雪道で迷い、我が家に帰れなくて泣いていた」とか、
「どこの誰が死んだ」など色々、たわいもない話がたくさん聞けた。
このような世間話は興味深くもあるし、面白いし聞いていて楽しかった。
あっと言う間に一日が過ぎる。
そして二日目には餅をご馳走してくれた。
空襲が激しくなると兄さんたち青年団は、敵の飛行機の通過を軍に報告する監視所に交代で行くらしい。また、安積の飛行場造りに動員させられたりして家の仕事も碌に出来ないらしい。
煙草納期で忙しいので、親類や近所にも行かず、休暇が終わろうとしている。
「明日、帰るか」と思うと心は止めど無く沈んで行く。
寂しい。空しい。何とも言うことが出来ない気持ちに襲われる。胸がどきどきと高鳴る。田舎の見納め。これが最後の別れ。
とうとう三日目が来た。


その朝、まず神様に、ご飯を供え、家族全員で
「無事に帰れるように」と、祈ってくれた。
今度は祖父が前回のように、
「朝茶はその日の災難をのがれるから」と勧めてくれる。母が、「土産にと言っても何も無いから」と、餅を丸めて包んでくれた。
言葉少ない中、握り飯の弁当と、土産の餅を持って立ち上がる。 みんな涙をこらえて、「くれぐれも気をつけて」と言う。
「うん。うん」静かに何度も頷く。悲しい別れをする。

雪道を父と二人で駅に向かって急ぎ足で歩いて行く。その背中に、「また来いよー」「きっと帰って来るんだぞー」微かな声が響いてくる。
振り返ることも無く、白い息を吐いて黙々と歩く。
駅で軍属証明所を見せ、すぐ切符を買う。残っていた郡山から塩釜の切符を誰か欲しい人に売り、代わりに郡山までの切符を買う。
「ただで郡山まで送れると」父は喜び、一緒に汽車に乗る。
「遠い大阪に一人で帰るのだし、間違えると困るから、良く駅員に聞くんだぞ」と、とても心配していた。
郡山で上野駅行きに乗せてもらい、父と別れる。気を付けろよ。
「上の人の言うことを良く聞くんだぞ」と言いながら、見えなくなるまで手を振っていた。
東京に行く汽車はそんなには混雑していなかった。
途中、雑誌も何も無いから、じっと窓からの風景を眺めていた。
何時発の汽車に乗ったのか、何時に着くのかも何も解らなかった。行き当たりばったりである。
五時頃上野駅に到着した。
「何でも良いから東海道線に乗れば良い」と思い、来た電車に乗る。
横浜を過ぎた頃から、電車はガラガラになった。変だと思っていたら案の定、熱海どまりであった。
そのまま、そのホームで待っていると間もなく電車が着たので、また確かめもせず乗った。すると次の駅が
「来宮」と言う。
急いで鉄道地図を見たら、間違いである事に気づく。
すぐ、次の駅で下りる。田舎の駅で下りる人も二、三人しかいなかった。
うろうろ、きょろきょろしていたら,駅長が声を掛けてきた。
「坊やどうした?」
「大坂に行くんだ」と私が答える。
「 ここは大坂には行かない。困ったなあー、切符をみせてみろ」と駅長。
「どうしょう」と私は心細くなる。
「貨物で送り返すか」と駅長は言いながら、大坂行きの時刻表を調べてくれる。
「今日は大坂行きの終わりだ。駅に泊まれ」と言って、駅の中のストーブの側の椅子に座らせてくれた。
「坊やの田舎は?」
「福島」
「そうか。福島か何にやってるんだ?」
「百姓」
「百姓か。そうか。それじゃあ、今度買出しに行くから、住所教えてくれ。米はたくさん取れるか」など色々聞かれた。
それから駅の古い官舎に寝かせてもらう。
男達が兵隊に取られてしまったせいか、珍しい事に若い女の駅員もいた。仕事が終わったのか,女の駅員と男の駅員が二人ずつ来て床を取り寝る。
しかし、若い男と女は夜遅くまで、
「きゃっ、きやっ、手が触れた。足が触れた。」とかいちゃついて、こちらの方がよく眠れなかった。
次の朝、「坊や、今度は間違わずに行くんだぞ」と言って朝一番の電車に乗せてもらう。
「熱海は何番線に乗れ」と教えてくれて別れる。
とても、とても、親切な駅長さんで助かった。
熱海で大垣行きに乗る。米原駅あたりは大雪で、汽車の暖房が無く寒くて、寒くてオーバーを借りてきて本当に大助かりである。
大垣で一時間ぐらい待ち,やっと姫路行きに乗る。
「あー、これでやっと無事大坂に帰れる」と、ホッとする。
「田舎育ちで,人任せについて歩いていたので、一人旅は慣れなくて苦労ばかりである。
右も左も解らないので゛地図とにらめっこしながら必死である。
どうにか大坂に到着する。市電に乗り換え、乗り換え木津川で下りる。
船に到着したのは夜の九時頃であった。
「早かったな。もう一日ゆっくりして帰ればよかったのに」と言われる。
伊部も菊地さんも、まだ帰っていなかった。焦って帰って、ちょっと損した気分である。土産の餅を残っている人たちにあげた。
「珍しいなあ」とストーブで焼いて食べる。
「美味しい」と、皆な喜んで食べてくれた。

