◆はじめに

太平洋戦争末期、14歳で海軍輸送船「相州丸(そうしゅうまる)」にのりこみ終戦を 迎えました。
その間に体験したことを多くの方に伝えたくて平成3年3月にこの本を自費出版いた しました。
この本を通じて悲惨な戦争を多くの人に知ってもらえれば幸せです

出版後、多くのマスメディに紹介をいただき、多くの反響やご意見感想をいただき誠に感謝しております。
残念ながら配布できる本はなくなりましたが、本ホームページにてお読みいただけたら幸いです

 

 

 

◆履 歴

 

  ● 平成3年3月 自費出版 関係各所へ配布 

          
  ● 平成3年8月 東京新聞に紹介される
  ● 平成3年12月 福井新聞に紹介される
  ● 平成4年11月 雑誌「丸」に織り込み短編として

    掲

  ● 2022年4月 アメーバーブログ掲載

 

◆関連記事他

  ● 平成26年9月 読売新聞「武州丸記事」

  ● 平成18年10月 武州丸の船上慰霊祭の新聞記事 

  ● ウェキペディア「相州丸」で紹介

 

◆ブログ管理者

  長男 安藤保夫 

  ご意見気付き等はこちらへ

  yando@c-able.ne.jp

 

第1章 内海普通海員養成所

第1章-1 旅たち~養成所での恐怖の毎日

私は、昭和五年三月十三日福島県船引町の貧しい農家の次男として生まれました。

 


私が七歳で国民学校に入学するその頃は貧しいながらも平和で大好きな甘いものが食べられました。
しかし二年生に上がった頃から、支那事変(日中戦争)が勃発し日本が徐々に巻き込まれだしました。
私が卒業する頃にはもう戦争たけなわでした。
学校では毎日毎日が勤労奉仕で、出兵兵士の家の野良仕事を手伝わされ、満足な勉強も勝利の日までお預けと食料増産に励む毎日でした。

 



卒業後は、飛行機を作ることに憧れ、先輩が入社している日立航空機の入社試験を受けるつもりでした。しかし、その会社の入社案内を音楽の時間無我夢中で見入っていたところ、先生に呼び出されそのパンフレットで頭をぶたれてしまったのです。なぜかその瞬間、すっかりいやになってしまったのです。
なんと単純なことかと笑われるでしょうが、数日後、駅などに貼ってある船舶運営会の募集のポスターが目につき、見たこともない景色の写真にひきつけられてしまったのです。
そして椰子の実や土人、南方航路を夢みて入社を決心しました。

戦争は少しずつ負け戦であったようで、若者はどんどん軍需工場に動員させられていました。
その人手不足から試験らしい試験もなく、口答陳述と体格審査だけで合格してしまいました。
十四歳にして「お国のため」と、私ともう1人は軍属として船舶運営会に、他のものは軍事工場に志願したのです。
その時の私の心境はお国のために死ねることを誇りに重い、死ぬことなど少しも怖くなかったのです。

昭和十九年四月十日、東北は春といってもまだ寒さ厳しく、野山には雪がいっぱいありました。
いよいよ出発の日です.母は、出産のために特別に配給された布で服を作ってくれました。ものがない時代であり、服といっても水に濡れれば縮むような中が透き通ってみえるじんけんのペラペラの服でした。

今まで着物しか着た事がない私はなかなかなじめなく困りましたが、母の優しさが肌に感じられ十分温かったのです。

年寄りは涙を流し、いつの日会えるかもわからない悲しみにただ手を振るばかりでした。
隣の駅で同級生の江川という馬喰(馬などの売買人)の息子のガキ大将が乗ってきたので、いろいろ話ができ心強かったです。
集合場所の白河駅に着くと、トランクや行李を持った「会津」や「中通り」などの福島組で一杯でした。ここで班を組まれ、注意事項を聞かされた後はまるで奴隷のように汽車に乗せられました。

私を見守っていてくれるだろう父の顔を見ることも許されず一路東京へ向かったのでした。

汽車の中では注意を聞かなければビンタがとんでくるので怖かったし、不安と寂しさでただ茫然と窓の景色を眺めていました。しかし、どんどん近づく都会は珍しいものばかりで、いつしか窓に顔を押し付けて見入ってしまっていました。

上野駅に着き、まず第一に驚いたのは人の多さでした。また、電車のドアーが自動的に開くのが、挟まれそうでとても怖かったので、すぐ降りれるようにと入口の側を離れませんでした。 
浜松町の駅で降り、デパート白木屋に到着しました。ここが、船舶運営会本部です。ここで夕食・・・・といっても薄暗いホールでお茶も水もなくそれぞれが持参した握り飯を食べるだけですが、一応食事をしました。

休憩の後、夜行に乗るとのことでした。休憩といっても動くと遠慮なく殴られました。

関東・東北組みが集まり、灯火管制の薄暗い町を東京駅へと歩いていきました。
そして十時の臨時夜行に乗せられ名古屋に向かいました。

何とか椅子には座れましたが周りを見回しても知らない人ばかりで、胸がはちきれんばかりの不安と寂しさの中で眠りました。

朝方、まだ半分しか開いていない目に写った窓の景色は、いっぺんに眠りから覚まさせてくれるものでした。すでに、桜も散っているではありませんか。
東北とは比べものにならないほどここは暖かいのです。 「ずいぶん遠くにきたもんだ。」と感心してしまいました。

七時、熱田駅(名古屋)に着き、下車するとすぐ整列。歩調を整え、憲兵の監視の中、熱田神宮へお参りをしました。
終わるとすぐ、電車に乗せられ知多半島の河和駅まで連れ行かれました。そこで荷物を馬車に乗せる事になったのですが、送ったはずの私の荷物が見つからないのです。

心配だが、まごまごしているとすぐ殴られてしまうので整列し歩き始めました。

そこから一山超えるのですから、喉は乾くし汗は出るわでへとへとです。
何時間も掛かってやっとの思いで目的地の内海普通海員養成所に到着しました。

 



そこの大きい食堂で出た昼食は、黒い豆粕の飯に梅干し、豆腐の味噌汁でした。あまりのまずさにほとんどの者が残していました。
少し休むとすぐ整列させられ、見るからに怖そうな男が、
「貴様等、言われたことに手を挙げろまず、寝小便する者」と言いました。
私の横の者がちょっと笑ったら、たちまち男がやってきて顔が腫れるほど殴った上に蹴りもしました。
一瞬にして緊張感が食堂全体を包み込みました。
そんな事にはお構い無しのその男は、「目の悪い者.。手足の悪い者」と、「あっち」「こっち」と区分けして、約六百人をあっという間に三十四班に編成ししてしまいました。
私の班は群馬・福島・三重の三県の連中でした。
いろいろ注意を受けた後、「煎り豆、乾燥餅など食べ物を全部出せ」と命じられました。金額を言ってお金も全部出させられました。
「もし、後から出てきたら覚悟しろ」と脅かされ皆こわごわ、隠さず出していたようです。
「これで、全員平等だ」と、勝手な行動を抑圧されて三十四班は水野寮に入りました。
寮と言ってもちょっとした小さな旅館なのでトイレがそれ程多くなく困りました。小便所、大便所が二班に一つしかなかったので、夜中でも常に満員でお腹でも壊したら大変な騒ぎでした。

自由な時間は手紙を書いたり小さい声で話すぐらいでした。寝る時はさんまを並べたように、隙間なく三列に毛布を敷き、上に毛布を二枚かけるだけの雑魚寝でした。

いびき、歯ぎしり、寝言とゆっくり寝れもしません。風呂は小さいのが1つあるだけなので教官が入るぐらいで私たちは入れません。
どうせ石鹸も配給で無いからあきらめるしかないのです。当然、一夜にして多数のものが脱走しました。

翌朝六時起床、五分で毛布をたたみ奇麗に積み重ね身ずくろいを済ませる。少しでも乱れていると何回でもやり直しさせられる。
点呼の後、海岸や野を走らせられ神社で海軍体操をさせられる。
朝食はいつもと同じ豆粕飯に梅干・味噌汁だが、腹ペコだったので美味しいこと美味しいこと、何杯でも食べたかった。他の人の丼の方が盛が多いようで妬ましく感じるほどであった.。


九時、海岸に全員集合し、軍艦旗掲揚ラッパ氏の吹くのに従い旗に全員敬礼、そして分列行進。足が合わないとすぐ、教官が飛んできてどつき、蹴る。
ラッパに合わせて綺麗に行進できれば、次は服装点検。ここで焼き米やいり豆などが見つかればそれはもう大変。腕立て伏せをさせられ、精神棒で立てないくらい殴り倒される。
所長の挨拶、そして注意が終わればラッパによる駆け足解散。

次に班ごと分かれて、機関は投炭訓練、甲板はモールス信号・手旗信号の訓練。
毎日毎日、練習といっては殴られ、訓練といっては蹴られた。
風呂にも入らないのだから、蚤(のみ)、虱(しらみ)が湧き体中がかゆくシミだらけになってしまいました。

日曜日は朝礼が済むと、外出が許される自由な時間が与えられる。自分の預けたお金の中から一円だけもらい、店屋に向かうが、食べ物が売っている
ところはいつも黒山の人だかりである。仕方ないので、沢庵漬けを買って食べた。その後、夏みかんを買ったが酸っぱかった。
腹一杯になると海岸でごろ寝した。洗濯をしようにも、たらいが二つしかないのだから出来る訳がない。だが此の日ばかりはのんびりできる。

しかし、自由な一日も夕方の集合時間に遅れれば一転してしまう。一分遅れる毎に一発と、腕立て伏せの後、精神棒でおもいっきり殴られる。
その痛さといったら並ではない。うなり、転げ回る。

これだから、夜中になると、のそのそと泥棒顔負けの忍び足で脱走する者が後を絶たない。班のうち半数以上が脱走した組もあった。一晩中歩き続け昼間は山に隠れるが、河和の駅で乗ればすぐ警察に捕まってしまう。

熱田駅に着けばやはり憲兵に捕まり帰されてしまう。
泳いで釣り舟に助けを求めるものもいた。

数日たって、届かなかった私の荷物が駅にあるとのことなので、外出許可をもらい、バスに乗って河和の駅に取りに行く。荷物を受け取り、帰りのバスを待っていると隣にいた婦人が私の荷物の送り先を見たらしく、「内海養成所の生徒さんですか?」と尋ねてきた。
「そうです。」と私が答える。
すると、側にいた面会の、生徒の母やら姉らしき人やらが、私を囲み矢継ぎ早に、「腹はへりますか?」『厳しいですか?」と心配そうに聞いてくる。
自分の母もきっと同じように私のことを気にかけてくれていることだろうと思うと、何とも言えず胸が苦しくなった。
『面会に行くので案内してほしい」と言うので、一緒にバスに乗り、寮に戻った。
内海は本来観光地で、戦争がなければ夏は海水浴客で賑わうところなのである。本館、別館、南州館、長字屋と旅館はすべて私たちの寮となっていた。

相変わらず、朝夕軍歌を歌い行進、朝礼終礼の毎日であった。自由もなければ、笑うこともできない。そればかりか、暴力をふるわれるのだから虫けらのような扱いであった。

そんな私たちのうっぷんばらしに、この町に住む頭のおかしい男は格好の的であったのだろう。行進の時、先頭の者が、「馬鹿。馬鹿。」とからかったり
石を投げたりするのである。
ところが、この気違い、怒って棒で殴ってくるから参った。それも、服が皆同じで見分けがつかないらしく誰彼構わず襲い掛かってくるから怖い。 
何の関係もないのに殴られるのだからとんだ災難である。
「からかうな。」と注意するのだが、まだいたずらしたい年頃なので、また誰かやり出すのである。 気違いとは執念深いもので、忘れた頃襲ってくるから
運が悪いものは不意に殴られる。これでは、うっぷんばらしどころかよけいにイライラが募ってしまう。

訓練で一番嫌いだったのは棒倒しや騎馬戦である。どうしても負けられないのである。なぜなら、負けると、勝った組と向かい合わせに並ばされ、殴られなければならないからである。友を殴るのも、友に殴られるのも辛いが、手加減すれば、「このように殴るんだ!」とおもいきり殴り倒される。
殴るか、殴られるか。生きるか、死ぬか。仲間同士でさえこのように争うことを強制されるのだから、戦争教育とは本当に恐ろしいものである。私たちの中に、『勝つか」 「負けるか」という二つに一つの厳しさを植え付けていったのである。喧嘩・殴る・蹴るの死に物狂いの棒倒し。
その迫力と言ったらとても言葉では言い表せない。今の運動会など、かわいいものである。

手旗信号も、教官が書いたものを読めないで手を挙げなければ周りの教官がどつくから、わからなくても全員手を挙げる。大勢だから大丈夫と思っていると、
「前から何番目」とか、「この列後ろから何番目」と容赦無く指してくる。
指されて、わからなければ、「前に来い。」と呼ばれ、「馬鹿野郎。」とビンタを食わされた。
訓練が終わって寮に帰れば、「脱走するためのお金を送ってもらう者がいるから。」と荷物の検査。手紙は検閲。食べ物は取り上げと、豆粒一つでも公平に分けられた。

苦しい訓練の毎日の中、唯一の楽しみは友達からの手紙である。田舎の様子が記されていると、もうなつかしくて一ヶ月もたっていないのに、帰りたくて帰り
たくてしょうがなかった。帰って白飯を腹一杯食べたかった。本当に家に帰りたかった。



第1章-2 横須賀海軍対潜学校


ある日、朝礼の後、いつもと様子が違っていた。全員一列に並ばされ、一人一人姓名と生まれ故郷の住所を聞かれた。私も皆と同じように直立不動の姿勢をとり大きな声で申告した。すると「一歩、前へ」と言われた。
何名かの者が、同じように前に出た。
「前に出た者は、整列」と言われ、急いで整列する。
次に、懐中時計を取り出し、一人ずつ順に椅子に座らせられ、「聞こえたら、すぐ手を挙げろ。」と、時計を耳に近づけたり放したりして耳の検査をされた。

この中から、横須賀に行くものを選んでいるらしい。いったい何が基準かは知らないが、頭がいいわけでもないのに、なぜか選ばれてしまった。何百人の中の第一段として二十人が選ばれた。
横須賀に行く者は、一週間の特別訓練を受ける。海軍に入っても、内海の恥じにならないようにと敬礼の仕方から服のたたみ方、行進、そして機敏さをさんざん仕込まれる。
靴を履いたり、脱いだりの早さの訓練もやらされたが借りた靴は布の所がペシャンコだし、紐がペラペラで思うように履けず、一秒を争って泣かされた。

いよいよ出発の日である。午前中は準備に追われ、昼食は特別にとうもろこしのご飯に味噌漬けである。二食分の弁当を持たされ、教官に連れられて駅に向かう。
また、夜行に乗せらる。汽車の中は、兵隊の家族とか公用軍人で一杯でとても座れるどころではない。しょうがないから通路に座り込み、水なしで弁当を食べる。考え無しに全部食べてしまった。
うとうと眠って、朝五時頃腹が減って目が覚めた。しかし、夕べ食べ尽くしてしまって何もないのでがまんするしかない。

まもなく、横浜の駅に到着した。上野の駅でも驚いたが、ここもまた違った雰囲気があって、見るものすべてが珍しく落ち着かなかった。駅出口の隅のほうで休憩を取る。鼻の高い外人が歩いているとみんな、「ほらほら」とか、「来る来る」と突っつきあって、見えなくなるまでずっと見ていた。
しかし、やはり制服制帽のマドロス姿がみんなの憧れの的であった。

 



時間があったので、「横浜・横須賀の者は家へ帰っても良いが、二時間したら全員遅れずに集合の事」と許可が出る。
みんな、喜んですっとんで帰って行くのが羨ましかった。ドイツの海軍とか、髪の色がいろいろに違う外人を見ているのもおもしろく、退屈はしなかった。
九時ごろ、再び集合して京浜急行という綺麗な電車に乗る。三両の車両の中はどこも海軍の兵隊さんで一杯だった。外の景色は麦畑とトンネルばかりである。浦賀駅で下りると目の前に造船所があり、そこにある大きい貨物船を見てビックリした。船とは思えないほど大きいのである。
「いやはや、こんなに大きいものが動くのだからすごい。」

 




そこから、曲がりくねった道を歩き、トンネルを抜け、山の上の海軍対潜学校に着く。入り口には銃を持った歩哨が立っており緊張感が高まる。教官が許可を取りに行き、全員歩調を整えてそこを通過する。
点検・規則・注意を受け、食堂で昼食を取る。金の茶碗には麦飯と塩昆布が一杯入っており、肉の入ったシチューまであった。
箸も金である。朝飯を食べていなかったせいもあるが、こんなにおいしい食事は生まれて始めてであった。
「良くやってこい!」と教官は私たちを励まし帰っていった。

休憩後、今まで着ていた虱(しらみ)だらけの服を全部脱がされ、熱湯消毒に持って行かれた。代わりに海軍の水平服を貸してもらう。
痒い痒い虱ともお別れである。

今日から海軍式で訓練、講習を受ける。水測兵・水中聴音器士の勉強をするのである。係りの者は帽子に白線の入った甲板下士である。
何だか気分はすっかり海軍水兵になったようで嬉しくなる。新しい出発にまた気持ちも新たになる。
まず海軍は何でも5分前を知らせる笛が鳴る。その間に全部準備を済ませ、総員起こしの時、何秒かで毛布をたたみ、整列・点検・番号・異常なしとやる。出来なければ何回でもやり直しさせられる。班単位であるので、ほかの班にに負けないよう競争である。負ければもう一度やり直しさせられる。
次に整列して海岸や麦畑などを走らされる。そして海軍体操と忙しい。

朝食は麦飯にみそ汁、めざしである。運動が激しいので食事はおいしい。食事の後は、当番以外自由に休憩できる。兵舎はトイレも多くゆっくり入れる。内海より人間らしい生活である。
講習を受けたのは、私たちを含め高浜官立海員養成所と各汽船会社からで60名位であった。
授業は兵曹長が先生で音感教育をするのだが、これが私にとっては難問中の難問であった。何を聞いてもみんな同じに聞こえてしまう。水兵を呼び同じように音を聞かせると、「ハニホ」とか「ハホト」とかどんな音でも聞き分ける。
不思議で不思議でちんぷんかんぷんである。ラジオもない田舎の百姓の山猿には、「馬の耳に念仏」である。
見たこともないコンデンサーとか抵抗充電とかヒーター、蓄音機など理解出来るわけがない。蓄音機など中に小さい子供が入っているぐらいにしか思っていないのだからとてもついていけない。

わからないからおもしろくないし、陽気は良いしで眠たくて眠たくてしょうがなかった。
授業が終わると手旗信号や兵舎の外のかけ足などをやる。授業なんかより全然楽しかった。この時ばかりは妙に張り切ってしまった。

ここでは夕方お風呂に入れる。みんな裸で4列になり手拭い鉢巻きで手を挙げ順番に静かに湯船に腰を下ろす。そしてゆっくり進んで、絶対湯船を汚さない。それが海軍式である。

夕食はだいたい芋のにっころがしと魚である。いつもおいしい。
食後はやはり当番以外は自由である。しかし、整頓や規則は守らないと班全員が制裁を受けることになるので皆絶対守った。
八時半、寝る用意の開始である。三列に毛布を並べて敷き、班ごと固まって寝る。用意が遅ければ何回でもやり直しさせられる。
九時、消灯ラッパが鳴り巡検の合図の笛があり、順羅隊が回ってくる大きな声が聞こえると、みんな静かに眠ったふりをする。班長が「内海講習員何名異常なし」と報告する。隅々まで点検される。ここで落ち度があると大変なことになるので、布団の中でどきどきしている。寝る寸前まで気が休まらない。
再び笛が鳴り巡検終了を知らせる。途端におしゃべりが始まり、一番幸せ時間を過ごす。訓練の疲れから間もなく眠ってしまう。

朝起きるにも、何をするにも、段々と要領がつかめると少しずつ慣れて、てきぱきと早くできるようになる。

今日は日曜日なので休んでいると、号令がかかった。横須賀に「三笠鑑」を見学に行くとのことである。全員大喜びで準備する。
すぐ整列し、駆け足で曲がりくねる道を通って浦賀駅にいく。
青々とした山の景色を眺めながら電車に乗り、横須賀中央駅で降りる。廻りには海軍兵舎、海兵団があり、それらの兵舎には銃の先に着剣をつけて鋭い目でにらんでいる兵隊達がいるので何となく緊張してしまう。どこをみても兵隊だらけである。常に周りを見回している。初めて、短剣を下げた少尉を・大尉の姿を見たがやはり凄いと思った。



周りの兵隊達は彼らを見ると、パッパッと敬礼をする。
「一般の水兵は、敬礼敬礼でろくろく歩けないんではないか」と思う。
「キョロキョロしているとスパイと間違えられるぞ」と教官が言う。
しかし、何を見ても珍しい物ばかりで興味があり、ついキョロキョロしてしまう。
間もなく三笠艦に到着する。不動の姿勢で敬礼。番号。何名。銃剣をつけた歩哨の許可を取り、二列に並び整然と見学する
「誰々一等兵の戦死跡。」とか元帥(げんすい)の衣服。」など色々見て回る。ただ、ただ関心したり、中の広さに驚く。
映画館のような広さである。とても船とは思えない。想像以上に船とは大きい物だと驚き通しである。
見学が終わると整列し、「何名異常なし」と報告する。戦時中なのでお土産を買うわけでもないし食べ物が売っているところがあるわけでもないし、ただ水筒の水を飲むぐらいである。
途中原っぱで、「折り式休憩」でやすむ。「折り式」とは何時でも戦闘態勢が出来る休み方で、腰を下ろして、鉄砲を空に向けて撃つような格好である。

 



休憩を取りながら二時頃隊に帰る。すぐに食事である。もう、腹がぺこぺこだったので飲むように食べた。本当に今日は楽しく、とても勉強になった。

食事のあとは、当番以外は軍艦旗降下までは自由時間である。手紙を書いたり、故郷の話をしたりして過ごした。あと1週間で卒業試験である。
「勉強しなければ」と思うのだが、解らないので焦るばかりである。
「充電中の現象は試験に出る」といつでも言われていたが、見たことも聞いたこともないから意味が解らず、「比重がどうの」色が乳色に変わる」と丸暗記するだけである。

月曜日の授業は眠く、「居眠りするな!」と全員注意されていた。だらけきっていた。
何とか授業も終わり、夕方、和気あいあいと笑いながら食事の準備をする。準備が整い、「ピー」と教官が笛で食事開始の合図をする。みんな一斉に食事をはじめる。すると、「ピー」とまた笛が鳴り、「食事終わり」と言う。
「冗談だろう」と気にせずみんな食べ続けていると、
「ピピー、ピピー」と強く笛が鳴り
「総員片づけろー」と怒鳴られた。「ああ、どうしよう」と思いながらも焦って片づける。どんどん捨てられていく食べ物を恨めしそうにじっと見ながら、
「もったいない」と心の中で呟く。
「貴様達はたるんでいる。一食抜きの制裁だ」と言われる。
何も言わずにただ頭を下げて説教を聞く。お腹が空いていて人の話どころではない。
海軍では食事は一善飯と決められている。仏様ではあるまいし一善飯とは情けない。育ち盛りの食い盛り、一善だって足りないのにその一善飯さえ抜かれたのだから、腹が減って、腹が減って夜眠れない。
なかには、夜中に起きて残飯を食べに行く連中もいた。「旨かった」と言う者もいた。

ここでは、内海と違って私たち民間の講習員には殴ったり蹴ったりはしない。その代わり制裁として、兵舎の回りをを何回も走らせられた。紳士的といえば紳士的である。
教官と私たちは親と子程年齢が離れていたせいか親切で、土曜日の卒業試験に出る問題を一生懸命、念を押して教えてくれた。また、授業中も叱らないのでよく居眠りをした。しかし、良い気分になる頃、山の上で、隊の東京湾をにらむ戦闘訓練の空砲が撃ち鳴らされた。そのもの凄い音でみんなびっくりして目を覚ますのである。

今日から実習の準備開始である。朝食が済むとすぐ弁当を班毎に詰め、大きい補音器、水中聴音器一型二型を積み内火艇で浦賀港停泊船に行き、機器を船に上げる。補音器が大きいし重いので、甲板から吊り降ろすのが大変であるが、取り付けてしまえば、後はレシーバーを耳に当て、発動機船かディーゼルエンジンか汽船か軍艦かと音を聞き分け、上の船橋で方位を取る組に報告するだけである。交替制なので、自分の番以外はまるで遊びである。

 



すっかりピクニック気分である。広い海、行き交う船、出船入り船で忙しそうな港、何もかもが珍しく小さい子供のように、「あれ!手旗信号をやっている」「魚雷軍艦汽船だ」と前に行ったり後ろに行ったり、エンジンルームを覗いたりして、はしゃぎ回っていた。
海から眺める風景の中での、麦飯に海苔の昼食。学習だか遠足だかわからなかった。

夕方、沈めた補音器を上げ、機器を内火艇に積み帰る。艇を前進後進と動かす機関兵はきっと頭がよいのだろうと話しかけたりしてみた。

こうして3日間の実習が終わり、卒業試験である。試験官が「点数のつけようがないから、何でもいいから書いておけ」と言う。
「出来たものから外に出て良い」と言うが、私は最後まで残った。何を書いたか夢中で覚えてないが、半分くらい出来たような気がする。
午後からはランチに乗ってから沖の駆潜艇に乗り移り、潜水艦攻撃訓練爆雷投下演習見学である。初めて乗る小さい軍艦だが、水兵たちがてきぱきと仕事をしていて勇ましく感じる。

龍が泣くような汽笛で出向準備完了である。グググゥーと機関の動く音と同時に音水伸器が回る。立って話を聞いていたのでぐらつき驚く。風を切りぐんぐん湾を離れて千葉沖に向かう。勇ましい。
揺れる中、私たちは爆雷について抗議を受け、信音(爆雷などを炸裂させるために、弾頭につけてある装置)とか、何秒後に爆発するかの時間測定について講義を受けてから潜水艦に対する攻撃などの映画を見たりした。食堂兼ホールは蒸し暑く酔う者もいた。

甲板に上がると風があるので気持ちよかった。すでに東京湾を出ていた。艦橋には、危険を知らせる赤のBの旗が上げられていた。旗流信号で回りの船舶に
「キケン、チカヨルナ」と知らせる。近いところには手旗信号を使って知らせる。
危険のないことを確認した後で、
「爆雷戦用意!配置につけ!」の声。ほんの何秒かで用意完了。みんなテキパキと合図に従う。
「信管何秒、何々用意よし」緊張の一瞬。「投下!」の声。全速力で遠ざかる。
2,3分してもの凄い音と同時に海面が山のように盛り上がる。初めてみるその迫力にただ呆然と感心するだけである。

 



帰りはよってしまてふらふらになる。「そんなことで船乗りになれるか」と先輩の水兵に笑われる。これで全部講習は終了である。

最後の夜は緊張もほぐれ我々を世話してくれた下司官たちが、
「♪いやじゃありませんか、軍隊は。」「♪連れて行きやんせ南方へ、連れていくのは易けれど、女は乗せない輸送船」と歌を歌って楽しませてくれた。

また内海に戻る日が来た。
いつものように駆け足、海軍体操をして食事する。その後卒業式である。
「防備隊で勉強したことを実践で活躍させ、お国のためにがんばってくれ。」と挨拶があり、班長が代表で終了証を受け取る。
「各班毎、分列行進、歩調を取れ。長官に対し頭、右。なおれ」
こうしてみんなと別れる。兵舎に戻り、借りた服を返し帰る準備をする。早い組はすでに帰っていった。





1章-3 卒業そして一時帰郷

3時頃、内海から教官が迎えにきたので私たちも、「さようなら」と手を振り帰る。
横浜駅では夜行まで時間があったので「桜木町へ行ってみたい」と教官に頼んでみた。
年寄りの優しい教官だったので許可がおり、歩いていく。あちらこちらと眺め歩いていると、船員の記章とかボタン、階級章など海軍関係の物を売っている店があり「わーっ」と飛び込み夢中で買いあさる。それだけですっかり満足して子供のようにはしゃいでいた。
汽車は相変わらず兵隊でいっぱいだった。しかし久しぶりに自分で欲しい物を買った喜びで、出しては眺めていたので全然気にならなかった。
汽車の中で班長から渡されたガリ刷りの薄いペラペラの修了証の値打ちのないこと、どうせ聴音器士になるとも思わなかったのでどうでも良かった。

9時頃内海に到着。
「ご苦労」の一言くらいですぐ自分の班に戻る。
仲間はみんな日に焼けて黒い顔をしていた。
「教官が変わったから注意しろ。うるさい野郎だからすぐ殴るぞ」と教えてくれる。みんな、
「食べ物は良かったか?」と聞いてくる位である。特に関心はないようだ。
次の日の朝礼で一緒にきた同級生の江川に会う。久しぶりの友人との再会に喜ぶ私に
「俺は小野町の野郎と逃げるから金と食料を都合してくれ」と耳打ちされる。
「本当か?」と驚く私に彼は力強くうなずく。

それから毎朝私は、行李の中の衣類の間に母が腹が減った時のためと、入れてくれた乾燥餅を見つからないように運んでやった。
今度の教官はすぐ殴るし、行進がそろわないと階段を立ったり座ったり登らせたりと恐ろしい奴だったので、見つからないかといつもビクビクしていた。
何だかんだと一ヶ月が経ち、麦刈りの季節になった。故郷からの便りは何よりもうれしく、同級生が軍需工場で働いている様子などかかれていると懐かしく、涙が出そうになる。
嫌なことが忘れられる唯一の時間である。だから手紙は良く出したり貰ったりした。卒業すると休暇が出るらしいと言う噂がたった一つの夢であった。

