滞在時間僅か5時間ほどの四国旅行から本州へ戻りまして兵庫県へ。

京都→岡山→広島→岡山→香川→兵庫

という変なルートなんですが、これには訳がありましてね…

確実に混雑するであろう観光地は土日を避けるという理由なのです。

 

兵庫県赤穂市。

赤穂市と言えばここでしょうよ。

播磨国 赤穂城。

 

外堀跡

赤穂城も元は海城でして往時はこの外堀と中堀が瀬戸内海と繋がっていたそうですよ。

 

外堀跡と大手隅櫓

 

三の丸大手門

外堀と太鼓橋が昭和10年の復元、隅櫓と大手門が昭和30年の再建だそうです。

赤穂城もまたアホ明治政府の愚策・廃城令の被害を被った城なのだ。

外堀まで埋められるほどに破壊し尽くされてしまっていたのか…

 

三の丸桝形虎口

 

その先に番所跡

建物は番所風休憩所。

隅櫓の前の木が邪魔だったw

 

ここから三の丸

工事中で思いっ切り足場立ってますw

その先に大石神社。

 

 

この先は一見すると別の曲輪の様に見えますがここも三の丸の一角です。

 

この辺りは藩の上級武士の屋敷跡で、ごく一部が現存しています。

 

近藤源八宅跡長屋門

こちらは赤穂城の縄張り設計を担当した赤穂浅野家軍学指南近藤家の屋敷跡。

江戸時代後期になって改築され

残っているのは一部のみですが、城内では数少ない江戸時代の現存建築物。

 

大石良雄(内蔵助)宅跡

最早説明不要ですねw

忠臣蔵の主人公・大星由良之助のモデルとなった大石内蔵助の屋敷跡。

そして、現代では浄瑠璃の大星由良之助名義よりも大石内蔵助の名で広く知れ渡っているという。

こちらも城内では数少ない江戸時代の現存建築物で、

安政3年、昭和37年、52年に大修理が行われたそうです。

安政は幕末の年号で、その頃から人気だった事が伺えます。

 

二の丸、本丸方面。

向こうは後ほど…

 

まずはこちら

赤穂大石神社

 

参道の両端には四十七義士の像が!!

 

大石主税以下 二十四体

 

反対側から

 

大石内蔵助以下 二十三体

 

反対側から

 

大石主税像

大石内蔵助良雄の嫡子・大石良金

 

大石内蔵助像

ご存知、赤穂義士の中心人物。

因みに赤穂浪士という呼び名が完全に定着してるが、

仮名手本忠臣蔵(忠臣蔵の正式名)が生まれた元禄期では一般的ではなかったそうです。

はじまりは四十七義士を浪人として書いた大佛次郎の小説・赤穂浪士から。

正規の赤穂藩士なのになんで「浪士」なんだろうと思ってたら

そういうことだったのかw

良くも悪くもやはり創作物の影響は恐ろしい…

 

因みに寺坂吉右衛門信行は士分ではなく足軽であり、

討ち入りに参加しているが引き上げの際に姿を消しており、天寿を全うしている。

この為、寺坂を含まず四十六士とする場合もある。

 

 

その名が示す通り、祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命。

 

いざ、境内へ

 

左に恵比寿天

 

右に大黒天

 

 

大石内蔵助良雄像

 

さざれ石

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

…のさざれ石だそうです。

 

拝殿

これ、裏に本殿が隠れてるタイプだな…

すっかり頭から抜けてましたw

 

向こうに見えるのが義士宝物殿と別館

ここが楽しみだったのですよ。

 

まずは義士宝物殿。

こちらは四十七義士の展示。

入口付近は外の明かりがガラスに反射してかなり見辛い…

伝・大石内蔵助所用 清光の大と康光の小

康光は盛光と並ぶ応永備前の代表工。

清光は末備前を代表する刀工(?)だが、同名工(?)が多く色々と複雑w

刀剣乱舞のおかげで今や加州清光の方が有名になってしまったが

長船清光の方が格上である。

末古刀らしい豪壮な姿。

このワタクシめも清光を一振所持しているが

研ぎ減ってまったく違う姿になっているw

 