 



二、三日、田舎に帰っていたら、何だか船の様子が変わっている。
新しく甲板見習が三人入っていた。伊部は見習から水夫として転船だそうだ。
私は見習から、ドバスと言う心得に昇進して、便所掃除になる。
兵隊も新しい人と変わったりしている。
また、船首の甲板に二十五ミリ機関砲が二門取り付けてあり後ろ甲板には兵隊の大部屋が新しく作られていた。
爆雷で穴の開いた鉄板も取り替えてある。前の古くて錆付いた鉄板が置いてあったが、それを見て驚く。
こんなに錆付いた鉄板だったのか、叩いてみると、薄くて紙のようである。 「良く持ちこたえてくれたものだ」と感心する。
他にも人が大勢集まってきて、
「命拾いした」とみんなで顔を見合わせる。

内海の後輩が機関に入る。一緒に飯を運んだ小さい藤村も、火夫の石炭運びに昇進した。しかし身体が小さいので、ちゃんと勤まるか心配である。
賄には、内海の同期生だった岩手生まれの、七つ役という名前の男が乗ってきた。
人事の異動があった。
士官で私の事を良く可愛がってくれた二等航海士の田辺さんが新造船の田賀丸に乗ることになる。残念である。
「荷物運ぶの手伝ってくれ」と言われたので、荷物を持って浪速造船所まで市電を乗りつぎ一緒に行く。
造船所の貨物駅には女の機関士が黒い顔で石炭を焚き、機関車を運転していた。
田賀丸は戦時型二、三型で本船より随分広いので大きく感じた。
ここの造船所では職工一人に連合国の捕虜五、六人付いて溶接や、その他色々の仕事していた。
従って、捕虜の作った船に私達が乗っていると言っても良いぐらいである。変な感じである。

「身体に気をつけて」
「また、会おう」と田辺さんと別れる。
船に帰ると、内海から苦楽を供にしてきた伊部が、
「新しく他の船に乗船する」と下船して行く。とても寂しいが、明るく、
「気をつけて、頑張れな」と声を掛けた。
「きっと、変わった良い船に乗るんだろうな」と羨ましく思う。
寂しさと羨ましさの入り混じった複雑な気持ちで別れた。

我々は軍関係なので飯だけは食べたいだけ食べられた。しかし民間の船などは盛りきり飯で、満足に食べられず大変らしい。
造船所の工員たちが、「鳥の餌にするから、残飯を入れてくれ」と缶を持って本船に来たりする。
また、無理に仕事を頼むときは、飯を食べさせる条件で頼む。
造船所以外の業者に食べさせると、食べながら、誰も見ていないと、手早く飯ごうに、飯を詰めて持ち帰る。
帰って子供に食べさせるようだ。それほど食べ物に困っているようだ。
もう、寒い盛りである。夜はストーブの火が消えると寒くて眠れなかった。
見習には毛布を貸すが、見習が終わると取り上げられる。
「自分で用意しろ」と言われるが、用意できるはずが無い。
しかたく、毛布無しで寝る。配給の薄くてペラペラのオーバーを布団代わりにかぶるが、寒くて寒くて丸く縮こまって寝る。当然、朝起きると腰がおかしくなっている。
送ってもらっても、この時代では何時受け取れるかも分からないし、まして買う事も出来ないし、まったく困り果てていた。
空襲もだんだん激しくなり、
「昨夜は、どこそこの軍事工場が爆撃された」とか、良く聞くようになる。