再び、結索(ロープの結び方)とか手旗信号、モールス信号の練習の毎日である。特に、モールス信号は苦手で暇さえ有れば「トンツートンツー」の練習である。
また短艇訓練もある。これがオールが大きいのに対して川が狭いので、「オールを立てろ」「流せ」とか合図にあわせるのが大変で、「ローが高い、低い」と怒鳴られ、水をかけられたり、どつかれたりするので嫌いだった。幸いなことに短艇訓練はボートが少ないのであまりやらなかった。

時々伊勢湾を見下ろせる野間や灯台や景色のよいサンドスキー場まで駆け足させられ、そこで休憩時間、、演芸会などをした。演芸会といっても歌を歌うぐらいなのだが、大勢いるから結構うまいのがいた。東北の民謡の上手いのがいて故郷を思い出しながら聞き惚れていた。海の方を見れば志摩半島は綺麗で、沖には名古屋方面に行く貨物船が見えた。海岸はどこまでも続く白い砂浜。
「♪千鳥が浜で鍛えた腕を、もゆる誠、内海の健児」校歌を良く歌わされた。

五月三十一日の朝礼で訓示があり、所長が
「今日までは貴様達は民間人。明日からは軍属である。死んだら靖国神社へ祭られる。そして警察から憲兵隊の管轄になる。つまり罪を犯せば国賊である。覚悟してお国のために尽くせ。」と言う。それを聞いて
「よし。絶対今日逃げる」と誰か話していた。きっと今日はかなり逃げるだろうと思った。
入梅も近く、夜はかなり雨が降っていた。雨が降ると外には誰も監視して歩く人間がいないので都合良く、脱走者が多かった。
私たちが寝る頃、
「誰かが下で脱走して捕まり殴られている」というので、二階からみんなで覗いたら、例の同級生の江川と小野町の二人である。
トランクを背負ったまま全身ずぶぬれで下を向き、説教されている。聞くところによると見つかった時、川に飛び込んだらしい。しばらくして、自分の寮の丁字屋に帰されたらしい。

次の日の朝、私のところへ来て、「ダメ、失敗したよ」と苦笑していた。夕べはかなり逃げたらしい。

今日は4回くらいに別れて映画を見た。狭い館にぎしぎしに詰め込まれた。それでも「マライのハリマオ」とうたわれた山下兵団がヤンキーに、「イエスかノーか?」と降伏を迫るシーンなど手を叩き、手に汗して見ていた。敵を討ち倒し前進をしていく勇ましい映画であった。



終わると海岸でいつものように騎馬戦と棒倒しである。殴る蹴るの激しい運動なのでいつも腹ぺこであった。風呂にも入れないし、また虱が湧き始め痒くて痒くてしょうがない。六百人から百人脱走して五百人の賄いである。桶に入れ、各班毎リヤカーで運ぶ。
ある時は校長先生自らがオルガンを弾いて軍歌の練習をさせる。
「♪軍人たの本文は心は忠に、義は勇み」
「♪旅順港々塞がんと、忠勇無二の兵は、いましも艦を去らんとす」など何回も歌わされた。
また、暖かくなると、裸になって海の中で騎馬戦や棒倒しをやらされた。腰まで水に浸かっているので、負けて下に倒れようものなら、何人も上からかぶさって、息が出来ないやら水を飲むやらで苦しいの何の。もう死にものぐるいである。その上、整列し殴り倒される。
第一段は、体の大きく力があり喧嘩に強そうな奴が守る。棒が倒れないようにおさえるのが体の小さな私たちの役目で、それ以外が周りをガッチリスクラムを組み守るのだ。後は喧嘩同然の殴り合いである。海水に浸かって塩が噴き出しても、風呂に入らなくても、気持ち悪いとも思わずに平気で寝ていた。訓練の激しさで疲れていたのか、周りの歯ぎしりやいびきも気にならず夜はぐっすり眠れるようになる。

今日から3日間、勤労奉仕で百姓の農家の手伝いである。
班毎5人くらいに分かれて各家へ行く。殴られることもないのでみんな喜んでいく。久しぶりに懐かしい麦刈りである。驚くことに私の行ったところは山の上の畑なのに赤茶色の蟹がたくさん畑に穴をあけて巣を作っていた。これでは、海の近くの家は蟹に荒らされて困るだろうと思う。出征兵士の家か、奥さん一人しかいなかった。お昼近くになると、奥さんは家に戻る。食事の支度をしてくれているらしい。しばらくすると「お昼ですから」と私たちを呼びに来てくれた。
「別の部屋に用意してあります。何もないけどご飯だけは一杯食べてくださいね。自分でよそってね。本当におかずがなくてごめんね」と言って出ていく。

「待ってました」とばかりに皆飛びつく。鍋のふたを取ると夢に見た白飯である。おかずがなくたって、食べる食べる。
「おいしいおいしい」と何杯食べたかわからないほど無我夢中である。あっという間に、みんあ唸るほど食べ満足してふくれた腹をなぜる。
しばらくして奥さんが入ってきて、我々の田舎のことを聞いたり、田舎の母は何をしているかを聞いたりしてなごやかな一時を過ごす。
奥さんは、私たちの東北弁のズーズー弁を聞き笑ったり、同情したり苦情を聞いてくれたりなど親切にしてくれた。
一日の農作業が終わって、夕方寮に帰ると、みんなで、何のご馳走が出たとか、風呂に入ったとかの自慢話しや何やかやで賑やかであった。いつもと違って、みんな久しぶりに腹一杯で明るい。

次の日は桑畑を耕し、みかんの木の草むしり。そしてお昼はまたまた銀飯である。しかし昨日ほど興奮せず、いつも食べているという風におちついてゆっくり食べた。腹一杯食べさせてもらった上に風呂まで入れさせてもらい、帰りには夏みかんまでお土産にもらって帰った。ラッキーな二日間であった。

内海の川が満潮になると木帆船がたくさん川を上って入ってくる。荷物を積んだり降ろしたりしている。大阪や名古屋方面なで全部海上輸送なので、ここではバス以外自動車は見たことがない。町を行進していても何も邪魔をする者はいない。六百人いても、交通事故で怪我した者など一人もいなかった。

田舎から出てきて2ヶ月もしないのに、すでに一年が過ぎたように感じる。それ程色々なことがあった。とても辛かった。しかし、いよいよ卒業らしい。
今日は記念写真を撮るとのことである。内海普通海員養成所第9期生の看板を立て、前に浮き袋を置いて班毎詰め込まれて写真を撮る。ぼやぼやしていると怒鳴られる。

お昼から卒業試験である。
「煙突は英語で何というか」
「信号ツーツートントンは何か」
「検索、イロハどれが正しいか」などの筆記試験である。
この試験の成績により、各会社の配属が決まるのである。
でも私の頭の中は田舎のことで一杯であった。
「これが終われば休暇がでるらしい」とか「遠いところから先に帰すらしい」など情報が入ってくる。
もう夢も希望もない。ただ、
「ジッちゃん、バッちゃんに会いたい。腹一杯飯が食べたい。帰ったらあーしよう。こーしよう」など、とりとめのないことを考えているだけであった。

二、三日後、海岸に集合させられた。そこには各、船会社の人たちが大きい社旗を持って立っていた。一番から日本郵船、商船、山下、日産と大きい会社の順に並んでいた。
「これから名前と番号を言われたものはそれぞれ旗の後ろに並べ。」と言って読み上げる。
「小さい会社が良い」だの「大きい会社が良い」だのと好き勝手なことをみんな言っていた。
私はそんなことわからないので黙って立っていた。すると「何番、日之出汽船」と呼ばれた。
駆け足で言ったら中間ぐらいのところで、すでに二、三十人並んでいた。周りを見回すと大きいところは百人、二百人と並んでいて、小さいところは五、六人だけであった。全部終わると、日之出汽船は六十人くらい採用したようであった。

寮に帰ると
「お前はどこだ」
「そんな会社は知らん」とすごい騒ぎである」
五十嵐という会津の奴が、私が日之出汽船と聞いて
「兄貴の行っている会社である」という。
「そうか、良い会社か?」と聞くが、よく考えれば弟が知っている分けないのである。

とうとう卒業式の日である。小学校の講堂を借りて、
「♪海行かば、みずくかばね」と、今で言う仰げば尊しを歌って、形ばかりの卒業式を終わらせる。
式が終わると、近い三重県の連中は帰るらしい。今日中に家に着くというのだから羨ましい。もう、いつ帰れるかと待ち遠しいかった。
しかし、みんながウキウキしているその向こうでは、帰れない者もいた。会社によってはすぐに連れて行かれる所もあるのである。
かわいそうに、涙を流し、渋々別れていく。

後から聞いた話だが、彼らはすぐ南方航路の輸送船に乗せられ、敵の潜水艦に攻撃され死んだらしい。
戦争だから仕方がないとは言うものの、十四歳で散ってしまったその命はいったい誰が責任を取ってくれるのだろうか?
彼らと私たちの命とは本当に紙一重の運命の違いであった。
しかしそのときの私は故郷へ帰るうれしさで一杯で、戦争についても、命の尊さについても、ましてやこれから先の運命なんて考える余裕などなかった。





「2.帰郷」に続く




 

第2章-1 ひとときの故郷


その日の朝食は、帰れる嬉しさで夢中で食べた。すぐ荷物を整理し、柳行李に出したり入れたし準備する。
教官が一人一人駅の名まえを聞きに来た。切符を買ってくれるという。「もう、安心。本当に田舎に帰れるのである。」

秋田、岩手、福島の順に帰るそうである。初めてきた時預けたお金も返してくれた。そのお金で絵葉書や貝で作ったしゃもじなどのお土産を買う。
お金がたくさんある者は、のりの佃煮や小魚の佃煮を買っている。十円もするので私には高くて買えない。

九時頃、寮の前にトランクや竹行李を持って整列する。教官が「電報や連絡がない者は、一ヶ月したら帰って来い。お国の大事な体である。注意して、おふくろのオッパイを飲んでこい」と挨拶する。
出発の号令が掛かると、帰れない連中も見送りに来てくれた。バス停には他の寮の東北組みがすでに並んでいた。

バスは木炭で、五、六人の人が汗を流しながら、吹いごうから風を送り、ブウーブウー鳴らしながら煙突から黒い煙をだしてガスを作って整備している。ススだらけになりながら出発の準備をしている。
「乗れ」の言葉とともに、次から次とどんどん詰め込まれる。すぐに一杯になり出発である。
中にはギュウギュウ詰で身動きが取れず、せっかく見送りに来てくれた人にも手を振ることさえ出来なかった。
体の小さい私はつぶされないようにと命がけである。
木炭車のバスは満員のわれわれを乗せて、ブーブーと音を立てて苦しそうに曲がりくねった山道を走っていく。まるで文句をいっているようにブーブーとうるさい。坂道では止まりそうになりながらものろのろとどうにか登って行く。

 



始めてきた時は和の駅から歩かされたことを思い出す。随分遠いところから歩かされたものだと驚く。今から考えるとよく頑張ったと感心してしまう。
河和の駅にたどり着いた時は、全身汗びっしょりでくたくたである。解放されて自由になり気が抜けてしまった。
あまりの疲労に呆然として立ち尽くしていた。
「あっ、そうだ。一分一秒でも早く帰らねば。」と気を取り直して、仲間を追いかけて行き、熱田行きの電車に乗る。
ほっと一息し、外の景色を眺めているうちに熱田駅に着く。

ここで汽車に乗るまでがまた大変である。14歳の小さな体には大きすぎる荷物を背負い、十五分位歩かなければならない。ふらふらしながらも、我が家に帰るためと力を振り絞ってやっとの思いで汽車に乗る。

さんざん苦労して、やっと東京駅である。再び乗り換えて上野駅に着いたのは、外の景色も暗くなった七時である。
ここまで夢中で来てほっとすると、誰かが「今乗るのはダメだ」という。
秋田のほうの組はすぐ乗ったようである。待つ時間が勿体ないと思いながらもしょうがないので五、六人くらいずつバラバラになり、弁当の残りのぼろぼろの豆粕飯を食べながらホームの人並みを見ていた。時々憲兵が変わった者はいないか目を光らせていた。戦争中のことなので、駅には売店などあるわけもなく、せいぜい水を飲むくらいである。

「一刻も早く帰りたい。」いらだつ気持ちを押さえて十時の夜行に乗る。疲れと郷愁でそのまま眠りに入る。

目がさめた時、汽車は白河駅であった。もう何もかも懐かしい。山も木も川も全部福島である。汽車が遅く感じられて駆けて行きたい気分である。
やっと郡山に到着である。乗り換えの時、硝子に写った自分の顔を見ると石炭粕で真っ黒である。着ている服はといえばやはり石炭の粉で真っ黒である。
それぞれの故郷に向かってそれぞれの単線に乗り換え別れていく。私と江川と二人になり一番列車に乗る。周りのしゃべる言葉の響きに懐かしさがこみ上げてくる。思わず、誰か知っている人がいるのではないかと見回す。郡山からは椅子にも座らず「今か今か」と出口の近くいる。

 



船引駅で江川はニコニコした顔で降りて行った。次がいよいよ私が生まれた我が駅である。荷物の行李を背中にしょってホームに降り立つ。「とうとう帰ってきたぞー!」と胸のうちで大きく叫ぶ。

駅から我が家までの山道を駆けるようにして帰る。荷物だって重くない。足だって疲れない。汗だって気にならない。自己最高記録のタイムで家に到着である。
しかし、家の中はいやに閑散としていた。どうやら田植えで誰もいないようである。隠居にじいちゃん、ばあちゃんがいるかもしれないと覗くがやはり田植えに出た後のようで居ない。
ちょっと気抜けしてしまったが、そのうちに妹のチビたちが起きてきて自分を見て吃驚する。すぐに喜んではしゃぎだし、急いで野良仕事の母に知らせにいく。間もなく、母とばあちゃんが飛んで帰ってきて涙を流し、「良かった良かった。」と喜んでくれる。

「今晩の夕食は好きなものをご馳走するから何か食べたい物を言え」と言ってくれる。
「おら、何でもかまねえ」と言うと
「手打ちうどんか、ぼた餅でもご馳走するか?」
「うん、うん。そうすべ」と二人で楽しそうに相談しあっていた。
田舎は今、青葉若葉でカッコウやホトトギスが「トンテンカケカタ」と口が裂けるほど鳴いていた。キツツキはカタカタ木をつつき、山がらなど小鳥たちがピーピー鳴いていた。
母と一緒に山合いの田んぼに行くと親類の人たちも田植えを手伝いに来ていた。
「見たことがある野郎が近づいてくると思ったら、なんだお前か。」などど父が冗談を言って迎え喜んでくれた。

「一服すべか」と昼前の中休みにし、ごぼうの葉と粉の入った、冬に凍らせておいた餅をお茶受けにみんなでお茶を飲んでおしゃべりをした。
いろいろ聞くところにの話では、可哀想に誰々さんが戦死したとか、誰が徴用に引っ張られたとか、あの子が肺病で帰ったとか、脚気(かっけ)になり裸足で誰かさんが歩くとか、田舎は脚気には土があり薬になるとか、今までまったく知らなかった事ばかりである。
田舎の人は伸び伸びしていた。こんなに安らぐの久ぶりである。

隣に行ったら知らない人が居た。その人はサイパン島で現地結婚した誰々さんの奥さんらしい。戦争が激しくなり、子供を連れて船で疎開、子供に浮き袋を付けて命からがら、敵の潜水艦に追われ追われ日本に帰ってきたそうである。
「今、船乗りになった隣の息子がきているらしい。」と自分のことを言っている会話が聞こえてきた。
「可哀想な。死にに行くのと同じだ。ごめん、ごめん。」と疫病神のように言われた。いやな気分だった。



家に帰り、「虱(しらみ)が一杯たかっている。」と言うと、「虱か。」と驚きもせず、「熱いお湯をぶっかけるから、全部脱ぎなよう。」と言われ、代わりに久しぶりに着物を着た。 毎日、赤飯やお煮しめ、鰊(にしん)などの魚のご馳走を腹一杯食べて満足であった。母の弟が海軍で、南方ガダルカナル海戦で名誉の戦死を遂げているので、母はもう私が生きて帰ることをあきらめているらしい。だから生きている今、私に満足の行くものを食べさせようと思っているらしい。魚は大きい良いところを、そしてチビたちに隠して配給の菓子などを持ってきてくれる。
「好きなものを食べて、好きなだけゆっくり休むよう。」と言ってくれる。
しかしラジオも新聞も雑誌もあるわけでないので家にいても飽きてしまう。気ままに麦刈り、芋掘り、煙草作りの手伝いをした。

農家は猫のの手も借りたい忙しさで、朝は三時に起き、夜は暗くなるまで働く。洗濯をする暇もなければ、風呂にも入れない。だからみんな虱(しらみ)がたかっているそうだ。どうりで私の虱に驚かないわけだ。私が水を桶に汲んで天秤棒で担ぎ、風呂を炊いてやるとみんな「有り難い」と喜んで風呂に入り、石鹸も使わずにごしごしと垢をこすり落としていた。じいちゃんやばあちゃんの着ている下着は醤油色をしていた。
「働けど働けど生活少しも良くならず。」村のどこの百姓も皆同じように貧乏である。増産増産、一粒の米でも戦地の兵隊さんにと提供させられる。



学校でも戦地の兵隊さんにと梅干を提供させられたり、山菜のふきを取らされ塩漬けにして戦地の兵隊さんに送ったりした。開墾もさせられた。
父が蚕(かいこ)が食べた後の木の皮を剥いだりしている。
「何にするのか?」と聞くと、
「1人一貫目の割り当てだ」と言う。紙会社が紙を作るらしい。
一億一心火の玉で、子供たちでさえ勉強より、奉仕活動のほうが多く大変であった。兄さんは青年団で軍事訓練に引き出され、殴られたりどつかれたりしているそうだ。銃後の守りも大変であった。女性、母達は国防婦人会から「贅沢は敵である。」とパーマをかけた女やスカートをはいた女は注意された。

防空演習や敵を突き殺す竹槍訓練とか、なぎなたの練習をさせられた。本当に銃後の人たちも大変である。
百姓が増産するのに一番困ることは、化学肥料のカリンやアンモニアなどが戦争で生産中止のためないことである。
満州から来る豆粕、魚の絞り粕くらいしか配給がなく、仕方無いので、足りない分は人の小便やウンコで補う。学校にでもどこにでも頭を下げて貰いにいく。
雨が降っても、みのがさを着て貰い行く。「だら汲み」という杓で桶に汲で天秤棒を担ぎ、こぼさないように、ブラブラさせず上手く操り、野山に運ぶのである。これが結構重労働である。肩には大きなタコができて膨らんでいた。
馬小屋の馬の踏みつけた木の葉と糞小便を混ぜ肥料を作る。家の周りはすごいにおいであったが、誰もそんなことを気にする者はいなかった。
甘いものが無かったのでよく妹たちは桑の木に登り桑の実を食べて口の中を紫色にしていた。

田舎での生活が2週間ぐらいした頃、電報がきた。戦争なのでしょうがないと覚悟はしていたが、「とうとう来てしまったか。」というやりきれない気持ちで電報を握り締めて立ちすくんでいた。
家族のみんなも、仕方ない事と思いながら口を開く者もなく、どんどん沈んでいくばかりである。
電文は「スグ、ウツミニカエレ」である。
「南方か?北方か?」胸は熱くどきどき高鳴る。どちらにまわされるのか心配しながら、衣類を出来るだけ少なく軽く詰めて、持ち運びに困らないように行李に入れて準備する。
父は私が内海まで1人で戻れるのかが一番心配らしく、「上野と東京駅を間違えずに無事いけるか?郡山ではこうしろ。上野駅では改札口を出るな。東京はこうだから駅員に聞け。」と何回教えてくれた。

戦争に行く前に、まず名古屋に行き着けるかの方が心配である。

「明日は大変だからもう寝ろ。」と母が言うので布団に横になる。しかし興奮してなかなか寝つかれなかった。
この平和な2週間の日々が思い出され、明日また訪れる肉親との別れに涙をぐっとこらえる。
次の日朝起きると、祖父を始め父達みんなが神様にローソクを灯し私の無事をお祈りしてくれていた。
「お前も拝め」と言われ拝む。おばあちゃんは「朝茶は災難を逃れるから。」とお茶を出してくれた。胸が一杯でお茶の味もよくわからず無理に流し込んだ。飯も一膳食べるのがやっとであったが「一膳は仏様だからだめだ。二杯にしろ。」と言われ二杯目を無理やりに詰め込んだ。
「汽車に遅れると困るから早めに。」と皆、家の裏の道まで出てきて見送ってくれる。

「気をつけるんだぞー」と手を振る。
よく、我が家で生まれた子馬を軍馬に出す時、皆胸が詰まるような気持ちで、「たっしゃでなー」と涙を流して別れ、引かれて行く馬を見えなくなるまで見送ったものだ。
「その光景と同じだ。」と思った。ただいつもは見送るほうであって、今日は逆に見送られるほうであることが違うのだが・・・・・
母は荷物を背中にしょって、山道を話もせず、もくもくと駅に向かって歩いて行く。お互いに、今度こそもう二度と会うこともないと覚悟を決めているので、何を話して良いかわからないのだ。まして、母の顔を見てしまえば、母は必ず涙を流すので、私は見ないようにうつむいて歩いていた。

駅に着くと母は、
「長くなるほど、辛くなるから。」と涙をこらえながらもすでに泣き顔で帰って行く。よほど辛いのか、私が見ている間一度も後を振り返ろうとしなかった。

駅には切符を買う人が並んでいた。切符は軍人、軍属、公用以外売ってくれない。民間の人には、東京駅までは今日は3枚というように制限され、家族が交代でならんで争うように求めていた。
汽車が来たので乗る。動き出しまもなく線路際に母の実家がある。窓にへばりついて見ていると、麦畑の中からみんなが一生懸命両手を振って見送ってくれていた。故郷の山も見納めかと思うと胸が熱くなった。
次の駅には、歩いて通った高等科の国民学校があり、とても懐かしい。もう、何もかも終わりである。変わる景色を呆然と眺めていた。

上野駅から東京駅までは父に教えてもらったとおり、無事に行けた。
ところが東京駅では、横浜を通る電車はみんな名古屋に行くと思いこんで、「横浜のほうに行くのにはどの電車に乗ればよいのでしょうか?」と聞いたらその人は親切に横須賀線を教えてくれた。
安心して乗っていたら、鎌倉に着いてしまった。「次は横須賀。」と聞いてビックリして夢中で降りる。引き返して大船で乗り換え名古屋のほうに行く電車に乗る。もうただ行き当たりばったり乗る。

熱田から汽車に変わり、静岡も過ぎ、後は熱田駅で降りるだけとホッと一安心する。混んでいたので通路で行李の上に座る。気が緩みついうとうと眠ってしまった。
「はっ!」と目がさめてどこの駅か見るとなんと熱田駅ではないか。あわてて降りようと立ち上がったが時、汽車は無情にも走り出してしまった。
二度の失敗のため、次の名古屋駅に着いた時は夜中の十二時頃であった。しょうがないので待合室の椅子に座り朝まで待った。結構、乗る人、降りる人がたくさんいるのには驚いた。
「いったい何をする人であろう。」そんなことを考えているうちにまた少し眠った。

朝一番の汽車で熱田駅に戻った。電車とバスを乗り継いで内海に何とか帰ることができた。帰れるかどうかの不安がやっと一安心に変わった。
本館の事務所に行き、電報を見せたがそんなに急いで戻ってくる必要もなかったようである。
また三都野寮に入る。すでに十五、六人位いた。寮での生活は昔と違い、洗濯もでき、自由にのんびりとしたものであった。教官も年を取ったおとなしい教官で親と子のように接していた。ぼちぼちと、茨城や栃木の連中も帰ってきた。

次の日から、果物試験場の農作業の手伝いである。七月だから暑い、暑い。若い者が皆、応召されてしまったので年寄りしか残っていないので人手不足らしい。

作業は草むしり、もっこう担ぎ、土運びといった力仕事で炎天下の中、へとへとである。喉がからからに渇いているのだが大勢いるため、やかんのお茶が自由に飲めなくて苦しかった。休憩には、びわが出た。生まれて初めて「びわ」というものを食べた。甘酸っぱっくておいしい果物だと知った。



第2章-2 乗船までの大阪



手伝いを3、4日した頃、会社から迎えがきた。
「明日大阪に行くから準備するように」と言われる。
次の日、頭の剥げたおじさんに連れられ大阪に出発する。内海からまた木炭バスに乗り駅に着く。河和から熱田へとまた汽車に乗ると思っていたら、チンチン電車に乗せられる。こんな電車に乗るのは初めてなのでとても興味がありきょろきょろしていた。
名古屋に着くとここからまた奇麗な赤色の電車に乗る。大阪に行くのに、汽車で行かずに電車で行くのはとても不思議であった。
三重県の連中の話によるとよく乗る電車だそうだ。
「近鉄だよ。近鉄がわからないのか?」と馬鹿にされる。

夕方、上本町と言う駅におり、次から次と市内電車を乗り継ぎ安治川の報国団に連れて行かれた。ここで、寝泊りするとのことである。聞くところには、各船会社の待機する寮らしい。
「君たちは何も知らないからくれぐれも注意するように。悪い先輩がごろごろしているから。金を借りて返さないで逃げる奴とか泥棒とかがいる。絶対に油断しないように。」と念を押される。

田舎にいる頃、「都会では生きた馬の目を抜く。」とよく聞いたが、どうやら本当のことかも知れない。
初めての大都会、大阪での生活。空はどんより曇ったようだし、家だらけだし、水道の水は臭いし、市内の電車の汽笛の音、走る音、その他いろいろの雑音で頭が痛くなる。
「よくこんな所で暮らす人が居るもんだ。」と不思議に思う。
右も左もわからないし、一人で歩いたら帰れなくなりそうで怖い。
「やはり、田舎はいいなー。」とつくづく思う。

夜、寝ると「南京虫」という虫に食われて痒いやら腫れてくるやらでさんざんであった。ノミや虱(しらみ)より、たちが悪く暗くなると動き出して食いつく。ここにいるのがイヤになる。早く船に乗りたいと思う。

二、三日して筑港の会社にみんなで行って見ることになった。看板に「日の出汽船会社」と書いてある。
「ここが私の会社かあ。ここで働くことになるのかあ。」
中に入ると、この前私たちを連れてきた「落田」と言う人がいて、
「おう!来たか。」と言って
「隣が社長の峰だ。」と紹介する。二人だけらしい。田舎の会社より小さい。
「お湯が沸いたか見てきてくれ。」と言われ、指した方へ行く。炭か薪かと思いきょろきょろ探していたが見当たらないので、
「お湯なんてありません。」と言うと
「そこのガス台だよ」と言われて、初めてガス台というものに気がつく。ガスなんて見るのは初めてだし、何だか恐ろしいもののような感じで手が出せない。
「いったい何が燃えているのだろうか?」不思議で怖くてうろうろしていたら笑われてしまった。
「まったく、都会には便利な物がたくさんあるものだなあ」見るもの聞くものすべてが驚きと感心することばかりである。その度に、馬鹿にされる。

また、言葉でも東北の田舎弁は大阪では馬鹿にされる。食事は南京米のぼろぼろの盛り切り飯であった。内海よりまだ良い感じである。味噌汁は実がなく、透き通るような色である。何杯でもおかわりできるので水の代わりに飲んだ。水を飲むと腹をこわすからである。
裏の安治川は小さい船や島通いの貨客船が忙しく出たり入ったりしていた。眺めていると退屈しなかった。波止場では荷物を積んだり降ろしたりしていた。
そこに、連合軍捕虜がいた。パンツ一枚とか、ぼろシャツ姿と言う服装、または裸といったまちまちの格好で汗を流して働いていた。何だか憎いというより可哀相な感じである。側で憲兵が鉄砲に銃剣を付けて監視していた。恐ろしい感じがした。
誰かが「泳ぐベー」と服を脱ぎ飛び込んだ。その人は育ったところが海に近いとか、利根川で泳いだとかで実に泳ぎが上手く、少しずつ流されながらも見る見るうちに向こう岸にたどり着いて手を振っている。山奥で育った私には驚きである。こんなに深く、水の中が暗いところで泳ぐなんて事は恐ろしいやら怖いやらである。まして流れまである。とても犬掻きの泳ぎでは通用しそうにもない。小船から手を離す事などできなかった。

帰りも、皆の後ばかりついて歩いていた。千日前や九条通に行く。映画館が何軒もずらりと並んでいる。橋の上には乞食が並んで座っており、前に風呂敷を広げて金を投げてくれる人を待っているのには驚かされた。
又々、田舎者には見るもの聞くもの珍しい、興味の世界である。
ある店の前で人が大勢並んでいるので何かと聞くと、雑炊を食べさせてくれるという。また別の店も軍人や色々の人が並んでいたので何かと聞いてみると、コーヒーを飲ませてくれるとのことである。
「コーヒーって何?」と聞くと
「コーヒーはコーヒーだよ」と笑われた。覗いてみると黒いお湯である。「まずそう」と思った。
店には衣類なども少し飾ってあるが、衣料キップがないと買うことができない。私は十銭で少し甘いかき氷を食べた。

