第12章 生きて故郷へ

 

台風が去って、ぬけるように真っ青な秋晴れの空となった。私物の荷物をお寺に運び、最後にボートを吊り上げ、ボート甲板において作業は終了である。
私たち甲板員と航海士以外は全員伝馬船に乗ってお寺に引き揚げる。残った私たちは、
「どうせアメリカの奴らの物になってしまうのだから」と、機雷でやられて修理した箇所の栓を抜くとか、ナットを緩めたりした。
すると勢いよく船に海水が入り出した。最後に各部屋を回ったが、人気がない船はとても不気味で幽霊船のようで気持ちが悪かった。早々に泳いで帰る。




次の日は、一等運転士と賄い長の立会いで、一人一人に公平に米三升と三食分の乾パンを分配された。
「今日の昼と夜までは船での食事が保証されているが、明日の朝からはもうない。後は自分でどうにかしてくれ。みんな、今までご苦労さん。それぞれ無事に故郷に帰るように」と一等航海士の川島さんが挨拶した。
それが終わると荷物を整理して、午後二時頃、農家に行って荷車を借り、それぞれの荷物を積んで大勢で敦賀に行き、切符を買ってチッキーで送る。混乱している世の中なので
「無事に届けば儲けもの」と言いながら送る。
私の行李の中には、軍の倉庫から盗んだ塩三升とヨレヨレの毛布、引き裂いたテントカバー、細いロープのような物が入っていた。
荷物を送り終わり、少しずつ日が短くなったと感じられる秋の暗い山道をガラガラと車を曳きながら急いで帰る。
荷車を返しにお寺に行くと、晩飯は久しぶりの里芋の葉と茎の味噌汁であった。飲み込むように夢中で食べた。
その後はお寺の本道でごろ寝した。みんな毛布など送ってしまったので寒さで眠れず夜中に起き出したりした。
何か無情に秋雨がシトシトと音をさせていた。
次の日、朝食を取った後、支度をしていると奄美大島に帰る機関員が、
「何処まで帰れるか?途中どうなるか?」など食べ物の心配をしていたので、
「俺は百姓だから米の心配がないから、乾パンと交換しよう」と言うと彼はすごく喜んだ。
交換したおかげでカバンが随分軽くなって助かった。
ヨレヨレの配給のペンキのついた作業服に地下足袋、そして羅針儀のカバーに入れた下着に古い海軍の服、くたびれたオーバーなどを入れた荷物を背負い、傘もなくボロ切れを被り七、八人でお寺を後に敦賀に向かった。
「また会おう」でもなければ「頑張れ」でもない。無言の別れである。
賄い長や士官たちは残務整理をするためにまだ残るそうである。汽車の時間に合わせて昼頃帰るらしい。
振り返って海を見ると家々の間から微かに、半分沈んだ哀れな相州丸が見えた。
「もう二度と船に乗ることもない。此処に来る事もない。未練もない。終わりである」


小雨が降る中、帰る連中の跡に続いてただ黙々と歩いた。話などする事もなく、荷物を背負ってうつむきかげんに歩き続けた。
敦賀の焼け跡に着た。誰かが、
「今日、敦賀に進駐軍が来るんだと」と騒いでいる。
「良かった。逃げられる。これで助かった。後はどうなろうと知らない」



駅に到着すると、すでに時間もなく、改札が始まっていた。どこかの母らしい人が子供に聞かれたらしく
「兵隊さん達が荷物を一杯持って、お家に帰るんだよ」と話す声が聞こえてきた。
ホームは人が一杯で,みんな乗るのに必死に場所を探して並んでいた。いつの間にか仲間ともはぐれてしまった。
汽車が来たので夢中で乗る。何とか乗れて,混みあう車内で荷物に腰をおろす。座りながら、ただボーと人の足を見ていた。
何も考えない。夢を見ているような気分であった。
ただ、一駅でも家に近づく事しか考えてなかった。この汽車は何処まで行くのかも解らなかった。
いつの間にか雨もやんで日が射していた。
汽車の中では、何部隊だとか、連帯だとか、食べ物は良かったとか悪かったとか軍人達が話していた。
元気な兵隊もいれば、ヨレヨレの栄養失調の痩せて倒れそうな兵隊もいた。何処から来たのか知らないが、みんな故郷に帰る兵隊たちであった。


三時頃、汽車もかなり空いてきた。楽になったので外を見ると、稲刈りも終わり、乾かすために田んぼの所々に稲が高く積まれていた。
見上げると、山も真っ赤に紅葉していた。なんだか戦争していたなど夢だったのではないかと思わせる北陸の静かな風景が見えた。
もらったどんぐり乾パンを食べながらのんびりと外を眺めていた。