「備前国住長船清光作」この銘は…

武器需要の高まった戦国期には数打ちと注文打ちの二種類が存在する。

読んで字の如く、生産方法が質と量。

注文打ちの清光は「備前国住長船五郎左衛門尉清光」というように通称も入れて銘を切るんだけど…

一概には言えず「備州長船清光」「備前国住長船清光」と切る場合もある…

数打ち品は一貫して「備前国住長船清光作」の様に通称を入れない。

因みにウチの清光は「備前国住長船清光」と切られている。

要するに「清光」や「祐定」とは備前長船という会社のブランド名なわけでして

注文打ちは五郎左衛門尉や与三左衛門尉といった著名工が打った刀。

数打ち品は チーム清光やチーム祐定に所属する刀工達が分業で仕上げた刀。

戦国期の刀剣需要に対応するため、備前長船では非常に効率的な作刀システムが確立していたそうですよ。

 

数打ち品と聞けば悪い印象を受けるが、

当たり物は注文打ちを凌ぐされ、加藤清正所用の清光が有名。

そして、後の新刀・新々刀(ごく一部例外を除く)に比べても

比較のしようがないレベルで数打ち品の方が上。

 

 

大石主税所用、平造りの短刀。

刀工は不明ですが浅野長矩より下賜された刀なので悪い物ではないでしょう。

反射してよく見えんけどw

 

右:赤穂義士四十七人画像

左:大石公画像

 

忠臣蔵絵巻 壱之巻

 

忠臣蔵絵巻 弐之巻

 

 

近松助六遺品

行燈

 

素槍

 

脇差拵

 

大石内蔵助自筆書状

 

墨絵の馬

 

大石内蔵助所用の

左から木盃、呼子鳥笛、采配。

呼子鳥笛、采配は討ち入り時に使用したと伝わるもの。

 

預置候金銀請払帳

 

右:間喜兵衛が討ち入り時に槍印に付けていた短冊

左:平野半平が間重二郎に与えた武術心得の伝書

 

大石内蔵助書状 寺井玄渓宛

 

浅野長重より拝領した大石八郎兵衛信云所用の具足

 

堀部安兵衛討ち入り時使用と伝わる鎖頭巾

 

堀部安兵衛佩刀と伝わる二代目宗次の刀

宗次は新刀期の肥前国の刀工で、まさに当時の現代刀。

クソつまらん寛文新刀以降なので興味ないねw

 

堀部安兵衛暇乞状 大石無人・三平宛

 

福寿土器

大石瀬左衛門信清が討ち入りの際、出陣の礼に使用したとされる

 

四十七士画像

 

軽袗と臑当

大石瀬左衛門が討ち入り時に着用したもので袴には血痕が残っており、

血染めの軽袗と呼ばれているそう。

ところどころに染みみたいなのがあるけど、たぶんこれが血痕かと。

 

龕燈

 

義士「寺坂吉右衛門」の孫は祖父の偉業で出世を示す文書

 

潮田又之丞暇乞状

こちら母へ宛てた遺書だとか…

暇乞=別れの挨拶

深い……

 

潮田又之丞討ち入り時使用の短槍穂先、鉄扇、印鑑

左は間十次郎討ち入り時使用の法螺貝。

 

十文字槍の穂先。

かなり短く10cmも無い様に見える。

 

細川義士切腹図

 

吉良邸内外屋敷之図 潮田又之丞筆

 

元禄武鑑

 

堀内伝右衛門覚書

 

横川勘平暇乞状 三原屋長左衛門・七座衛門宛

 

原惣右衛門所用の脇差

茎は見えないが二王の在銘だそうです。

 

原惣右衛門の知行宛状

 

大石主税書状

 

羽倉斎の書状 大石三平宛

 

義士良黒橋引取図

 

続いて別館

両国橋引揚の場模型

明かりが反射してほとんど見えん…

 

