完全予定外だった薬師寺を発ち、本来の予定コースへ
今回は大和郡山市へ。
目的地付近に駐車場が無い…だと…?
仕方ないので最寄りと思われる駐車場に停めたんだけど結構離れてるという…
徒歩で移動中…
櫓の様な建物は交番だそうです。
ちっさい亀
この辺りから大和郡山城の縄張り
鷲池(中堀跡)
例に漏れず外堀はほぼ完全に埋め立てられますが、中堀と内堀はかなり健全状態。
元々は三重の堀に囲まれた総構え構造の城だったそうです。
上が崩れてしまった石垣が勿体ない…
ここからすぐ近くに城跡公園があるのですが、
先にこちらへ。
大納言塚
権大納言・豊臣秀長墓所
秀吉の異父弟にして豊臣氏ナンバー2。
秀吉に異を唱え制御できる唯一といっていい人物でもあり、
欠点をよく補い天下統一に大いに貢献したわけですが52歳没と早死だったんですよねぇ…
内政手腕に長け、温厚且つ常識人で調整役として豊臣政権に欠かせない人物だったのですが…
実子のいない秀吉は関白職を秀長へ譲るつもりだった説もあり、
もしも秀長がもう少し長く生きていたら、徳川の台頭はなく豊臣政権は盤石だったからもしれないなんて声まである。
凡庸な人物が多い豊臣一族の中で秀吉・秀長兄弟が異例とも言えるくらい抜きん出て能力が高かったんでしょうね。
今のところ世間一般の知名度が高いとは言えないが
2026年の大河主人公に抜擢され、今後知名度は飛躍的に上昇するんじゃなかろうか。
秀長の死後、秀吉の言動を諫める者は居なくなり、
ここから秀吉の大暴走が始まる…これが後の豊臣政権崩壊へと繋がっていきます。
たまに家康が政権を奪ったみたいなアホなこと言うにわか野郎がいますけど
この時期の秀吉の所業を知れば当然の成り行きと言える。
もっと勉強しろよw
天正19年(1591)、郡山城にて豊臣秀長没。
元々、この地には秀吉が建てた大光院という菩提寺があったそうなのですが
豊臣氏滅亡後、藤堂高虎によって大光院は京都に移され、
秀長の位牌は東光寺(現・春岳院)へ託されたそうです。
この五輪塔は後年の安永六年(1777年)春岳院の僧によって建立されたものだそうです。
城へ戻る途中に
永慶寺
竜宮城みたいな門だな…
永慶寺山門
こちらが郡山城の南門を移設したと伝わる山門。
再び縄張りへ。
鰻堀池(中堀跡)と南御門跡の櫓台。
そこの石垣にさっきの門が建っていたとされる。
打込石垣なので水野勝成か松平忠明か本多政勝入封後の修築時のものでしょう。
城内建造物の伏見城への移築と、郡山城の戦い(大坂夏の陣前哨戦)を経て
城郭は荒廃していたそう。
松陰門跡
仕切門塀と
中仕切門跡(石垣は無し)
内堀と本丸石垣
柳澤神社の鳥居
竹林橋址
竹林門櫓跡
竹林橋址からの内堀
野面石垣に初期の算木積み
この辺りが秀長時代の物かもしれない…
右側が崩れかけてるのか補強されてます。
これ、左側が打込接なので後年に拡張か補修された箇所っぽいですね。
ここから本丸跡
続日本百名城 郡山城跡
応保二年(1162年)の郡山の国衆による雁陣之城が前身。
天正七年(1579年)筒井順慶が筒井城から郡山城へ本拠を移し、
天正九年(1581年)から明智光秀を普請目付として大規模な近世城郭へと大改修。
僅か4年後の天正十三年(1585年)大和国・和泉国・紀伊国領主の豊臣秀長が入封し、
三か国100万石余の本拠に相応しい城郭・城下町へと更なる大幅拡張。
天正十九年(1591年)秀長が没し、文禄四年(1595年)に跡継ぎの秀保も没し、大和大納言家が断絶。
五奉行の増田長盛が入封し、城下町は更なる拡張を受けて惣構え構造が完成。