次の日、金の無い連中が2、3人「船の荷上げをしに行く。」と裏の波止場に出かける。一日5円くれるらしい。窓から見ていると、コールタールの詰まったドラム缶の荷下しで、板を敷いた上に転がす仕事である。か なり力がいるようだ。皆汗だくである。
二時間位したら、「だめだ。勤まらない」と帰ってきた。「人の仕事は楽に見える。簡単には金をくれない」とみんなで大笑いであった。

夕方、暑いので外に出たら、各町内会の集まりがあったので見ていた。どうやら防空演習大会があるらしい。各隣組の班長を先頭に、旗を持ち、たすき、鉢巻、もんぺ姿の国防婦人会の人たちがバケツに水を入れ並んでいた。30メートル先に大きい酒樽、すぐ前に防水盾があり、3、4m手前に白線が引いてある。そこから水を掛ける防水競技大会である。軍人の偉い人や先生、防空指導官の見ている中、鉄兜をかぶった軍人の号令で盾に水を正確に掛け、何分で全員が終わるかと速さを競うのである。そして樽に何センチ水が入ったかである。優勝すれば、「防空組織優秀隣組」として陸軍省より表彰されるらしい。
その他、服装、防空頭巾の点検、怪我人の手当ての仕方の講習会など実戦そのものの訓練であった。どの家にも縄で作った火叩きと防火用水路が準備されていた。

 


相変らず九条通りは軍人軍属で賑やかであった。夜もコップ一杯でレモン水とかコーヒーとかを求めて店は長い列であった。
もちろんアベックなど1人だっていない。見つかると憲兵や警察に嫌というほど殴られるからである。十時ごろになると店もどんどん閉まっていく。
後は灯火管制で明かりが漏れないように注意して寝るだけである。大阪の夏は暑く、涼しい場所もなく大変困った。
次の日いよいよ、「荷物を全部持って会社に来い。」という通知がきた。いよいよ乗船である。どんな船に乗るかと想像して胸がわくわくして嬉しかった。

 

 

 

「乗船」に続く



 

第3章 乗船

 

朝、荷物を持って3人で仕事に行くと、配乗の落田さんが、
「相州丸(そうしゅうまる)に乗ってくれ。木津川ドックにいるからすぐ行ってくれ。ここにいる木村君が甲板ストアーキで行くから連れて行ってもらいなさい。」と言う
「よろしくお願いします。」と頭を下げ後ろについて行く。
市電を乗り次ぎ、南海腺だが何線だかわからないが木津川駅で降り少し歩くと、目の前に大きな貨物船が見えてきた。船名が「相州丸」と書いてある。
「あーこの船だ。」と早足で進んで乗船する。

 



事務所室に行き、「新しく乗船して来た者です。」と話す。すぐ、一等航海士の川島さんの部屋に連れて行かれ挨拶させられる。
「田舎はどこか?」など質問された後、最後に、「がんばれよ。」と励まされる。
二等、三等航海士と順に連れて行かれ挨拶する。そして、甲板長、舵取り、水夫と案内され紹介される。
私の寝る場所は甲板長の部屋の二段ベットの上と言われ荷物を足のもとのほうに置いた。
「今日から新しく乗る三人は事務長と、海運局に船員手帳の発行手続きに行ってくれ。」と言われお昼から出かける。
どこに連れて行かれるのかも良く解らず、ただ後について行っただけである。
手続きを済ませて戻ってきたのは夕方五時ごろであった。
仕事も終わっていて先輩が映画を見に行くと着替えていた。
「連れて行ってやるから、早く飯を食べ、支度しろ。」と言われ、「はい。」と元気よく返事をする。
先輩に付いて外に出ると、途中どこも防空演習梯子に登り、バケツを手送りで屋根の上に水を掛ける練習をしていた。
道頓堀だか何だか知らないがどこかの、映画館が一杯並んでいる所に連れて行かれた。そこの一つの映画観に入ると軍歌や懐かしい歌が聞こえていた。
間もなく、ベルが鳴り始まるのかと思っていたら突然館長と憲兵が出てきて全員起立させられ。「宮崎に向かって最敬礼。今日はサイパン島玉砕の日である。我が将兵は最後の一兵まで戦い抜いた。お国のために全員黙祷する。

 



「敵も死に物狂いである。それに負けてはいかん。」と檄を飛ばされた。その後に映画を見たので何だか気分がのらなく何を見たのか忘れてしまった。
それから、松島遊郭へ連れて行かれる。先輩が、泊まる振りをして写真を見て、「この子とこの子を出せ。」と婆あに言う。
呼ばれた女が3人出てきて、「ボーやもか?」と私を指して言う。先輩が、「う、うん。」と返事をすると、「私、ボーヤが良い。可愛がるからね。」と言っていきななり抱きついてきた。驚いて逃げる。女どころか色気も何もあったものではない。第一、そこが何をするところかもわからないでついてきたのである。
帰りの道々、先輩に話を聞いた。まったく何もかもが初めてのことばかりで吃驚する。
今日から朝六時に起きる。各部屋の掃除から毛布の畳み方、ランプの掃除の仕方、食事の準備、食器洗い、洗濯に風呂掃除と何もかも一つ一つ習う。何が何でも、「はい。」だけで反抗は出来なかった。見る人、見る人すべて、ドッグの職工にまで挨拶した。
ドッグで溶接や鉄板を切るガスバーナーなど初めて見たので不思議だし、凄いものだと思った。
何でもかんでも新しい経験で分らない事ばかりであった。
食事の時、先輩たちは油だらけの服で帽子も被ったままなので驚いた。どうしてなのか聞いてみた。
「戦争のとき、帽子を取り飯を食う人はいない」と言われた。確かにその通りである。
食堂は暑く。飯を食べ終わると皆デッキに出て一服していた。
甲板見習いとしては伊部君と私の二人だけであるで、一ヶ月交替で仕事をすることになる。
伊部は水夫見習い、私はボーイ見習いということになる。
朝六時に起き、食器を洗い、各部屋の掃除、終わると賄い部から飯やおかずを運ぶ。賄いは船の後ろにあり、一般の甲板部、機関部は前にあり、そして大部屋と食堂がある。出来た食べ物は全部、前の食堂に運んで食べなければならない。
昼食を運んでいたら、二番ハッチの上で水夫たちが赤白の幕を張ったり、机を出したりしていた。
「今日から海軍に徴用され軍の御用船になるので、軍と会社の偉い人が大勢来て式を上げるらしい」と伊部が言う。
先輩に気安く口も利けないので何でも仲間の伊部と話す。
船橋の上には十三ミリ機関砲を二門取り付け中であり、後ろのボードの甲板にも六点五ミリ機関砲も取り付けていた。聴音気もつけていた。爆雷も積むので保管場所も作っている。明日爆雷を積むらしい。
「南方行きか?」
海軍御用だから飯も盛り切からお鉢飯に変わり、食べたいだけ食べれるらしい。

 



兵隊の部屋も無線機の横にでき、夕方七、八人の制服姿の海軍が乗りこんできた。
私にまで敬礼して、「よろしくお願いします。」と挨拶していた。
どうやら明日出港らしい。造船所の人たちは溶接機を片ずけたりと明日の出港準備にと忙しく働いていた。



いよいよ今日が出港である。朝起きると煙突から黒い煙が出ていた。機関部は、がたがたと油服の火夫たちが忙しく動いていた。上陸していた人たちもどんどん帰ってきて、どの人が甲板部か機関部かわからず、ただ、「はい。はい。」と頭を下げていた。
十時頃、錨を上げ始める。がらがらとワイアーロープ巻く凄い音。
外に出ると船橋には船長を始め航海士たちが睨むような鋭い目をしている。船名を知らせる旗流信号が上がっていた。引き船二漕に引かれた船はだんだんと岩壁離れて行く。
岩壁には家族や造船所の人たちが大勢、手を振り名残惜しむ姿が見えた。その姿がだんだん遠くなりそのうち、ゴゴゴゴゴとスクリューが回りだすと引き船から自力で動きだし、木津川を下り始める。
大阪から神戸に向かう。

 


神戸港には大きな船が一杯見えた。誰かが、「航空母艦がいる」と言う。
ちょうど昼食時で、口を動かしながら急いで外に出てみる。
「食べながら来る馬鹿があるか。船橋で見ていろ」と怒鳴られ、渋々戻って窓から見る。「凄く大きいなぁ」と見とれてしまった。
先輩には悪い奴がいて、
「上の者となれなれしく口をきくな。裸で外に出るな。礼儀がなってない。ズーズー弁でしゃべるな」と文句ばかりを言う。
さらに朝から、
「布巾が汚い。飯がまずい。おかずが悪い」と私の責任にし、当たり散らす。
年を取った上役の人たちは、年が若くて子供のように小さい私たちを見るとかわいいのか、色々からかって面白がっていた。
初めて乗る船は大きいのか小さいのか、良い船なのかどうか田舎者の私にはわからない。
しかし、ただ毎日が興味と新しい仕事を学ぶことに夢中であることは事実である。瀬戸内海は歌のごとく景色がきれいで大小さまざまな船が行き来する。次々と変わっていく島々。瀬戸内海はまさに船の旅である。
海軍は六時に起き、かけ声とともに気持ちよさそうに体をのばして海軍体操をしていた。終わると隊長の日課や報告を受けていた。
先輩たちは忙しく、ウインチを動かしデリックを上げ荷役準備にかかっていた。
田舎の山と同じような削りとられた山が見えた。セメントの町のようだがどこだろうとと思っていたら誰かが、「津久見だ」と言う。
「津久見ってどこ?」と聞くと、
「北九州だ」と言われる。 随分、南に着たもんだと感心する。
「飯の用意は出来たか?」と聞かれ、
「出来ました」と答えると、急いで食べてまた行ってしまった。
見習いは最後に食べるので、食べていると上でがたがたウインドラースが回り、大きい声で怒鳴っているのが聞こえてくる。
窓を見ると船はもう陸に着いていた。
どやどやと人夫が来て、船倉を開けパネルやモッコウを使い、一度に三十俵位セメントを積みウインチを吊り上げ船倉に積み始めた。
ゆっくり食べてもいられず、感心して見ていた。一、二番倉に半分ぐらい積み、荷役は終わる。
「お昼を食べ終わったら、早く片づけを済ませてみんなの仕事を手伝うように」と言われる。
「嫌だ、嫌だ」と水夫がこぼしていた。
食事の片づけを終えてみんなの所に行くと、士官も作業服姿である。これから重量物を積むからヘビーデリックを用意するらしい。石炭を積んでいた連中ばかりなのでみんな初めてらしい。暗い倉庫から汗だくだくになって長いワイヤー滑車を出す。
「あーだ、こーだ」と、どやされながら仕事のわからない連中で大騒ぎ。
百年も経っているような大きな木に上下鉄の雁首の様な長いデリックをつけ、中吊り滑車を取り付け、ワイヤーを取り付ける。
何とか、夜の九時頃までかかりながらも終わった。もう、くたくたで風呂も早々に入りすぐ寝る。
夜中に、がたがたする感じがしたと思ったら、もう次の港に着いていた。
八時頃、海軍と大工らしい人が来て材木を上げ、一番ハッチの中に積んだセメントの上に板を張ったり、階段を取り付けたりしていた。
そのうち岸壁におもしろい変な自動車がいっぱい来た。それを昨日準備したヘビデリックで慎重に積み始める。また、笑われると思いながら聞いてみると、
「ロードローラーとか飛行場を作る機械だ」と教えられる。「凄いな」と漠然と感心する。さらに驚くのは船の上で自動車が運転できてしまうほど、船が大きいことである。
「船って本当に大きいんだなあ」とつくづく感心する。
夕方最後に二番ハッチの上に大きな上陸用舟艇を積み始める。船長が見ている中、全員それぞれの持ち場に付き、ベテランの舵取り三等航海士がウインチを使い静かに「シュッ、シュッ」と上げる。真剣そのものである。船は大きく傾き、笛の合図で静かにハッチを中央に下ろす。
すぐ大工さんたちがつっかえやくさびを付けて安定させる。
大工の仕事が終わると甲板関係船員でワイヤーをクリップ、タンパックルで締め付ける作業である。台風にあっても動かないよう自動車一台一台良く締め付ける。
要領が良くわからず怒鳴られ通しで大変である。泣きたいくらいである。
食器を洗ったりしながらも少しでも暇があれば甲板の仕事を手伝わされる。ぼろぼろのワイヤーで動かないように縛る作業は大変なものである。
燃料の石炭もハッチに山盛りに積み込まれ,船の後方,両側に吊り便所を大工さんが作っていたので出向が近いと感じる。
水夫は何をしているのかと見ると甲板で、ボートを吊り、外に出していた。聞いて見ると、
「サイドボートと言って、船が魚雷を食らったときに斧で綱を切り、すぐに乗れるようにする仕事だ」と教えられる。
行き先は秘密でどこに行くのかがわからない。だが、九州にいるのだから南方だと思う。
岸壁の方で笛の音がするので見ると、登山帽に半そで荷物を一杯持って装備している、親父のような兵隊が遠足のように列になって乗りこみ始めている。
海軍設営隊とかが、約二百人ぐらい乗ったらしい。
兵隊は甲板に並び、隊長らしい人が宮城遥拝をさせて、
「内地とも当分お別れだ。良く見ておけ」と言っていた。
そのうち、関係者が見送るなか、船は岸壁を静かに離れていく。兵隊の中には涙を流し泣く者もいた。
出港すると甲板長が、
「誰が、何時から何時まで見張り」と順番を決めていた。
決まるとそれぞれ風呂に入って眠る。もちろん、私たち見習は風呂に入る人のためにポンプで水を汲み、蒸気で沸かし、桶に準備する仕事で忙しい。
風呂は海水なので上がり湯に真水が桶一杯と決められている。しかし、中には二杯つかう野郎がいるので後の人が困り泣かされる。
しわ寄せは当然見習いの私たちに来るのである。
日向灘に出たのか、だんだん船は激しく揺れる。夕食の準備をして飯を運ぼうと甲板に出ると甲板は波を被り、水びたしでまるで川のようである。飯を運ぶのも命がけである。
テーブルの物を全部片付けたり、ロッカーにしまたりと食堂で仕事をしていたら、船の揺れ、残飯の匂い、蒸気の匂い、それに蒸し暑さで胸がむかむかしてきて我慢できずに吐いてしまった。
「バカヤロウ。汚いじゃないか」と凄く叱られた。
しょうがないので甲板ではいたら、船橋の上の見張りの人達にゲロがかかってしまい、
「廊下でやれ」と怒鳴られる。
そんなことを言われても我慢する余裕などない。立っていられず、ついビットの上に座り込み動けなくなる。
もう、吐くものも何もなく、ただ黄色い胃液だけが出る。酔って苦しく仕事どころではない。兵隊も酔う者が一杯おり、殴られる班もあったようだ。誰かが
「役立たずは寝ていろ」と言うので、作業服のまま横になり、何がなんだか分からないが後は無我夢中で寝た。
気がつくと夢のように静かであった。起きて船橋を見ると見張りの人もいなく、周りには山が見えた。湾の中を走っているらしい。
部屋と食堂は茶碗が壊れてめちゅくちゃである。急いで片づけ、朝飯の準備にかかる前に賄い長に、壊れた茶碗の数だけもらいに行くと大説教である。
「だらしがない。整頓しておかないからこうなるんだ。この次はやらんからな」と怒鳴られ、代わりをもらって食堂に戻ると、設営隊の炊事班が大きな釜で魚のぶつ切りのみそ汁を作っていた。
「ぼうや。酔っぱらいは直ったかい」と兵隊たちに冷やかされた。
窓の外に、黒い煙を吐き出す高い山が見え自分が今どこにいるかが分かる。その山は鹿児島の桜島である。桜島の裾のほうには青々としたみかん畑が見え、港の中には櫓漕漁船が何かを釣っていた。のどかな風景と対照的に港では陸軍の御用船らしい大きな船が陸軍の兵隊を大勢乗せていた。荷車の大砲など武装した船もみえた。
他にも武装した、前が四角い変わった船があったので尋ねたら、
『上陸用舟艇エスピディーだ」と言われる。
その頃、田舎から履いてきた運動靴がぼろぼろに破け素足で仕事をしていた。さんざんみんなに危ないと言われていたので、よい機会だから許可をもらい買いに行った。
しかしいくら探しても靴らしきものなど何もない。仕方がないのでボール紙のスリッパを買って帰るが、三十分も履いたら切れてしまった。結局また裸足で仕事をする。
停泊中の夜はランプを使用するので石油を入れたり、掃除をしたり大変である。芯が悪いため暗いし、石油も悪いうえに配給なので、夜遅くまで本を読む人には次の日必ず文句を言われた。
鹿児島は山形屋デパートが海軍の司令部、武官府であった。デパートなどは軍が接収して使用していた。
ある日、海軍の技術将校が来て機関部には、黒い煙は敵に見つかり攻撃の恐れがあるので、いかに煙をださないで石炭を燃焼させるのか実技の指導に来た。

 



甲板部には、見張りの講習として、何度の方角に怪しいものを見たか、一秒でも早く正確に大きい声で報告できるか、魚雷を見て焦って報告ができずに船がやられた場合はどうするか、攻撃を受けた時にいかに船を守るかの講習などを指導された。また消化訓練もやらされた。
海軍は対空戦闘に備えて、いかに早く配置につけるかの配備訓練やその他色々の厳しい訓練をやらされていた。一日一日武装した陸海商船が集結してくる。敵の飛行機から守るため、竹や木の枝でカモフラージュしている船、一等駆逐艦、駆潜艇、護衛艦も集まって、鹿児島湾は艦艇でにぎやかである。
そのような重苦しい船の間を桜島の連絡船が見たこともない大きな大根を積んだり、学生や女の人を乗せてポンポン煙を出して走っていくのを眺めて、退屈している兵隊たちが、「わーわー」と言って冷やかしたり手を振ったりする。それが楽しみで、通るたびにとても賑やかであった。
どの船も船名を消し、波の色に船体を塗り敵に目立たないように統一されていた。
朝起きて六時ごろになると、陸軍の天突き体操や駆逐艦の海軍体操、そして甲板掃除とあっちこっちでいろいろなことをやって賑やかで面白かった。
舵取りの当直員の人は船橋からいつも望遠鏡で、司令部からの信号や艦船からの連絡、応答、監視と懸命であった。
司令部に旗流信号が上がったので、急いで船長を乗せ、伝馬船を漕ぎ司令部に行った。船団会議らしい。
夕方になって船長が戻ると、
「すぐ煙突に三八と書け」と言う。
足場を組み、水夫が黒の煙突に大きく三八と書いた。三十八番目の列らしい。
次の朝、黒い煙を出し船団は次から次と出て行く。本船は後ろの方であった。
港を出る頃、また酔ったのか気分が悪くなる。船が揺れ出すとよけいむかむかしてくる。
駆逐艦が汽笛を鳴らし手旗信号を始める。
「シケノタメ、ゼンセンヒキカエセ」と・・・
船団はばらばらになって戻り始める。早い駆逐艦はみるみる船を追い越して進んでいく。すごく、勇ましい。
ぼろ船はどんどん追い越されてなかなか戻っていけない。私は歯がゆく感じた。
湾の中に戻ると酔いはすぐ治まった。湾の中は台風で避難した艦船で一杯であった。

 

「出港」に続く

次の日の朝四時、鎖を上げ、次々と黒い煙を出し勇壮怒涛の如く出港する。
「さらば、故国よ、栄えあれ」と変わり行く桜島の風景をじっと見つめる兵隊の姿。その胸のうちはどんな気持ちで一杯なのだろう?
天気晴朗なれど波高し。船団は5列ぐらいに先頭から並び、敵の待ち伏せや攻撃を避けるため「のじ運動」と呼ばれる、右に十五度、左十五度というジグザグ運転を始める。周りは駆逐艦が固め、時々駆潜艇が、速力を上げ船団の前に出たり後ろになたりして護衛する。

 



三十分ぐらいすると地平線の方からマストすれすれにゼロ戦が飛んできた。飛行士が手を振るのが見える。羽を左右に揺らせながらみるみる空の中に消えて行き忘れた頃また現れる。便乗海軍も前、横、後ろ、甲板と交替で見張りにつく。本船の海軍は船橋で厳重な見張りを続ける。水夫も一人ずつ交替で見張りをする。「これじゃあ、敵潜水艦もでれないだろう」と何も知らない私たちはのんきに話す。
お昼の準備のために賄いに行っていたら、交尾の方で大騒ぎしている。何事が起こったのかと急いで行くと、
「釣れた。釣れた」と叫んでいる。見ると大きな魚が遠くに飛び上がっている。
「沈んだら口が切れるからだめ」
「引け」
「いや、引くな」とおおはしゃぎ。
やっとのことで釣り上げる。
「シイラーだ」と誰かが言う。
「刺身で食うとうまいぞ」と喜ぶ。
「よし。今晩は刺身だ」と毛針を船の後方に流していた。
賄い長と機関長は暇だからいいなあとうらやましくなる。ぼろ船船団だからスピードが遅いところにきてジグザグ運転だから、魚を釣るには最高らしい。
夕食は刺身や吸い物などで、いつも文句を言う連中も今日はおいしそうに食べていた。田舎ではサンマかいわしぐらいなものだから、刺身など初めて見る。
生で食べるなんて気持ち悪く、とても食べる気にならないので誰かにあげた。私はみんながおいしそうに食べるのを不思議に見ていた。でも、吸い物はすごくおいしく何杯でも食べてしまった。
「早く後片付けをして、お前は八時から十二時まで聴音器に出てくれ」と言われ兵隊と交替する。
耳に当てて聞いたが、船団の雑音だけで、ただガーガーうるさく、
「こんなの物わかるもんか」と馬鹿にして聞いていた。
とても、長く感じ、嫌であった。舵取りを見たり、周りを見たりしたが夜は真っ暗でかすかに舵取りの人の羅針盤が見える程度である。
暗い海の中を針でも見つけるように厳重に見張っている。声も出さずに緊張しきって、危険がないか海面をにらんでいる。何だか今にも魚雷が飛んでくるようで恐ろしい。考えれば考えるほど何となく足がすくみような恐ろしさである。
時々、ジグザグ運転のため隣の船と衝突するかと思うほど近づき、あわてて舵を反対に取り、どうにかかわす事がある。
航海士がメガホンで
「馬鹿野朗、ちかづけるな」と怒鳴る。
十二時になると、
「怪しいものが見えた」とか
「変だ」とか次の見張り員に報告して交替する。
船底の機関部に当直として入る機関部の人達も、
「大丈夫か?」と聞きながらびくびくして入っていく。
中には浮き袋を持っている人もいる。いくら、浮き袋を持って行っても敵にやられたらどうせ助からないのに。
気の毒だと思った。
機関部が攻撃を受ければボイラーが爆発し、蒸気が噴出す。石炭を炊く火夫は釜の火をもろに被ることになる。
さらに上の方からは鉄の梯子とか色々なものが落ちてくる。電気も消えてしまうだろうから絶対助かる見こみはない。
昼間は上から飛行機で見ると敵潜水艦がよくわかるらしい。
しかし、夜はゼロ戦も帰ってしまうし暗やみでは視界も悪い。
夜中の十二時から四時は、「魔の地獄ワッチ」という。
敵潜水艦が船団の中に潜り込み、我が物顔に暴れ回る時間帯であるそうだ。よく、やられるらしい。
時々、機関部の人は甲板に上がってきては、「何か、変わったことはないか?」とか
「大丈夫か?よく、見張っていてくれよ。頼むぞ」と何度も念を押す。最後は祈るように訴える。
他の者は昼の疲れもあって、横になってしまえば危険も何もかも忘れてぐっすり寝入る。
そして夜が明けたとき、
「あー、無事であったか」とホッとする。さらにゼロ戦が飛んでくればもう安心である。
どの船も大波に揺られながらも懸命に走り続けた。
三昼夜危険海面を走り続けた朝、
「入港準備だ。忙しいから手伝え」と早くから起こされる。
荷役の準備を始めるため甲板に出ると、透き通るような海面でまるで鏡の上を走っているようなすばらしい風景が目に入った。
私はすっかり南洋だと思い込み、ソテツの木を見て
「椰子の木だ。椰子だ」と叫び、遠くに見える丸木舟を見て、
「土人だ、土人がいる」と叫んでしまった。
本当に遠くに来てしまったと思う。

 




水夫は急いで食事を済ませ出ていった。ガラガラと錨が下ろされる。すぐ、だるま船が引かれて来た。それに便乗兵隊が荷物を一杯持って乗り移り。無事上陸する。
また、甲板関係全員でまず上陸用舟艇(小型の船)を慎重にヘビデリックで吊り上げ海に下ろす。積む時よりは簡単に済んだ。
そのうち、今まで本船に乗っていて、さっき下船した設営隊が荷揚げのため再び乗って来た。年を取った田舎百姓は、荷役が初めてらしく可哀想に暑い中怒鳴られたり、殴られたりしていた。設備も悪く、海岸に丸太を組んで橋を架けジャッキやチェインブロックを使って、半日もかかりやっと一台自動車を陸に上げる。
困難な作業に上役の隊長は焦り怒鳴るが仕事は進まず、思う通りに行かなかった。
三日ぐらい過ぎた頃から少しずつ荷役も陸の人達もなれてきたのか、一台を一時間くらいで陸揚げできるようになった。
一週間以上も掛かり無事荷役が終わりホッと一息する。
そんな時、誰かが話しているのを聞く。
「ナンバースリー機関員はここで生まれたんだって。ここは鹿児島県大島郡というそうだ」
私はそれを聞いて、南洋だと思ってはしゃいだことに今さらながら赤面する。
「何だ。南洋かと思ったら大島か。友達にも自慢できない。笑われそうで話もできない。」
ここで南方から帰ってくる船を待ち、船団を組み返るらしい。
船での生活は毎日上半身裸でぼろのズバンをはき裸足である。着る物も手ぬぐいもない。
「ハイ。ハイ」と怒鳴られながらの食事の準備や後片付け、そして洗濯である。しかし、飯が腹一杯食べられるし、おかずもおいしいので何とか救われる。初めて塩辛が出たとき、こんな物食べられるかと吃驚した。
また八つ当たりで私が怒鳴られるかと心配したら、
「みんな結構うまい」と食べていた。
名前の知らない食べ物が多く、驚いてばかりである。カレーなども知らなかったからみんなに笑われてしまった。
「田舎ではバッタやコオロギを食べていたのか」とからかわれる始末である。
山も美しく、波も無く静かで箱庭にでも入ったような感じであった。外部との連絡も無く、時々水上飛行艇が飛び立つ練習をしていた。新聞、ラジオもないので何の情報も入らない。
四、五日間、暑いので泳いだりしてのんびり過ごした。そのうち、船がぽつりぽつり入って来た。機関銃二丁ぐらい取りつけて防備した漁船に海軍が乗っていた。輸送船の護衛する護衛艇らしい。鯨を取るキャッチボートなども海軍に徴用されていた。船首、船尾、甲板を大砲で武装した鯨船は、乗組員は全員海軍の兵隊で優秀な軍艦として活躍していた。
陸軍と海軍が仲が悪く、陸軍は陸軍で船を造り、陸軍の兵隊が乗り、陸軍の野砲で武装していた。たとえば、陸軍が上陸用舟艇などを持っていて、陸軍の兵隊がのるというように・・・・・・・・
「陸軍と海軍が仲が悪いため勝手に戦争しているんだ」と誰かが笑っていた。
船長が迎えに来た通い船で司令部に行った。
暫くしてから、帰るなり深刻な顔をして全員を集めて話しをする。
「司令部の話では、帰る船はほとんど攻撃を受けて無事に内地に帰れないらしい。しばらく危険な状況なので、攻撃されたとき怪我しないよう割れ物など整頓して置くように。身の回りの物にも注意し、いつ船がやられても大丈夫なようにして置くこと。みんなが無事帰れるように職場をまもってくれ」ということだ。
どうやらここを出ると敵潜水艦がうようよいるらしい。のんびり過ごしていたこの数日間がうそのようである。みんなの顔に緊張が走る。
次の日、駆逐艦、漁船の護衛艇、キャッチボートの護衛艦、そして南方帰りの貨物船5艘とともに内地に向け出港した。全員緊張し、夜・昼と見張りを続ける。
そのかいあってか、幸運にも敵の攻撃も無く無事軍港佐世保に入港する。

 

 