 

忠臣蔵の模型が目立ちますが別館は大名家の展示が主です。

 

浅野家コーナー

右:収城使任命状

左:城内犬之覚

下:赤穂城請取行列之巻物

これらは赤穂城明け渡しに関する書状だが

城内犬之覚は犬の受け渡し文書であるw

時代は五代将軍綱吉の治世。

 

右:築城羅針盤

左:吉凶分占盤

 

赤穂城内浅野家祖霊殿奉安 狛犬

 

浅野内匠頭長矩書状 典医 武田道安宛

 

奥:浅野家相伝神事用の和琴

右:瑶泉院(浅野長矩夫人)使用の和時計

左:浅野家参勤交代時使用の矢筒

 

浅野鷹の羽紋入りの矢筒

かなりの損傷が…

 

酒樽

 

こちらも参勤交代時に使用した陣笠

 

忠臣蔵関連コーナー

大石りく(内蔵助妻)所用品

右:合わせ鑑

中央:小箱

左:文箱

手前:大石庄司宛の書状

…と、耳〇(漢字が読めん)

 

幻燈物語 忠臣蔵

 

森家コーナー(一部大石家)

これです。これが見たかったのだ。

自分的には赤穂と言えば浅野家でも義士でもなく森家なわけですよ。

津山城には森家関連の物がほとんど残っていませんでしたが、

赤穂転封の際にこちらへ持ち運ばれていたのでしょう。

 

右:森可成所用 黒革包畦目綴二枚胴具足

左:大石家伝来の甲冑

可成父上の兜の立物の長大さよw

 

しかし、入口付近なので反射が酷い…

 

 

森可成所用 馬印

 

森可成所用 鈴虫の轡

 

森可成所用 法螺貝

 

森可成所用 鐙

 

森可成所用 鐙

 

出ました!これだ!!

森長可所用 龍頭兜

気に入らないヤツは人間無骨で一突きする織田家最狂のやべぇヤツ、

鬼武蔵こと森長可。

人間的にはどうしようもないクソ野郎なんですが、

武勇に優れ、愛槍・人間無骨とともに非常に華のある武将。

茶道を嗜み、能筆で文人としても優れていたそうで、性格に難が無ければ…

龍がとぐろ状に巻いている独特なデザイン

三段とぐろ…

これはう〇こではない!

決して〇んこではないぞ!!

小牧・長久手の合戦で井伊直政隊と激突。
井伊の赤鬼VS鬼武蔵
鬼と鬼による頂上決戦
…ではなく、井伊隊の足軽に眉間を撃ち抜かれて即死したという。
武名に似合わぬ残念な最期…
こういった経緯から、おそらくこの兜は小牧・長久手で着用していたものではないと思われる。
 
他にも小牧・長久手で着用していたと伝わる甲冑(胴のみ)も収蔵されているそうだが、
そちらは展示されていませんでした。
残念だーーーーーーーーーー
武名に似合わぬ小兵だったそうで驚くほどに小さいそうな。

 

 

森家先代実録 全10冊

 

諸家馬印旗印指物絵 全5冊

 

森忠政着用 白絹地鶴丸紋陣羽織

 

置筒

鬼武蔵の高遠城攻めの際の戦利品だそうです。

敵の返り血で下半身が真っ赤に染まった鬼武蔵を見て、

織田信忠は思わず大丈夫かと声をかけたという恐ろしいエピソードが残るw

 

銀装火縄銃

忠政が家康より拝領したもので、津山城天守に保管されていたそうです。

 

 

 

森長可所用 黒鳥毛銀瓜の馬印

 

森忠政所用 錆地塗革製二枚胴具足

前立ては外されているが、森家は皆ド派手な立物が大好きなので

忠政も例に漏れずド派手なのを付けていたのでしょうw

 

森長直所用 黒漆塗切付札浅葱糸毛引威二枚胴具足

鬼瓦の立物とはw

 

以上、義士宝物殿別館でした。

鬼武蔵の甲冑だけが残念だーーー…

続く