いよいよ船の修理も済み、会社や家族、そしてドック関係者に見送られ大阪を後に瀬戸内海を通り、門司港に向かって出港した。
今度は、
「水夫見習の仕事がいつになったら覚えられるんだ」とか、
「力がない」とか、怒鳴られたり、こずかれたりの毎日であった。
見習が入っても相変わらず、下は下であった。
航海中は暖房の蒸気があり暖かく寝られたが、停泊すると寒くて寒くて、朝起きると腰が曲がって動かない。腰が痛いので門司で医者に行ったら「風邪から来ている」と言われた。
この寒さでは風邪をひかないほうがおかしい。
しかし風邪だからと言って寝ている訳にもいかない。
門司で燃料の石炭補給して、一路佐世保に向かう。
関門海峡を出れば危険区域である。ボートを外に出し、何時船がやられても直ぐ乗れるように準備する。どやされながらの作業の毎日であった。
「大沢」という、子どものようなに可愛い見習いが入り、私達が憎まれ役に成るのが目立つようになる。
「仕事が出来ない」とか、やけに嫌がらせをされるようになった。
佐世保軍港に入りブイに船を繋ぐ作業をしても、
「あーでもない。こうしろ」と文句を言われ通しである。
佐世保に入港する。
戦争が激しく、敵機動部隊はじわじわと本土に接近しつつある。警戒に出払ったのか、艦や艇が少なかった。
操舵手の増村さんに、
「スグ、ナガサキ、イサハヤニ、ニュウタイセヨ」という、召集令状が来たので急いで下船する。
「安藤は毛布無いから、俺のをくれていくから」薄い毛布をくれた。これで寒さから逃れて眠れると思うと、拝むほどに嬉しかった。本当に助かった。
「駆逐艦で護衛してやるから」と元気良く言って下船して行った。
海軍の髭を生やした年より臭い兵隊が衣納を担ぎ、本船の防備隊として十人ぐらい乗船してきた。兵隊も全部で二十人ぐらいになり、暇さえあれば、対空戦闘訓練に励んでいた。
また、積荷の荷役作業が始まった。
「今度はどこに行くのか」など、とても興味があった。
積荷は今までと同じ、砲身砲台、弾薬、食糧の米や味噌、地雷、セメントなどの軍の物資であった。武器や弾薬の積荷は一杯で゛一番船倉には塹壕を作るためのセメントその上に米俵を積み、平らにしてから大勢の大工によって板を張り宿舎を作る始末であった。
甲板への出入階段も作られ。船の後方サイドには青空の吊り便所が海に突き出して取り付けられた。どこからみても丸見えで、ぶら下がる感じの仮の便所である。それが終わると今度は甲板に、前から隙間無くコタツ櫓(やぐら)ぐらいの大きさの鉄の箱のような物を、そろりそろりと静かに積み並べていた。
火気厳禁と書いてあった。
何かと荷役隊長に聞いてみた。
「人間魚雷の火薬だ」
「一発でも弾が当たったら、この船は影も形も無くなくなってしまう。あなた達の肉の固まりも無くなるだろう」と言う。
皆んな驚きを通り越して、開いた口が塞がらない。
これじゃ、特別攻撃隊である。死にに行くような者である。
いよいよお国の為に死ぬ時が来た。靖国神社に祭られる時が来たのだ。
増村さんは運が良かった羨ましい、しかし今更どうする事も出来ない。覚悟決めるしか無いようだ。
「年は皆な同じだ」と、年よりが言う。
「年寄りも若い者も、皆んな、一緒に同じく死ぬんだから、皆んな同じ年だ」と言う。

気が付くと、いったい何十個積んだのか知らないが、火薬が甲板一杯積まれていた。
係りの隊長は、
「よろしくお願いします。ご無事をお祈りします」と敬礼して作業員と帰って行った。
二段に積まれていたが、案外固定されて動かなかった。大工たちが動かないように、くさびを入れたり、火薬の上に板を敷いて通路を作り、歩けるようにしていた。爆雷も四個から六個ぐら積みこんだようだ。

これで命令があればいつでも出港準備が整った。
次の朝、がやがや、どやどやと武装した海軍が百三十人位乗り込んで来て凄く賑やかであった。
食器や鍋や毛布など色々生活物資も積み込まれた。
各隊装備し、場所を見つけては、三脚を立て六点五ミリ機関銃を取り付けて敵機来襲に備えていた。

第8章 「対空決戦」に続く



 

6章 魔の海

 

次の朝未明、
「さらば故国よ栄えあれ。」と船は勇ましく錨を上げて金江湾を出た。
相変わらず15度右に進み、左に15度進むというジクザク運転である。駆潜艇や海防艦 そしてゼロ戦闘機護衛と、 まあまあ安心して船団は進んで行く。相変わらず見張りは、厳重に青い海を見張りつづける。昼間はまあまあ良いが 夜の海は一辺して 魔の海に変わる シーンと静まり不気味な、嫌な感じである。何処からか魚雷がとんでくるような感じで、足がガタガタト、震える。 時折暗いので、他船が衝突するかと思うように近くに現れ、あわや衝突かと吃驚する。航海士が潜水艦より、こっちが怖いよ、油断もすきもないよとこぼしていた。 奄美大島が近づき、危険な海を走り続け、無事船団から離れる。
この船団も、これからが危険の海だ。何処に行くのか南方は間違いないが、無事に食料弾薬届けて内地に帰れる船は何艘になるか、考えるだけで悲しく、とうざかる船団を見て無事を祈るだけで胸がじんと熱くなる。

 