巡洋艦や駆逐艦など色々の艇や貨物船が入っていた。軍港は錨を下ろすことができず、浮きVに船を繋ぐのである。
錨のチェーンで繋ぐ仕事がよくわからず、どやされて大変であった。
兵隊が、「弾薬を取りに行くので誰か手を借りたい」と頼みに来たので、私は靴を借り水夫と一緒に山奥について行った。
途中検問が厳しく何回も調べられる。目的の弾薬庫に行くと「船に届ける」との事である。兵隊は「用事があるので海兵団を通り帰ってくれ」と言う。しょうがないから二人で町を通り海兵団入口に行く。銃剣を着けた歩哨が睨み付けるように立っていた。
見ていると兵隊達が歩調を取り敬礼して通る。どうしてよいか分からず、うろうろしていた末に、同じように敬礼して通ったら銃に剣をつけた兵隊に捕まり、こてんこてんにどやされたり、脅かされたりしてやっとの思いで船に戻る。とんだ災難である。
軍港は厳しいが設備が良く、信号の旗を上げると何でも補給してくれた。有難い事に海軍の帽子や水平服、それに地下足袋が配給になった。やっと靴が履けこれで安心して仕事ができる。まるで海軍の兵隊と間違えそうな服装であるが、たとえ真っ黒のぼろぼろズボンでも本当に助かる。おまけに石鹸、ちり紙、かりんとう、虫がついている羊羹でも最高のおいしさであった。大事にすこしずつ食べた。
当軍港では、艦隊勤務の水兵がてきぱきと動く姿が見える。艦砲を撃つ訓練など実に機敏である。
艦の整備をしたり、暇さえあれば手先信号や手旗信号の練習をしている姿が見えた。
朝六時にラッパが勇ましく鳴り、総員起こしである。各艦、一斉に甲板に並び体操。終わるとピーポー笛が鳴り水兵が甲板に並び、隊長がホースから勢い良く水を出す中、進めの合図で甲板洗いが始まる。
「力が入っていない。ケツが高い、低い」と水をつけたロープで殴られたり、蹴られたりする。三回こすっては進み、ピカピカと鏡のように磨く水兵の姿が目の前に見える。
八時、小さい魚雷艇に至るまで一斉にラッパによる軍艦旗掲揚である。
全員敬礼して旗に注目。それが終わってやっと朝の始まりである。
本船にも船に引かれて大勢の人夫と、艀(はしけ)、だるま船が横付けになり、荷役係の指示にしたがって、戦艦の大砲より大きい砲身砲台や機関銃や弾薬、それに戦車攻撃地雷など色々の軍事物資を積み始める。荷物には、北大東島とか南大東島守備隊行きと書いてあった。どの荷物にも天地無用、取り扱い注意、危険としたためてあった。爆発しないように静かに、慎重に積んでいた。
隣の沖のほうには日本郵船の浅間丸欧州航路の客船がデーンという感じに停泊していた。それほど雄大なのである。その大きさにみんな唖然としていた。
「どうせ乗るならあんな船に乗りたい。同じ船でも月とスッポンだ。本船は泥船だよ」と誰かが言っていた。
夕方になると軍艦旗が下ろされ、各艦船からはピーポーと笛が鳴り上陸員は整列し、ボートで上陸して行く。各ボートが競争して上陸して行く姿が見える。
暫くして外出した水平が帰り、消灯ラッパが鳴り一日が終わる。軍港は静かになるがパトロールは厳重に監視している。
次の日も軍の食料とか機械類を一杯に積みこみ、甲板にも軍用自動車のトラックを積んでいた。
三日間かかって荷役が終わる。今日は酒の配給があり、久しぶりに火夫や水夫達が一緒になり飲む。私達は、
「あれ持って来い。これ持って来い」と奴隷のようにこき使われる。
さらに酒に酔うと、湯のみ茶碗は壊すやら、鍋はたたいて曲げてしまうやらで滅茶苦茶である。片付けるのが大変である。
茶碗の代わりを貰いに行くと、「ない」と言われさんざん怒られる。
ベークライトの臭い茶碗をくれたがお湯を入れると、割れるのでどうしようもない。まったく、困ったものだ。
石鹸が配給になると山のような洗濯物を押し付けられる。
何の楽しみも無く、怒られてばかりの中にも救いはやって来た。
夕方、川島一等航海士が
「安藤にも、上陸させてやれ」と言ってくれた。しぶしぶだが許可が貰えた。
地下足袋を履き、海兵団を通り、検問所で荷物を検査され、銃に着剣を着けて監視している歩哨に軍属証を見えるようにし、歩調を取り敬礼したままで門を出る。それでやっと自由になる。しかし、海軍の新兵は上官を見るたびに敬礼をしなければならないから休む暇が無く可哀想である。
映画館に入ったら白い水兵服を着た兵隊で一杯であった。みんな、朝から晩まで上官に殴られ蹴られの毎日である。
映画館だけが誰にも気を使うこともなく落ち着ける場所なのであろう。つかの間の自由と平和の世界、流れる音楽を聴きいつのまにか安心したように眠っていた。
映画が終わっても食べたり飲んだりする店が無く、先輩達は遊郭に女を冷やかしに急いで行った。私はぶらぶらしてまた検問所を通り伝馬船で帰る。
次の日朝、忙しく片付けをして軍港を後に出港する。
三時ごろ、三池港岸壁に船を繋ぎ、石炭補給ハッチに山のように燃料の石炭を積んだ。
そして次の朝、いつものように起きて食事の支度をして、残り物を捨てようと下を見たら大きい雪だるまのような物が浮いていた。
何かと良く見ると、つなぎ服に革靴を履いてうつ伏せになっている。ぶくぶくに膨れているが明らかに人間である。
「ギョッ」とした。初めて土佐衛門というのを見た。すぐに報告に行く。
九時頃、警察が来て調べていった。前の船の無線士が酔っ払って落ちたらしい。
そんなことをあわれむ暇も無く、もうその頃は本船は忙しく岸壁を離れ出発していた。
沖に出ると相変わらず見張りに忙しい。沿岸であり、危険も少ないことから兵隊と水夫の二人ぐらいの見張りであった。
午後から私が見張りに立つ。波も穏やかで漁船や九州の山々が青々と見えた。気持ちが良い。
暫くすると零戦が長い吹流しをつけ飛んできた。敵機想定して、「パパパン」と機銃を撃ち、上になったり下になったりと訓練していた。
一晩過ぎた夕方、再び鹿児島に着き船団待ちをする。いつもと同じように兵隊を乗せた船、貨物自動車を積んだ船などが敵機に見つからないように竹の葉や木の枝でカモフラージュしていた。桜島は相変わらず煙をもくもく出していた。
次に日、また武官府から兵隊が来て消化講習や、万一機銃掃射を受けて水が入ってしまった時の応急手当の仕方、そして消火器の詰め替え方とかを指導して行った。仕事もせず講習ばかりである。 
四、五日すると続々と大きい船から千トンぐらいの小さな船まで集まってきた。また、鹿児島の港は賑やかになり、勇ましく感じる。
また船長が船団会議に行き、未明、黒い煙はき次々と港を後に勇ましく出る。本船は三十番目ぐらいである。
湾を出ると危険海面なので駆逐艦が前になったり後ろになったりして輸送船を守る。船は敵の攻撃の的を避けるためジグザグ運転をする。
いつ魚雷が飛んでくるかとみんな真剣に見張りを続ける。港を出てすぐに待ち伏せされて攻撃を受けた船もいるので警戒しなければならない。そのうち
「水平線に飛行機発見!」の見張りの声。
「対空戦闘用意。配置につけ」
「配置良し」
その時、空の彼方から零戦が羽を振り勇ましく飛んでくる。そして前方へ飛んで行きまた見えなくなる。敵への緊張感が張り詰めているとき、その姿は本当に頼もしい。
嬉しさにみんな帽子を取り声を出して夢中で手を振る。
忘れた頃またやってきてすぐ飛び去って行く。このように昼間は頼もしい見方がいるから良い。
しかし、一転して夜は地獄に足を踏み入れたようである。船は火薬で一杯だから一発食らったらもうおだぶつである。前回よりも数倍の緊張の連続である。
二晩ろくに眠らず、夕日が沈む頃、沖縄や南方行きの船と別れる。煙を出し遠ざかる船団を見ながら、
「今晩あたりやられるであろうか?」哀れ悲しく感じる。ただ、ただ無事を祈るだけである。
「あの船団は無事に目的地に着くであろうか?夕べは大丈夫であったろうか?」など案じながら、朝早く起こされ荷役準備に忙しい。甲板関係全員汗だくで仕事をする。飯をだべる暇がない。
忙しい中、荷揚げの兵隊がやって来た。重量物だから陸揚げが大変である。そのうえたいした設備もないのでもっと大変である。砲台を一門下ろすのに半日も掛かることがあった。舵取りや水夫が機械ウインチを交替でする。兵隊も前より少しなれていくらか良い感じなったが、相変わらずどやされたり殴られたりしている。
荷物は北大東、南大東と分けられ木帆船に積まれ次々輸送される。
やっているうちにだんだんと早くなり、一週間ぐらい掛かって無事陸揚げが終わった。
もし、途中で攻撃されて船が沈んだらこれだけの荷物が届かないことになる。そのために戦争に負けてしまうかも知れない。そう考えると輸送船の任務も重要なものであるとつくづく思った。
荷揚げが済むと船は鎖を上げて湾を出、島づたいに走る。
「見張りは安藤一人で良い」と言われ見張りに立つ。
島の山々が良く見え、本船と一緒にカモメがたくさん気持ちよさそうに前を飛んでいた。前方の湾入口に、攻撃された戦時標準型六千八百トン級が大きく腹を見せて陸にのしあげていた。哀れな姿であった。
「見張り解除」
船は湾に入り、目の前に大きな町が見えてきた。島で一番大きな名瀬港である。町から離れたソテツの木の茂る島独特の櫓の米倉は何か南国らしい感じで、戦争を忘れた平和のそのものであった。
荷役の準備をしていると、がやがやと眉が濃くて目のギョロギョロしている裸足のおじさん達が来た。何を言っているか全然わからなかい。まるで外国にでも来た感じである。そのうち材木のいかだがきて、船に積み込まれる。
学校が終わったのか、私と同じぐらいの子供たちがきゃーきゃー言って平泳ぎで泳いでくる。船から陸まではかなりの距離であるが、船の高い甲板から飛び込んだりとさすが島の子供たち、全然平気である。まったく感心させられる。子供たちとは何とか話しが通じるようである。話を聞くところによれば、学校でも靴は履かずみんな素足であるそうだ。なかなかたくましい。
次の日、名瀬港を後にまた島づたいに走る。再び町のある港に入る。そこは古仁屋港らしい。港には、良く似た形の船が停泊していた。誰かが
「武州丸だ」と指を指す。向こうも気づいて大声で手を振っていた。
「誰々が乗っている」とか、手旗信号で
「コンバンアソビニイク」などと話していた。
錨を下ろすと、すぐに三番船倉に荷物を積むとの事なので準備する。荷物は内地に疎開する人たちの箱に入った荷物やタンス、そのほか雑貨類で一時間位で終わった。ハッチを閉めその上にタイヤのないおんぼろバス二台に積み、急いで動かないようにワイヤーで止める。後片付けをして、明日の準備を完了させる。
その頃、同じ会社の武州丸には女性やランドセルを背負った子供、そして年寄りなどが、
「きゃーきゃー」言いながら乗り移っていた。
武州丸は台湾から来たらしい。後三日もすれば懐かしい内地に到着する。みんな張り切っているらしい。疎開の子供たちや母親達など全員は、暑いので、三番デリック(起重機)を中心にオールリングカバーを張り、風で飛ばないように回りを止めただけの仮テントのようなところで寝泊りするらしい。
三番船倉の上など、敵の攻撃を受ければ落とし穴に落ちるように船倉に落ちおだぶつになる危険な場所である。
しかし客船などないから貨物船で帰るより仕方がない。内地まで我慢してもらうしかない。
夕方武州丸では、先生か誰かが送りにきたらしく、だるま船と手を振り別れていた。本船からは、
「砂糖を貰ってきて明日お汁粉を食わせるから」と武州丸に伝馬船を漕いで大勢遊びに行っていた。
私は食事の後片付けをして疲れたので寝た。

 

 

「武州丸やられる」に続く

 

 

5章 武州丸やられる

 

いつ出港したのか朝起きると武州丸が大きな波に揺れながら前を走っていた。その後ろを本船が揺れながら走っていた。遠くに六点五ミリの機関銃を船橋に装備した漁船の海軍護衛艇が波をあびながら必死に走っていた。喫水が浅く魚雷が通りぬけるので潜水艦も魚雷も怖くない。
しかし、小さいのでシケが怖いらしい。
「護衛するのか、されるのかこれじゃ敵潜水艦に舐められるわ」などと賄い長が笑う。
東京港が開港したとき、建造された同じ会社の同じ型のぼろ船が二雙仲良く兄弟のように走っていた。疎開者はみんなシケのため酔っているようで誰も顔をださない。寝ているのだろう。朝鮮人の機関員が
「本船に乗れば、女の裸が飽きるほどのぞけるのに」と私に話しかけてきた。
「はい、そうですね」と心にもない同意の返事をしておく。先輩には、
「ハイ、ハイ」といつもへこへこしていないと、後で
「生意気だ」と殴られるからだ。
ジグザグ運転しながら厳重な見張りを繰り返し、二晩が経つ。明日の夕方には鹿児島に着く。
その晩は昼間の疲れから何も知らずに寝ていた。誰かが揺らすのに目を覚ます。悲壮な声と震える声で、
「武州丸がやられた。起きろ。起きろ」

 


私は寝ぼけマナコで飛び起きる。
「浮き袋を着けろ」と怒鳴るように言って、急いで出ていってしまった。
「ハッ!」と我に返る。
全身に緊張感が走る。部屋は真っ暗である。もちろん明かりは点けられない。服を着るのに焦ってボタンがしまらない。ズボンも思うように履くことができない。
靴を履こうにも靴が見当たらない。探そうとしても手探りなのでどこにあるのかちっとも分からない。
手も足もブルブル震えている。浮き袋を着けようとしたが今度は紐がどうなっているのかこんがらがってしまって被ったものの手が出ない。
どうして良いのかわからずそのまま焦って甲板にで出た。外は凄い雷のどしゃぶりである。
部屋の通路に逃げ込むと、機関員達がひそひそと話していた。
「浮き袋をちゃんとつけろ」と紐をたぐりよせ手を通させてもらった。ちゃんとかぶり胸と背中に絞め、着けなおしてもらった。
いきなり、稲光が「ピカッ!」と光る。同時に船全体が
「ピカッ」と照らし出される。一瞬船が丸見えになる。嫌な感じである。敵の目標になり、今にも魚雷がきそうである。
恐ろしいと言うか、嫌なというか、何とも言えない感じである。
「今やられるか、今やられるか」
手に汗をかき、ただ震えて背中を丸め敵に見つからないよう小さくうずくまるだけである。自分が隠れても何もならないのだが、ただ必死である。
次の瞬間は水の中かもしれないのだ。それより自分の存在が消えているかもしれない。頭の中をぐるぐるいろんな事が回っている。
「ドドン!」と大きな音がする度、
「それ、やられた」と外に飛び出す。
「あー大丈夫らしい」ほっとしてまた、隅に隠れる。
機関室の連中はどんな思いで石炭を炊いているのかと思うと可哀想になる。
諦めているのか?観念しているのか?
まだ、近くを泳いでいる仲間もいるから爆雷投射はできない。船はただ全速力でジグザグに逃げるだけである。稲妻が船体を照らす度、敵に見られたのではないかと思うと寒気がし嫌な感じである。今にも魚雷が飛んでくる感じ。
どれくらい走ったのであろうか?船橋から
「爆雷やるぞー」の大きい声。海軍の
「準備良し」の声。すぐ「投射」の声。飛ばされないように鉄柱に掴まる。待つこと三、四分。それさえも長く感じられた。
「ピカリ!」と光った瞬間、
「ドドーン」と大きな音がして船が揺れ、一瞬スクリューが止まる。誰かが「やられた、飛び込めー」と叫ぶ。見張り員が「爆雷だ安心しろ」と言う。

 



「凄い振動があったから、敵潜水艦を沈めたかも」
「敵も驚き、逃げるだろう」と今までの緊張が一変にほぐれただ、みんなの口元がゆるむ。
「武州は可哀相に。轟沈だもの。暗やみで何も見えずただ、キャーと言う叫び声と、ボイラーが爆発し蒸気が吹く音が聞こえるだけだった」と見張り員が話す。交替の見張り員が、
「敵潜水艦が一緒に走っていたようで、ちょこちょこ潜望鏡らしいのが見えた」と話す。
夜中の一時、種子島を過ぎたあたりらしい。暫くは緊張は続き、そのうち雷も遠くに去り、雨も止む。微かに地平線が明るくなり、船橋も静かになったようなので、浮き袋を着けたまま部屋に帰り寝る。暫くは興奮して眠れなかった。


朝起きて、周りを見ると本船以外何もない。船は何もなかったように煙突から煙をもくもく出しどんどん走って行く。昨夜の出来事は悪夢であったかのように、何もかも忘れて爽快に走っている。遠くに木帆船を見たとき、
「あー、もう安心」と胸をなで下ろす。

 

 

いつもと同じく部屋を掃除し、食事の支度をする。飯を運んでいると、先輩達が飯を食べながら夕べのことを話していた。
「あの野郎、鹿児島に着いたら腰が抜けるほど女郎を買うと言っていたのに死んだか。可哀相に」
「女、子供全滅だな。二百人ぐらい乗っていたべに」
「戦争だからしようがない」
食事が済むと、当直以外はみんな死んだように寝ていた。

 



昼頃、鹿児島港に着き錨を下ろした。陸を見ると何事もないように平和そうである。まるで、私達だけが戦争をしているようである。
すぐ荷役準備をする。たぶん持ち主の消えた荷物だろうと思いながら荷物を上げる。続いて材木、ぼろバスも上げる。
薄暗くなり、荷役も終わった頃、私達を護衛してくれていた小さな漁船が戻ってきて、その上から一生懸命手を振る姿が見えた。
船橋から舵取りが望遠鏡で覗くと武州の連中である。急いでこちらからも手を振ったが二、三人しか見当たらない。それでも助かった者もいたのかと驚く。
次の日、中野船長の話では、乗組員五、六人と疎開者の母子が助かったらしい。
武州丸が沈みかけた時、飛び込もうとした船長が甲板で泣いていた母親と子供を見つけ海に浮かんでいるハッチの板に乗せたらしい。
しかし母親は悪いところを打ったのか疲労が激しく、病院で息を引き取ったらしい。
「子供はどうなるのだろうか?」
心のうちではみんな思っているだろうが誰も口には出さない。戦争なのだからしょうがないと、どこかで諦めている。人に同情している余裕などないのである。自分の身を守る事で精一杯なのだから。

 



次の日、湾を出て船はまた佐世保に向けて走る。
もう沖に出ればいつでも危険である。浮流機雷などもあるからである。見張りは厳重にしなければならない。
沿岸は魯を漕ぎ魚を釣る船で一杯であった。一晩走り佐世保に入る。周りは巡洋艦や駆逐艦、そしてどこに行くのか甲板一杯に機雷を積んだ機雷敷設艦、駆潜艇や潜水艦も停泊していた。


待っていたように、山のように軍事物資を積んだ大きなだるま船が横付けされ忙しく荷役が始まる。食料、弾薬、衣類、酒、味噌など美味しそうな食べ物や飲み物がどんどん積みこまれる。正月用のご馳走である。あと二ヶ月で正月なのだ。
夕方、荷役も終わる頃サイレンが鳴る。
「警戒警報、警戒警報。敵機来襲、敵機来襲」誰かが
「見える。見える」と空を仰ぐ。上を見ると白雲を出し、二機、悠々と飛んでいた。各艦ラッパが鳴り「戦闘準備。配置に付け」鉄兜に脚絆姿の兵隊が見事にすばやく配置に付く。そして、一斉に敵機に対し大砲が向く。しかし、遠すぎるのか撃たない。
その時、一等駆逐艦が火を吹く。
「ドドーン!」とまるで軍港が割れるような凄い音が二発続く。気持ちがスカッとした。
しかし敵は悠々と去って行く。B29が偵察に来たらしい。ラジオも新聞もないから何も解らない。敵は、玉砕したサイパンから飛んでくるらしい。
荷役は三日で終わり出港した。
次の朝六時頃起きて部屋の掃除をしていると零戦が海すれすれに飛んでいく。
「あれ?朝早く変だなあ」と思っていると暫くして帰ってきた。ピカ、ピカ、モールス信号を打ってくる。
てっきり敵潜水艦と思い、寝ている者はすぐ戦闘準備のため起こされる。船橋では信号する電気を右に左に追って読もうとするが、飛行機が早くてなかなか読み取れない。焦るばかりで大騒ぎである。苦労してどうにか読み取る。
「シバラク、ワレキセンゴエイスル」である。
眠いのに早く起こされた連中は、
「人騒がせな。肝心なときに護衛せず、へでもないときに来やがって」とぶうぶう怒る。不機嫌になって、部屋に戻る。
しばらくして零戦は飛び去った。
また、鹿児島の港で船団待ちに入る。二、三日してから
「武官府山形屋で慰安会があるから見て来い」と言われ大勢で行く。
大きなホールは海軍や航空隊、軍属で一杯だった。兵隊さんの慰問なのでみんな張りきっており、見せるほうも見るほうも一生懸命である。子供の踊りから、漫才、楽団と割れるような拍手である。中でも、「誰か故郷を思わざる」の歌などは聞きながら涙を流す兵隊、声を出して泣く兵隊など凄い反響であった。
久しぶりに、ひととき地獄から開放されて楽しんだ感じである。次から次と軍隊を乗せた船が入ってきて、港は賑やかになる。しかし、優秀船は敵にやられるのか、少なくなる一方である。

 



次の日は映画を見にボートを漕いで大勢上陸した。時代劇の丹下左前の「百万両の壷」と言う題の映画をがやっていた。軍人軍属は割り引きになる。映画を見ていると、
何丸と何丸の人は全員すぐ帰ってください。と呼び出しがある。満員の映画館は次々に呼び出されてガラガラになる。
変だと思っていると、本船の相州丸が呼び出される。急いで外に出ると、各館皆呼び出した、最後らしいと解る。
急いで波止場のボートの所へ行くと、
「二、三人は女郎屋だ」と言うので迎えに行く。誰が上陸して、誰がどこに行くかは手に取るように解る。
飲み屋も店屋も無く、ただ映画館か女郎屋しか行くところがないからである。呼びに行くと
「一番良いところなのに」と残念そうに出てきた。これで全員集まった。
「さあー、行こう」と思ったらどうしたことか船が何処かに行ってしまったらしい。
「何かあったのか?」仕方がないので、今まで停泊していた方向にボートを漕ぎ出した。しかし、あれほどたくさんいた貨物船はすべて移動してしまったらしく何処にもいない。
真っ暗闇の上、燈火管制で何も見えない。ただ、当ても無く漕ぐだけである。風が出てきて、ボートは遭難したように右に左に進んで行く。漕ぐのにも疲れてしまった。
田辺二等航海士が懸命に懐中電灯で色々の方向にモールス信号を送り「ソウシュマル、ソウシュウマル」と呼んでいた。
随分経ってようやく、
「コチラソウシュウマル」と応答があった。
みんな大喜びである。もうすでに四時間もボートを漕いでいた。完全疲れ果てていたが、最後の力をふりしぼって、わずかな明かりに向かって一目散に漕ぐ。
船に着いたときはへとへとであった。
停泊地は桜島沿岸であった。
次の日の朝起きると、目の前に桜島がもうもうと黒い煙を吐き出していた。
話によると、敵機動部隊が沖縄に接近していたので敵機来襲の恐れがあり、
「艦船は即座に桜島方面に移動しろ」との指示だったらしい。
急いでみんな上陸したので混乱したらしい。
午後から伝馬船を漕ぎ上陸した。
目の前がみかん畑なので、農家の人に解らないように青いみかんをポケットに入れる者や農家にもぐりこみお茶ご馳走になる者など色々である。なんとなく田舎にでも帰ったような感じで心がなごむ。
二、三日過ぎた頃また鹿児島に戻る。船長が再び船団会議に行く。どうやらまた出港らしい。
次の日の朝早く、船団は次々と勇ましく黒い煙を吐きながら出港した。
最初の船団の時から比べると随分少ない感じである。
行く船、行く船、敵の攻撃を受けて沈められたであろう。無事に帰れば儲けものぐらいに思う。前の航海のようにいつ船が襲われるか、ビクビクの連続である。
相変わらず駆逐艦やキャッチボートの護衛艦は危険海面を隅まで無駄なく見張っていた。その中、船団は進む。
横の方を船団に必死に着いて来るおかしな船に気づく。尻が三角で変な船尾、前がずんどうでマストはアングル、機関は焼き玉エンジンである。何となく貧弱で可哀相に見える。先輩が、
「あー、あれが戦時標準形で改Eというのか。鉄板は三ミリで重さが八百トンと物凄く経済的に作られているらしい。全部溶接らしい。一度目的地に荷物を運べば儲け物らしい。ちょっと岸壁に衝突したらビリッと溶接が剥がれるか、穴があくかで終わりらしい。囚人や素人が作っているそうだ。危ない、危ない。あんな船に乗せられたらもう終わりだよ」と言う。
本当に先輩の言うとおりで、こんな船で魚雷を受けたらきっと真っ二つになりおそらく沈没間違いなしであろう。
もう10月。東北は秋だが、南の海の昼はまだまだ暑かった。駆逐艦が前と後ろ、そして横にと遅い船団を護って走ってくれた。
一晩、二晩と過ぎ、三晩、緊張の連続の中、途中からすこしずつ船団と離れ、何とか無事に海軍基地奄美大島に到着した。
みんな眠い目をこすり荷役の準備をする。

 



飯を食べる暇もない忙しさである、船内の荷役で大東島を始め各島に行く荷物が分けられる。
一日目は、木帆船が来ないためこの荷物が邪魔になり、甲板に下ろしたり、振り分けたりとなかなか思うよう作業がはかどらず、滅茶苦茶の荷揚げ作業になってしまった。設営部隊の年を取った髯の爺が怒鳴られたり、殴られたりしながら汗まみれになって働いていた。
一日の作業が終わると食事をし、風呂に入り、みんな疲れ切って死んだように眠った。私などは食事の後片付けをしたり、風呂の上がり湯をポンプで汲み、蒸気で沸かしたりして、風呂も入らないで寝る日が多かった。みんな疲れているせいか、怒鳴られたり、文句を言われたりすることが多かった。
二日目も少ない人数で懸命に荷揚げをした。
三日目の夕方六時頃、やっと荷役作業が終了し、兵隊も帰り静かになった。忙しい一日が終わりやれやれと言ったところである。
甲板は歩く場所もないほど荷物である。酒やカルピスなどの飲み物や美味しそうな食べ物で一杯であった。それらの食べ物は大東島行きの船便である。
美味しそうな食べ物が目の前にあれば、誰でも盗んで食べたいと思うのは当然である。機関部の連中や水夫たちが、何処にあるのか目を付けている。明日にはこの荷物は下ろされてしまうので、今晩あたり抜き取ろうと思っているらしく、下見をしている感じである。様子が変なのですぐ解る。今晩はみんながねずみ小僧になるらしく、何かひそひそ話しをして寝るのが遅い。
ちょうどその頃、全速力で飛ぶように周艇が近づいてきて、
「機動部隊接近!すぐ内地に帰れ!」と船長に命令する。
さあー大変。何から始めれば良いか?どうしたもんか?機関は釜をいけ火してしまっている。機関を始め甲板も今からでは準備に朝までかかってしまうだろう。
甲板部全員駆り出されて、大東島行きの荷物を船倉に入れる。いつ、敵飛行機が飛んでくるかも解らないので電気は点けられない。月明かりの中での荷役作業、
「あーでもない。こーでもない」
「あーしろ、こーしろ」
それはもう話にならないほど大変な忙しさで、パニック状態であった。夜中の一時頃、
「お前は、明日の仕事があるから先に寝ろ」と言われ、内心「助かった」と思いながら寝る。
朝起きると、船はしけの海を揺られて走っていた。水夫たちは重量物を積み下ろす機械のヘビデリックのワイヤーを止めたり、雨天準備をしたりしていた。
しばらくして何とか一段落ついたようである。もう疲れ切っていて、欲も得もなく朝食を食べて風呂に入り、崩れるように寝ていた。他にもまだ仕事はたくさんあるが、寝ないと体がもたないからしょうがない。敵の潜水艦の攻撃の恐ろしさなど何処かへ行ってしまったようにただ夢中に寝ていた。見張りは、水夫の代わりにと増員された兵隊が危険な海面を隅無く見張っていてくれていた。賄いから、お椀に入れた飯を食堂に運ぶ途中周りを見ると、前には貨物船のような船が見え、横には本船と同じくらい小さい八光丸が見えた。遠くには海防艇か駆逐艦か駆戦艇かと思われる艇と、護衛艇らしい船が走っていた。荷役で忙しかったので、周りにこんなにもたくさんいたとは少しも気づかなかった。
みんなが寝ている間に私は上役や先輩たちの物の洗濯とか部屋の掃除にと忙しく働いていた。
午後からみんな起こされ、昼食を食べていた。
食事の済む頃、士官が来て甲板長と話をしていた。午後から、船倉の積荷が揺れて崩れているので結んだり、ならしたりする作業をするとのことである。すぐに当直以外全員、ハッチカバーを開き、船倉に明かりを入れるため、ところどころ蓋を開き、仕事に取りかかる。
命令とは言うけれど、この危険な海面での作業は嫌な感じである。地獄に足を踏みいれたような感じである。ドカーンと一発食らったら、この場所では一巻の終わりである。考えると寒気がして背中がぞくぞくしてくる。 
しかし、やらねばならない。とにかく、一刻も早く甲板に上がりたいので、できるだけ早く仕事を終わらせようと懸命に汗まみれになってがんばる。
中の積荷は滅茶苦茶に入れられていた。もうやけくそである。どうにでもなれという気持ちでいっぱいである。今晩あたりやられたら死ぬ。死んだらおしまいである。憲兵隊もへちまもありもんか!
みんなで、必死にサイダーやカルピスをかぶ飲みし、押し込むように缶詰を食べた。
本当に美味しい。涙が出るほど美味しいのだから、ゆっくり食べたい。しかし、味わって食べてる暇はない。一心不乱に口に詰め込んだ。
「絶対にわからないように瓶など始末して海に捨てろ」と言う。
荷物が崩れたように見せて食べ物や毛布を盗み、
「もう、良いだろうと」と帰ると、ごみくずを捨てる振りをして部屋に運んだ。
私は口止め料としてお菓子を一杯貰った。
作業が終わると、風呂に入り、交替で見張りに立った。
見張りに立つときは、いつも攻撃を受けても良いように一番上等の外出着を着て、枕を背中に合わせたような浮き袋をかぶり、腰で紐を結ぶという万端の準備をして立った。
幸いにも何事も無く、船はジグザグ運転を続け一晩走りきった。