関ヶ原合戦後、増田長盛は高野山に追放され、城内の建造物の大半が伏見城に移築される。
この後は一時的に廃城となり、大坂の陣頃に筒井正次が入城。
戦後は水野勝成が入封するも元和五年(1620年)備後福山に転封のため、松平忠明が入封。
寛永十六年(1639年)播磨姫路に転封のため、本多政勝が入封。
水野勝成時代から始まった城郭の修復工事は本多政勝時代にも続いていたそうですよ。
白沢門櫓跡
石垣の上が崩れてしまってます。
極楽橋
2021年再建とかなり最近。
内堀(北側)
内堀(南側)
こちらは空堀です。
二の丸毘沙門曲輪
柳澤文庫(旧柳澤伯爵家郡山別邸)
そういや大坂城の二の丸から山里丸の橋も極楽橋だったよなと。
同じ豊臣所縁の城だから極楽橋なんだろかと思ったら
豊臣とは縁の薄い柳沢家初代藩主の柳沢吉里が名付けたそうでして由来は不明。
因みに大坂城の極楽橋は本願寺の御堂があった地に本丸が造られたので、
極楽浄土(御堂)へ向かう橋という事で「極楽橋」だそうです。
二の丸側からの極楽橋
二の丸からの内堀(北側)
内堀(南側)
本丸へ戻り
柳澤神社
祭神は柳沢吉保。
柳沢吉里の父にして、五代将軍綱吉の御用人。
その先に天守台
何も無いが埋門跡
言われてみれば通路が何となく桝形に見えなくもないかw
内堀とその先に二の丸。
天守台
連結式でかなり大きい。
解体修理と発掘調査から数少ない織豊期城郭の地下構造が判明したそうですよ。
築城時の大和国の石材不足から転用石が用いられたそうですが見つけられなかった…
天守に併設する附櫓台
上から柳澤神社
天守への入り口が長らく謎だったそうですが
発掘調査の結果、附櫓台が入口で地階を通って天守へ繋がることが判明したとか。
附櫓台からの天守台
天守台へ。
東方面
この看板を見ると色々見られるそうなんですがね…
右奥にに月見櫓台、その下に内堀、奥に二の丸常盤曲輪
常盤曲輪の建物は左から
城址会館(旧奈良県立図書館)、追手門、多聞櫓、追手向櫓
城址会館の左側から興福寺、東大寺が見えるそうなんですが
木がボーボーで何も見えんわ!!
南方面
西方面
東方面
こちらは平城京、薬師寺が見えるそうですがやはり木がボーボー
再度、白沢門櫓跡
上が崩れて裏込石が見えてしまってます。
再度、極楽橋
内堀沿いから
梅林門前
駐車場普通にあるじゃねーかッ!!
ここ、完全に裏道なのでカーナビの野郎が正しく案内しなかった所為。
つーか、目的地付近で案内終了するヤツが一番困るんだよ。
しっかり目の前まで案内せえや。
背後に追手東隅櫓と十九間多聞櫓(見えない)
1984年の復元。
追手向櫓と多聞櫓
1987年の復元
追手門(梅林門)
1953年の復元。
そこの駐車場に停めてここから入るのが正規ルートですよね…
城の構造的にもこちら側が正門っぽい造りだし
暑くてダウン寸前の雷神様とトシゾー教授w
久護門跡
奥に天守。
さっき天守台から見えてたのがこの辺りですね。
櫓の方に頭が行って内堀沿いに天守台を見るのすっかり忘れてましたw
追手向櫓と多聞櫓
追手門
追手門の桝形
奥の曲輪の半分が土塁になってるけど、元は全て石垣だったんだと思う。
城址会館
つーか、ここまで車で入ってきていいのかw
城址会館の裏側に追手東隅櫓
追手東隅櫓からの眺め
隣接する十九間多聞櫓
追手門
追手門からの眺め
3つの櫓が上手いこと収まらないかと思ったが無理だった
内堀と弓櫓跡
鉄御門跡
公園入口にも石垣の遺構
更には周辺にも石垣の遺構
最後に下から
追手東隅櫓と十九間多聞櫓