静かな奄美の海を暫く走り続け、なんとか無事に海軍基地に着いた。ご苦労様どころか、直ぐ荷役準備で、てんてこ舞である軍部も焦っている。 
何時敵機動部隊が来るか、この前のようになったら大変と必死の荷揚げ作業始まる。
設営隊達は、どやされ蹴られ殴られ、必死に荷揚げ作業をしていた。
荷役機械が故障しないよう、点検したり油をさしたり忙しかった。
こんな時故障でもしたら隊長に、殴られるぐらいではすまないからこっちも必死である。
何とか無事荷揚げ作業も終り、船長始め全員ほっと胸をなでおろし安心した。 
物のない戦争の時なので一艘の船が沈められたら大損害である。 補給が止まり、戦争に負けることになる。輸送は重大な任務である。
古仁屋港で燐鉱石を積んで帰るらしく直ぐ古仁屋港に向け船は回航された。
大島で二番目の大きな町らしい。

 



何処で戦争しているのか静かな町に見えた。
昼頃日焼けした人夫が、がやかやと賑やかになり船に乗り込んできた。
その内だるませんが、横付けされた。燐鉱石て、どんなものかと覗いて見ると、只の泥土がつんであった。
「へー、これが、海鳥の糞なんて。これが肥料になるのか」と不思議に思った.
粘土のような土を積むので結構時間が掛かり、おかげでみんなつかの間の骨休みが出来た。 兵隊たちもみんな交代で上陸していた。
我々も合間を見て上陸し、学校に行って鉄棒をしたり、玉突きをしたり自由に遊んだ。町が狭いのでだいたい行く所は同じになってしまい、必ず誰かと会った。
「店屋で、椎の実を売っている。」と、兵隊が教えてくれた。
お金を使う所は映画館ぐらいなものだから、 すぐ行って見る。そして釜で煎り、転がし焼いて栗のように皮を取り食べた。初めて食べたが香ばしく美味しかった。田舎にはないので南国だけのものかと思う。
「店の娘を嫁にくれ。」 などと、みんなで冷やかしたり冗談を言ったりして面白かった。何もかも忘れて笑った。 おばさんの言葉が何を言っているのか分からず、こどもや娘に、通訳させて笑ったりした。私たちは兵隊と着るものが同じなので、「兵隊さん兵隊さん」と尊敬され嬉しくなった。
船に帰ると、何時の間にか隣に大きな素晴らしい病院船が電気をこうこうと点けていた。 音楽まで聞こえる。吃驚することに看護婦さんの姿も見える。「素晴らしい。日本にもこんな船があるなんて。ボートの数も数えきれないほどある」と、ただ、ただ驚くばかりである。
明日朝早く出港すれば夕方明るいうちに鹿児島に着くとの話に、またまた驚く。ブラジル移民船欧州航路らしい。
一週間くらいで積み荷役は終わった。
穴のあいた船にこんなに重い土を積んで帰るのかと思うと心配だし、余り荷物を積むと速力が出なくなるので不安でもある。
帰りを思うと心が沈む。 
敵の空襲から逃れるため、湾のいりくんだ所に避難し船団待ちをする。 
一週間過ぎたころ、基地の信号所と連絡を取るため、望遠鏡と手旗を持ち上陸した。この辺は海軍の、民間人立ち入り禁止区域なので、事情を話して通してもらう。敵の上陸に備えて周りは塹壕が掘られ、山には私たちが積んできた三十八インチ砲が厚いコンクリートの中から湾に向かって首を出していた。敵もこれを撃たれたら、たまらないだろうと、思った。 途中老婆が籠を背負い稲かりをしていた。 

忘れもしない時、12月8日大東亜戦争の始まった日の田舎を思い出す。あの日の故郷の大雪を思い出し、奄美の島は暖かいと感じた。
あの日大雪で、大人が雪を踏みながら道を作ってくれる、その後に続いて学校へ行く。途中ラヂオの無い田舎の貧乏百姓の私たちは金持ちの家の息子から、アメリカと戦争が始まったんだってと教えられた。
あの時はまだ戦争というものが実感としてなく平和だった。

 