次の日の午後三時頃、突然八光丸が遅れ出した。
「キカンコショウ。マッテクレ」の手旗信号が送られてきた。
「馬鹿野郎、この危険海面で待ってくれとは何事だ」とみんなやきもきする。少しずつ焦りが募る。そのうち、本船の機関も停止する。停止しているところにドカンと撃ち込まれたら船はかわせない。一貫のおしまいである。みんな、いつやられるかとビクビクである。一晩こんな事をしていたら間違い無くやられるだろう。
「今か、今か」と冷や冷やしながらただ手を合わせて神に祈るだけである。
恐ろしさに待ちきれず、スローで八光丸の周りを回る。焦ってもどうにもならない。じっと待つしかないのだがじっともしていられない。
一時間半程すると、ようやく八光丸は推進器が作動し、白い波を切り走り出した。
「やれやれ」とみんな、安心感でホッと胸をなで下ろす。
「良かった。良かった。これで晩飯が安心して食べられる。危ないところだった」

 





再び船はジグザグ運転を続け内地に向かって進む。
船の中には何事もなかったように静かになる。船橋も静かになる。八光丸も平常に走っていた。
夕食も済み、後片付けをし、夜食の準備も終わり夜八時からの見張りに行く支度をした。
私にとって最高の服といったら、田舎から着てきた網の目のようなペロペロの服である。一度でも洗濯したら縮んで着ることができない服であるが、これ以外にないからしょうがない。これを着てお金をポケットに入れ、枕の浮き袋を背負う。
用意ができると船橋に行き敬礼しながら大きな声で、
「見張り交代に来ました」と言う。
「右舷異常なし」と言われて交替する。
双眼鏡を首にかけ、じっと海面を隅無く見る。怪しいと思うと望遠鏡で確認し、少しでも変に思ったら、すぐに報告する。
暗い海をジーッと見つめていた。船橋の上では兵隊が見張っていた。誰もしゃべらない。静かに舵を取る音と機関の石炭を炊いた後の殻を甲板に上げては海に捨てる音だけが聞こえてた。
暗くて時計が見えないが、
「もうそろそろ交替の頃かな。もう少しの辛抱だ」と思ったとき、左舷前方で、
「ドドーン」と言う音と、
「シュー。シュー」と蒸気が吹き出るもの凄い音がした。火花も見えた。
「八光、やられた。船長を呼べ。兵隊は総員起こし。戦闘準備」


すぐ夢中で全員に知らせに行く。みんな飛び起きた。
起こしてすぐまた元の場所に戻っていくと、すでに船長、士官とも配置に着いていた。みんな真剣に海面を見張る。
とその時、再び左舷前方で、
「ゴゴーン!」と音が聞こえた。
「アッ、またやられた」
どうやら護衛艦らしい。
二、三分した頃、火の玉か、花火のような火炎が目の前を飛んでいく。
「ああー、火が・・・火が・・・」口から声が出ない。
報告ができない。足ががたがた震えて立てられない。
そのうち船尾右の方から二本の魚雷が白い泡を吹いて飛んでくるのが見えた。
「あー!あー!」
「魚雷!、魚雷!」
声になっているのかいないのかわからない。目の玉が飛び出しそうになりながら魚雷の方を指差して、必死にカラカラの喉から声を絞りだそうとする。
腰が抜けたか!あーあー
士官が大きい声で
「何度やー」と言う。船長は、
「面舵一杯。取り舵一杯」と焦って言う。
舵取りも右に左にと必死である。
結局同じところを走っている感じである。
みんなが気が動転している時でもさすがは兵隊である。隊長は、
「右舷九十度、雷跡(一瞬にして魚雷が通過する道筋)」と落ち着いて報告する。
すぐにはどうすることもできず、大分遠ざかった頃になって、
「爆雷投射」と船長が言う。
隊長が大きな声で、
「爆雷戦用意」
「用意よし。信管何秒投射」
爆雷投射を知らせる。機関は全速力で逃げる。
「今か、今か」と待つ時間の長いこと長いこと。


一瞬、
「ゴゴーン」と音がして、船が大きく揺れる。
「やったあー。野郎泡を食ったろう」とやっと少し緊張がほぐれる。
しかし、まだ油断はできない。
船は黒い煙を黙々と出し逃げている。
機関部の連中も怖いのだろう。水夫がすすをかぶり土人のように真っ黒の肌に唇だけ赤く塗ったような顔をして出てきた。
「頼む。何かあったら知らせてくれ」と拝むように言ってまた機関室に帰っていく。
兵隊が
「チラリ、チラリと白い波間に潜望鏡が見える」と言う。
「俺も見えた」と言う。
どうやら一緒に付いて走っているらしい。
「よし。もう一発やろう。爆雷配置に付け。」
「用意良し。信管何秒投射」
機関に連声管で知らせる。全員にも知らされる。
賄いもサロンもみんな、
「今やられるか?」と心配で誰も眠らない。
長い戦いである。
また凄い音がして船が振動し、大きく揺れた。
さらにもう一度、物凄い音がして船が振動する。
ぐらりと揺れたその時、機関室から浸水の報告。一瞬全員どきんとする。
船長が航海士にすぐ処置を取るように命令する。古いぼろ船なので、錆びが落ち、親指ぐらいの穴が開き、その所から噴水のように水が吹き出るらしい。
木栓を打っても圧力で駄目らしい。フレームを利用し、鉄板で止め、ポンプをフル回転させることにする。機関の方でどうにか処置するとのことでみんな安心する。
地平線が微かに明るくなり、どうやら危険も脱したようなので当直と見張り以外部屋に帰り寝ることにする。
朝起こされ、眠い目をこすり食事の準備や部屋の掃除をしていると目の前に大きな島が見えた。島からは何か燃やしているのか煙が見えた。
「島には戦争なんかないんだろうなあ。羨ましいなあ。でも、もし今やられたら島の人に助けて貰えるなあ」と思うと、ちょっと気が緩む。
しかし、この当たりは前回の航路の時に武州丸がやられて沈んだ所なのでやはり緊張が走る。昼間なので安心ではあると思うが・・・・
小さい木帆船などが遠くに見える。
みんな夕べの気疲れか死人のように眠っているので食事が片付けられずに困った。
賄いに行くと、賄い長が、
「本船にはネズミの野郎が、朝からチュウチュウ一杯いるから大丈夫。きっとやられない。ネズミは良く知っていて、遭難した人の話では、やられる時はネズミが陸に上がって一匹も居なくなるとのことである。だから、安心して良い。」と言う。
どうせやられるなら八光も大島にいれば助かったのに。あれも轟沈、みんな死んでしまっただろう。
遠くに護衛艦らしい船が見えていたが、船団はばらばらに走っていた。
種子島、屋久島が過ぎ、臥蛇島が見え、今晩十二時頃鹿児島に着くだろう。すなわち十時頃には錦江湾に入っているから昨日のようなことはないだろう。
「生き延びた。良かったなあ。女も知らずに死ぬなんて可哀相だよなあ」
しかし油断出来ない。厳重な見張りを続ける。
船は夜中、無事鹿児島港に錨を下ろした。

 



次の朝、起きると、桜島は猛煙を出し、みかんは色が付き秋を感じさせる。どこで戦争などしているのかわからないように平和な感じがした。
朝食を食べたら、浸水個所を直しにかかる。ボルトにワッシャをはめ、船の外から穴に入れ、中からもワッシャを入れてからナットでしめるらしい。
「よし、俺は千葉の漁師だ」とかけ声ばかり元気に潜るが、だいぶ深いのかなかなか上手くいかないらしい。中が暗くて見えないらしく、何回も、潜っては出るの繰り返しで駄目である。結局、年の功か機関長が目標を定め成功する。
さらに、機関室側からコンクリートで固める。少しは漏れるが、これでいくらか浸水を止める応急処置はできた。
夕方佐世保に向かって出港した。沿岸の見張りは気分的には楽である。
釣り舟や小型船も走っているのでいつでも助けて貰える感じがして安心感で一杯なのだ。
次の日の夕方、佐世保軍港に入港した。
一言でもご苦労様という人は誰もいない。
命がけで輸送する我々の苦労を軍のお偉方にもわかってもらいたいもんだ。軍部のことは我々にはどうなっているのかさっぱりわからない。ただ言われるまま動くだけである。
入港すると何が一番嬉しいかと言えば、やはり懐かしい故郷からの便りである。
今回は小荷物が届いていた。何かと開いてみると中にはたくさんのイナゴであった。とても一人では食べれないし、捨てる訳にもいかないので食堂に持って行った。
「お前の田舎はバッタ、コオロギ、ゲンゴローを食べているか?」と案の定さんざんからかわれ、笑われ、馬鹿にされた。北国の東北の連中は、
「懐かしい」
「珍しい」と喜んで食べてくれた。
中には手紙が入っており、読んでみると、
「隠居の祖祖母が九十三才で死んだ」と書かれてあった。
一瞬にして心が暗くなり、胸がつまり、涙がとめどなく溢れてきた。
学校から腹を空かして帰って隠居に行くと、いつも飴玉をくれたり、さつまいもやとうもろこしなどを煮て食べさせてくれた事などいろいろな思いでが蘇ってくる。
故郷を離れているとよけいに田舎を思う気持ちが強く、夜一人寝台に寝ていると思い出してはまた悲しくなる。
悲しんでいる暇もなく、次の日はまた忙しい。艦隊は出動したのか停泊艦船は少なかった。
また荷物を一杯積んだ、だるま舟と人夫がきて、壊れた荷物を上げ、整理してまた新しく弾薬や兵器、食料を積み始めた。
最初の頃はプロの荷役作業員がいて、上手に隅のほうまで良く荷物を積んでくれたが、そういう人は兵隊に行ってしまうのかだんだん慣れない作業員ばかりになった。荷役は遅くなるし、怪我をするし、その上荷物の下敷きになって、死人まで出る始末であった。
ウインチに油をくれながら沖を見ると、
「あー、あれは何だ?」
白い波を切り、物凄い波を出しながら飛ぶように走る船がある。
「飛行機か船か?」とても船とは思えないほど早いの驚く。士官が側で、
「あれが人間魚雷だよ、ベニヤで作り軽くしてあり、前に火薬を一杯積み人間が運転して敵の航空母艦や戦艦に体当たりする、通称「青蛇」だよ」と説明してくれる。
エンジンは飛行機のエンジンらしい。
「へー、凄いな。それじゃ百発百中戦争に勝ったようなものだ。俺もああいう物を運転して戦果を上げ、お国のために死んで、英雄として靖国神社に祭ってもらいたいものだ」と思った。

 



沖では敵艦を想定して練習していた。艦船は暇さえあれば水平、対空と戦闘訓練をしていた。
酒が配給になるとみんなは、飲んでは、
「前の船でやられた時はどうだった」とかの自慢話しから
「間違いなく今度はやられる」とか、戦争の話ばかりであった。
入港する度に、優秀船の姿が見えなくなる感じであった。
荷役が終わる。積荷から、また大島かと思うと嫌になる。たまには変わった所に行けば良いのにと思う。
今度こそ佐世保に無事に帰れまい。さらばと思いながら船は静かに出港した。見張りを続け、船は鹿児島に向かって沿岸すれすれに走った。
「途中で敵の潜水艦の攻撃を受けた船がいるので、夜は近い湾岸に避難し、夜を避けて昼間だけ航海せよ」と無線が入ったので、ひとまず避難する。
暇になると娯楽もないので、嫁いびりのように私に嫌がらせする野郎がいた。
「この頃、布巾が汚い」とか
「掃除を手抜きしている」とかよく説教された。
嫌であろうが、危険であろうが、軍の命令に反対することが出来ない。怪我か病気で動くことが出来なくなった時以外は、勝手に下船や会社をやめられない。これが戦争である。勝つまでは何もかも我慢しなければならない。
後は運を天に任せるだけである。
避難しながら鹿児島に入港した。船団を待っているらしく、七、八隻の船が停泊していた。
軍の指導員が来て、火災の消化講習や浸水の時の手当ての仕方、そして魚雷攻撃を避けるため、進路をわからないように船の前に帆のようなカバーを張れなど、まるで子供が考えるようなくだらない講習をした。また逃げる時、敵の目標になるから機関部の煙突から煙を出すなという。
「何を言うか。軍の上役は何を考えているか解らん」とみんなで後から笑った。
もう十一月、田舎は紅葉し、秋の氏神様のお祭りの頃だろう。懐かしい。こちらは東北と違ってまだ暑い。
次々と船が集まり、湾が賑やかになる。偽物の大砲を並べて凄く武装しているように見せかけている船や木の枝でカモフラージュしている船などさまざまである。
朝六時になると、陸軍の天付き体操が大きな声で始まる。
暁部隊の陸軍の船、海軍の船と湾の中は日に日に賑やかになる。相変わらず、桜島通いの定期船に若い女の子乗っていると、
「ギャー、ギャー」甲板の兵隊に冷やかされていた。
また、船長が船団会議に行く。今度は本船は前の方で、七、八番目である。七ノットの遅い船団である。

6章 魔の海

 

次の朝未明、
「さらば故国よ栄えあれ。」と船は勇ましく錨を上げて金江湾を出た。
相変わらず15度右に進み、左に15度進むというジクザク運転である。駆潜艇や海防艦 そしてゼロ戦闘機護衛と、 まあまあ安心して船団は進んで行く。相変わらず見張りは、厳重に青い海を見張りつづける。昼間はまあまあ良いが 夜の海は一辺して 魔の海に変わる シーンと静まり不気味な、嫌な感じである。何処からか魚雷がとんでくるような感じで、足がガタガタト、震える。 時折暗いので、他船が衝突するかと思うように近くに現れ、あわや衝突かと吃驚する。航海士が潜水艦より、こっちが怖いよ、油断もすきもないよとこぼしていた。 奄美大島が近づき、危険な海を走り続け、無事船団から離れる。
この船団も、これからが危険の海だ。何処に行くのか南方は間違いないが、無事に食料弾薬届けて内地に帰れる船は何艘になるか、考えるだけで悲しく、とうざかる船団を見て無事を祈るだけで胸がじんと熱くなる。

 


静かな奄美の海を暫く走り続け、なんとか無事に海軍基地に着いた。ご苦労様どころか、直ぐ荷役準備で、てんてこ舞である軍部も焦っている。 
何時敵機動部隊が来るか、この前のようになったら大変と必死の荷揚げ作業始まる。
設営隊達は、どやされ蹴られ殴られ、必死に荷揚げ作業をしていた。
荷役機械が故障しないよう、点検したり油をさしたり忙しかった。
こんな時故障でもしたら隊長に、殴られるぐらいではすまないからこっちも必死である。
何とか無事荷揚げ作業も終り、船長始め全員ほっと胸をなでおろし安心した。 
物のない戦争の時なので一艘の船が沈められたら大損害である。 補給が止まり、戦争に負けることになる。輸送は重大な任務である。
古仁屋港で燐鉱石を積んで帰るらしく直ぐ古仁屋港に向け船は回航された。
大島で二番目の大きな町らしい。

 



何処で戦争しているのか静かな町に見えた。
昼頃日焼けした人夫が、がやかやと賑やかになり船に乗り込んできた。
その内だるませんが、横付けされた。燐鉱石て、どんなものかと覗いて見ると、只の泥土がつんであった。
「へー、これが、海鳥の糞なんて。これが肥料になるのか」と不思議に思った.
粘土のような土を積むので結構時間が掛かり、おかげでみんなつかの間の骨休みが出来た。 兵隊たちもみんな交代で上陸していた。
我々も合間を見て上陸し、学校に行って鉄棒をしたり、玉突きをしたり自由に遊んだ。町が狭いのでだいたい行く所は同じになってしまい、必ず誰かと会った。
「店屋で、椎の実を売っている。」と、兵隊が教えてくれた。
お金を使う所は映画館ぐらいなものだから、 すぐ行って見る。そして釜で煎り、転がし焼いて栗のように皮を取り食べた。初めて食べたが香ばしく美味しかった。田舎にはないので南国だけのものかと思う。
「店の娘を嫁にくれ。」 などと、みんなで冷やかしたり冗談を言ったりして面白かった。何もかも忘れて笑った。 おばさんの言葉が何を言っているのか分からず、こどもや娘に、通訳させて笑ったりした。私たちは兵隊と着るものが同じなので、「兵隊さん兵隊さん」と尊敬され嬉しくなった。
船に帰ると、何時の間にか隣に大きな素晴らしい病院船が電気をこうこうと点けていた。 音楽まで聞こえる。吃驚することに看護婦さんの姿も見える。「素晴らしい。日本にもこんな船があるなんて。ボートの数も数えきれないほどある」と、ただ、ただ驚くばかりである。
明日朝早く出港すれば夕方明るいうちに鹿児島に着くとの話に、またまた驚く。ブラジル移民船欧州航路らしい。
一週間くらいで積み荷役は終わった。
穴のあいた船にこんなに重い土を積んで帰るのかと思うと心配だし、余り荷物を積むと速力が出なくなるので不安でもある。
帰りを思うと心が沈む。 
敵の空襲から逃れるため、湾のいりくんだ所に避難し船団待ちをする。 
一週間過ぎたころ、基地の信号所と連絡を取るため、望遠鏡と手旗を持ち上陸した。この辺は海軍の、民間人立ち入り禁止区域なので、事情を話して通してもらう。敵の上陸に備えて周りは塹壕が掘られ、山には私たちが積んできた三十八インチ砲が厚いコンクリートの中から湾に向かって首を出していた。敵もこれを撃たれたら、たまらないだろうと、思った。 途中老婆が籠を背負い稲かりをしていた。 

忘れもしない時、12月8日大東亜戦争の始まった日の田舎を思い出す。あの日の故郷の大雪を思い出し、奄美の島は暖かいと感じた。
あの日大雪で、大人が雪を踏みながら道を作ってくれる、その後に続いて学校へ行く。途中ラヂオの無い田舎の貧乏百姓の私たちは金持ちの家の息子から、アメリカと戦争が始まったんだってと教えられた。
あの時はまだ戦争というものが実感としてなく平和だった。

 



そんなことを考えて歩きつづけると、高台で眺めの素晴らしい所に来た。
見ると防備隊の監視所が遠くに見える。よしこの場所が良いと、手旗を出し、 コチラ、ソウシュウマル。と何回も同じ事をくり返し呼ぶ。
駄目かと諦めかけた頃、望遠鏡を覗いていた二等航海士が、「応答あり。気がついたらしい」と言う。
直ぐ、「コチラ、ソウシュウマル、レンラクコウ」と送ると、
「リョウカイ。マテ」と返して来た。
今度は私が望遠鏡を覗き、士官がメモを取る。
「マルヒ。マルマルジ センチョウ、カイギニコラレタシ」
「 リョウカイ」と答えて、我々の目的がすむ。また同じ道を帰る。
「今度は危ないな。無事帰れるか心配だな。今度内地に帰ったら、ドックに入るかも知れないな。とか、転船する者もいるだろう」など変わった情報を教えてくれた。 
田辺士官は千葉県出身の人で私のことを良く可愛がってくれた。色々仕事のことや社会のことを教えてくれた。
山道を登ったり下ったりしながら帰る、途中、水も無く、腹が空くし、喉はカラカラに乾くしでへとへとである。 
迎いに来た伝馬船に乗って帰ると、待っていたように、
「ご苦労さん。ご苦労さん。 疲れたか」と船長が自分の子供に言うように気遣ってくれる。
舵取りの連中など船長に怒鳴りちらされるが、安藤と言うと自分の子供のように可愛がってくれた。
見張りの時など士官の世話をする一等ボーイのサロンが運ぶ紅茶や乾パンなど、
「飲んでも良いよ。食べろ」と言ってくれるのである。
私だけ可愛がられるので、よく上の連中に嫌がらせされたり、皮肉を言われたりした。
沖縄の方から帰ってきたのか、ほつん、ぽつん、と船が港に入ってきた。
あの船団が無事だったのかどうだか聞きたい。しかし、何もかも秘密である。何も聞くことは出来ない。
「今度はだめか あの世行きか」
今度こそみんな無事に帰れないだろうと覚悟しているようだ。
「いよいよ来る時が来たか。というきもちである。」
船長が会議に行き、帰ると、いつもと同じく、
「敵潜水艦が増えていて、かなり沈められているらしい」と言う。
「今度帰れば、大阪ドックに入り浸水個所を修理するので家族に会える。みんな、部屋などに割れ物などを置かないように注意し、何とか無事に帰れるようお願いする」と言われる。 
「大丈夫。やられてたまるか、」
「よし。大阪だ。彼女が待っている」
「帰ったら松島総上げでモテテ、モテテ帰れないぞ」など、みんな大阪を夢見てはりきっていた。
成るように慣れという気持ちである。

次の朝早くいよいよ船は内地に向けて出発した。

飯を運びながら周りを見ると、上陸用舟艇やキャッチボートの護衛艦、駆逐艦、貨物船などが五、六雙右へ左へと、のじ運転を繰り返しながら大きな波に揺られて走っていた。
船橋では兵隊や水夫たちが見張りをしていた。
しけのため、波しぶきで船は大きく揺れていた。
しかし敵潜水艦も、しけには弱いので、その間は安心ということになる。
「しけろ。しけろ」とみんなで言っていた。
この航海が無事であれば、何とか二ヶ月間は命が保証される。
安心していられるのだ。
どんなことがあっても内地に帰りたい。
見張りは必死である。小瓶一本でも見逃さない厳重な見張りを続ける。

何とか一晩が無事すぎた。アー無事だったか。と目覚める。
みんな、普通に職場について働いていた。
洗濯したり、風呂掃除したり、食事の用意をしたりと休む暇も無く忙しい。

夕食を終わらせ、食器を洗い、夜食を準備し、八時から見張りを交替する。
船橋は真っ暗闇で、誰が何処にいるのか暫くは解らない状態だった。掻き分けるようにして、見張りにたつ。目を慣らすまでが大変であった。
ただ舵を取る音だけが、ガラガラ聞こえるだけで他はシーンとしていた。誰も喋らない。何となく不気味で足がすくむ感じで気持ち悪い。今にも白い泡の魚雷が飛んで来るようであった。
時々がだがた吊り上げ、がちゃんと石炭の燃え殻を捨てる音がした。
船は波に揺られながら黙々と走っていた。
時間が長く感じたが、どうにか何事も無く、十二時に見張りを交替した。
部屋に帰り、
「やれやれ寝るとするか」と浮き袋のひもを緩め、それを枕にして横になる。
そのうち、うとうとと眠り始めたと思ったら
「出たー」と揺り起こされる。
もう眠くて眠くて半分、
「どうにでもなれと」とやけな気分になったが、やはり怖い。
直ぐ飛び起きて靴を履き、浮き袋を着けたが、暗くてよく解らずひもが結べない。そのまま急いで甲板に出て、機関員に最初から絞め直してもらう。甲板からは何も見えない。誰かが
「甲板は飛ばされるから危ない。部屋に入っていろ」という。
通路には今さっき交替したばかりの機関部の連中がいた。
「飛ばされないように鉄柱に掴まれ」と誰かが言う。
四、五人ぐらい、鉄柱に掴まりひそひそと囁く。
「今度は駄目だ。やられるだろう」
「危ない。お陀仏だ」
「今か今か」と、いつでも海にとびこめるように暗い通路にたたずんで震えながら待っていた。その待つ時間の長いこと長いこと。
その内、急に騒々しくなり何か急いでいる声がする。
魚雷が飛んできたらしい。
「危ないと」思う間もなく、直ぐ
「爆雷投下」の声。
もう駄目だ。地獄だ。覚悟を決めた。しかし、足がガタガタ震える。
「ピカリ!」光を見た。その時、
「ドトーン」と爆雷が破裂。ぐらりと船が大きく揺れた。
「やられたー」と通路から甲板に夢中で出た。
「爆雷だ。安心しろ」と船橋から大声で言われる。
「よし。これで敵の潜水艦も沈んだろうと」暫く安心する。



ホットしたせいかそこにしゃがんだままで、うとうとする。
一時間ぐらいした頃から、地平線がかすかに明るくなり始める。
落ち着いたのか部屋に帰って寝る。
昨夜は二時間ぐらいしか眠らなかったが、次の日は何事も無かったように飯を運び、食事の用意をしてと、いつもと変わりなく働く。
昨夜のことなど夢でも見たかのように、忘れるぐらい忙しく働いた。
昼間は当直以外みんな死人のように寝ていた。
こちらは見習い、寝たくても寝ることもできない。眠くて、眠くて、脂汗が出てきた。
昨夜はどの船が攻撃され沈んだのだろう。護衛艦も遠くに見えたが、護衛していたのか逃げていたのか解らなかった。
船団は崩れてバラバラに走っていた。今晩は種子島、屋久島沿岸、あの武州が沈んだ魔の海を通らねばならない。
よく、敵潜水艦が島に隠れ、待ち伏せ攻撃をする所である。危なくなると上手く島を利用して、島影に隠れながら輸送船を攻撃してくる嫌なところである。
年を取った所帯持ちは無事に帰りたい気持ちが大きいのだろう。ビクビク怖がっていた。ただ運命に任せるだけであった。
昼間は木帆船見えたり、周りの船を眺めたりと余裕である。
部屋の掃除をするが、掃除してもごみが出ない。捨てるものがないからだ。紙くずもぼろ切れも出ない。ただ、船の錆とか毛布などの埃ぐらいしかでない。物が買えないのだからしょうがない。
持ち物は衣類以外何も無い。手帳さえない。いつ船がやられても別に失うものなどなにもない。大切なものは家族の写真ぐらいである。

みんな、お昼を食べにくると、
「おかずがまずい」た゛の、
「どうせ今晩あたりやられるんだから美味しい物をどんどん出せ」
「お汁粉を食わせろと賄い長に言っておけ」と勝手なことを言う。
私に文句を言って当り散らす。
潜水艦よりも先輩の偏見ないじめのほうが怖かった。
油物を食べた後の食器は熱いお湯で洗い、布きんで綺麗に拭き取る。
洗剤がないのだからどうしようもないのだが、ぬるぬるしているとよく先輩に殴られた。
布巾は醤油を滲ませたように汚かった。
また、いつものように夕食の支度をして、全員に食べさせ,後片付けをして夜食の準備し、八時から浮き袋をつけ見張りを交替する。
昨日と同じく暗い海を見張る。用が無ければ口は利けない。
シーンと静まり返った夜の海はとても不気味で口では表現できない怖さがあり鳥肌が立つ。
「何度に明かりが見えた」とか、
「潜望鏡らしいものが見えた」など真剣そのものである。
必死であっる。
十時頃から、船橋に船長始め航海士や兵隊が続々集まりだし戦闘体制をとり始めた。 
「配置よし」の大きな声。
そのまま暫く静かであった。

もう交替の時間ではないかと思った時、
「前方、魚雷」の声。船長が、
「面舵。取り舵」と焦って叫ぶ。
どうやら魚雷は前を通過して行ったらしいみんな驚き一瞬冷汗が出る。
全員に急いで知らせに行く。
船団は崩れてばらばらになる。待ち伏せ攻撃らしい。二本続けてきたらしい。ジクザク運転でかわしたのか、水深が深いため船底を潜ったのか定かではないが危ない所であった。
そんなことを論じている暇も無くまた後ろから一発左舷を通過したらしい。敵は後ろから追ってくるらしい。直ぐ、
「爆雷戦用意」
「用意よし」
「投下」の声かかる。
ジーと爆発を待つ。
四分ぐらすると、物凄い振動と爆発がした。適もさぞ吃驚しただろう。
暫くは安心.。ホッとしたが、まだまだ油断は出来ない。敵も諦めしぶとく狙ってくるらしいから。
必死の見張りである。誰も一言も喋らない。手にじっと脂汗を、かいている。
かなり時間が過ぎた。
「敵はもう去ったようだ」と思ったその時、
後ろの機関を狙ったらしく、また二本の続けざまに船尾を通過した。
「駄目だ。爆雷投下」と船長が叫ぶ。
「爆雷投下」と、直ぐ隊長が言う。
「投下完了」の声。
再びジーと待っていると爆発が起こりすごい振動を感じる。
こんなに長い戦闘は始めてである.。敵は沈まない限り必ずまた狙ってくるだろう。
一番近い所に逃げようという事になり航海士に調べさせたところ、甑島(こしきじま)が一番近いらしい。
「よし。進路甑島。全速力」
念のために、爆雷を投下して逃げる。
一時間も逃げると、やっと危険から遠ざかっているという実感が湧いてきた。
敵潜水艦は沈んだらうか?なかなかしぶとい奴であった。
しかし狙われた魚雷が一発も命中しなかったのは幸運の一言である。
悪運が強いのか、なんとも不思議である。

 



