京都市中心部から舞鶴市へ。

舞鶴市は律令国時代の区分では山城国ではなく丹後国になる。

 

今回は丹後田辺城。

田辺城という名の城は紀伊と伊勢にもあるので舞鶴城という別名で区別しようにも

舞鶴城という雅称を持つ城もこれまた多いという呼び方に困る城である。

 

復興された二層櫓(隅櫓)と大手門。

本来の門があった位置とは異なる場所に復興されており、現在位置は往時の外堀跡だそうなんだけど、中堀跡じゃないのかね?と思う。

中堀にせよ外堀にせよ周囲が宅地化してどうしようもなかったんでしょうな。

 

隅櫓

こちらはなんと昭和15年復元というかなり古い復興建築。

内部は田辺城彰古館として細川藤孝ゆかりの展示になっているそうですが、既に閉館時間を過ぎておる…

 

 

正面から全体

 

大手門は平成4年の復興だそうです。

内部は田辺城資料館ですが、既に閉館時間を過ぎておる…

 

 

門の先が二の丸跡

正面に見えるのが本丸曲輪の石垣。

で、のぼりが立っているあたりが内堀跡でしょうか。

 

古図を見ると二の丸は細長い曲輪が螺旋状に本丸を囲う様な形状になっており、

この道幅がそのまま二の丸曲輪の面積だったのかもしれない。

後で知ったんですが、左正面に見える手前に突き出た石垣が天守台なんだそうです。

完全に反対方向だったのでこれは気付かん…

 

この角度だと左側の仕切りブロックから外堀、右側の芝生から内堀に見える気がする。

 

城内から隅櫓

細川幽斎(藤孝の雅号)のタペストリーが下がってますね。

藤孝隠居後は忠興が家督を継いで田辺城主となってるんですが

色々とやべぇヤツなので推されてなさそうなw

父親と比べても遜色ないほどの文化人だったと思うんだけど、

嫁関連のエピソードがアレ過ぎてやべぇヤツとしての印象の方が圧倒的に強い損な人。

 

なんとも今の地形だとわかり難いんだけど

手前1mくらいまでが内堀で右に見えるブロックと生垣の辺りから先が本丸曲輪と思われる。

おそらく左側の石垣がさっきの大手門前の石垣まで繋がっていたんじゃないかと。

 

左側の本丸石垣

古図と見比べると南部分の大半が無くなっており、僅かに残った部分の様です。

 

なので、今は通路だがこの辺りは完全に本丸曲輪の中ですね。

 

折角なので本丸石垣へ登る…

生垣に挟まれて狭い…古図と見比べるとこの辺りが本丸の最奥部(螺旋形状の最奥)になるっぽい。

 

本丸石垣の上から良く見えん…

 

隅櫓が全く見えん…

 

東側は心種園という庭園に整備されていますが、元は内堀です。

堀跡を上手く利用して庭園の池風に改修したんでしょうね。

 

庭園側から本丸石垣。

こちら側から見て右側が本丸の最奥部。

丁度今立ってる場所が二の丸から本丸への虎口近辺と思われる。

 

本丸石垣真下へ。

 

なんとなく積み直した感があるんですが

 

 

隅石が初期の算木積みな感じなので

 

往時のままの箇所と復元整備された箇所が混在してるのではないでしょうかね。

 

通路を挟んだ心種園東側

螺旋状の二ノ丸曲輪の東側部分にあたる箇所と思われる

 
古今伝授遺蹟の碑

 

隣に生えてる松の木が古今伝授の松。

 

細川幽斎公古今伝授の松記念碑


 

細川藤孝の歌碑

「古へも今もかはらぬ世の中に心の種を残す言の葉」

関ヶ原合戦時の田辺城の籠城戦の際に藤孝が詠んだ和歌。

 

古今伝授とは 古今和歌集の正しい解釈や奥義を秘伝として師から弟子へと伝えること。

古今伝授は三条西家で代々相伝していたが、実枝の子・公国がまだ幼かったため、

弟子の細川藤孝へ三条西家に相伝が断絶するような事あれば伝え返す約束で伝授を行った。

公国が早世がしたため、これが現実のものとなり孫の実条に古今伝授を伝えている。

その際の有名エピソードが前述した関ヶ原合戦時の田辺城の戦い。

慶長五年七月十九日(1600年8月27日)~九月六日(10月12日)

小野木重次、前田茂勝らの西軍が田辺城を1万5000の兵で包囲。

対する東軍は忠興の主力が関ヶ原に参陣しており、留守を守る藤孝・幸隆父子率いる僅か500名。

兵力差は歴然で孤立無援状態で月末には落城寸前になるが…

西軍の中には当代一の文化人として藤孝を師と仰ぐ諸将も多く、

谷衛友は空砲を撃って攻撃するフリ(谷の空鉄砲)をしていたそう。

藤孝の討死によって古今伝授の断絶を恐れた八条宮智仁親王らは

使者を遣わして開城を勧めるが藤孝はこれを謝絶し、討死の覚悟を伝えて籠城戦を継続。

ついには後陽成天皇が藤孝の弟子である三条西実条らを勅使として東西両軍へ派遣し講和を命じ、

藤孝の身柄を保護して開城させ、八条宮智仁親王、三条西実条、烏丸光広らに古今伝授を行った。

この際、烏丸光広へ講和の礼として豊後行平へ太刀を贈っており、これが国宝指定の古今伝授の太刀。

 

東側の庭園

 

 

最後にもう一度本丸石垣

 

北側から

 

来た時に気になってた冠木門の奥の謎の建物。

中を除くと神輿…

…と思ったら芸屋台だそうです。

竹屋芸屋台

寛保三年(1743年)当時のもので、子ども歌舞伎用の移動式舞台だそうです。

 

この辺りを古図と見比べると二の丸曲輪の北側で、

左右の堀は埋められているが曲輪の形状はそのまま残ってそうな気がする。

 

東側からの隅櫓

 

よく見ると所々に鏡石みたいなのが使われている。

以上、丹後田辺城でした。

天守台跡は気付かずスルーと。

 

本日の宿泊ホテルが舞鶴湾に面しており、

海上自衛隊舞鶴基地とも近く、海上には護衛艦ひゅうがの姿が。

 

八木邸で購入した石田散薬ならぬ石田散飴

石田散薬とは土方歳三の生家が製造・販売していた家秘相伝の薬である。

骨折、捻挫、筋肉痛、外傷等に効用があるとされていたが、薬効については現在のところ解明されていないそうw