そんなことを考えて歩きつづけると、高台で眺めの素晴らしい所に来た。
見ると防備隊の監視所が遠くに見える。よしこの場所が良いと、手旗を出し、 コチラ、ソウシュウマル。と何回も同じ事をくり返し呼ぶ。
駄目かと諦めかけた頃、望遠鏡を覗いていた二等航海士が、「応答あり。気がついたらしい」と言う。
直ぐ、「コチラ、ソウシュウマル、レンラクコウ」と送ると、
「リョウカイ。マテ」と返して来た。
今度は私が望遠鏡を覗き、士官がメモを取る。
「マルヒ。マルマルジ センチョウ、カイギニコラレタシ」
「 リョウカイ」と答えて、我々の目的がすむ。また同じ道を帰る。
「今度は危ないな。無事帰れるか心配だな。今度内地に帰ったら、ドックに入るかも知れないな。とか、転船する者もいるだろう」など変わった情報を教えてくれた。 
田辺士官は千葉県出身の人で私のことを良く可愛がってくれた。色々仕事のことや社会のことを教えてくれた。
山道を登ったり下ったりしながら帰る、途中、水も無く、腹が空くし、喉はカラカラに乾くしでへとへとである。 
迎いに来た伝馬船に乗って帰ると、待っていたように、
「ご苦労さん。ご苦労さん。 疲れたか」と船長が自分の子供に言うように気遣ってくれる。
舵取りの連中など船長に怒鳴りちらされるが、安藤と言うと自分の子供のように可愛がってくれた。
見張りの時など士官の世話をする一等ボーイのサロンが運ぶ紅茶や乾パンなど、
「飲んでも良いよ。食べろ」と言ってくれるのである。
私だけ可愛がられるので、よく上の連中に嫌がらせされたり、皮肉を言われたりした。
沖縄の方から帰ってきたのか、ほつん、ぽつん、と船が港に入ってきた。
あの船団が無事だったのかどうだか聞きたい。しかし、何もかも秘密である。何も聞くことは出来ない。
「今度はだめか あの世行きか」
今度こそみんな無事に帰れないだろうと覚悟しているようだ。
「いよいよ来る時が来たか。というきもちである。」
船長が会議に行き、帰ると、いつもと同じく、
「敵潜水艦が増えていて、かなり沈められているらしい」と言う。
「今度帰れば、大阪ドックに入り浸水個所を修理するので家族に会える。みんな、部屋などに割れ物などを置かないように注意し、何とか無事に帰れるようお願いする」と言われる。 
「大丈夫。やられてたまるか、」
「よし。大阪だ。彼女が待っている」
「帰ったら松島総上げでモテテ、モテテ帰れないぞ」など、みんな大阪を夢見てはりきっていた。
成るように慣れという気持ちである。

次の朝早くいよいよ船は内地に向けて出発した。

飯を運びながら周りを見ると、上陸用舟艇やキャッチボートの護衛艦、駆逐艦、貨物船などが五、六雙右へ左へと、のじ運転を繰り返しながら大きな波に揺られて走っていた。
船橋では兵隊や水夫たちが見張りをしていた。
しけのため、波しぶきで船は大きく揺れていた。
しかし敵潜水艦も、しけには弱いので、その間は安心ということになる。
「しけろ。しけろ」とみんなで言っていた。
この航海が無事であれば、何とか二ヶ月間は命が保証される。
安心していられるのだ。
どんなことがあっても内地に帰りたい。
見張りは必死である。小瓶一本でも見逃さない厳重な見張りを続ける。

何とか一晩が無事すぎた。アー無事だったか。と目覚める。
みんな、普通に職場について働いていた。
洗濯したり、風呂掃除したり、食事の用意をしたりと休む暇も無く忙しい。

夕食を終わらせ、食器を洗い、夜食を準備し、八時から見張りを交替する。
船橋は真っ暗闇で、誰が何処にいるのか暫くは解らない状態だった。掻き分けるようにして、見張りにたつ。目を慣らすまでが大変であった。
ただ舵を取る音だけが、ガラガラ聞こえるだけで他はシーンとしていた。誰も喋らない。何となく不気味で足がすくむ感じで気持ち悪い。今にも白い泡の魚雷が飛んで来るようであった。
時々がだがた吊り上げ、がちゃんと石炭の燃え殻を捨てる音がした。
船は波に揺られながら黙々と走っていた。
時間が長く感じたが、どうにか何事も無く、十二時に見張りを交替した。
部屋に帰り、
「やれやれ寝るとするか」と浮き袋のひもを緩め、それを枕にして横になる。
そのうち、うとうとと眠り始めたと思ったら
「出たー」と揺り起こされる。
もう眠くて眠くて半分、
「どうにでもなれと」とやけな気分になったが、やはり怖い。
直ぐ飛び起きて靴を履き、浮き袋を着けたが、暗くてよく解らずひもが結べない。そのまま急いで甲板に出て、機関員に最初から絞め直してもらう。甲板からは何も見えない。誰かが
「甲板は飛ばされるから危ない。部屋に入っていろ」という。
通路には今さっき交替したばかりの機関部の連中がいた。
「飛ばされないように鉄柱に掴まれ」と誰かが言う。
四、五人ぐらい、鉄柱に掴まりひそひそと囁く。
「今度は駄目だ。やられるだろう」
「危ない。お陀仏だ」
「今か今か」と、いつでも海にとびこめるように暗い通路にたたずんで震えながら待っていた。その待つ時間の長いこと長いこと。
その内、急に騒々しくなり何か急いでいる声がする。
魚雷が飛んできたらしい。
「危ないと」思う間もなく、直ぐ
「爆雷投下」の声。
もう駄目だ。地獄だ。覚悟を決めた。しかし、足がガタガタ震える。
「ピカリ!」光を見た。その時、
「ドトーン」と爆雷が破裂。ぐらりと船が大きく揺れた。
「やられたー」と通路から甲板に夢中で出た。
「爆雷だ。安心しろ」と船橋から大声で言われる。
「よし。これで敵の潜水艦も沈んだろうと」暫く安心する。