間もなく地平線も微かに白じんできて、確実に危険を脱したようである。二等航海士が、
「もう大丈夫。明日といっても・・・今日だが、部屋に帰り少し寝るように」と言われ、船橋から帰る。
甲板には機関員たちが頭から何回も、煤を被ったらしく、真っ黒な顔に唇だけ妙に赤くして、目をきよょろきょろさせていた。前と後ろが、わからないくらい黒く、土人のようであった。暑いのか、金魚のように口をぱくぱくさせ新しい空気を吸っていた。
「アー甲板部でよかった」と、つくづく思った。まったく頭が下がる思いだ。
「ご苦労様」と、心の中でささやきながら、部屋に帰って寝た。
次の朝、舵取りに起こされた。
いつの間に錨を下ろしたのか,気づかないほどぐっすり寝ていたらしい。時間としては短かったが、何もかも解からず寝ていたようだ。
船は湾に入っていた。
身支度して部屋を出ると、目の前には戦争を知らない漁村が見えた。
氏神様らしい鳥居が見えてきて、ふと田舎の神社をおもいだす。
急いで賄いから飯を運び朝食の準備をした。しかしみんな死んだように寝ているようで、誰も起きて来て飯を食べようなどと思う者はなかった。
起きているのは当直の舵取りと賄い部、そして見習いの私ぐらいなものである。

船は無人のように静かにうねりに乗りゆれていた。

三日三晩、ろくに寝ることも出来ず戦闘に神経をすり減らしていたのだから、当然疲れきっていることだろう。誰もが欲も得もなくただ寝ていたいのだろう。
無事に生きていることを喜ぶのはその後の話であろう。
しかし戦争が終わった訳ではない。暫く生き延びただけの話でいつ何時、命がなくなるかも知れないのである。
戦争が続く限り、命の保証は無い。
きっと、この次は航路も変わることであろう。危険な場所への航海かも知れない。
その内、もうお昼の時間である。これでは朝食も昼食も一緒である。そのまま朝食を片付けて昼のおかずや飯を賄いから運び準備する。間もなく、一人二人と起き出してきた。文句でも言いたそうに不機嫌な顔をして飯を食べ始める。
半分寝ぼけているように食事を済ませ、また寝るために部屋に帰って行く。帰りがけに、
「これと、これ」
「俺もだ」と、二、三人が洗濯物を山のように出していった。
彼らは部屋に帰り、眠るだけなのに・・・・。
後片付けをして、風呂を沸かし、一生懸命洗濯をしていた。
すると、二等航海士が様子を見に来て、洗濯している私の姿を見て、
「誰の洗濯物か。そんなもの海水でゆすげ」と言って、
部屋で寝ていた連中を怒鳴りながら叩き起こす。
「貴様たちだけがお国の為に戦っているんじゃない。見習いの安藤だって飯を運び立派に戦っている。お前たちだけ、ぐうぐう寝腐って!その上、洗濯までさせるとは何事だ!」と怒鳴り付ける。
こちらは胸がスーとした。水夫見習が
「俺が代わるから寝ろよ」と言ったが、やはり、寝るわけにもいかなかった。
夕方錨を上げて船は出港した。沿岸に近い所を通り、見張りも平常要因で、熊本県三角港に向けて航海した。
次の朝起きると、池の中走っているように波も無く穏やかだった。美しい山や町が目の前に見えていた。本当に素晴らしい景色。
何もかもが夢のようであった。とても気持ちが良い。誰の顔を見ても笑顔が浮かんでいる。
「天草女にマラ見せるな。腰弁当で追いかける天草女は凄い」などと冗談を言って笑わせたりと和やかな雰囲気である。
船は天草海峡を滑るように走っていた。目の前の景色はどんどん変わって行く。その美しさが何とも素晴らしい。馬車まで見えた。
私はただ見とれていた。
もうそろそろ入港が近くなってきたらしく、荷揚げの準備で忙しくなる。
暫くして船は小さな港町に錨を下ろした。ここが三角港らしい。
お昼を食べて食堂で休憩していると、
「きゃっ、きゃっ、ばってん」などと若い娘の声がする。
「女だ」と外に出ると、手こう脚絆の女人夫が来ていた。

ウインチが動き、大きなドラムバケツに粘土のような燐鉱石がスコップで入れられ、本船からだるま船に下ろされた。
久しぶりに女を見て、どの顔も笑顔である。ハッチを覗き、
「あれは綺麗だから今晩誘おうか」とか、
「あれはどうだ?」とか勝手に審査していた。
女性の人夫達が甲板で休憩している所を若い兵隊が通ると、
「きゃー、きやー」冷やかされて、兵隊は顔を真っ赤にしていた。
「天草女には参ったよ」などと笑っていた。

ここは一軒だけ劇場があり、たまに芝居や映画をやるだけらしい。
一週間も荷下ろしに時間が掛かった。
荷役がすむと、海峡を通り唐津に向かう。

唐津に近づくと最初に驚かされた。凄いヂャンク(中国の木帆船で)一杯なのである。まるで中国にでも行ったような感じである。
ここはジャンクの基地でもあるらしい。大陸から大豆や塩とか積んでくるらしく、大きな帆を操り勇ましく出たり入ったりしていた。
「これが命知らずのマドロスかあ」と感心してしまった。
こうして唐津港に停泊する。
ちょうど内地の北九州の気候も、空っ風が吹く頃で、下着もろくにない私は寒かった。
月日の過ぎるのは早くも感じられるし、また遅くもかんじられる。
もう正月なのである。戦争で正月気分にもなれないが、そうはいってもやはり、賄い長を始め、コックやボーイ達は全員遅くまで正月のご馳走作りをしていた。
港では風の吹く中、朝から漁師達が伝馬船で何かを取っていた。海の底からロープを手繰り上げしている。
何を取っているのか聞いてみると、
「正月の料理に必ず出るナマコだ」と言っていた。
「へー、あんな物食べるなんて」と不思議に思う。ところ変われば正月料理も随分違うもんだ。

次の日朝早く起きると、機械の部品を積み。船は炭鉱の島、軍艦島あたりを走っていた。
元旦とは言うけれど、ひゅうーひゅうー風の吹く中、戦闘体制をとり、厳重な見張りを続けていた。
軍艦島は沖から見ると戦艦に見える。敵潜水艦が間違って魚雷を発射するほど良く戦艦に似ている島である。

 



八時頃全員集合して、甲板長が新年の挨拶を述べるはずであったらしいが甲板長は見張りをしていたので、残りの者達で乾杯した。
結構ご馳走があった。見習の私などは、忙しくご馳走を運んだりして休む暇が無いので、
「ご苦労様」と、コックやボーイと一緒にチップまでもらった。
「今日は掃除するな」とか、
「食器や皿の料理が減ったら足しておけ」など、初めて迎える船での正月の行事を色々教わった。
正月だからといって、余り調子に乗って飲んだり、ましてや酔ったり出来ない。まだ航海中なので安心してはいられないのである。入港準備がある。
軍港は錨を下ろせないのでブイ取りがある。
「ブイ取り」とは浮きに錨の鎖を前と後ろとをつなぐ仕事である。これが結構大変な仕事である。其れが済まないと酒は飲めない。
昼過ぎ、入口の灯台から合図があり入港する。
軍港は眠ったようにシーンと静まり返っていた。動く小さい船さえ無かった。只ブイ取りの舟が待っていた。
皆んな意気込みがあったせいか仕事は思い通りに済み、さっそく風呂に入り、昭和二十年の正月気分に浸る。酒も配給で思うように飲めないので、ゆっくり寝正月である。
次の日は荷物を下し、軍用船一時解除手続きだか何だか済ませ、一路、相の浦に向けて出港する。
夕方石炭が山積みされた波止場に繋留した。
久しぶりの岸壁である。何時でも陸に上がれ、自由に町に行けるのである。
次の日、大勢の人夫がきて、「パエスケ」と言う丸い竹の籠を、三本のロープで釣った天びん棒に石炭を一杯入れ、それを担ぎ、陸と船に渡した橋板を通ってハッチの上に運ぶ。船のハッチの上で天秤棒の一本のロープを引くと籠の重心が狂ってひっくり返り、石炭が落ちる。そんなふうな上手いやり方で積んでゆくのである。
石炭の種類が違うのか、他のハッチは普通に機械でつんでいた。
荷役の合間に山や丘のほうを歩いてみた。徴用で連れてこられた黒い顔した中国人や朝鮮人の労働者が民家に近寄って来るのをお婆さんが、
「こらー、こらー」と手を振り払って追い返すのや、石を投げたりしているのを見た。
「甘やかすと民家に来て悪い事して困ると、こぼしていた。」
二、三日すると石炭も積み終わり、半年振りに懐かしい大阪に向け出港する。
関門海峡を通り過ぎたところで、勢州丸と擦れちがう。
懐かしい兄弟に会ったように大きく手を振る。
「おーい、おーい」と声を限りに叫ぶ。
「キセンノ、コウカイヲイノル」の信号旗を上げる。
それから瀬戸内海に入り一路大阪に向かって走る。
家族が大阪で待っている連中は船が遅く感じられていることであろう。
「あと、何時間。」と嬉しくて嬉しくて、夜も眠れないらしい。


私達は見張りも無いし危険も無いしと、ただ安定した生活と安心して働けるぐらいの気持ちしかない。特にどうということもない。
しかし、いよいよ無事懐かしの神戸の山が見えたときは感動した。
「やっと無事にかえれたんだ」という喜びと何ともいえない嬉しさがこみ上げてきた。
年寄り連中は感無量と言ったように、ただじっと眺めていた。
もう二、三時間もすると大阪である。家族も首を長くして、
「今か、今か、まだ来ない」
と、待っていることだろう。 

 

7章 「ドッグに入る」に続く

第7章 ドッグに入る

 

 

大阪港に入港したのは、空っ風の吹き、あられ混じりの寒い日であった。
「会社からボーナスを持ってくるぞ」とか、
「また国債や債券でくれるだろう」
「ありがたくないなあ」などこぼしてみたり、喜んでみたりと誰もが口軽くなっていた。
そのうちに船は港に入り錨を下ろした。
母港大阪に着き、みんな喜びで一杯である。
機関関係の連中は荷役の準備が無いので、もう上陸の支度をしてそわそわしていた。
間もなく、通船で会社の社長や乗り組み員の家族がどやどや入ってきた。家族が肩を抱き合い、喜びの再会をしていた。言葉も無く、涙、涙であった。
同じその時、俺達は明日の荷役の準備で忙しかった。仕事が終わった頃、「サロン士官食堂に来るように」と言われる。
急いで行き、甲板部の人たちが整列する。一人、一人順番に食堂に入り、賞与を貰う。
「次、安藤」と呼ばれ中に入ると、社長、一等運転士、パーサーがおり、「よく頑張ってくれた」などねぎらいの言葉を掛けられた。
「債券と国債を買って田舎に送っておいたから、君の小遣いは五円である。間に合うだろう?悪い遊びをしてはいかんよ」と言われ五十円の明細書を貰った。たとえいくらでも嬉しかった。

 



夜はみんな上陸してしまって船の中は静かであった。
次の朝若い徴用工なのか何だか訳のわからない、のそっとした人夫が来た。変だと思って見ていたらウインチから出るドレン(蒸気の冷めてお湯になったもの)を缶詰めの缶で飲んでいた。
「油くさい蒸気のお湯を飲むより水を飲めばいいのに」と思った。
点呼を取り、荷役に掛かる。彼らは中国の捕虜らしく、監督にどやされないすれすれのところでゆっくり荷役をしていた。火夫が、「たあたあゆう」とか何とか「冷水」の事を中国語で言うと、
「冷水腹壊すから駄目」と、手振りで示した。
監督が会津の人で、「彼らは誇り高くて、日本は中国の属国位にしか考えていないらしく、甘やかすと働かないし、どやしても駄目で扱いにくい」とこぼしていた。
食糧のない時なので麦飯のお昼を食べていた。
五、六日して石炭の荷下し作業も終わり、木津川ドックに船は入った。二、三日は忙しかったが、その後はかなり暇であった。
船はボイラーの火も落とし、風呂も沸かす事も出来ないので、ドックの大きな真水の風呂に入るのが一番の楽しみであったが石炭の配給で一日置きらしく、毎日は入れない。
油で汚れてしょうがないので町の風呂屋に行ったら、ここも二日に一回しか入れないらしく満員であった。湯はぬるく、石炭が無いから湯の量も半分以下で、子供達が裸で震いていた。
造船所も「ペンキが無い。あれが無い。これが無いと」ないないずくしで仕事も思うように出来ないらしい。工員も食べ物が無く、その日を生きるのが大変らしい。
「これで戦争に勝てるのか」と、ひそひそと話しているのをあっちこっちで聞く。
そうとう陸の人たちは苦しい生活をしているらしい。今まで情報がまったく無かったので、どういう状況かわからなかったが、少しずつ解った感じである。

職人達は仕事をする事から、ブローカーに早変わりしていた。先輩達は航海中に積みにから、盗んだものを彼らに売り、金回りが良かった。
しかし、革の靴を闇で買ったら二百円したと聞いて吃驚した。
田舎でさんざん苦労して育てた馬を軍馬として、売った金額と同じぐらいなのである。
村で大騒ぎして、隣組や親類を呼んでお祝の酒を飲んだことを思い出し、ほとほと驚いてしまった。
何時の間にか、こんなに物が不足してしまったんだろう。
余りの不足に配給も思う通りに行かないため、闇で横から取引されるそうだ。一般の人たちは苦しい生活を送っている事であろう。戦争に勝つまでは、我慢、我慢である。

 






造船所の隣には、空襲を受けてやられたのか、戦時標準型の船の後ろ甲板が無残な姿をさらしていた、聞く所によると出港まぎわに爆雷を積み込んでいる最中、誤って爆発したらしい。工員や職員が大勢死んだらしい。さらに、遠くの民家のガラスまでが爆風で゛割れたらしい。

時々空襲警報が鳴る。しかし工員達は慣れっこになっているらしく少しも驚かない。空を見るとB29が白雲を吐いて飛んでゆくのが見えた。
「何処の軍事工場が爆撃を受けた」とか、
「零戦が敵機を打ち落とし、アメリカの飛行士が落下傘で下りて捕虜になり、縛られ殴られ蹴られ、その上ペロペロの夏服で寒さに震いていた」などいろいろの話を聞いた。

道でポスターを見かける。
「だせ、一億の底力。勝利の日まで一心一対勝ち抜くまで戦地に送ろう、一粒の米と弾を。敵も必死の死に物狂い。負けるな、勝つまでは」と言うポスターである。
隣組は強制疎開させられ、爆撃の際燃焼を少なくするために間引き的に家を壊していた。作業には主婦達が動員させられていた。
夜映画に行く。空襲警報が鳴ると直ぐ中止され、追い出されてしまう。
喜劇役者エノケンの「勝利の日まで」と言う映画を期待して見ていたら、只歌ばかりで意味も無くぜんぜんつまらなかった。
しょうがないから千日前に行く。娯楽も暗く、何か食べ物を求めてうろうろしている人ばかりである。遊びは射的屋とか玉突きとかである。
先輩が松島遊郭に冷やかしに行くと言うのでついて行く。ここだけは兵隊や船乗りなど色々の人たちが、
「キャーキャー」と笑ったり、引っ張ったり賑やかで、暗い戦争を忘れさせてくれる唯一の場所だった。豆電球の暗い所でいちゃついているようであった。

暗い世の中である。ここまで戦争が切羽詰まっていようとは思わなかった。今度ドックを出たときは恐らくもう駄目であろう事は誰の目にも明らかであった。
「ここで家族に会っておかないと、きっと二度と会うことが出来ない。この機会を逃したら恐らくだめだろう」と、船長と一等運転士が相談し、交代で遠方から最低の日数で帰すことにきまる。それを聞いて、
「良し少しでも多く金儲けをして田舎に帰ろう」と決心する。
「潜水艦に追われた時、どうせ命がないのなら食べてしまおう」と思ったが、もし休暇でも出たときに妹達へのお土産にしようと我慢して食べずに取っておいた菓子がある。それを、内緒で職工のおじさんを呼んで売る事にする。
「子供がどんなに喜ぶだろう」と、おじさんは喜んで、
「全部売ってくれ」と金を出す。
「田舎のお土産だから全部は駄目」と言うと、
「他に何かあ売ってくれ」としつこく言う。
「誰かに見られたら困るから」部屋をおいだした。
それでも少し売っただけなのだが給料ぐらいの金で売れて大分儲けたように感じられた。
配給になった羊羹とかお菓子とか、よだれが出そうに成るくらい食べたくとも妹達の土産にとぐっと我慢した。妹達の喜ぶ顔が浮かんでくる。
いよいよ、休暇が出た。
釜石の菊池操舵士と見習の黒磯の伊部と私が一緒に行く事になる。事務長が、
「佐世保海軍の命令により、塩釜港にて乗船する者であることを証明する」という証明を貰い、私達は出発の準備をした。
当時は,公用とか理由がないと切符は買えなかった。みんな役所や軍の証明がないと買うことが出来なかった。
それに,外に出るときは、食べ物は持参せねばならなかった。食べさせてくれる所がないのだからしょうがない。
二日分の、甘くない乾パンを賄いから貰い、風呂敷に包み、少しの菓子の土産を持ち、出発しようとした。すると先輩達が、
「おふくろの乳を一杯飲んで来い」と冷やかす。
その声を後に出ようとすると、士官の年寄りが、
「東北は寒い。それじゃあ駄目だ。途中何があるかわからん」と言って、見張り用のオーバーを持ってきてくれた。
有りがたい。寒い所であるから、本当に助かる。

大阪駅で切符を買い、朝の汽車に乗る。何も解らず、ただ夢中で乗っていた。
汽車の中は軍人や疎開者など荷物を一杯持った人達で身動きが出来なかった。
押されて友達の伊部とどんどん離されてしまった。ただ顔を見合わせて目で合図していた。
故郷に帰れるのはとても嬉しいが、命がけの旅である。



軍人は威張り、一般の人は小さくなり、押されて通路に座るのがやっとである。
こうして、どうにか東京に着く。上野駅が懐かしく、ここで東北べん聞いた時にやっと、初めて我が家に帰る実感が湧いてきた。また無事で帰れるという思っても見ない幸運に嬉しさがこみ上げてきた。
上野で汽車に乗ると、また凄く込んでいた。女の人が、
「用を足しに行くから降ろして」と、大きな声で言うと、
「そこで、やれ」とか、
「穴に木栓を詰め、出ないようにしておけ」とか、ずーずー弁で冗談を言って笑っていた。
八時ごろの汽車は動く灯火管制で、中は薄暗く、暖房もない。混雑しようか゛関係なく、ただ人を運ぶだけである。何事もただじっと我慢の連続である。
本もラジオも無いし、伊部と遊ぶものも無いので自然と田舎の思い出話になる。暫くするとうとうとし始める。

朝方伊部は嬉しそうに黒磯駅で降りた、そして五時半頃、菊池さんと別れ、それから郡山で下りた。
寒いので駅の待合室で待った。
駅は朝早くから切符を求める者で一杯であった。リュックサックを背負った疎開者、子供や主婦でごった返していた。
私も並んで磐城常葉(いわきときわ)までの切符を買った。すると隣の子供連れの主婦が、
「平(たいら)の方に行くのでしたら、荷物が一杯のうえに子供が居るのでお願いします」と頼まれた。そこで重い荷物を持ってあげる。
荷物を送っても、疎開荷物で駅は溢れる程なので思うように届かないらしい。仕方ないので鍋、釜持参の疎開だそうだ。



朝一番、薄暗い六時過ぎ、やっと、何度も夢にまで見た懐かしい故郷の駅に着く。後は転がるように雪の山道を走りに走った。夢中で走った。息を切らしながら、重い玄関の戸を思い切りあける。
兄嫁さんが飯を大釜で炊いていた。吃驚する。驚きながらも、「よく来たない。うん、うん、」と声を弾ませながら話す。
すると、声を聞きつけて母が飛び起きてきた。
「良く、来た。良く、来た」と直ぐ隠居の祖父祖母に知らせに行く。
「 何時までいられるか?」
「 何処から来たか?」
「 夜寝ないで疲れたろう」 家族皆んなで心から気をつかってくれる。そんな温かさに、胸が熱くなり、涙が出る。
母は無事を喜び、神棚に飯を上げて感謝のお祈りをする。そして鍋の中の麦をかき分けて、白いところだけをわたくしによそってくれた。卵と白菜を出しながら、「晩げ、ご馳走するから」と言った。 
お金やお土産などは有り難そうに、一旦お金は神棚に、お土産は仏様にあげる。それからお土産は子供達に分けた。
妹達はとても喜び、甘いものを大事そうに少しずつ味わって食べていた。我慢して食べないで良かったと思った。
田舎はタバコ仕事で忙しい。私の家も歩く踏み場もないほど家中に煙草が山積みにされていた。ちょうど専売局に納める前で凄く忙しい。
息子の相手していられないほど忙しい。一枚、一枚広げたり、束ねたり葉分け作業したりと、子供まで手伝っている.私も手伝おうとすると、母達は
「夜寝ないで来て、疲れているんだから寝ろ、寝ろ」としきりに進めてくれる。
お言葉に甘えて、隠居で少し寝た。
田舎に帰っても軍関係の話は秘密だから話せないし、かといってほかに面白い話があるわけでもないので特に家族と話すわけでもない。どうという事もなく、山や畑を眺めているだけだ。しかしそれが落ち着く。とても安らぐのである。何を見ても何となく懐かしく胸が熱くなる。何もない山里だが口に出せない良さがある。ただボーとしているだけで満足である。
二時間位寝てから起き、
「いいから。いいから」と、皆が言うにもかかわらず、何もする事もないので煙草仕事を手伝う。 
「おめえが通った隣の町の学校の近くに、東京の中野と言う所から、学童疎開で一杯わらしっこが来ているんだ。爆弾が落ちるとかで、わらしっこ、旅館で勉強しているんだ」
「わんげ、生まれた家が恋しくて汽車の線路歩いている所捕まり泣いていた」とか、
「こんな狐の居る田舎なんて嫌だ。死んでも良いと東京に帰った」とか
「どこそこの家に来た人は、木で飯が焚けない」とか、
「雪道で迷い、我が家に帰れなくて泣いていた」とか、
「どこの誰が死んだ」など色々、たわいもない話がたくさん聞けた。
このような世間話は興味深くもあるし、面白いし聞いていて楽しかった。
あっと言う間に一日が過ぎる。
そして二日目には餅をご馳走してくれた。
空襲が激しくなると兄さんたち青年団は、敵の飛行機の通過を軍に報告する監視所に交代で行くらしい。また、安積の飛行場造りに動員させられたりして家の仕事も碌に出来ないらしい。
煙草納期で忙しいので、親類や近所にも行かず、休暇が終わろうとしている。
「明日、帰るか」と思うと心は止めど無く沈んで行く。
寂しい。空しい。何とも言うことが出来ない気持ちに襲われる。胸がどきどきと高鳴る。田舎の見納め。これが最後の別れ。
とうとう三日目が来た。


その朝、まず神様に、ご飯を供え、家族全員で
「無事に帰れるように」と、祈ってくれた。
今度は祖父が前回のように、
「朝茶はその日の災難をのがれるから」と勧めてくれる。母が、「土産にと言っても何も無いから」と、餅を丸めて包んでくれた。
言葉少ない中、握り飯の弁当と、土産の餅を持って立ち上がる。 みんな涙をこらえて、「くれぐれも気をつけて」と言う。
「うん。うん」静かに何度も頷く。悲しい別れをする。

雪道を父と二人で駅に向かって急ぎ足で歩いて行く。その背中に、「また来いよー」「きっと帰って来るんだぞー」微かな声が響いてくる。
振り返ることも無く、白い息を吐いて黙々と歩く。
駅で軍属証明所を見せ、すぐ切符を買う。残っていた郡山から塩釜の切符を誰か欲しい人に売り、代わりに郡山までの切符を買う。
「ただで郡山まで送れると」父は喜び、一緒に汽車に乗る。
「遠い大阪に一人で帰るのだし、間違えると困るから、良く駅員に聞くんだぞ」と、とても心配していた。
郡山で上野駅行きに乗せてもらい、父と別れる。気を付けろよ。
「上の人の言うことを良く聞くんだぞ」と言いながら、見えなくなるまで手を振っていた。
東京に行く汽車はそんなには混雑していなかった。
途中、雑誌も何も無いから、じっと窓からの風景を眺めていた。
何時発の汽車に乗ったのか、何時に着くのかも何も解らなかった。行き当たりばったりである。
五時頃上野駅に到着した。
「何でも良いから東海道線に乗れば良い」と思い、来た電車に乗る。
横浜を過ぎた頃から、電車はガラガラになった。変だと思っていたら案の定、熱海どまりであった。
そのまま、そのホームで待っていると間もなく電車が着たので、また確かめもせず乗った。すると次の駅が
「来宮」と言う。
急いで鉄道地図を見たら、間違いである事に気づく。
すぐ、次の駅で下りる。田舎の駅で下りる人も二、三人しかいなかった。
うろうろ、きょろきょろしていたら,駅長が声を掛けてきた。
「坊やどうした?」
「大坂に行くんだ」と私が答える。
「 ここは大坂には行かない。困ったなあー、切符をみせてみろ」と駅長。
「どうしょう」と私は心細くなる。
「貨物で送り返すか」と駅長は言いながら、大坂行きの時刻表を調べてくれる。
「今日は大坂行きの終わりだ。駅に泊まれ」と言って、駅の中のストーブの側の椅子に座らせてくれた。
「坊やの田舎は?」
「福島」
「そうか。福島か何にやってるんだ?」
「百姓」
「百姓か。そうか。それじゃあ、今度買出しに行くから、住所教えてくれ。米はたくさん取れるか」など色々聞かれた。
それから駅の古い官舎に寝かせてもらう。
男達が兵隊に取られてしまったせいか、珍しい事に若い女の駅員もいた。仕事が終わったのか,女の駅員と男の駅員が二人ずつ来て床を取り寝る。
しかし、若い男と女は夜遅くまで、
「きゃっ、きやっ、手が触れた。足が触れた。」とかいちゃついて、こちらの方がよく眠れなかった。
次の朝、「坊や、今度は間違わずに行くんだぞ」と言って朝一番の電車に乗せてもらう。
「熱海は何番線に乗れ」と教えてくれて別れる。
とても、とても、親切な駅長さんで助かった。
熱海で大垣行きに乗る。米原駅あたりは大雪で、汽車の暖房が無く寒くて、寒くてオーバーを借りてきて本当に大助かりである。
大垣で一時間ぐらい待ち,やっと姫路行きに乗る。
「あー、これでやっと無事大坂に帰れる」と、ホッとする。
「田舎育ちで,人任せについて歩いていたので、一人旅は慣れなくて苦労ばかりである。
右も左も解らないので゛地図とにらめっこしながら必死である。
どうにか大坂に到着する。市電に乗り換え、乗り換え木津川で下りる。
船に到着したのは夜の九時頃であった。
「早かったな。もう一日ゆっくりして帰ればよかったのに」と言われる。
伊部も菊地さんも、まだ帰っていなかった。焦って帰って、ちょっと損した気分である。土産の餅を残っている人たちにあげた。
「珍しいなあ」とストーブで焼いて食べる。
「美味しい」と、皆な喜んで食べてくれた。

 



二、三日、田舎に帰っていたら、何だか船の様子が変わっている。
新しく甲板見習が三人入っていた。伊部は見習から水夫として転船だそうだ。
私は見習から、ドバスと言う心得に昇進して、便所掃除になる。
兵隊も新しい人と変わったりしている。
また、船首の甲板に二十五ミリ機関砲が二門取り付けてあり後ろ甲板には兵隊の大部屋が新しく作られていた。
爆雷で穴の開いた鉄板も取り替えてある。前の古くて錆付いた鉄板が置いてあったが、それを見て驚く。
こんなに錆付いた鉄板だったのか、叩いてみると、薄くて紙のようである。 「良く持ちこたえてくれたものだ」と感心する。
他にも人が大勢集まってきて、
「命拾いした」とみんなで顔を見合わせる。

内海の後輩が機関に入る。一緒に飯を運んだ小さい藤村も、火夫の石炭運びに昇進した。しかし身体が小さいので、ちゃんと勤まるか心配である。
賄には、内海の同期生だった岩手生まれの、七つ役という名前の男が乗ってきた。
人事の異動があった。
士官で私の事を良く可愛がってくれた二等航海士の田辺さんが新造船の田賀丸に乗ることになる。残念である。
「荷物運ぶの手伝ってくれ」と言われたので、荷物を持って浪速造船所まで市電を乗りつぎ一緒に行く。
造船所の貨物駅には女の機関士が黒い顔で石炭を焚き、機関車を運転していた。
田賀丸は戦時型二、三型で本船より随分広いので大きく感じた。
ここの造船所では職工一人に連合国の捕虜五、六人付いて溶接や、その他色々の仕事していた。
従って、捕虜の作った船に私達が乗っていると言っても良いぐらいである。変な感じである。

「身体に気をつけて」
「また、会おう」と田辺さんと別れる。
船に帰ると、内海から苦楽を供にしてきた伊部が、
「新しく他の船に乗船する」と下船して行く。とても寂しいが、明るく、
「気をつけて、頑張れな」と声を掛けた。
「きっと、変わった良い船に乗るんだろうな」と羨ましく思う。
寂しさと羨ましさの入り混じった複雑な気持ちで別れた。