夜十一時頃、長岡に到着する。汽車は長岡止まりなので終着駅である。
仕方なくホームに降り、待合室に行き、荷物を抱えながら一晩過ごす。
夜は寒くて寒くて大変だったが、家も随分近くなったという気持ちで震えながら我慢する。兵隊同士はすぐ話し相手になり、
「何処にいましたか?」から色々話し始める。
私などは子供の疎開帰りぐらいにしか思われないらしく、誰も近づいてきて話し掛ける人も居ない。ひたすら荷物が盗まれないように抱いているだけである。

次の朝六時ごろ、汽車が来たので乗る。何処に行くかも解らずただ汽車に乗る。結構混んでいた。
なんだか夢中だった。
十一時半頃、「新津駅」に着いたので急いで降りて乗り換える。会津・郡山方面の乗り換えホームに行くとすでに十二時半発の「郡山」行きの汽車が待っていた。
その汽車を見た時、やっと嬉しさが込み上げて来た。飛び上がりたい気持ちである。もう安心だ。
汽車に乗ると、田舎の言葉が飛び交っていた。みんな知り合いのような感じがした。汽車がすごく遅く感じる。
やっと会津が過ぎて、修学旅行で来た懐かしい猪苗代湖を見た時、喜びが頂点に達した。
「もうすぐ、もうすぐ」と胸がドキドキと高鳴る。
ついに郡山駅に到着。また乗り換える。嬉しくて嬉しくて少しでも懐かしい景色を見ていようと窓にしがみついていると、東京方面のホームに進駐軍が小銃を持ってガムを噛んでいた。「あー、これが進駐軍かあ」と思ってジーと見る。
背の高い、コックが被るような帽子を被ったカッコウの変わった進駐軍が日本の綺麗な女の人と「キス」というのだろう,口と口をつけていた。 感心するやら驚くやら、狐につままれた感じである。
「この連中と俺たちは戦っていたのかあ」
女も女である。随分変わってしまった。何がなんだか訳が解らなくなってきてしまった。
まもなく汽車は故郷に向けて動き出した。誰か知っている人は居ないか見回したが、誰も居なかった。
前にも増して汽車が遅く感じられる。
夕方四時も過ぎた頃、ついに生まれ故郷の駅のホームに足を下ろした。再び生きてこの土を踏めるとは思ってもみなかった。
此処に今、自分が立っているのだ。信じられない。夢をみているのではないかとほっぺたをちょっとつねってみる。
「痛い!」やはり現実である。
荷物を持って一目散に我が家に向かう。途中の畑で父が稲を掛けるハセ(垣根のような物)を作っていた。わざと無言で父の傍に荷物をドカッと投げ下ろす。
父の驚いた顔といったら・・・。それでもぶっきらぼうに
「来たか。ああー心配の種がなくなった。こんで安心して毎日が送れるべー。んに、いかった(本当に良かった)。
荷物は持っていくけに、早く家さ行ってみんなを安心させろ」と言った。
祖父も祖母も母も家族みんな喜んでくれて、神様と仏様にご飯を上げて無事を感謝する。
「疲れたろう。風呂に入って寝ろ」と床をとって勧めてくれる。
「死ぐ目に何回もあった」と言うと、
「そうけ。運がいかった」と答えて出て行った。
農家は仕事が忙しい。芋掘り、麦蒔き、稲刈り。誰も私の相手などしてくれなかった。

「田舎に誰が帰ってきただの、誰が一杯荷物をもらつて来ただの、誰が死んだだの」と色々な情報が入ってくる。
「思ったよりアメリカは紳士的でやさしいだの、悪い事もしないだの。日本人を奴隷にする事もなく心配ないだの」と話題は尽きる事がない。

次の日、母が親類に喋ったのか村の長老が来て、
「福治さんも無事に帰ってきたんだって。良かったねえ。明日十時から氏神様で帰還祭を催すので出席できたらお願いします」と言って帰る。

次の日、村の鎮守様に行くと、予科連の七つボタンの制服を着た者から、陸軍の将校や海軍の将校の軍服姿、階級章を着けていれば敬礼したいような新しい軍服姿の兵隊など大勢いた。




こんなにたくさん、村から兵隊に行った人がいたのかとビックリした。みんな自慢話をして賑やかであった。
私はといえば、地下足袋にヨレヨレの民間服姿である。恥ずかしくて逃げ出したかった。
神主が、
「ハライタマエ、キヨメタマエ。山あり、川あり、困難辛苦を乗り越え、無事帰還できました」とか何とかよくわからないが神に感謝の言葉を述べていた。
「何が神様だ!神風も吹かなかったくせに」と思いながら聞いていた。
祈り終わると神主が私たちの方に向き直り、「日本が滅びる寸前に、神様が皆さんを救い無事帰還させたのです。すべて、神様のおかげです。これからの日本再建に頑張って下さい」と話した。

 

 

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