ホットしたせいかそこにしゃがんだままで、うとうとする。
一時間ぐらいした頃から、地平線がかすかに明るくなり始める。
落ち着いたのか部屋に帰って寝る。
昨夜は二時間ぐらいしか眠らなかったが、次の日は何事も無かったように飯を運び、食事の用意をしてと、いつもと変わりなく働く。
昨夜のことなど夢でも見たかのように、忘れるぐらい忙しく働いた。
昼間は当直以外みんな死人のように寝ていた。
こちらは見習い、寝たくても寝ることもできない。眠くて、眠くて、脂汗が出てきた。
昨夜はどの船が攻撃され沈んだのだろう。護衛艦も遠くに見えたが、護衛していたのか逃げていたのか解らなかった。
船団は崩れてバラバラに走っていた。今晩は種子島、屋久島沿岸、あの武州が沈んだ魔の海を通らねばならない。
よく、敵潜水艦が島に隠れ、待ち伏せ攻撃をする所である。危なくなると上手く島を利用して、島影に隠れながら輸送船を攻撃してくる嫌なところである。
年を取った所帯持ちは無事に帰りたい気持ちが大きいのだろう。ビクビク怖がっていた。ただ運命に任せるだけであった。
昼間は木帆船見えたり、周りの船を眺めたりと余裕である。
部屋の掃除をするが、掃除してもごみが出ない。捨てるものがないからだ。紙くずもぼろ切れも出ない。ただ、船の錆とか毛布などの埃ぐらいしかでない。物が買えないのだからしょうがない。
持ち物は衣類以外何も無い。手帳さえない。いつ船がやられても別に失うものなどなにもない。大切なものは家族の写真ぐらいである。

みんな、お昼を食べにくると、
「おかずがまずい」た゛の、
「どうせ今晩あたりやられるんだから美味しい物をどんどん出せ」
「お汁粉を食わせろと賄い長に言っておけ」と勝手なことを言う。
私に文句を言って当り散らす。
潜水艦よりも先輩の偏見ないじめのほうが怖かった。
油物を食べた後の食器は熱いお湯で洗い、布きんで綺麗に拭き取る。
洗剤がないのだからどうしようもないのだが、ぬるぬるしているとよく先輩に殴られた。
布巾は醤油を滲ませたように汚かった。
また、いつものように夕食の支度をして、全員に食べさせ,後片付けをして夜食の準備し、八時から浮き袋をつけ見張りを交替する。
昨日と同じく暗い海を見張る。用が無ければ口は利けない。
シーンと静まり返った夜の海はとても不気味で口では表現できない怖さがあり鳥肌が立つ。
「何度に明かりが見えた」とか、
「潜望鏡らしいものが見えた」など真剣そのものである。
必死であっる。
十時頃から、船橋に船長始め航海士や兵隊が続々集まりだし戦闘体制をとり始めた。 
「配置よし」の大きな声。
そのまま暫く静かであった。

もう交替の時間ではないかと思った時、
「前方、魚雷」の声。船長が、
「面舵。取り舵」と焦って叫ぶ。
どうやら魚雷は前を通過して行ったらしいみんな驚き一瞬冷汗が出る。
全員に急いで知らせに行く。
船団は崩れてばらばらになる。待ち伏せ攻撃らしい。二本続けてきたらしい。ジクザク運転でかわしたのか、水深が深いため船底を潜ったのか定かではないが危ない所であった。
そんなことを論じている暇も無くまた後ろから一発左舷を通過したらしい。敵は後ろから追ってくるらしい。直ぐ、
「爆雷戦用意」
「用意よし」
「投下」の声かかる。
ジーと爆発を待つ。
四分ぐらすると、物凄い振動と爆発がした。適もさぞ吃驚しただろう。
暫くは安心.。ホッとしたが、まだまだ油断は出来ない。敵も諦めしぶとく狙ってくるらしいから。
必死の見張りである。誰も一言も喋らない。手にじっと脂汗を、かいている。
かなり時間が過ぎた。
「敵はもう去ったようだ」と思ったその時、
後ろの機関を狙ったらしく、また二本の続けざまに船尾を通過した。
「駄目だ。爆雷投下」と船長が叫ぶ。
「爆雷投下」と、直ぐ隊長が言う。
「投下完了」の声。
再びジーと待っていると爆発が起こりすごい振動を感じる。
こんなに長い戦闘は始めてである.。敵は沈まない限り必ずまた狙ってくるだろう。
一番近い所に逃げようという事になり航海士に調べさせたところ、甑島(こしきじま)が一番近いらしい。
「よし。進路甑島。全速力」
念のために、爆雷を投下して逃げる。
一時間も逃げると、やっと危険から遠ざかっているという実感が湧いてきた。
敵潜水艦は沈んだらうか?なかなかしぶとい奴であった。
しかし狙われた魚雷が一発も命中しなかったのは幸運の一言である。
悪運が強いのか、なんとも不思議である。

 