我々は軍関係なので飯だけは食べたいだけ食べられた。しかし民間の船などは盛りきり飯で、満足に食べられず大変らしい。
造船所の工員たちが、「鳥の餌にするから、残飯を入れてくれ」と缶を持って本船に来たりする。
また、無理に仕事を頼むときは、飯を食べさせる条件で頼む。
造船所以外の業者に食べさせると、食べながら、誰も見ていないと、手早く飯ごうに、飯を詰めて持ち帰る。
帰って子供に食べさせるようだ。それほど食べ物に困っているようだ。
もう、寒い盛りである。夜はストーブの火が消えると寒くて眠れなかった。
見習には毛布を貸すが、見習が終わると取り上げられる。
「自分で用意しろ」と言われるが、用意できるはずが無い。
しかたく、毛布無しで寝る。配給の薄くてペラペラのオーバーを布団代わりにかぶるが、寒くて寒くて丸く縮こまって寝る。当然、朝起きると腰がおかしくなっている。
送ってもらっても、この時代では何時受け取れるかも分からないし、まして買う事も出来ないし、まったく困り果てていた。
空襲もだんだん激しくなり、
「昨夜は、どこそこの軍事工場が爆撃された」とか、良く聞くようになる。



いよいよ船の修理も済み、会社や家族、そしてドック関係者に見送られ大阪を後に瀬戸内海を通り、門司港に向かって出港した。
今度は、
「水夫見習の仕事がいつになったら覚えられるんだ」とか、
「力がない」とか、怒鳴られたり、こずかれたりの毎日であった。
見習が入っても相変わらず、下は下であった。
航海中は暖房の蒸気があり暖かく寝られたが、停泊すると寒くて寒くて、朝起きると腰が曲がって動かない。腰が痛いので門司で医者に行ったら「風邪から来ている」と言われた。
この寒さでは風邪をひかないほうがおかしい。
しかし風邪だからと言って寝ている訳にもいかない。
門司で燃料の石炭補給して、一路佐世保に向かう。
関門海峡を出れば危険区域である。ボートを外に出し、何時船がやられても直ぐ乗れるように準備する。どやされながらの作業の毎日であった。
「大沢」という、子どものようなに可愛い見習いが入り、私達が憎まれ役に成るのが目立つようになる。
「仕事が出来ない」とか、やけに嫌がらせをされるようになった。
佐世保軍港に入りブイに船を繋ぐ作業をしても、
「あーでもない。こうしろ」と文句を言われ通しである。
佐世保に入港する。
戦争が激しく、敵機動部隊はじわじわと本土に接近しつつある。警戒に出払ったのか、艦や艇が少なかった。
操舵手の増村さんに、
「スグ、ナガサキ、イサハヤニ、ニュウタイセヨ」という、召集令状が来たので急いで下船する。
「安藤は毛布無いから、俺のをくれていくから」薄い毛布をくれた。これで寒さから逃れて眠れると思うと、拝むほどに嬉しかった。本当に助かった。
「駆逐艦で護衛してやるから」と元気良く言って下船して行った。
海軍の髭を生やした年より臭い兵隊が衣納を担ぎ、本船の防備隊として十人ぐらい乗船してきた。兵隊も全部で二十人ぐらいになり、暇さえあれば、対空戦闘訓練に励んでいた。
また、積荷の荷役作業が始まった。
「今度はどこに行くのか」など、とても興味があった。
積荷は今までと同じ、砲身砲台、弾薬、食糧の米や味噌、地雷、セメントなどの軍の物資であった。武器や弾薬の積荷は一杯で゛一番船倉には塹壕を作るためのセメントその上に米俵を積み、平らにしてから大勢の大工によって板を張り宿舎を作る始末であった。
甲板への出入階段も作られ。船の後方サイドには青空の吊り便所が海に突き出して取り付けられた。どこからみても丸見えで、ぶら下がる感じの仮の便所である。それが終わると今度は甲板に、前から隙間無くコタツ櫓(やぐら)ぐらいの大きさの鉄の箱のような物を、そろりそろりと静かに積み並べていた。
火気厳禁と書いてあった。
何かと荷役隊長に聞いてみた。
「人間魚雷の火薬だ」
「一発でも弾が当たったら、この船は影も形も無くなくなってしまう。あなた達の肉の固まりも無くなるだろう」と言う。
皆んな驚きを通り越して、開いた口が塞がらない。
これじゃ、特別攻撃隊である。死にに行くような者である。
いよいよお国の為に死ぬ時が来た。靖国神社に祭られる時が来たのだ。
増村さんは運が良かった羨ましい、しかし今更どうする事も出来ない。覚悟決めるしか無いようだ。
「年は皆な同じだ」と、年よりが言う。
「年寄りも若い者も、皆んな、一緒に同じく死ぬんだから、皆んな同じ年だ」と言う。

気が付くと、いったい何十個積んだのか知らないが、火薬が甲板一杯積まれていた。
係りの隊長は、
「よろしくお願いします。ご無事をお祈りします」と敬礼して作業員と帰って行った。
二段に積まれていたが、案外固定されて動かなかった。大工たちが動かないように、くさびを入れたり、火薬の上に板を敷いて通路を作り、歩けるようにしていた。爆雷も四個から六個ぐら積みこんだようだ。

これで命令があればいつでも出港準備が整った。
次の朝、がやがや、どやどやと武装した海軍が百三十人位乗り込んで来て凄く賑やかであった。
食器や鍋や毛布など色々生活物資も積み込まれた。
各隊装備し、場所を見つけては、三脚を立て六点五ミリ機関銃を取り付けて敵機来襲に備えていた。

第8章 「対空決戦」に続く



 

第8章 対空決戦

 

お昼過ぎ、汽笛を鳴らしてついに船は静かに動き出す。
兵隊は二列に前後に並ぶ。隊長が、
「宮城に向かって、最敬礼」と号令を掛ける。その後、
「故国の見納めだ」と、大きな声で言う。
「良く見て置け」
兵隊にはこれが最後になるかも知れない。
私達みんなも複雑な気持ちでじっと見つめていた。
ある者は陸地を・・・ またある者は兵隊を・・・・
周りの艦や艇、貨物船などは、軍港から出る武装した輸送船は南方に行くものと察して、
「無事に帰って来いよー」と、手を振り見送ってくれた。
「本当にもう最後かもしれない」覚悟を決めると、恐ろしくなくなる。
何処を見ても火薬だらけである。
まるでダイナマイトを身体に巻きつけているようなものである。
「成るように成れ」といった気持ちである。
港を出ると甲板には、便乗兵隊が二メーター置きぐらいに見張りに付いた。
大勢いるので水不足が心配である。ポンプには鍵が掛けられ、飲み水以外は一日に洗面器一杯の配給である。風呂は海水である。
兵隊の食事は麦の一杯入った飯に、沢庵、魚のぶつ切りの味噌汁である。漬物が変わるぐらいで毎日同じである。
見張りを続け、また鹿児島港に入港する。


もう三月小春日和、桜島は相変わらず、黙々と黒い煙を吐き出していた。あちらこちらに桜が咲き始めていた。
船内は朝から、
「体操だ、飯だ、水の配給だ」と忙しい。
同じように慌ただしく毎日が過ぎる。

三日ほど船団待ちして、二、三艘の護衛艦と一緒に五、六艘で鹿児島港を後に出港した。目立たないように船団は五、六艘で出るらしい。
今度は台湾の手前で、沖縄の先あたりへ行くらしい。万が一無事に着いても、帰りは生きて帰れる保証は無い。
錦江湾を過ぎ、佐多岬が見える。いよいよ危険海域に入る。身体に緊張が走る、その時、
シリンダークランク故障。航海不能」と機関部より連絡が入る。
直ぐ、護衛艦に、
「キカンコショウ、ゾッコウフノウ、ヒキカエス」と手旗信号を出す。
「リョウカイシタ。ヤマカワノ、ミナトニ、ヒナン、シュウリセヨ」と返事が返る。
速力を落とし、指宿温泉のある山川港に錨を下ろす。
山川は木船を作る船台があり、船大工が木造船作りの作業をしていた。
小さい漁港である。修理期間中は機関部の連中は真っ黒油だらけになって大変らしいが、こちらは退屈でしょうがない。
賄いや兵隊達は金はあるが金の使い道が無かっただけに喜んで配給の酒を持って、伝馬船の櫓を漕いで上陸して行った。
お膳を前にして、女中相手にご機嫌であったようだ。
夕方迎えに行ったら、すっかり酔っていて、
「アー、良い所に来た」と言って女中に膳を運ばせ一緒に料理をご馳走になる。
「まあー、可愛い兵隊さん」と女中に冷やかされて顔を真っ赤にして帰る。
つかの間の命の洗濯である。
二日ぐらいでクランクをばらし、一つのシリンダーをフリーにして、無理をしないようにのろのろと鹿児島に引き返して行った。
直ぐ修理に部品が出されたが、大きい部品なので急いでも修理するのに十日以上掛かってしまうらしい。
そのまま修理を待ち待機していると、一週間した頃、武装した貨物船が、次々と入港して来た。
東洋汽船の戦時標準D型の「扇洋丸」が本船と一緒に行く予定らしい。
扇洋丸には、戦艦や空母に体当たりする、ベニヤ板で出来た人間魚雷艇、通称「青蛙」が甲板に山積みに積まれていた。

沖縄には敵の機動部隊が近づいているらしく、士官が武官府で聞えた話では、
「この前一緒に行こうとしていた船団は沖縄どころか途中で全滅した」との事だ。
「故障して命拾いした」と深刻にひそひそと話しているのを盗み聞きした。
敵はサイパンを撃滅させ硫黄島を占領し、そこに飛行場を作り本土を空襲している。軍事工場を爆撃し生産不能にしている。敵はじわじわと本土に接近している。沖縄を目指しているらしい。
我が軍は沖縄を取られたら終わりである。本土決戦になってしまう。何が何でも沖縄を守らねばならない。続々と、決戦のための沖縄行きの命がけの輸送船が終結した。

 



もう少しで出港できる体制の時、武官府の司令部より、
「敵機動部隊が航空母艦を引き連れて鹿児島方面に接近せり。敵機来襲の恐れあり。艦船は急いで桜島に避難し戦闘攻撃の体制に備えよ。
爆撃に対し消火準備せよ」と連絡入る。
不気味にサイレンがけたたましく鳴る。
艦船は皆桜島に避難の移動を始めた。
港には機関故障の本船だけが取り残された。爆弾でも落とされたら終わりである。兵隊は足にキャハンを巻き鉄兜を被り滞空戦闘の用意をする。「戦闘準備用意良し」の声。
敵機来襲を待ち、空を警戒していた。
便乗兵隊も、隙間がない位に三脚を立て機関銃を装備し、待機していた。
私達は消火器を全部だし、バケツで薬剤を研ぎ、詰め替える。木栓やホースなど消化準備で大忙しである。
担架も出し救護体制も整う。
「本当に来るのか?」
静かで、不気味である。足がガタガタ震いているような感じである。 
飯を食べたが胸がつかえて入らない。
鹿屋の航空隊から、飛行機が爆撃に行ってくれるのかと思って、
「今か、今か」と飛び立つのを待っていたが一機も飛ぶ気配がない。
「いったい何をしているのか」腹が立った。
どうやら司令部の考えは、
「桜島の裏側から敵機は来ない。万が一、市内の方角から来たとしても、敵が艦船を爆撃すればその反動で操縦を誤り櫻島に衝突するだろう。だから安心である」と言う甘い考えであった。
「来ないだろう」と思ったその瞬間、錦江湾の方から海面すれすれに編隊を組んで敵機が飛んでくるのが見えた。
まるで鷹が餌物を襲うように、艦船の上を目掛け、羽を平らに返したと思うと突っ込んで爆弾を落とす。
「撃てー」の大声。
「ダダダダダダー、ダンダン」機関砲や機銃の音。
もう何が何だか夢中で、ボオーと突っ立って眺めていた。
先輩が、
「馬鹿!体を小さくして隠れろ」と言ってくれたので、
「ハッ」と我に返り急いで,しゃがみ込む。
敵は容赦なく、次から次と艦船を狙い爆弾を落として行く。
すると、人間魚雷の信用艇青蛙を積んだ賢洋丸が火を吹き、凄い音と爆発を起こし沈んで行く。
そこの場所は浅いので前の方と船橋は海面から出たままの無残な姿で残る。
また、他の船も二、三隻火災を起こし犠牲になる。
本船は攻撃してくる敵機を撃ちまくる。
その中、敵機が火を吹いて櫻島の裾の方に落ちていった。
「やったあー」声を上げてみんなで喜ぶ。
喜んでいる暇も無く、
「水だ。雑巾だ」と叫ぶ声がする。
急いで持って行くと、機関銃が焼けて赤くなっている。
雑巾を当てると、
「ぢゅっ」と音がした。
どうやら敵の飛行機は去ったようである。
急いで弾倉に弾を詰め、次の来襲に備えた。
初めて経験する空との戦かえである。
敵は艦船に損害与え、満足して悠々と引き上げたようである。
敵は想像以上に勇敢で技術に優れていた。
それでも本船から撃った弾が当たり、一機撃墜二機大破したらしい。





空襲警報は不気味に鳴り続けていた。
各船からは怪我人や戦闘で死んだ人などが鹿児島の町に向かって必死に運ばれていた。
本船にも二、三機向かって来たが、機関銃に驚いたのか、桜島の艦船のほうに方向を変えたので助かった。
代わりに桜島の艦船に突っ込んだようだ。
冷やりとさせられる危ない場面もあったが、どうにか助かった。ホッと胸をなでおろす。
引き続き交替で昼食を取り警戒していた。
三時頃、桜島の裾伝いに影のほうから再び編隊で次から次と飛んできた。
どうやら航空隊鹿屋飛行場を狙っているらしく、次々と爆弾を落としては去って行く。
また夢中で、敵の飛行機を撃ちまくる。
あまり夢中になり過ぎて隣の機関銃隊の顎をかすめて撃ってしまい重症を負わせるという事故までもおきてしまった。
みんな、生きるか死ぬか無我夢中なのである。
直ぐ救助隊が船に乗せ病院へ運んだ。
航空隊の方は油に火がついたのか,黒い煙が黙々と吹き上げていた。
火災サイレンが鳴り響き大騒ぎである。
敵は航空隊に損害を与え、目的を遂行したのでさっさと帰っていった。
航空隊は夜になっても暫くは燃え続け、かなりの損害を被ったようだ。
飛び立てるようになるまでかなりの時間が掛かるらしい。
次の日、駆逐艦が来た。何かと思ったら、司令部からの命令で、この船が敵の攻撃を受け、もし爆発でもしたら鹿児島の町が吹き飛び危ないから遠くに曳いて行く」との事である。
直ぐ準備して駆逐艦に曳かれて桜島の島影遠くに錨をおろした。
四、五日いたけれども幸いにして空襲は無かった。
その間に修理に出していた部品が届けられ、機関の故障個所の修理が終了する。
いつでも出港できる体制になり司令を待った。
待機していると、司令部から、
「沖縄は黒山の艦船や機動部隊に取り巻かれ、艦砲射撃や爆弾の雨らしい。行っても無駄である。
それに、人間魚雷艇を積んだ賢洋丸が桜島で沈んでしまったために、いくら火薬があっても其れを乗せる物が無い。作戦が駄目になってしまった。従って一旦佐世保に帰れ」という命令が来た。


船は桜満開の鹿児島を後に敵機や潜水艦攻撃を警戒し、見張りを続け軍港佐世保に帰った。
軍の将校らしいのが来て、兵隊士官を集め、鹿児島の戦闘で敵機一機撃墜、二機大破させ敵に損害を与え、船を護った。と感謝状が渡された。
これを貰うと、外から良く見える船橋の所にペンキでトンボの絵を書き、その下に一を書きそのまた下にバツを書く。
この船は飛行機一機撃ち落としたという戦果マークである。
これがあると鼻が高く、威張れる。
潜水艦を沈めると、卵に箸を立てたように書き、その下にバツとか半丸とかを書くバツは相手を大破させたという意味である。それで敵に与えた損害や戦果が分かる。他の駆逐艦の艦橋を見ればその艦の戦果がわかった。 
宮古島行き便乗兵隊は直ぐ引き揚げ下船していく。
その後、作業員が静かにそして慎重に爆薬を下ろしに掛かる。
一つ減るごとに胸のつかえが取れて行くような感じでホッとする。
こうして宮古・石垣島行きの積まれていた食糧や弾薬は全部荷揚げされて、船は元のように空になった。
毎日ダイナマイトを体に巻いているような恐怖の日々と身の縮む思いの生活は、エンジン故障で命が救われた。
また艦載機の攻撃を逃れて、宮古・石垣島行きは中止になり人間魚雷の爆薬は陸揚げされて、ほんとうに幸運の一言である。
恐ろしい日々が終わった事は、どんなに嬉しい事か、あんな物があっては夜も安心して眠れない。
爆薬という肩の荷が下りて、何はともあれ乗組員は全員ホッと喜んだ。
その頃沖縄の決戦は死にもの狂いの壮烈な戦いであった。沖縄を取られたら日本は終りである。
日本が危ない!
今沖縄は本土の防波堤となり、日夜戦う兵士達が、
「食糧、弾薬の補給はまだ来ないか」と待ちつづけている。
何が何でも食べ物と弾薬を補給せねばならない。

本船が急に司令部の命令により特攻輸送船として行くことになる。
「食糧を積み、沖縄の海岸に船ごと乗り上げて日本軍守備隊に補給せよ」の命令が出た。
「一刻でも早く届けろ」との事。
それから直ぐに夜通し荷役が続けられ、食糧などが積まれた。
話によると、隣に停泊している海軍上陸用舟艇と一緒に行くらしい。
本船には俵詰めの米、鍋、釜、醤油味噌など戦用の食糧を積んでいた。
隣の上陸舟艇には、取り急ぎ地雷や弾薬砲弾を積み込んでいた。
明日出港する予定なので積み荷の作業を急がせる。
「早く、早く」と追い立てる。
あまりに焦らせたためか、作業員が肩に担いだ弾薬箱か何かをちょっと落としてしまったらしく、爆発してしまった。
直ぐ他のにも引火して、入れ口の前から花火のように次から次と炸裂。火の玉が飛び出る。
「ピーポー。第一消化隊配置に着け」
「第二消化隊配置用意良し」
さすが訓練が出来ている海軍である。ほんの何秒かで水が出て消化に当たる。
本船も周りの船も驚いて、どうしたものか迷っていると軍港消化艇がすぐ来て周囲から消してくれる。
本当にさすがである。来るのが早い。
黒い煙を出しながら、消化を続けた状態で曳き船が沖のほうに上陸用周艇を曳いて進んで行く。
かなり鉄板が焼けたが、前の方だけで損害はすんだらしい。
しかし、沖縄に行くどころの騒ぎではない。さあ、困った。代わりの上陸用周艇が無いらしい。
荷役は終わったが、本船だけでは駄目である。出港は無理である。

二、三日指令を待った。
しかし、一日、一日、と待つ間にも沖縄は戦況が不利になる。敵は艦砲射撃で日本軍を撃滅し、上陸したらしい。
途中で敵の艦載機の襲撃にあってしまうので日本の艦艇が近づけなくどうしょうも無いらしい。
司令部も諦めたらしく、積んだ食糧をまた陸揚げする。再び船は空っぽになった。
一方で、魚雷艇が佐世保を出て沖縄に出撃するのを見る。魚雷艇に左右一本づつ積み、船室も無いような小さい魚雷艇である。
「あんな小さい艇が無事沖縄にたどり着き、敵戦艦に発射できるのだろうか? その前にしけにでもあったら転覆するのではないだろうか?」と、特攻隊として出撃する兵隊がとても哀れに感じる。
駆戦艇など白鉢巻き姿で勇ましく特別攻撃艇として手を振りながら出撃していく。
もう二度と帰る事は無いのではないだろうか?これもお国のため。しかた無いのである。
すでに沖縄は玉砕らしく、いよいよ本土決戦である。最後の一兵まで駆りだして戦わねばならない状況である。



今度は、壱岐、対馬が無防備なので防備するとの命令。また、砲身砲台や軍の物資を積み始める。
二、三日で荷役も終わり、海軍設営隊三百人位を乗せて朝出港する。
近いので夕方頃までには楽に壱岐の郷の浦港に到着し、兵隊を降ろす。
島は麦畑が多く静かである。ここは平和そのものである。戦争などどこか遠い国ででも、している感じである。
海は青々としていて、白い小魚が海の色を変えてしまうほどたくさん泳いでおり、大きな魚に追いかけられて、
「ピシャピシャ」と元気よく跳ねていた。別世界のようである。
次の日から荷役が始まったが、設備が無いため漁師の舟を借り集めて少しずつ陸揚げする始末である。
櫓を漕ぎながらの作業で大変である。さらに重量物の砲台をどうやって下ろすか、こまる有様である。
兵隊が上陸して豆と、するめを手に入れて来て、一枚焼いてくれたので皆んなで分け合ってたべた。美味しかった。
苦労した荷下しも何とか終わり、半分残して船は対馬に向け出港した。
やはり近いので三時間位で厳原の港に到着した。 崖や山が大きい島だと感じた。
朝鮮に近いせいか、港には待機しているらしい近海航路専用の戦時標準型船が結構入っていた。
ここも設備が悪く、苦労して残りの荷物を下ろした。
隣に停泊している民間の無防備の戦標船が、何処かで敵の襲撃にあったらしく機銃掃射で穴だらけで蜂の巣のようになっていた。
多分敵はどこかの攻撃の帰りに、無防備をよいことに、少し遊んだのだろうか、犠牲者も出ただろう。怖かっただろう。
無抵抗なものに対してひどい事をしやがった。ムラムラと怒りが込み上げてくる。
先輩が、
「周艇用のアルコールを手に入れた」とニコニコしていた。
たぶん上陸して皆んなで飲むのであろう。瓶のふたを取り匂いを嗅がしてくれた。油くさく、よくこんな物が飲めるものだと驚く。
まるで毒を飲むような者だと思った。

次の日、対馬で戦士した飛行兵などの遺骨を士官食堂に安置して佐世保に戻る。
港に到着すると直ぐ、遺骨を取りにきて一体ずつ胸に抱かれ下船して行く、みんな仕事をやめ、敬礼して見送る。
こんなにもたくさんの遺骨。自分が生きている事が不思議である。

「直ぐ朝鮮の鎮海に行け」との命令で出港する。
私は初めて朝鮮という変わった所に行けるのが嬉しかった。
もう沖縄は敵の手に渡ってしまったらしい。敵は沖縄に飛行場を作り、本土を空襲し、徹底的に叩くらしい。
話でわは、日本が半年掛かって作る所を、敵は機械を使って一ヶ月位で作ってしまうらしい。
護衛する船も無いのか、こんなぼろ船に海防艦が護衛についてくれた。
「もったいない優秀な海防艦も今、戦争に行けばどうせ沈められるから行っても無駄なだけかも知れない。 それとも本土決戦に備えているのか」などと思いながら、護衛してもらった。
いつしか五月も過ぎ、近海の山々は青葉若葉に染まる季節になっていた。見張りをしていると、とても気持ちが良く眠くなっしまうような陽気である。
朝鮮に近ずくと、話に聞いた通り山々は剥げ山が多かった。
無事軍港鎮海に錨を下ろした。港には軍艦も貨物船もあまり入っていなかった。
朝鮮は日本の国だけれども、服装や言葉が違っていた。
消耗品や食糧を取りに港の倉庫に行くと子供を腰のあたりで、うぶっている女の人や頭に荷物を載せて平気で歩いている人がいた。
「日本と違うな」と思った。
荷物は何を積むのかと思ったら、木箱に詰めた牛の缶詰めであった。
食糧もかなり落ち、おかずも不味い毎日なので、牛の缶詰めを食べたかった。
荷役の終わった後箱の崩れた中から仲間と一緒に盗んで、一缶開けて食べた。
「美味しい。こんな美味しい物。生まれて初めて食べた。世の中には美味しい物があるんだなあ」と思った。
他にもハムやベーコンなど色々積んだ。
賄いから水夫に変わった先輩に、ハムってどんな物と聞いてみる。
「ハムもベーコンも田舎っぺには解らんだろう。べろが抜けるぐらい美味しい物だ」と馬鹿にされる。
いくら説明されても、見たことも、まして食べたこともないのだから考えても解らない。
廃油で作ったどろどろの石鹸などが空き缶に詰められてから、積まれていた。
こんな石鹸でも油だらけの作業服を洗うに大助かりである。内緒でちょっと頂いてしまう。
人夫には日本語が通じないのがいて、悪口でも言われているようで嫌な感じである。荷役も終り、海防艦の護衛で佐世保に帰る。
軍港には優秀な艦も船もいない。何か心細く感じる。
情報が少しも入らないので、誰もが、
「そのうち硫黄島や沖縄をいっぺんに取り返す時が来るだらう」と信じていた。

日に日に空襲も激しくなっていた。
朝鮮から積んできた牛缶や雑貨品も荷下ろしされ待機していた。
鹿児島当たりは毎日艦載機の襲撃が激しく物資運び込めない。
佐世保管轄ではもう、船も行く所が無いらしい。

今度は舞鶴管轄になるらしく出港する。
北九州若松で石炭を補給するらしい。関門海峡に近づくと、敵B29が落とした機雷で海上は封鎖され動けない状態である。陸軍暁部隊が、漁船から丸い鉄の大きな缶やドラム缶の筏を長いワイヤーロープで曳き、機雷を爆発させて掃海し、航路を必死に開いていた。
ドトーン。と凄い泥波の山しぶきを立てて爆発している。
何時爆発するか分からない、沈んで見えない機雷は恐ろしいやら驚きやらである。
あちらこちらに、無残に頭を残して沈んでいる船が見える。
機雷には、磁気を帯びた機雷と振動や圧力それに音響、つまりスクリュウの音を察知して爆発する物とがある。
この中でも音響機雷が掃海しても取り除く事が出来ないらしく大変困る。海軍も懸命に航路を開いて行く。ブイに赤旗を立てて、ここは危険区域とか、ここは掃海済み区域とかに分けていた。
瀬戸内海も封鎖され船は通れないらしい。なすすべも無く掃海した後を恐る恐る静かに通り、何とか若松港に錨を下ろした。
その晩、夜中にB29の空襲をうけ、港に機雷をバラバラと落とされた。
「ズブッ、ズブッ」と機雷の沈む嫌な音が聞こえる。



何処に落ちるのか解らないので恐ろしい。
震えが全身に来る。敵は攻撃されないので悠々と正確に機雷を落として立ち去る。
暫くすると、磁気機雷の磁気が作動して、あちらこちらで爆発する。危なくて夜も、うかうか寝ていられない。
「一体どうなっているのか?これで戦争に勝てるのか?」全く命がいくらあっても足りない。
空襲は益々激しくなり、一日に三回や四回は、ざらになる。気にしていると仕事もろくろく出来ない。
夜はゆっくり眠る暇もない。港の中であっちで「ボーン」こっちで「ボーン」と爆発するので、おちおちしていられない。
我々は死ねば軍属として靖国神社に祭られるが、石炭人夫たちは何の補償も無いので全くの犬死にである。
石炭を積みながら、びくびく恐ろしがっていて可哀想であった。
恐ろしいのはみんな同じで、連合国の捕虜達も、せっかくここまで辛抱してきて味方の機雷で死にたくは無いらしく、怖がり怖がり荷役をしていた。大きな体を石炭の粉で真っ黒にしながら働いていた。
辰馬汽船の船が完璧に移動しようと動きだしたら、
「ボボーン」と煙突位まで水しぶききと波を立て、凄い爆発をした。
見る見る沈んで行く。
掃海艇が懸命掃海しているが、音響機雷は船の水進機の音を察知するので取り除くのが難しいらしい。

燃料の石炭を補給し恐る恐る若松港を出た。沖の方には海軍の警備艇などが鉄の筏のような物を曳き、時々爆発をさせながら必死に掃海していた。
陸軍も浮き袋を着けた兵隊達が漁船に乗り掃海をしていた。
本船は掃海した赤旗の内側を走り、関門海峡門司港にどうにか到着し、岸壁に係留した。
岸壁には掃海艇や駆逐艦、それに小さい艦艇が横付けされ待機していた。
関門海峡も瀬戸内海も封鎖され、船は動けない状態であった。
その晩も敵のB29の爆撃機の空襲があり、機雷をばらまかれた。
若松の方から来た敵機を海峡入口の山の上から、下関の方に探照燈機で敵機を捕らえ照らし続け、今度下関の方に照らし続けて行く。
次に連係良く門司の山の上で照らしながら敵機を送って行く。タイミングが合って凄く気持ちが良い。
そのうち下関の山上から、
「ポン、ポン」と撃つ音がする。
火の玉がスウーと飛ぶのが見える。
「何だ、鉄砲の弾ってこんなに遅いのか」とつくづく思う。
すると今度は駆逐艦が、次々に来る敵機に対して艦砲を物凄い音を立て撃ち始めた。
しかし、驚かしに撃つぐらいである。
敵は悠々と機雷を落として飛びさって行く。
悔しいやら、腹がたつやらであるがどうしょうもない。
本土決戦に備えているのか、ほとんど撃ち返さない。
「いったい軍は何を考えているのだろうか」あきれて物も言えない。
「一体戦争はこの先どうなるのか。今、戦争はどうなっているのか?」
情報がまったく入って来ないので、私達は、
「そのうちきっと軍が反撃に出て一度に敵を叩くと物」と信じて疑わなかった。
次の日、支那の天津から連れられて来たと言う人夫が大勢きてセメントの荷役が始まった。
彼らは捕虜と違い、一、二年すると帰れるらしく若い連中で、監視もないのに良く働いた。
岸壁で荷役作業を見たり、油をくれたりしていると、五、六人の人が本船を懐かしそうに眺めながら何か話をしていた。
そのうち近寄ってきて、
「同じ会社の者です」と言う。
「いったいどうしたんですか」と聞いてみると、
「鹿島丸に乗っていたのですが、門司の入口当たりで機雷に当り轟沈してしまったのです。皆んな死んでしまい五人だけどうにか生き残ったのです。助かった私達は今、この近くの寮にいるのです」と言う。
余りにも毎日人が死ぬので、気の毒とか悲しいとか感じなくなってしまっている。第一明日は我が身に降りかかるのだから、人のことに同情していられないのだ。
毎日、毎晩、空襲は益々激しさを増していった。
最初は恐ろしかった空襲も回が重なるにつれて次第に慣れっこになり、
「またか」ぐらいにしか思わなくなってしまった。
昼間は支那人の人夫がセメントの粉を頭から被りながら積み荷役をしていた。