間もなく地平線も微かに白じんできて、確実に危険を脱したようである。二等航海士が、
「もう大丈夫。明日といっても・・・今日だが、部屋に帰り少し寝るように」と言われ、船橋から帰る。
甲板には機関員たちが頭から何回も、煤を被ったらしく、真っ黒な顔に唇だけ妙に赤くして、目をきよょろきょろさせていた。前と後ろが、わからないくらい黒く、土人のようであった。暑いのか、金魚のように口をぱくぱくさせ新しい空気を吸っていた。
「アー甲板部でよかった」と、つくづく思った。まったく頭が下がる思いだ。
「ご苦労様」と、心の中でささやきながら、部屋に帰って寝た。
次の朝、舵取りに起こされた。
いつの間に錨を下ろしたのか,気づかないほどぐっすり寝ていたらしい。時間としては短かったが、何もかも解からず寝ていたようだ。
船は湾に入っていた。
身支度して部屋を出ると、目の前には戦争を知らない漁村が見えた。
氏神様らしい鳥居が見えてきて、ふと田舎の神社をおもいだす。
急いで賄いから飯を運び朝食の準備をした。しかしみんな死んだように寝ているようで、誰も起きて来て飯を食べようなどと思う者はなかった。
起きているのは当直の舵取りと賄い部、そして見習いの私ぐらいなものである。

船は無人のように静かにうねりに乗りゆれていた。

三日三晩、ろくに寝ることも出来ず戦闘に神経をすり減らしていたのだから、当然疲れきっていることだろう。誰もが欲も得もなくただ寝ていたいのだろう。
無事に生きていることを喜ぶのはその後の話であろう。
しかし戦争が終わった訳ではない。暫く生き延びただけの話でいつ何時、命がなくなるかも知れないのである。
戦争が続く限り、命の保証は無い。
きっと、この次は航路も変わることであろう。危険な場所への航海かも知れない。
その内、もうお昼の時間である。これでは朝食も昼食も一緒である。そのまま朝食を片付けて昼のおかずや飯を賄いから運び準備する。間もなく、一人二人と起き出してきた。文句でも言いたそうに不機嫌な顔をして飯を食べ始める。
半分寝ぼけているように食事を済ませ、また寝るために部屋に帰って行く。帰りがけに、
「これと、これ」
「俺もだ」と、二、三人が洗濯物を山のように出していった。
彼らは部屋に帰り、眠るだけなのに・・・・。
後片付けをして、風呂を沸かし、一生懸命洗濯をしていた。
すると、二等航海士が様子を見に来て、洗濯している私の姿を見て、
「誰の洗濯物か。そんなもの海水でゆすげ」と言って、
部屋で寝ていた連中を怒鳴りながら叩き起こす。
「貴様たちだけがお国の為に戦っているんじゃない。見習いの安藤だって飯を運び立派に戦っている。お前たちだけ、ぐうぐう寝腐って!その上、洗濯までさせるとは何事だ!」と怒鳴り付ける。
こちらは胸がスーとした。水夫見習が
「俺が代わるから寝ろよ」と言ったが、やはり、寝るわけにもいかなかった。
夕方錨を上げて船は出港した。沿岸に近い所を通り、見張りも平常要因で、熊本県三角港に向けて航海した。
次の朝起きると、池の中走っているように波も無く穏やかだった。美しい山や町が目の前に見えていた。本当に素晴らしい景色。
何もかもが夢のようであった。とても気持ちが良い。誰の顔を見ても笑顔が浮かんでいる。
「天草女にマラ見せるな。腰弁当で追いかける天草女は凄い」などと冗談を言って笑わせたりと和やかな雰囲気である。
船は天草海峡を滑るように走っていた。目の前の景色はどんどん変わって行く。その美しさが何とも素晴らしい。馬車まで見えた。
私はただ見とれていた。
もうそろそろ入港が近くなってきたらしく、荷揚げの準備で忙しくなる。
暫くして船は小さな港町に錨を下ろした。ここが三角港らしい。
お昼を食べて食堂で休憩していると、
「きゃっ、きゃっ、ばってん」などと若い娘の声がする。
「女だ」と外に出ると、手こう脚絆の女人夫が来ていた。

ウインチが動き、大きなドラムバケツに粘土のような燐鉱石がスコップで入れられ、本船からだるま船に下ろされた。
久しぶりに女を見て、どの顔も笑顔である。ハッチを覗き、
「あれは綺麗だから今晩誘おうか」とか、
「あれはどうだ?」とか勝手に審査していた。
女性の人夫達が甲板で休憩している所を若い兵隊が通ると、
「きゃー、きやー」冷やかされて、兵隊は顔を真っ赤にしていた。
「天草女には参ったよ」などと笑っていた。