 

下関のドックには同じ会社の「稲荷丸」がおり、乗組員が本船に遊びに来ていた。
話では、ドックに入りドックの水を引いたら不発の機雷が出てきて吃驚、大騒ぎになったとの事である。
「不発でなかったら今ごろ、お陀仏だったと」肩を震わせながら言っていた。
直ぐ泊地(はくち)応救隊が来て、頭に白の鉢巻を結び、水杯を上官と交わして敬礼し、信管を抜きにかかったそうだ。
一歩間違いたら一巻の終わりという命がけの隊である。
命を陛下に預けた「泊地応救隊」という新しく編成された隊だそうだ。
爆薬の信管を抜いたり、沈む船に乗り込み大切な物を取り出したりすると言う命がけの仕事をする隊だそうだ。
この隊に入ったら命は無いと思ったほうが良いだろう。
毎日が不安で、先の見えない闇の中にいるような嫌な感じの日々である。 そんな毎日でも、いや、そんな毎日だからこそ空襲の合間に映画を見に行ったりもした。
「牧場の朝」という題名のような映画を見た。場所は浅間高原で自然が一杯である。平和で明るく、皆んな伸び伸びと草刈をしたり、羊の世話をしたりしていた。
ある日、一匹の子羊が牧場から逃げ出し迷子になる。
その子羊がなんと筏に乗り川にどんどん流されてしまう。
急を知った子供たちや村人達が「メぇーメぇー」と泣いている子羊を、危機一発で助け出すと言う感動的なものである。
とても良かった。
「平和っていいなあー」とつくづく思う。
戦争が終わり平和が来るのは、いったい何時の日なのだろうか?
今日は今日、明日は、明日。いつ死ぬか解らない毎日である。そんなことも気にせず仕事をしていた。

敵は二、三日置きぐらいに飛行機で来て機雷をばらまき、完全に海上を封鎖していた。
やっと、荷役も終了し後片付けをする。何時機雷を受けても飛ばされないようにワイヤーロープで甲板のものを締め付ける。
動けば、いつ機雷に触れ爆発するかわからないので。落下物で怪我などしないように厳重留める。
二時頃、錨を巻き上げ恐る恐る港を出る。機関部の連中など機雷に当たれば一巻の終わりである。ビクビク恐れながら当直に入る。言葉に言い尽くせない程哀れ可哀想であり、気の毒であった。
全員非常警戒態勢を取りながら、海軍や陸軍の船舶兵の掃海した、白、赤の目印に船は走る。
海峡をぬけ、町も遠ざかり日本海に進路を取ろうとした時、朝鮮方面で大豆を甲板に山積みに積んで戻って来た戦標船改E型が、前の方から本船の目の前に迫ってきた。
「危ない!」本船は右に舵を取り、相手を左にと船をかわした。と、その途端、
「ドドーン」と凄い音と共に、船橋まで真っ黒い物凄い波を被る。
相手の船が機雷に触れたのだ。
本船もかなりの振動を受けた。機関の連中は、
「やられたー」と思い、煤だらけの顔で機関室から飛び出してきた。
見る見る相手の船はグラリと傾き、大豆が入っている、かますや、米の入っている俵が崩れ海に落ちる。
飛ばされて怪我をして動けない者がいる。浮きを持ってても海に飛び込めないでうろうろしている者もいる。
「飛び込めー!」と大きな声で呼びかけても、ただ焦って右に左にうろつくばかりである。
海に飛び込むことが出来ないために、沈む船にただ必死でしがみついて、ついに船もろとも巻き込まれてしまう。
何が何だかパニック状態でどうしようもない。
「助けてー!」と、四、五人が本船に向かって泳いで来る。必死に泳いで来るその後ろから、そのうちの一人を目がけてマストが倒れてくる。
「危ない。危ないぞー」と、大きな声を掛けるが間に合わない。
マストと一緒に沈んでしまった。
船は横に傾き、あっという間に後ろから沈んで行く。見る見る間に船は前を残し、何もなくなってしまった。
蟻地獄を見るようである。後から木箱や板や縄や軽いゴミ屑などが浮かんできた。
目の前で地獄を見ているようだった。何もかも一瞬の出来事である。何人助かったのだろうか?
多分機関の連中は絶望的であろう。
誰一人助からないであろう。気の毒である。
このような生き地獄を目の前にして、無情にも本船は走リ続ける。
救助しようととして、うっかり航路でもはずれようものなら大変な事になるからである。
機雷にでも触れたら、今度は自分の船が二の舞いになる恐れがある。
幸いにして、木帆船も走っているし、遠くで釣りをしていた伝馬船が目撃して必死に櫓を漕ぎ救助に向かってくれていた。
「早く頼む。一刻も早く」と祈る気持ちで一杯であった。
本船はどんどんと遠ざかって行く。
掃海艇は相変わらず、
「ボーン、ボーン」と機雷を爆発させていた。
あちらこちらにマストだけを出した船が沈んでいた。なんと無残な姿であろう。
こんな状況でも、神風が吹くとか、特攻隊が反撃に出るとか信じ続けていたのである。
何とか無事に脱し、沖に出て一安心する。
しかし日本海にも、うようよ潜水艦が入り込み獲物を狙っているとの事である。
空も海も敵の思うままである。情けない。
軍部は何をしているのだろうか?、これからどうなるのか?
全く解らない。もっと情報がほしい。
「駆逐艦の護衛も着けられないから、夜は危険だから走るな」との命令である。

その晩は島根県の漁港、境港に避難し一泊した。
山は青葉である。梅雨に入ったのか、雨はシトシトと降り続いていた。
空襲も無く静かで、戦争など夢だったのではないだろうかと思わせる感じである。

 

第9章 「機雷爆発」に続く

第9章 機雷爆発

 

次の日朝早く錨を上げて、港と言ってもほとんど川であるが、そこを静かに下り沖に出た。
危険と言っても日本海である。見張りも人数が少なく、緊張感のないものであった。
昼間走り続け、若狭湾に進路を取り、今日は早いが四時ごろ福井県の敦賀港に入港した。
湾の周りは山々に囲まれていた。
直ぐボートを下ろして港の倉庫に魚や鯨肉などの食糧を取りに出かけた。
ちょうど倉庫に係りの者がいなかったので、これ幸いと町をぶらぶら歩いた。思ったより大きな港町であった。
やはり昼間から行く所は遊郭である。冷やかして歩いて行くと、
「兵隊さん。遊んで行って」とか、
「今晩待っているからね」などと女が騒いでいた。
さすが大陸との貿易港である。大きい女郎屋がたくさんあった。
北陸の大きな町といった所である。船や漁船が結構入っていた。
倉庫に戻り、マグロや野菜など色々の配給を受け取ってからボートを漕いで船に帰って行った。


その晩、B29爆撃機が来襲、北陸にとっては初めて機雷をばらまかれた。再び完全に港を封鎖されてしまった。
掃海艇は舞鶴軍港から来て掃海するので、港を出るのは、かなり時間がかかりそうだ。
次の日から二、三艘の掃海艇が行ったり来たりと忙しそうに掃海していた。
「ボーンボーン」と爆発を繰り返していた。
近い所で機雷が爆発すると、潮の流れに流されて船の周りに鯛やひらめなど色々の大きな魚が口をパクパクさせ浮かんできた。
腹綿が飛び出ている魚が流れてきたりと、死の一歩手前である。
これチャンスとばかりボートを漕ぎ出した。航海士が双眼鏡で魚を見つけて合図をすると、それに向かって漕ぐ人、ザルですくう人とそれぞれ必死になって魚を一杯取った。
「わあ、わあ。きゃあ、きゃあ」と子供に返ったようにはしゃぎまわった。
「アメリカからのお土産だ」など冗談を言って、刺身や吸い物にして腹いっぱい食べた。
入梅なのでぐずついた不安定な天気が続く。
小雨の日が多い。雨の日は空襲も無いので町は静かであった。
海は水が綺麗で透き通るような青々としていた。
港の岸壁には大勢の連合軍捕虜達が積み下ろしの荷役作業をしていた。
舞鶴から来た二艘の掃海艇は相変わらず、鉄の浮きやタンクを長く曳き、時々凄い音を立てて機雷を爆発させていた。
何も知らない朝鮮の方からの船は、掃海の終わらないうちに次々と入港して来る。危険である。


もう、一週間も待っている。
六月二十九日。思い返すとちょうど昨年の今日電報が来たのである。
「生きて帰れるか、死んで靖国神社に祭られるか」と寂しく故郷を離れてきたのである。

家族に見送られ、別れて一年経った。
何とか幸運に恵まれ生き延びている。
今日は新潟に向け出港するらしい。何しろ出ないことには、何時また今晩にも大型爆撃機で機雷をばらまかれるかもしれない。
二時ごろ、次々と錨を巻き上げ出港した。錨も上げ終わり、船は速力を出し何事も無く走り続ける。
「もう、大丈夫」と仕事も済んだので、安心して風呂にでも入ろうと裸になりかけた。
すると甲板長が、
「まだ港を出たわけでわない。風呂は早い」と注意された。
「何を言うか。仕事は終わったんだ。死のうが生きようが俺の勝手だろう」と思った瞬間、
「ドドーン!」と凄いショックを受け、持ち上げられる感じがした。
「やられた!」と裸で外に飛び出した。
船橋で船長が何か怒鳴るというか、大きな声で、
「焦るな!落ち着けー。船は沈まない」とか言っているようであった。
直ぐ部屋に帰り、夢中で、上陸する時の一張羅を着て荷物を持ち甲板に出ようとした時、
「何しているー。船は沈まない。錨を下ろすから船首に来い」と言われる。
「ほらボートを下ろせ」
そのうち錨をガタガタ下りる。
海軍の兵隊を乗せた曳き船が横付けにされ、海軍の泊地応急隊が乗り込んできた。
船を陸に上げるとの事である。直ぐ錨のチエーンを切る道具をだす。
夢中で錨の継ぎ目から鎖を切り、浮きをつけて海に捨てる。
本船は曳き船に曳かれて陸に向かっていく。
何が何だか夢中で解らない。どんどん陸に近づいて行く。
気が付くと海岸で小学校の生徒達が見ており、
「ガンバレーガンバレー」と声を掛けているのが聞こえた。
間もなく船は、
「ドドドドー」と砂浜に乗り上げられた。
ホッとして後ろを見ると、船は後ろ甲板まで沈み哀れな姿になっていた。
船室は寝台まで海水に浸かっている。
吃驚するやら、ショックを受けるやらである。
「まあ、不幸中の幸いである。どうにか沈むのは免れたのだから犠牲者は少なくて済んだ事だろう」と思いながら、上甲板に出て顔が引きつってしまった。考えが甘かった。
煤だらけの機関員達が、苦しそうに唸る者、顔から血を流しわめく者、うずくまり泣く者と悲惨な状態であった。
一緒に見習いで入った小さい藤村も傷を負っていた。なんとも,やりきれない気持ちである。
曳き船は仕事が済むと、怪我人を乗せ敦賀の港に急いで帰る。
ボート二艘には本船が沈むと思ったらしく十三ミリ機関砲をばらし、必死に積んだらしい機銃がたくさんあった。

運の良い相州丸。困難を乗り越えてここまで無事に航海してきた相州丸。危険を紙一重にかわし、魚雷など受け付けなかった幸運の相州丸。
何もかも信じ切っていた私の船、相州丸。
まさか機雷なんかで沈むなんて信じられない。
しかし目の前には哀れになった相州丸があるのである。
不幸中の幸いで、機雷が離れて爆発したので普通より被害が少なくて済んだ。
まともに受けて爆発していたら船は沈み、おそらく半数以上の死人が出たであろう。
犠牲者が少くなかったのは本当に有り難いことである。どうにか助かったのだ。
安心して食堂に帰った。
食堂は食器や棚から落ちたもので滅茶苦茶である。足の踏み場も無いほど散乱している。
部屋もゴミ箱のような有様であったが、何とか寝れるようにだけは簡単に片付けた。乾パン食べて寝た。
電気も付かない。蒸気もないから風呂も沸かす事も出来ない。不自由な暮らしになる。

次の日から一時、陸のお寺を借りる事になる。鍋や釜、食器類を移し、賄い部は全員陸に移る事になる。そして食事はお寺の本堂ですることになる。
朝、昼、晩、伝馬船を漕いて陸に上がり、飯を食べに通うわけである。
朝起き、村の道を通ると田んぼには田植えされた稲の苗が青々と茂っていた。懐かしい感じである。
お寺も田舎のお寺と同じ位の広さで、故郷を思い出し恋しくなる。
いつもの狭い船の食堂から、久しぶりの大きな本堂での食事は何か変わった感じで美味しく感じた。
飯を食べ終わると船に帰り、片付けをしたり、点検をしたりと作業をする。

驚く事が沢山合った。太くて新しいロープが機雷のショックで何本も切れていたり、リベット鋲やボルトやナットまでが見事に折れてしまっていた。
船尾後ろの方はかなりのショックを受けていたらしい。
片づけが済むと後は仕事もないのでブララブらしている。機関の連中は船が沈んでいるので仕事はなかった。
本も無いしラジオも無いのでごろごろするだけの生活が続く。
風呂も無いので、農家に行って入らせてもらう。
その家に娘がいようものなら、直ぐ情報が飛びかい、噂が広まり風呂もらいが楽しみになるようだ。 
この頃から食糧も悪くなり。米も配給が無くなり毎日麦だけである。味噌も少なく塩汁が多くなる。
買出しに行く有様で賄い長も大変である。 

雨が降り続け、空襲もなく静かであった。
時々、牛を飼っているおじさんの家に行って牛乳を分けてもらって飲んだ。
しかし、何時の間にか皆んなに広まってしまい行く度に値が上がり、後のしまいには「米と交換だ」と、まで言いだした。
海岸では漁師が地引き網を大勢集まって引いていた。よく手伝いに行って、小さいアジや鯛の小魚や雑魚を分けてもらい、薄い味噌汁で食べた。
今日は遭難した位置測定のためボートを漕いで行った。海図を出し六分儀で測り、捨てた錨の位置などを確認して帰る。
海は青々としており、周りの山々も美しく、気持ちが良くボートを漕いで腹を減らし帰る。

二、三日過ぎた頃、海軍の一等兵の八代さんが見つかったとの連絡があり、兵隊達が敦賀に行くとでかけて行った。
午後から、
「おまえが行け」と言われ、一度帰った兵隊と敦賀に向かった。
北は長岡から南は舞鶴の方まで続いているらしい北陸道の、曲がりくねる海岸道やトンネルを潜り、峠を越えて歩き続ける。何と遠いこと遠いこと。
行き帰りに半日も掛かる。海岸の曲がりくねる道が直線だと案外近いのだが、湾岸を通るので大変である。

敦賀のお寺の隅のほうで身内も無く、兵隊五、六人の寂しいお通夜であった。物不足なので仏壇に上げる物も無い、形だけのものであった。
知らなかったが兵隊の話では、八代さんは機雷を受けた時、ボート甲板からボーイ見習と二人で海に飛ばされたらしい。
不運にも八代さんは金づちだった。ぜんぜん泳げなくてもがいていたらしい。
もう1人のボーイ見習は漁師の息子らしく泳ぎは得意だったそうだ。
助ける暇も無く八代さんは沈んでしまったらしい。
子供もいるのに気の毒である。
そう心の中で思いながらも、毎日機雷や空襲で人が死んでいるので何とも無関心になっているのは事実である。
人の死も平気になって、涙が出るほど悲しいと感じなくなってしまった。
八代さんは手のつけられないほどひどい状態だったらしい。
水を飲んでブヨブヨに膨れ上がり、棺桶に入れるのに大変苦労したそうだ。
形式だけのお通夜は簡単に終り、再び山道を帰って行く。

次の朝、食事に行くと内海の同期生の七つ役がお寺の新聞を振りかざし、
「甲板長、大変だ、大変だー。釜石が艦砲射撃を受けました。製鉄所に被害甚大らしいですよ」と騒いでいる。
甲板長と七つ役は岩手県生まれである。
「俺の方は、山奥で大丈夫だが、甲板長の方は全滅。大変な事になりました」
「諦めた方が良いみたいですよ」と深刻に言う。
日立もやられているらしい。 じわじわと敵は本土に近づいてきているようだ。
東京や大阪も空襲で焼けたらしいが、どうなっているのか解らない。

一週間も過ぎた頃、敦賀から通い船が来て色々の荷物やポンプを積んできた。だるま船が横付けされ、何か不思議に思っていたら、
「明日から船を引き揚げる作業をする」との話しである。
甲板員は、潜水夫のためのポンプ押し作業の手伝いに掛かるとの事である。係りの大尉が指導にあたるそうだ。

次の日から大工さん二人と潜水夫二人と大尉、そして潜水夫の命綱を操ったりホースを誘導したりする助手の二人が来て作業に掛かる。
だるま船に梯子を架け潜水夫が上がり下がり出来るようにしたりと準備に掛かる。
いよいよ仕事開始である。潜水夫は寒くないように純毛の下着を着てからゴムの大きな服を着て、鉄の靴を履く。
次にホースが付きの外が見えるようなガラス張りになっている鉄と真鍮で出来たロボットの頭のような物を被り、首から胸のあたりの所でネジを閉める。
急いでポンプを押し空気を送る。
空気が漏れないように再度ネジを完全に閉めるべくする。
おもりとして鉛の塊を背負う。
梯子から海にゴム風船のように膨らんだ潜水夫が泡を出して沈んで行く。
潜りの助手はホースを送ったり引っ張ったりする。
私達は交代でポンプを押し続ける。
潜水夫は点検しては、木型や木栓など色々の物を大工さんに注文して作らせる。そして次々と取りに来ては沈み、二時間ぐらいで交替する。長く海に潜っていると、身体が冷え切ってしまうからである。
鉄板の継ぎ目には接着剤を詰めたり、大きな穴には毛布のような物を接着剤と混ぜて詰め込むらしい。
空気の調整で浮いたり、沈んだりの作業は大変らしい。
もちろんポンプ押しも、命が掛かっているから、休んだり人を当てにして怠けるわけには行かない。神経をつかう。
このような作業が続けられ一週間で終わる。
今度は二、三日過ぎた頃、ポンプを積んだ船が来て大きなホースをハッチから船倉に入れる。
大きなディーゼルェンジンが凄い音を出し動き出し排水を始める。
排水が進むにつれ船が持ち上がるように、少しずつ浮き上がってきた。
浮き上がり始めると、どんどんと見る見るうちに、二時間ぐらいで完全に元通りになった。 
沈んでいた半分は青海苔や海草でぬるぬるしていた。

次の日から機関部の連中は機関室の掃除や片付けで忙しくなる。
甲板部は潜水夫の応急処置で塞いだ修理箇所からじわじわ入る海水の排水汲み上げ作業が仕事となる。
消防士が火事の時火を消すように、手押しポンプを、
「ガチャコン、ガチャコン」と押して浸透してくる海水を汲み上げて海に捨てるのである。
やっと船が浮いた晩十時頃、空襲警報が鳴りB29の爆音が聞こえたと思ったら、敦賀の方に火が上がり夕焼けのように真っ赤になった。
半鐘とサイレンが鳴り響き、そのうち全体が昼間のように眩しいぐらいに明るくなる。 不気味で恐ろしく震いあがる。
敵の大型飛行機は次から次と町の外から中心に向かって焼夷弾や爆弾をばら撒く、町全体が火の海と化し、手のうちようも無い。ただ燃えるに任せるだけである。
逃げる暇も無かったのではないだろうか?
大砲の音もしない。こちらから攻撃も何もしないので悔しい。
敦賀は凄い被害だろう。
きっと大勢の人が焼け死んでいるだろう。
私達には何も出来ない。ただ被害が少ない事を祈るだけである。
するとその時、船の周りが急に明るくなった。
思う間もなく、バラバラと雨のように何かが落ちて来て海に沈む音がする。
「学校が燃えている」と、誰かが陸を指さす。
学校ばかり出なく、あちらこちらから火が吹きだしはじめた。
海岸の漁師の小屋や畑が火の海になっている。
船の周りの海からも、火が上がりだした。危ない。
どこに逃げたら良いのか迷ってしまう。
「海で良かった」と思う。

二時頃か、三時頃になってようやく敵機の爆音が聞こえなくなった。
とうやら敵は去ったようだ。
まだ敦賀の町全体が真っ赤に燃えていた。
船に落ちなかったのは不幸中の幸いである。
焼ける町をいつまでも眺めていても仕方が無いので寝ることにする。
可哀想だが戦争なのだから仕方が無い。いちいち気にしていたら大変である。 何も気にしないのが一番良いのかも。
これが戦争と言う者だから。普通の神経では考えられない事なのだから。

朝起きると、学校は燃え尽き煙が出ていた。
何時ものように飯を食べに伝馬船を漕ぎ、陸に上がりお寺まで歩いて行く。いつもと町の様子が違っていた。
途中の畑や道には不発の、潰れた茶壷のような小型焼夷弾や爆弾の形をした焼夷弾が一杯落ちていた。
みんな破けて中からゼリーのような物が流れ出ていた。
「この中のどろどろした物が揮発性で燃えるんだと」兵隊が話ていた。





お寺で麦だけの飯と塩汁を食べ、船に戻ろうと道に出ると、兵隊が信管を取り除く作業をしているらしく道の横に集まっていた。
どこもかしこも大変な状況である。
たった一晩で敦賀市は全滅である。
「いつになったら反撃に出るのかやられっぱなしで悔しくないのか? 軍は何を考えているのか?」私達には疑問だらけである。
「機関部の方から、敦賀に行って見ようと」と声が掛かり、帆を張ったボートに大勢で乗り込み出かけた。
遊びに行く感じで、青々とした海の中を風任せでのんびり漂う。
途中、海にキラキラする変な物をたくさん見かけた。落下傘の部品か、電波除けか、解らないが危ないから避けてとおった。
岬をすぎ、二時間ぐらいで到着する。
町に近づくにしたがって、燃えた後のきな臭い匂いがしてきた。
海から見ると波止場あたりと倉庫がそのまま残っていたが、上陸して見て吃驚する。
なんと見渡す限り瓦礫の山である。
有名な神社は鳥居だけが残っただけで、森の杉や松の木まで燃えて無残な姿である。御利益もなく神も仏も哀れである。
怪我をしている人たち、火傷している子供達と次から次に担架に乗せられて兵隊に運ばれていた。
可哀想で見ていられない。余りにも無残すぎる。私達は何も出来ない。何もして上げられない。
気の毒すぎていたたまれず、
「直ぐ帰ろう」と言うことになる。
遠くまで見渡しても、辺り一面道だけが残っていると言う悲惨な状態である。
「悔しい,悔しい」と、心の中で何度も叫ぶ。
岸壁では捕虜達が仕事をしていた。
「きっと、奴らは笑っているだろう」 と思うと腹が立ってくる。
「殺してやりたい」と思う。


「誰かもし、女郎を買っていて、女郎と一緒に死んでいたら恥ずかしいだろうな」
「笑い者になるんじゃないか。一生のはじだなあ」
「死んでも浮かばれ無いぞ」
「でも可哀想に。彼女達も死んでしまったのか」
「東京も大阪も空襲でやられているのだろうな。家も焼けてしまっているのかなあ。心配だなあ」とか話ながらまた船に帰って来た。

次の日から天候が悪化した。小さい台風が来たらしい。
波が荒くて百メートルしか離れていないのに陸に行けない。危険なので伝馬船もボートも出せないので飯を食べにいけない。腹が減っているので、みんな寝たり起きたり、ゴロゴロしている。
元気なく海を眺め,早く凪になるのを待つ。
三時頃少し波が静かになったような感じである。
腹が減って腹が減って、次の朝まで何も食べずに我慢するなんてとても出来そうに無い。
機関部が食べに行ったらしいと聞いて、甲板部でも船を出す事にする。
物凄い波で、横波を受けないように必死で漕ぐなんとか波に乗り、追い風に押され海岸近くまで運んでもらう。
陸に近づいた時、船が木の葉のように丸められ、ひっくり返りそうになる。
「危ない!」一瞬冷汗が出たが何とかもちこたえた。
無事陸にたどり着き、お寺で飯を食べる。腹ぺこぺこだったので麦飯でも美味しく感じた。
「あー。腹いっぱいと」とやっと空腹を満たされて、ニコニコ顔で腹をさすっている。
この時ばかりは誰の顔も、戦争を忘れて幸せそうである。

帰りは機関部の連中と一緒になった。
大勢なのだから二回に分けて船を出せばよいのに、
「大丈夫。大丈夫。我は海の子、漁師の子。さあさ、乗れ乗れ、ドンと乗れ」と大勢が一つの船に乗る。
竿指して、波をまともに受けながら帰ろうとする。
陸と本船とのちょうど中間辺りに来た時、
「動くなー」
「横にするなー」と叫んでいたかと思う間もなく、大きな波を受ける。
「危ない!」
船がコロリトひっくり返る。全員が海に投げ出される。
「わーあー」とか
「アー」とか、あっちこっちから叫び声があがる。
私もあっという間に海の中に沈んだ。直ぐ、上にあがろうと必死にもがく。しかし、いくらもがいても上に人がつっかえていて上がれないのである。
息が苦しいのでジタバタ、ジタバタ、滅茶苦茶に暴れまくり、ようやく海から顔を出し空気を吸おうとした瞬間、再び渦巻く大きな波に巻き込まれる。
「ガッボーン!」
海水を思いっ切り飲む。
「アップ、アップ」
必死に犬掻きをする。
大波が来るたびに、水を飲む。
「助けてー!」声になっているんだか、いないんだか解らないが、必死に叫ぶ。
神頼みで、近くにいた機関員にしがみつこうとする。
しかし彼も、溺れかけている者に必死になって抱き掴まれては身動きがとれなくなってしまい、下手をすると道連れになってしまう危険性がある。
それが恐ろしいのであろう、これに掴まるようにと手拭を出してきた。
だが焦っている私は思うように、それを掴まえる事が出来ない。
あと一歩の所で手拭いを掴まえる事が出来ず、
「あっ、もう駄目」
水をさんざん飲んで、ふらふらになって沈んで行く。
すると足が付くではないか。 
大きな波に押され、押され、歩いて行くとやっと波間に顔が出て口から息が出来た。
「あー、助かったあ」
フラフラで海岸に上がり着いて,倒れ込む。
「あと一メートル陸が遠かったら完全にお陀仏だった。」

何とか、助かり、海の本当の恐ろしさを初めて知る。
泳ぐ自身の無い者はひっくり返った船に掴まっていればよいのだが、つい陸が近いので泳いでしまう。
私の場合は気が動転してしまい、掴まるとか泳ぐとか以前の問題であったが・・・・。

陸では、
「あっ、安藤が危ない」
「沈んだー、、浮いたー」と大騒ぎして見ていたらしい。
本船の方でもボートを出し,ひっくり返った船に掴まって泳いでいる連中を助けたらしい。
「水飲んだろうから寝ろ。腹を押してやるから」と言われ横になる。
押してみたが水は出なく、ただ震えていた。
再び、荒れる海の中ボートに乗って本船に返って行った。

船でもまた皆大騒ぎ。
「誰々も危なかった」とか、
「誰が俺の体に掴まり、俺もあぶなかった」とか、
「必死に助けてーと騒いでいた」とか、笑いながら、まねをする始末である。
「故郷の海はこんなもんじないよ」
「冬の海は吹雪で命がいくらあっても足りないぐらいだ」など戦争の話ばかりだった毎日から新しい話題に変わり、今日はとてもにぎやかである。
故郷の話にまで広がって、なかなか話が尽きない。

しかし私はと言えば、一歩間違えば溺れ死んでいたのである。
戦争で死んで靖国神社に祭られるなら本望であるが、溺れ死んだとあっては笑い者である。みんなの笑い話を聞いていても心が沈んできて、複雑な心境である。
半分くらい聞いて、先に寝た。
次の朝は風も収まり、静かで大きなうねりの海であった。
昨日が夢のような良い天気である
午前中は、日課のポンプ押しである。浸透してくる海水を外に汲み上げる作業である。
午後からは暑くなったので、皆んな喜んで泳いでいた。私も泳ぎの練習をする。今日は平泳ぎを習う。
毎日暑いので暇さえあればみんなで泳いだ。私も夢中で練習した。
練習が終わると陸まで泳いで行き、川で身体を洗ってから、お寺で食事をする。
そして帰りもまた泳いで船に帰る。