ここは一軒だけ劇場があり、たまに芝居や映画をやるだけらしい。
一週間も荷下ろしに時間が掛かった。
荷役がすむと、海峡を通り唐津に向かう。

唐津に近づくと最初に驚かされた。凄いヂャンク(中国の木帆船で)一杯なのである。まるで中国にでも行ったような感じである。
ここはジャンクの基地でもあるらしい。大陸から大豆や塩とか積んでくるらしく、大きな帆を操り勇ましく出たり入ったりしていた。
「これが命知らずのマドロスかあ」と感心してしまった。
こうして唐津港に停泊する。
ちょうど内地の北九州の気候も、空っ風が吹く頃で、下着もろくにない私は寒かった。
月日の過ぎるのは早くも感じられるし、また遅くもかんじられる。
もう正月なのである。戦争で正月気分にもなれないが、そうはいってもやはり、賄い長を始め、コックやボーイ達は全員遅くまで正月のご馳走作りをしていた。
港では風の吹く中、朝から漁師達が伝馬船で何かを取っていた。海の底からロープを手繰り上げしている。
何を取っているのか聞いてみると、
「正月の料理に必ず出るナマコだ」と言っていた。
「へー、あんな物食べるなんて」と不思議に思う。ところ変われば正月料理も随分違うもんだ。

次の日朝早く起きると、機械の部品を積み。船は炭鉱の島、軍艦島あたりを走っていた。
元旦とは言うけれど、ひゅうーひゅうー風の吹く中、戦闘体制をとり、厳重な見張りを続けていた。
軍艦島は沖から見ると戦艦に見える。敵潜水艦が間違って魚雷を発射するほど良く戦艦に似ている島である。

 



八時頃全員集合して、甲板長が新年の挨拶を述べるはずであったらしいが甲板長は見張りをしていたので、残りの者達で乾杯した。
結構ご馳走があった。見習の私などは、忙しくご馳走を運んだりして休む暇が無いので、
「ご苦労様」と、コックやボーイと一緒にチップまでもらった。
「今日は掃除するな」とか、
「食器や皿の料理が減ったら足しておけ」など、初めて迎える船での正月の行事を色々教わった。
正月だからといって、余り調子に乗って飲んだり、ましてや酔ったり出来ない。まだ航海中なので安心してはいられないのである。入港準備がある。
軍港は錨を下ろせないのでブイ取りがある。
「ブイ取り」とは浮きに錨の鎖を前と後ろとをつなぐ仕事である。これが結構大変な仕事である。其れが済まないと酒は飲めない。
昼過ぎ、入口の灯台から合図があり入港する。
軍港は眠ったようにシーンと静まり返っていた。動く小さい船さえ無かった。只ブイ取りの舟が待っていた。
皆んな意気込みがあったせいか仕事は思い通りに済み、さっそく風呂に入り、昭和二十年の正月気分に浸る。酒も配給で思うように飲めないので、ゆっくり寝正月である。
次の日は荷物を下し、軍用船一時解除手続きだか何だか済ませ、一路、相の浦に向けて出港する。
夕方石炭が山積みされた波止場に繋留した。
久しぶりの岸壁である。何時でも陸に上がれ、自由に町に行けるのである。
次の日、大勢の人夫がきて、「パエスケ」と言う丸い竹の籠を、三本のロープで釣った天びん棒に石炭を一杯入れ、それを担ぎ、陸と船に渡した橋板を通ってハッチの上に運ぶ。船のハッチの上で天秤棒の一本のロープを引くと籠の重心が狂ってひっくり返り、石炭が落ちる。そんなふうな上手いやり方で積んでゆくのである。
石炭の種類が違うのか、他のハッチは普通に機械でつんでいた。
荷役の合間に山や丘のほうを歩いてみた。徴用で連れてこられた黒い顔した中国人や朝鮮人の労働者が民家に近寄って来るのをお婆さんが、
「こらー、こらー」と手を振り払って追い返すのや、石を投げたりしているのを見た。
「甘やかすと民家に来て悪い事して困ると、こぼしていた。」
二、三日すると石炭も積み終わり、半年振りに懐かしい大阪に向け出港する。
関門海峡を通り過ぎたところで、勢州丸と擦れちがう。
懐かしい兄弟に会ったように大きく手を振る。
「おーい、おーい」と声を限りに叫ぶ。
「キセンノ、コウカイヲイノル」の信号旗を上げる。
それから瀬戸内海に入り一路大阪に向かって走る。
家族が大阪で待っている連中は船が遅く感じられていることであろう。
「あと、何時間。」と嬉しくて嬉しくて、夜も眠れないらしい。


私達は見張りも無いし危険も無いしと、ただ安定した生活と安心して働けるぐらいの気持ちしかない。特にどうということもない。
しかし、いよいよ無事懐かしの神戸の山が見えたときは感動した。
「やっと無事にかえれたんだ」という喜びと何ともいえない嬉しさがこみ上げてきた。
年寄り連中は感無量と言ったように、ただじっと眺めていた。
もう二、三時間もすると大阪である。家族も首を長くして、
「今か、今か、まだ来ない」
と、待っていることだろう。 

 

7章 「ドッグに入る」に続く